ビルは僅かに傾いたものの、全体が崩落するほどのものではない。大通りを侵攻する敵集団は全くそれを意に介することなく前進を続け、立ちはだかるSRTとアビドスの集団を押しつぶさんとしていた。
切り札が不発に終わった事に呆然としていた一同は、しかし正気に戻るのも早い。ビル崩壊による敵集団の殲滅が叶わなかった以上、次善の策として遅滞戦術で何とか敵の侵攻を止めねばならないのだ。
「HOUND2、残弾はあるか?」
『こちらHOUND2、ミサイル残弾なし。ロケット弾は1斉射分のみ、機関砲も半分以下』
「FOX2は?」
『こちらもミサイル残弾なし。機銃のみ使用可能』
「……そうか」
しかし、そのためにはミメシス戦車を破壊しなければならない。だが、地上兵力にエイブラムスを正面から破壊できるだけの火力はなく、強いて言えば2人のシロコが持つ攻撃ドローンが唯一有効であると判定できるものだろう。
一方で航空支援を続けてきた攻撃ヘリは重火器をほぼ撃ち尽くしており、ユキノはカズミとニコに残弾を確認するが、残弾はほとんど無く帰還しての補給を必要としていた。とはいえ、そんな悠長な事をしている間にこの通りが突破されてしまうのは誰の目にも明らかだ。
「FOX1、どうするの!?」
「………」
「このままだと突破されます!」
敵集団がその距離を詰める中、ユキノはなにか手がないかと倒壊寸前で止まったビルを見る。あれほどの爆発が起きたにも関わらず、恐らくは構造の一部が吹き飛ばなかったことがその原因だろうか。爆弾を設置したタエコを見ると、彼女はばつが悪そうに少し顔をそらした。
「HOUND2、倒壊しなかった原因はわかっているのか?」
「あのビル、思ったよりも頑丈っぽくてね……ちょっと爆薬が足りない気がして、効率的な爆破を狙ってたんだけど、後少しというところで敵がやって来て……適当に貼り付けたのが良くなかったよ」
「なるほど、つまり後一押しできれば崩せる……そういうことだな、HOUND3?」
「あー……まあ、そうだね。あのロビーはもう柱の一本でも落とせば崩壊する……と思う」
タエコの弁明を聞き、ユキノはさらに考えを巡らせる。あのビルのロビーをもう一度爆破すればビルが崩れ、ミメシス戦車を含む敵集団は下敷きになるだろう。そうすれば当初の想定通りに運ぶことができる。
だが、かなり強力なものを使わなければ破壊は難しいと予想できた。キヴォトスの建築物、特に高層建築はかなり頑丈な構造をしており、小型ミサイル程度でびくともしないものも多い。だからこ、そこのビルは先程の爆破で崩れなかったのだ。
「……せめてヘルファイアが残っていれば」
歩兵火力での破壊が困難であれば、兵器に搭載しているような大火力の武器が必要だ。しかし、ヘリはミサイルは撃ち切っている……ユキノはそう思っていたのだが―――
『あ、あの、アビドス高校の奥空アヤネです。ええっとですね、夕立号にはまだ1発、ミサイルが残っています!』
「本当か!?」
ユキノの呟きをマイクが拾い、それを聞いたアヤネが声を上げる。アヤネは―――というより、アビドスは弾薬を節約する戦い方が染み付いており、ミサイルの射撃を控えていたため、まだ1発がスタブウイングのパイロンにぶら下がっていた。
思わぬ福音にユキノの先程までしかめていた表情がぱっと明るくなる。長く暗いトンネルをずっと歩いていて、ようやく出口が見えてきたようなそんな晴れやかさだ。
「よし……ミサイルをあのビルに撃て、柱に当たれば倒れる筈だ」
『はい! 照準用レーザー照射、ミサイル発射します!』
地上で敵の前進を食い止めようと必死に射撃を繰り返す中、アヤネは夕立号から目標ビルを捉えた。照準用レーザーを照射し、ヘルファイアがロケットモーターを点火して飛び出していく。
加速したミサイルはレーザーに誘導されるように飛翔し、僅かに間をおいてビルの根本で大きな爆発が生じた。ビル全体がビリビリと鳴り、コンクリの破片がパラパラと落ちるが――――この一撃でビルは倒れなかった。
『そんな!?』
