白エルフの細い指が、さらに細いピンセットを操っている。その先端がつまむ小さな白い物体が、未来を開く鍵である。正確には、その数多い候補の一つということだ。
「ミリャネルくん」
彼女を呼ぶ上司の声だ。いまは無視する。
それでも手の震えがピンセットに伝わり、白いものは大きく揺れる。震えを抑えつつ、白い先端を、そっと目当ての春小麦に触れさせる。
ピンセットを離すと、彼女は麦の穂に油紙の袋をかぶせた。
「ふう」
眉間を揉む。小さな試験農場に晩夏の風が吹き、汗が浮いた肌を撫でて行った。
眼鏡を額から下ろし、世界から霧を払う。彼女の作業終わりを待っていたオークの顔もはっきりした。
「何ですか、先生」
ブレンターノ教授は、オークにしては小さめの牙と小太りの身体を揺らしつつ、彼女の方に歩いてきた。手に木箱を持っている。
「届け物だよ。それに手紙だ。道洋かららしいが」
「それ、ナイレンからです。先生、ナイレン・ファランニスを覚えておられます?」
「君と学部で同級だった白エルフの子かね。確か、海洋生物科だったか」
ラピアカプツェ大学に入った九人の白エルフのうち、三人目の退学者となった娘のことである。
「その彼女です! 退学してから、色々あって、いまは秋津洲にいるんですよ」
「それは珍しい。何をやっているんだね?」
ミリャネルは苦笑を浮かべて首を振った。頭の後ろで一括りにした髪が、馬の尾のように揺れる。
「何をやっているんでしょうね。自分では探検家だって言ってるんですけど。せっかくだから、道洋の生物を教えて貰っているんです。箱は、たぶん標本ですね」
「それは面白いな。私も拝見できるかね?」
オークの老教授は目を輝かせている。
「もちろんです!」
彼女も目を輝かせて応じた。
小さな試験農地から、農事試験場の建物に戻り、木箱を開けた。
入っていたのはキツネと狼の分厚い毛皮、雷鳥の羽、甜菜の種、干した昆布、押し花などであった。
オークの師と白エルフの弟子は、その一つ一つを吟味して、あれこれと論評し、議論しつつ楽しんだ。
ブレンターノに、彼女はずっと世話になってきた。彼女が何とか学部時代を乗り切れたのは、指導教授となったブレンターノの権威によって、異種族の学生たちの攻撃が軽減されたおかげだった。修士課程、博士課程でもブレンターノは彼女の師であり、いまは上司部下の関係になった。
「ふうむ、道洋の生態はまことに興味深いな。ところで秋津洲でも小麦は作っているのかね?」
「ちょっとですが、パスタ用に作っていると……あ!」
「うむ、次は、ぜひ送って貰いたまえ。品種改良には、色々な形質を収集しておかなくてはね。届いたら交配を試してみるといい」
交配とは、先ほどまで彼女がやっていた作業だ。望ましい形質をもつ小麦のおしべを切り取り、別の小麦のめしべに擦り合わせる。自然任せでは滅多に起こらない、異なる品種の交配種を作り出すのだ。
これを品種改良という。。今星紀の初めに遺伝の法則が再発見されてから、各国で盛んに行われるようになった新しい事業だ。オルクセン連邦各地の農事試験場では、農法や肥料の研究を凌いで、主業務のようになっている。
それはまた、ここラピアカプツェ農事試験場で、小麦技師のひとりとして働く彼女の主業務でもある。
「きっと、そうします! 試験場の手持ちは、ぜんぶ試してしまいましたから」
「君は仕事が早いからなあ」
「おかげで目は近いですけどね」
師弟は笑い合った。彼女らには、もはや種族を越えた深い繋がりがある。白エルフには無い関係だが、このオークの子になったような安心感すら、彼女は感じているのだった。
その甘えのままに、彼女は恨みがましい声で言った。
「次の品種ができたら、あのお爺さんの説得、最初から先生がお願いしますよ。やっぱり、先生でないと、ああいう方は聞いてくれません」
「ふふふ、駄目、駄目。また君にやって貰いますよ。それも小麦技師の仕事です」
ミリャネルは、信じられない、という顔をしてみせる。
「私じゃ、何を言っても逆効果ですよ。ドワーフの説得に白エルフをやるなんて、相性、悪すぎです」
「私もね、いつまで、この試験場の所長をやっていられるか、分からんからねぇ」
「やっぱり、ラピアカプツェ大の学長になられるんですか?」
「今期は勘弁してもらったけどね。次は断れそうにないなあ。やっと大臣を辞めて、思うさま研究ができると思ってたんだが……」
ブレンターノは、そのような牡なのであった。大学教授から、前王の勅命で農林大臣になり、多年に渡り勤め上げた。オルクセン農業の発展と山林資源の回復を両立できたのは、彼の功績に帰されている。
初代大統領の退任に合わせて、百年近く務めてきた農林大臣をようやく辞任した後、彼は首都を離れてラピアカプツェ大学の一教授に収まった。栄職や政治から距離を置き、一個の学者に戻りたかったのだ。
大学と政府が共同運営しているラピアカプツェ農事試験場の所長を兼ねて、政界ではなく学会、書類ではなく土にまみれて働いて、十年余りになる。
彼はその間に幾名かの後進を育てた。その中で、一番の高弟とみなされている白エルフは、唇を曲げた。
「困ります」
老オークは、福々しい頬を揺らして、おかしげに笑った。
「困らない、困らない。ここには君がいるからね」
この老教授の風貌は、年々若返ってきたように、ミリャネルには思える。この師の、役に立つ手となり足となれるよう知識と技能を高めるのが、彼女のこれまでの目標だった。そのブレンターノが現場を抜けてしまったら、残された手足は途方に暮れてしまうであろう。
「まあ、今の学長の任期は、まだ八年あるから。君が作った赤色八号の成果がでたら、主任技師に上げてあげられる。そうしたらもう、所長なんて誰でもいい」
「私は、そんな……」
「力だよ、ミリャネルくん。仕事の世界で自分を守るには、誰にも文句を言われない実績が要るんだ。君には、特にね」
彼女は、うなづいた。博士号を取っても、技師になっても、周囲からの蔑視や陰口が消え失せたわけではない。ブレンターノという庇護者が彼女のそばからいなくなれば、いつ表立っての攻撃、妨害になってもおかしくないのだ。
「八年ですか。あと、たったの……」
それまでに、何とかしろということだった。人間族の感覚なら、長い時間であろう。
しかし、品種改良という事業にとっては、短い期間だ。何せ、一つの種子の交配や播種は、年に一度しかできないのだ。
「その間に、君も丈夫な小麦のようになるんだ。オークのように背を伸ばして、ドワーフのように根を張って、雨でも風でも耐えられるように」
頷いたミリャネルは、風に吹かれる一本の麦のような心地だった。来月には作付けされる彼女の新品種、赤色八号のことを思う。あの麦が、試験場の中でそうであったように、冬の雪に耐え、春に育ち、次の夏には村へ多くの収量をもたらすことを祈った。
頼みの新品種が壊滅したのは、翌年の七月。収穫を間近にしてのことだった。
(革命の種子③へ続く)