機種は同じでも、いつもとは別の機体に乗り換えて発進したヘルヴェア・オストエレンは、彼女の長機に追いつくべく、西の空へ急行している。
内心で、離陸前に聞いたドワーフの整備班長の言葉を反芻する。
<エンジン不調の原因が分かった。キャブレターだ。構造上、燃料供給が安定しないことがある>
<回転が乱れるのは、そのせいだ。特に、急激な負の加速が加わると、完全に燃料供給が絶える>
<例えば急降下だ。すまない、中尉。あんたの言う通りだった。対策は……>
結局、彼女の懸念が正しかったのだ。
誰も彼も、彼女の言葉を聞かない。いつでも必要なことを、正しいことを伝えているはずなのに。
彼女の長機、ムートもそうだった。
<後から来い。俺は先に行って、見つけておく>
ヘルヴェアは歯噛みする。
何もかも、うまくいかない。エンジンは快調に動いているが、燃料供給は既に全開だ。これ以上、速度を上げることはできない。
あの、どうしようもなく愚かなコボルトが、彼女を必要としているはずなのに。
眼下に広がる南オルクセン平原、その緑の牧野が、小麦を揺らす農地が、凄まじい速度で過ぎ去っていく。
州境を越え、オルクセンの西部、ランゲンフェルト州に入ったのが分かった。
前方の地平線が輝きだす。国境の大河、メテオーアだ。その流域は、豊かな水と鉱物資源に恵まれた、オルクセン有数の工業地帯である。
無線から管制官が告げる。
<侵入機は西進を継続中。グロワール方面へ向かうと思われる>
メテオーア川を越え、ヴィッセン準州を越えれば、隣国グロワール。大戦の戦場である。
侵入したアスカニア空軍機は、オルクセン領を通り、戦場を奇襲しようとしているに違いない。オルクセンの領空を、その主権を、国家ではなく、道路のように踏みにじって。
操縦桿を握る白エルフの手に、うっすらと汗がにじむ。
ヘルヴェアは額に意識を集中した。まだ無意味だと知りながら、魔術探知波を最大出力で放つ。何も返ってこない。遠すぎるのだ。彼女の術力をもってしても、探知波は十キロほどしか届かない。
長機の状況を知るには、管制局からの情報だけが頼りだ。
<間もなく、ジルフ〇一が侵入機と接触する>
太く、舗装された道路が見える。その両脇に散在する家屋が、西へ行くにつれ増えていく。茶と灰色に彩られた市街地が見えた。
<ジルフ〇一が侵入機を発見した。アスカニア空軍の爆撃機……三個編隊……位置は……>
ヘルヴェアは、その方角へ目を凝らす。塵のような点が見えた。錯覚ではなさそうだ。彼女の長機か、侵入機かは分からない。
「こちらジルフ〇二。こちらでも目視した。〇一、聞こえるか」
返答はない。ノイズが聞こえるだけである。遠すぎるらしい。
「〇一、こちらジルフ〇二。現在、接近中だ。いま――」
聞きなれた声がした。
<直上に、護衛戦闘機!>
彼女も目視した。戦闘機らしき機影が降下している。その先にある点が、彼女の長機に違いない。
再び、最大出力で魔術探知波を放つが、反射波の返りはない。
ムート機らしき機影は、左急旋回して降下。それで初撃はかわしたらしい。
敵機と思しき機影たちは五、いや六機だ。ムート機に追いすがっている。
垂直に宙返りし、かと思えば左捻りで降下。空の青と市街の灰色を背景に、敵味方の曳光弾が交差している。
◆
ムートは懸命な回避を続けている。
初撃を察知し、かわせたのは幸運だった。かつて、一対一の戦闘訓練で、白エルフに一撃で仕留められた経験が生きたのかもしれない。
六機のアスカニア戦闘機は、ただ一機の彼を包囲し、後方を取ろうと追いすがる。
「管制、〇一、交戦中……!」
端的に報告し、コボルトは鋭い牙を食いしばる。