その結果に一番驚いたのは撃った張本人であるアヤネである。彼女としては照準は完璧であったはずだし、きちんと起爆もしたはず。なのに何故ビルが倒壊しないのか、その答えは結果を観測していたミユからもたらされた。
『ら、RABBIT4です……ミサイルは柱ではなくその直前に起爆しました……て、鉄筋が網目状に通り道を塞いでいます。恐らく、これに引っかかったのではないかと……』
『何だと!』
『こちらFOX4、情報補足。鉄骨は結構ぐちゃぐちゃしていて、ミサイルが通せそうなのは穴のさらに中心部……しかも、微妙に角度がついているから、馬鹿正直にまっすぐ放り込むと引っかかるよ』
『くそっ……』
レーザー照準に合わせてまっすぐ飛んでいったミサイルだったが、柱に命中する直前に鉄筋に触れたことで信管が作動してしまったのが失敗の原因だった。これはヘリのカメラでも確認しにくいものであったため、アヤネはその存在に気づけなかったのだ。
最後のミサイルが失われた事実に、ユキノは再び目の前が真っ暗になったような気がした。トンネルの向こうに見えた光が出口ではなく、対向の列車の明かりだったようなものだった。
「も、もうダメなのか……?」
『あー、あー、こちらRABBIT3。こっちもミサイル残ってるんだけど、何で私には聞かないの?』
『えっ、モエちゃんミサイル残してるの!?』
「……FOX2、作戦中はコールサインで呼ぶのを忘れるな」
しかし、まだ天は彼女たちを見捨てていなかった。もう一機、RABBIT3のブラックホークにもミサイルが残っているという事実に思わずニコは仰天する。
RABBIT3風倉モエ、SRTきっての問題児とされる彼女は爆破魔であり、重火器フェチであり、破滅願望の持ち主だ。やらかして叱責されるのを愉しむドMといってもいい。そんな彼女がミサイルを初っ端使い切らずに温存していたのはまさに驚愕に値するものであった。
『はぁ……RABBIT3、お前が決めろ。ここで倒せなければ終わりだ。市民も、お前もな』
『くひひっ、スリルたまんないねぇ~……RABBIT3了解、攻撃! 攻撃!』
モエがミサイルを撃ち切らなかった理由が何なのかを知ることは誰にも出来ない。だが、先輩たちは彼女の何時ものパターンからそれを推測し、大いに呆れてため息をつく。しかし、何であれミサイルを残してくれたのだからこれ以上追求するつもりはなかった。
彼女が攻撃を促すと、モエはスリルにひりつきニヤけた顔のままミサイルの発射ボタンを押し込む。発射装置の故障など起きるわけもなく、最後のミサイルは先程と同じようにロケットモーターを点火し、目標へと飛翔していく。だが、その進路は先程アヤネの撃ったものとは違い、微妙にズレた射線だ。
しかしモエはそこから照準用レーザーをずらして当てて動きを修正し、ミサイルは何かにぶつかることもなく先程阻害された穴をくぐり抜け―――見事柱に命中、起爆した。
「やった!?」
「ん……先輩、それはフラグ」
ビルの1階フロアは爆炎に包まれ、噴き出した炎はミメシスの兵士を巻き添えにして広がっていく。この一撃は中途半端に残っていた柱を見事にへし折り、それによってついにビルはその構造を維持できなくなった。パラパラとコンクリートが砕けて落ちたと思った次の瞬間、轟音とともに連鎖的にフロアが崩落していき、ビル全体が唸りを上げながら倒れていく。
ビルはおおよそその形を維持したまま傾きを増し、最後には粉塵を巻き上げながらミメシス戦車を押しつぶし、道を完全に塞ぐように横倒しになって止まった。押しつぶされたものがどうなったかなど確認できないが、瓦礫の重量を考えればその末路は言うまでもない。
完全にビルが横倒しになり、あたりに静けさが戻る。4機分のヘリの音は聞こえてくるのだが、銃声や爆発音がしないという時点でキヴォトスの常識からすれば静かと言えるだろう。皆も声を上げるでなく、倒壊した結果を確認しようと固唾をのんでいた。
「………」
