時系列は天帝の剣を入手前です。
「……やっと終わった…」
ベレスは机の上のペンを置き、クラッセの担当日誌を閉じた。
長い一日の務めが、ようやく終わりを告げる。
椅子から立ち上がり、ゆっくりと両腕を頭上に伸ばすと、凝り固まった肩から小さな音がした。首を回せば、コキリ、コキリと軋むような音が耳に届く。
そのときだった。
(ようやく終わったのか、おぬし……)
心の奥から、どこかくすりと笑う声が響いた。
視界の端に、ふわりとソティスの姿が現れる。
小さな体を伸ばし、こちらに向けてわざとらしく肩をぐるりと回すその仕草に、ベレスは苦笑を隠しきれない。
(しかし教師とは、こんな雑務を毎日こなすとはの……いやはや、恐れ入ったわい。やれやれ、おぬしが肩が凝るとこちらまで凝った気になるわい……)
その声はどこか揶揄うようで、しかし面白がる響きを含んでいた。
ソティスは今度は手招きをする。小さな手をひらひらと動かし、何やら期待に満ちた目でこちらを見る。
疲労がたまった一日の締めは…あれに限る。
ベレスは無言で外套を取り、夜風の中へと足を向けた。
大修道院の重たい扉をくぐり抜け、石畳を歩き、目指すのは蒸し風呂のあるあの施設だ。
(おぬし、行くのか? 行くのじゃな? よし! 疾くせい、疾くせい!)
ソティスの声が耳に心地よく響く。どこか浮き立つような調子だ。
やがて入浴施設に着き、ベレスは慣れた手つきで服を脱ぎ、専用の薄衣に着替える。
戸を引くと、むわりとした熱気が肌を撫でた。途端に心と体がほぐれていくのを感じる。
中は静まり返っていた。誰もいない、熱と木の匂いだけが支配する空間。
木製の床は汗と湯気で湿り、わずかに滑る。ベレスは慎重に歩を進め、やや奥の一段目、自分の定位置に腰を下ろした。
(あ゛ー……効ぐのう……)
ソティスの声が心の奥で響く。
(しかし人の子は、自ら熱に浮かされることを望むとは……当初は誠、珍妙だと思うてたが……やはり、ものは試しじゃの……これほど病みつきになるとはな。これ、おぬし、水をかけぬか。)
彼女はうっとりした表情で、焼けた石を指差す。
高温を好むのは、いつものことだ。今夜はじっくり、静かに汗を流すつもりだったのだが――せかされると、どうにも落ち着かない。
ベレスは重い腰を上げ、柄杓で水をすくった。
ゆっくりと焼石に注ぐと、ジュワッと音を立てて白い湯気が立ち上る。
視界が熱と白霧に包まれ、ただ静けさだけが、夜の闇とともに広がっていった
それから、さらに十五分が過ぎた。
(なんじゃおぬし……もう限界かの? これだから若いのは……ふふん)
視界の端で、ソティスが小さく片目を開け、いたずらめいた笑みを浮かべた。
どこか挑発するように、そして面白がるように、ふんと鼻を鳴らす。
ベレスはただ黙して耐えていた。
だが、その息が熱気を含む外気を吸い込んだ瞬間、焼けつくような熱が肺を満たした。思わず、わずかに身を硬くする。
(おお、とうとう限界か? 楽になればよいものを……負けを認めれば済むことじゃろうに)
声は柔らかだが、その調子はどこかくすぐるようで、愉快そうだった。
ベレスは、歯を食いしばった。
勝負に勝ったことが一度もない。それがまた、意地を募らせる。
姿勢を正し、流れる汗を手の甲でぬぐう。
その目に、静かな決意が宿った。
(ほう……面白くなってきたの……そうこなくてはな!)
ソティスはますます上機嫌で、にやりとした笑みを浮かべる。
熱気が、さらにベレスの全身を包み込んでいった。
時間の感覚が遠のいていく。
やがて、さらに十数分が経った。
(おぬし、おぬし……もうよい! わしの負けじゃ!これ以上は危険じゃ! まるでゆでだこのようになっておるぞ、その肌の赤さは……!)
さすがのソティスも、先ほどまでの余裕をなくし、声に焦りがにじむ。
ベレスの肌は真っ赤に染まっていた。
その様子を見て、ソティスは思わず駆け寄るようにして、ベレスのそばに立った。
(おぬし……!)
乾いた声が、口を突いて出た。
「……勝った」
ベレスの視線はどこか虚ろで、それでも微かな笑みさえ見えた。
(そうじゃ、おぬしの勝ちじゃ……もう、よい。立てるかの? ゆっくりじゃ……足元に段差があるぞ……気をつけい……)
声はもう、母が子を案じるような響きに変わっていた。
ソティスはそっとその歩みを見守り、ふらりと立ち上がったベレスを導く。
しかし――
バタン、と音を立てて、ベレスは倒れた。
ソティスは息をのんだ。すぐさま自身の器のそばに駆け寄り、その肩に手を伸ばす。だが、実体を持たぬその手は、ただ虚空をなぞるだけ。
(ほれみてみぃ…やれやれ…おぬし! 起きよ! ……おぬし!)