決して、慌ててはならない。そして絶対に、直線で飛行してはならない。左右に、上下に、軌道を変化させ続ける。そうすれば、機軸が合わない銃撃は、当たるものではない。
一瞬前まで頭上にあった地面が、今は右方向に、かと思えば次は左にきている。三半規管が悲鳴をあげるが、無視する。
内臓がせり上がるような激しい機動を続けつつ、ムートは間断なく周囲に目をやる。次に自分を狙う敵を探しているのだ。
敵が多数でも、一度に瞬間射撃できるのは一機だけだ。二機で同時に狙えば、敵機同士が空中接触しかねない。ゆえに、一度には一機を避ければいい。敵の射撃を先読みしては、最も機敏に動ける左急旋回で回避。必ず、一機と一機の攻撃の間には隙がある。その隙を衝き、失った高度と速度を回復する。そしてまた、次の攻撃を回避する。
これまでに培った操縦技量、その全てを投入し、ムート機は回避機動を続ける。Vf-43の優れた運動性を極限まで引き出し、六倍の敵を翻弄する。
幾度目かの攻撃を、やはり左急旋回で回避し、速度を回復しようとする合間。
激しく首を振って索敵するムートの視野に、最初に見つけた爆撃機編隊が入った。楔隊形で進み続ける、三個編隊。その下は、煙突が並ぶ工業地帯。エアハルト市であろう。
その爆撃機群から、次から次に、黒い点のようなものが落ちていく。
まさかと思い、その落下を目で追う。極限状態でも冷静さを保っていた頭脳が、状況の理解を拒否している。
時間の流れを遅く感じる。
やがて、樽のような黒点は地表の建物に吸い込まれた。閃光が次々に生じ、遅れて爆発音が届いた。
「ち、ちくしょう」
第二次星欧大戦で、いや、歴史上で、オルクセンが初めて受けた空襲被害だった。
ムートは、その瞬間に居合わせた。爆撃を止められず、自分が逃げ回るので精一杯だった。
「南部管制、奴ら、やりやがった! アスカニア機が市街に爆撃を!」
黒煙が立ち昇っている。その隙間から、屋根が吹き飛んだ民家が見える。その中に、幾名が暮らしていたことだろう。
怒りのあまり、頭に血がのぼる。冷静さは消え失せる。
既に十秒近くもの間、単調な直進を続けていると、彼は気づいていなかった。
その報いは、衝撃だった。右から強烈に殴られたようになる。その一瞬だけ、周囲の轟音が無音に変わる。自分の身体が傾き、それ以上に機体が傾いたことが分かるが、どうにもならない。
やがて痛みを知覚した時、視界の半分が赤く染まっていた。
「くっ……!」
半ば以上は本能で操縦桿を操作し、左旋回を入れる。
徐々に聴覚が戻り、無線機が聞きなれた声で叫んでいると分かった。
<〇一、聞こえるか。東へ離脱しろ!>
白エルフの声である。かつて聞いたことのない声だった。
<〇一、被弾したのか!?>
舌に血の味を感じながら、彼は応答した。
「目をやられた。前が真っ赤だ」
火事場に迷い込んだようだった。特に右側が赤いことに気づき、右目だけを閉じる。猛烈な痛みが走ったが、世界の赤色が消えた。左目は無事だと分かった。
無線機から悲鳴のような声が聞こえた。
実に珍しい。
ムートは可笑しくなった。あいつ、焦ることがあるのか。いつでも余裕綽々で、傲慢なくらい冷静な奴が。
まるで普通の女のように、彼を案じ、怯え、恐れているようだ。
笑いの衝動の中で、彼は気づいた。左半分になった視界の中で、燃料計が急速に下がっている。燃料タンクに穴が開いたに違いない。
<翼をやられてる。脱出しろ。今すぐに!>
この時代の戦闘機に、射出型の脱出装置はない。風防を跳ね上げ、翼に登り、後方へ飛び降りるのだ。ある程度まで降下したところで、落下傘を開く。運が良ければ死なない。
痛み、揺れる視野、低下する意識の中で、ムートは相棒の言葉に従おうとした。