僅かに粉塵がおさまっていく。中にいくつもの動く影が見えたが、その数は先程と比べれば圧倒的に少ない。敵集団の殆どはビルの下敷きとなり、一瞬で消滅したのだ。
「すごいじゃない! 敵は一網打尽よ!」
「やった! うまく行った!」
「後は雑魚ばかり」
歓声を上げる一同。しかし、敵の全てが飲み込まれたわけではない。ユキノは叫ぶ。
「今だ、押し込めっ!」
「HOUND4、前に出ます!」
「RABBIT2、前進!」
「おっとと、おじさんも前に行くよ!」
SRTのポイントマン組がすかさず前に出て射撃を行い、衝撃で動作不良を起こしてふらふらしている守護者たちを次々に撃ち抜き撃破する。少し遅れてアビドス組も戦列に参加し、敵を次々に屠っていった。特にホシノと黒衣のシロコの暴れっぷりは凄まじく、2人が通った後にはぺんぺん草も生えないレベルで敵集団が殲滅される。
「盾を使った制圧術もそうだけれど、普通に練度が半端じゃないわ。あれほどの人材がアビドスとかいう僻地にいて知られずに居たなんて信じられない」
「あの大きい方のシロコはなんというか……別格だ、ジャンルが違う。徒手格闘であのメカを叩き割るのはちょっと反則じゃないか?」
これはホシノの技量を見たクルミの評価と、黒衣のシロコの暴れっぷりを見たトミの感想である。SRTの精鋭さえ舌を巻くほどの戦果を残し、2人のエースは積み上がった守護者の残骸の山の上で互いの健闘を称えるかのように拳と拳を突き合わせた。
かくして、大通りにおける市民救出及び敵進行阻止は成功に終わった。敵集団は追撃をするには大きく迂回する事を余儀なくされ、稼いだ時間は市民が安全圏に退避するのに十分なものとなる。
「よし、敵集団は殲滅した! 後方集団の様子はどうだ?」
『後方集団も多くはビルの下敷きみたいです。残存数僅か、ビルに阻まれ前進不可能……作戦、成功です!』
「やったぁ!」
「よしっ!」
一時はどうなるかと思ったが、無事に作戦が成功したことに皆は喜びを分かち合う。これで避難民は無事に安全域へと撤収できるだろう、あとはシャーレの防衛戦力に任せれば良い。
「全員集合! 一時帰還して補給を行い、先生の任務を支援する!」
「了解!」
ここでの戦いは終わったが、D.U.の戦いそのものはまだ終わる様子は無い。別の避難民を抱えるマイケルを早く支援するべく、彼女たちは急いでシャーレへと帰還する。烏の行水レベルで急ぎ弾薬の補給を受けると、そのまま再びD.U.の空へと飛び立っていった。
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時折現れる敵を蹴散らしつつ、避難民の列は徐々にシャーレへと近づいていく。中心部から離れれば離れるほど接敵も減り、時折遭遇するものも大した手勢ではないため、ヴァルキューレだけで対処できるのは幸いだった。
マイケルは先頭を進みつつ、機内では周辺の戦術マップから目を離さないでいる。近くに敵がいればマップに反応が出るため、早いうちに対応できるというのは大きなアドバンテージといえるだろう。これによって奇襲を防いだのも一度や二度ではない。
「先生、ここまでくれば我々だけで大丈夫だと思います。どうか、他に必要な場所があればそちらへと」
「カンナ……君は遠慮が過ぎるな。この数の避難民を無事にシャーレに送り届けるのが今の私の仕事なんだよ。もしかしてSRTの事を気にしているのだったら……心配はいらない、つい先程作戦を完了させたと報告があった。優秀な子たちだ、私の鼻も高いよ」
自分達のためにマイケルを拘束しているのを申し訳なく思っているカンナはもう大丈夫だと口にするも、そんな彼女の内心を見透かしたマイケルは護衛を続けた。
たとえ遠く離れていようと、シッテムの箱から得られる戦術データでSRT、及びアビドス組の戦闘状況は確認できる。選抜した生徒の情報がリアルタイム得られるシッテムの箱というのは本当に便利なものだと改めて感心した。画面の端でアロナがドヤ顔を浮かべているが、まあこれほどの性能を有しているのだから自慢気になるのもわかるというものだ。
(ん……?)