声が響く。揶揄う声はもうない。ただ、切実な想いだけがあった。
(やれやれ……まったく、しょうがないやつじゃ……)
ソティスはそっと手をかざす。
その瞳に浮かぶのは、あきれたようでいて、どこか慈しむような光だ。
ゆっくりと、真祖の力が指先に宿る。
(仕方あるまい……少しばかり、時を巻き戻してやるとしよう……)
ソティスの前に魔法陣が虚空に浮かんだ。
ーーー
「あー……暇だ。」
シェズは背を伸ばし、天井を見上げてぼそりと呟いた。
夜風が窓の隙間から忍び込み、室内の蝋燭の火をわずかに揺らす。
「なあ、ラルヴァ。面白い話してくれよ。」
どこか投げやりで、けれど本心から退屈を紛らわせたい声だった。
(やれやれ……僕をなんだと思ってるんだい、君は……)
心の奥に響く声は、ため息混じりだった。
だがシェズは気にする様子もなく、ぼんやりと虚空を見つめる。
「運命共同体……」
ゾクッとラルヴァの体に電撃のような衝撃が走った。
(……ッ、君、今……!)
ラルヴァの声に微かな緊張が混じった、そのときだった。
「あ?だから運命共同体…って」
(……この力……君、立って! 何か妙な胸騒ぎがするんだ!)
声が鋭さを帯びる。
「……は?なんだよ藪から棒に…敵か?」
低い声が喉の奥から漏れた。
その「敵」とは、この学園に潜む闇の事。
(わからない……だけど、これは……この感覚は……!)
「やれやれ…」
ベッドの縁に足を掛け、ひと息に窓へと身を躍らせる。
夜風を切り、手を伸ばして窓下の植木の太い枝を掴む。枝が軋み、葉がさわりと音を立てた。
そして、そのまま地に着地した。軽やかに、音も立てず。
「……どっちだ?」
シェズの瞳が闇に馴染み、冷たい光を宿す。
ラルヴァが導く方角へ、迷わず駆け出した。
ーーー
(おや……誰か来るのう……おぬし、喜べ。助けじゃ……)
時の操作を停止し、意識が薄れゆくベレスに向けて、ソティスが声をかけた。
けれど、その声はどこか遠く、そして自らの姿さえも、もう霞むように感じていた。
ベレスの意識の灯が小さく小さく、揺らめいている。
ギィ……と、戸がそっと開く音がした。
そこから現れたのは――
「……おい! お前、大丈夫か?! おいっ!」
慌てた声が響く。蒸し風呂の熱気に負けじと駆け寄ってくるその人影を見て、ソティスは……心の中でがっくりと肩を落とした。
(……なんじゃ、此奴か……)
思わず心の中でため息が漏れる。
どうにも、この男だけは苦手だった。苦手意識、いや、それ以上のもの――理由は自分でもよくわからない。ただ、巷で若者が言う「生理的に無理」という言葉が、これほどぴたりとくるとは思わなかった。
(……はあ、贅沢も言っておれんか……)
ソティスは渋々、黙ってその様子を見守った。
シェズがベレスの肌に触れた瞬間
「あづ……っ! どんだけ長い時間いたんだよ……くそっ! こんなことでくたばったら承知しねえからな……灰色の悪魔……!」
シェズは熱気に顔をしかめながら、倒れたベレスの肩を抱え上げた。
腕にずしりと重みが伝わる。
(……おかしい。今、確かに……反応があったんだけど……)
ラルヴァの声が、いつもより深く沈んで聞こえた。
その視線は闇の奥、どこかにあるはずの何かを探していた。
浴室を出て、シェズがベレスを抱え、医務室の方向がどちらかを左右に頭を振って迷う。
(……君、そこの突き当たりを右だよ。いい加減、覚えてくれないかな?)
納得のいかぬものを胸に抱えながらも、ラルヴァは暗いガルグ=マクの回廊を、方向音痴のシェズのために導き始める。
「たくっ…なんでこうなるまで…よっと」
夜風と汗で冷たくなってきたベレスをシェズは抱えなおした。
その細い肩は赤く染まり、額には汗が鈍く光っている。
濡れた黒髪が頬に張り付き、しっとりとした女性の色香を漂わせていた。
かすかな声が耳に届く。
「…ようやく…勝てた…」
「ひとりで誰と戦ってたんだよ…」
シェズは小さくつぶやく。
ふとベレスに関するうわさが脳裏によぎった。
美人であるが、無表情。時折、誰かと会話している声が聞こえるが、傍には誰もいない…と。
寒気がした。
(自分と戦ってたのかもね。もしかしてこれが彼女の強さの秘密かもね)
冗談交じりにラルヴァが言った。
「なるほど…熱に耐えて精神力を鍛える。そういう事か?」
(さあね…いや…)
しかし単純に疲労をとるだけならここまでするだろうか?