「ああ、今……」
風防を跳ね上げようとした、ムートの左腕が止まった。
下がり始めた機首。その正面に見える景色が、彼を釘付けにしたのだ。
「あ……」
エアハルト市の市街が正面にあった。大きな工場。並木のある大通り。立ち並ぶ商店。煉瓦造りの家、家、家。
その景色は美しかった。目が眩むほどに輝き、いつまでも見ていたいと思った。
だが、その何か所もから、黒煙が上がっている。燃え上がる炎も見える。
その瞬間、その操縦席で、ムートことフェリクス・フォルカー大尉は、目に映るすべてを理解した。
血と炎で赤く染まっても、この世界は美しい。
そこにある、無数の営み。
ここにいる、小さな自分。
すべての運命が、いま彼の手の中にあった。操縦桿という。
爆発音がした。素早く目をやると、右の翼が折れかけている。また被弾したらしい。
ムートは前を向き、掌中の運命を握り直した。そして不敵に笑う。
まだ、やれる。
◆
ヘルヴェアは、無線機に向けて叫び続けている。
「〇一、聞こえないのか。脱出しろ!」
応答は切れ切れだ。それも当然で、遠くに見えるムート機は機首を急激に下げ、ほとんど落下しかけている。
<駄目……立て直す……>
ノイズまじりの声に、彼女は怒鳴り返した。
「馬鹿ッ! すぐに脱出だ!」
<嫌だ……諦め……い……教官………>
片翼の折れかけたVf-43が、僅かに機首をあげたように見えた。錐揉み状態になりかけたが、旋回しつつ急降下していく。
白エルフは、自分が幼子のように泣き叫んでいると気づかない。
その尖り耳は、自分の悲鳴を無視し、無線に集中している。ノイズが酷い。
<見て……ト………ア!>
白エルフの喉が、何かを叫んだように思う。
その声が途切れた時、ムート機は市街地から僅かに外れた郊外の緑地に墜落した。
「あ……」
木々の合間に炎と黒煙が見えた。操縦士が脱出した様子はなかった。
「ああ……」
激情が突き上げる。言葉にならぬ衝動が、彼女に命じている。直ちに準備し、そして戦えと言っている。
白エルフの手が素早く動く。
燃料コックを翼内タンクへ切り替え、直ちに落下増槽を投下。プロペラの回転を高回転に固定。
最大出力で魔術波を打ち出す。その反射波で、撃つべき敵を捕捉する。
「おのれぇッ!」
重しから解放された機体は、急激に速度を増した。
◆
第十一兵団の中枢管制所では、ケーニヒ少尉が状況を確認している。上擦りかける声を抑え、懸命に問いただす。
「ジルフ〇一、〇二、応答せよ。状況を報告せよ。ジルフ、どうなっている」
応答は女の声だった。冷静そのものの声だ。
<こちらジルフ〇二だ。〇一は、侵入機に撃墜された>
「何だって……!」
<侵入機は北西進を継続。追撃する>
「よせ、〇二。増援を待て。あと五分で着く」
<待てない。既に市街地が爆撃されている>
「一機で勝ち目はないぞ。近づくんじゃない」
<管制、〇一の墜落地点を確認した。市街の西の森だ。演習場らしい>
「聞いているのか」
<地上部隊が見える。救助を頼め。了解か>
「引き返せ、〇二! 繰り返す……」
途端、後ろから伸びてきた毛むくじゃらの手が、ケーニヒ少尉からマイクを取り上げた。
少尉が振り返ると、マイクを奪ったコボルトは兵団長だった。作業机に左手をついて身体を支えつつ、コボルトの将軍は、マイクに自ら呼びかけた。
「ジルフ〇二、貴様、まだ冷静か」
<〇二、肯定です>
「いつも通りにやれるか」
<〇二、肯定>
「分かった。では、行け」
ケーニヒ少尉をはじめ、その場の全員が息を呑む。
張り詰める空気の中で、兵団長は平然と命じた。
「ジルフ〇二、全侵入機の撃墜を許可する」
(「⑧ 風の妖精」に続く)