鍛錬か?しかしどうしてこうなるまで…
まるで…競うような…誰かと…
ラルヴァが思考にふける中、
「うーん…」
「おい?大丈夫か?」
「み、みず…」
「あとでたらふく飲ませてやるから…くたばるなよ…」
「すまない…」
「はぁ…どれだけ力を尽くしても勝てなかったのに…蒸し風呂以下てことか?俺は…はぁ情けなくなるぜ…」
勝った…と言っていたな悪魔は。それとあの力の反応。そもそも僕はどうして呼ばれるように悪魔の元へ?
「ラルヴァ!次はどっちだ?」
(左…いや右かな)
思考を邪魔された苛立ちで、ラルヴァは軽い嘘をつく。
(もうすぐ核心に手が届きそうだったのに…)
胸の奥で吐息のような嘆きを漏らし、シェズを導いた。
ーーー
数日後…浴室にて。
「…はぁはぁ…」
「…んっ…あ…」
密室…静寂を破るのは熱気に焼かれた二人の粗い呼吸だけだった。
(君…もう出なよ…あとでどうなっても知らないからね?)
ラルヴァの声が、シェズの脳内に響く。
(おぬし…意地を張らずに負けを認めよ…またのぼせても知らぬぞ?全く子供のように…)
ベレスの脳裏でソティスがため息まじりにささやいた。
「…もう三十分以上たつぞ…どっちが勝つんだ?」
浴室の戸の外でディミトリがつぶやく。
「愚問ねディミトリ。師よ」
エーデルガルトが微かに微笑み、自信満々で即答した。
「さぁさぁ!お立合い!今宵の勝者は、挑戦者シェズか!不動の覇者、先生か!さぁ賭けた賭けた!」
クロードが茶化すように声をギャラリーに向けて張り上げる。
「賭け率はこちらですよー」
ヒルダが大きなオッズが書かれた板を掲げ、観衆へ見せて回る。
「クロード!師に全部よ!」
普段冷静なエーデルガルトが叫ぶ。その声にディミトリが苦笑しつつ、
「君がそう言うなら…俺は」
とシェズに賭けた。
ざわめきが高まる中、勝負の結末は静かに訪れた。
「…俺の勝ちだな…どうだ参ったか…灰色の悪魔…ハハハ…ハ」
どさりと力尽きたシェズが前のめりになって倒れた。
「勝者は…先生!!!」
クロードが高らかに宣言し、ヒルダは素早く制服の帽子で、金の回収を始めた。
「やった、やったわ!師が勝ったわ!」
エーデルガルドは小さく飛び跳ねそうな勢いで喜ぶが、周囲の視線に気づくと
「ごほん…どうやら私の勝ちね、ディミトリ」
「はは…俺の負けだな。でも'面白いもの'が見れたから、良しとするか」
含みを込めてディミトリが負けを認めた。
(よかったの。おぬしの勝ちじゃぞ。さ、疾くここから出るぞ…おぬし?)
ソティスが声をかけるも、ベレスの瞳は開いたまま虚ろだった。
(目を開いたまま気絶しておる!?)
「先生?大丈夫ですか!?肩、触りますよ?いででででイングリット痛いって」
シルヴァンが駆け寄ったが、耳を引っ張られる。
「ドゥドゥー、先生を医務室へ頼む」
「了解です。殿下」
ドゥドゥーが材木を担ぐように、ベレスを肩に担ぎあげた。
「師?大丈夫なの?!師!!」
泣きそうな顔でベレスを見上げるエーデルガルドを、ヒューベルトが落ち着かせる。
「エーデルガルド様。落ち着いてください」
動揺する集団を、冷笑しながら見る銀髪の少女が、ため息をついて一言。
「はぁ…馬鹿ばっかりです。クロード、計算が終わりました。約束のお菓子、忘れないでくださいね」
リシテアはさっさと自室に帰って行った。
「おーい?シェズ君?生きてる?おーい…ってクロード君!シェズ君が!」
ヒルダがつつくもシェズは真っ赤なまま動かない。
「さて…と。たんまり儲けたし、ヒルダ!シェズを回収して急いで撤収するぞ。セテスさんにどやされちまうからな。ラファエル!頼む!」
ラファエルが笑いながら彼をひょいと担ぎ上げた。
「ベルラン団長…ゲッツ…リザリ…仇はとったぜ…」
シェズは気を失った。
こうして浴室騒動は幕を閉じた。