このまま何事もなければ良いなと思ったそんな時、メタルウルフの戦術マップに奇妙な反応が生じた。敵ではないが味方でもない、そんな光点が二つ浮かぶ。
(何だこれは……)
市民ならば味方の反応が出る筈なのだが、この反応はそうではない。しかし敵の反応でもないというのは奇妙なもので、確認するべきだろうかと彼は考える。ここで一時的に離れるのはどうかと思ったが、もしこの反応が市民だった場合は見捨てることになる。迷うくらいなら動くべきだろう。
「カンナ、妙な反応が近くにある。私が確認しに行くから、君はこのまままっすぐシャーレへ向かえ」
「……わかりました、拝命します」
「それじゃ、ちょっと失礼!」
カンナに避難民の指揮を任せ、列を離れたマイケルはブーストジャンプでビルの上に飛び乗るとマップに反応している場所を目指す。2つほど通りを跨いだ後、彼は反応が直ぐそこにあることを確認し、その詳細な位置を確認する。
「さてと、この奥か」
彼が視線を向けたのは奥まった路地、その最奥。外からの光もあまり届かぬ薄暗いその場所に何が居るのか、マイケルは容赦なく機体に搭載されている投光器を照射する。暴力的な明かりに照らされて最奥部で何かが身じろぎ、メタルウルフのカメラはその姿を見逃すことなくズームした。
「……おいおい、ジョークにしてはタチが悪いな。どうしてお前たちがこんな所に居るんだよ」
思わず肩を竦め、呆れたように彼はぼやく。ズームされたカメラの映像には、倒れ蹲る黒服とマエストロの姿がくっきりと映し出されていたのだ。
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存在自体が胡散臭い上にアビドスやアリウスでの一件もあったため、マイケルのゲマトリアに対する印象は極めて悪いものであった。正直な所彼等が無傷であったのならば放置するところだが、今彼の眼の前に居る2人ははっきりと傷つき、息も絶え絶えといった様子で、流石にこれを無視するのは良心が咎めるということもあり、彼は二人の下へと歩み寄った。
「……あぁ、先生。このような姿を見せるのは好ましくないが、身体が余り言うことを効かない故容赦願いたい」
「マエストロ……それに黒服、お前たちどうしたんだ?」
眼の前までやってきたメタルウルフを見上げるボロボロのマエストロ。かつては双頭のマネキンの身体を持っていた彼だが、頭が片方吹き飛び左半身が大きくえぐれている。これが人間なら瀕死だが、異形である彼はそうではないらしい。
「……色々あったのだが、なんと言えば良いのか。少なくともそう、ゲマトリアは壊滅した……そう思って貰えれば結構だ」
「色々と急だな、そういうのはもう少し段階を踏んで説明するものじゃないのか? それと黒服、お前は随分とイメチェンしたようだが――――おい、本当に大丈夫なのか」
「…………」
ボロボロながらも意識がハッキリしているマエストロと違い、黒服はぐったりとしたまま動かない。息はあるようだが、顔面はぐちゃぐちゃで、元よりどこが口なのか目なのかわからない顔がピカソどころではない状態である。思わずマイケルが心配してしまう程といえば、その深刻さが判るだろうか。
『先生、この……ええっと、黒服さんとマエストロさんですが、少々変な反応をメタルウルフの
「んん? これは……まさか」
アロナが突然話しかけてきたことにマイケルは少々意表を突かれたが、彼女の言うとおりに確認してみると確かにサーモグラフィの反応が変である。
「……体温が妙に高いな」
サーモカメラの映像の上では、マエストロと黒服の2人は高温を示す色をしていた。これは一般的な体温と比べてもかなり高く、かなり熱っぽいといえるだろう。そしてこの症状はアルファ・ワーム感染症の典型的な症状の1つなのだ。
「マエストロ、お前たち……まさか、アルファ・ワームと接触したのか?」
マイケルは思わず声を上げる。すると、マエストロは忌々しそうに言葉を返した。
「アルファ・ワーム……! よもやその名をそなたから聞くことになろうとは……ああそうとも、我々はそれに襲われたのだ。アリウスで色彩を呼び出したベアトリーチェはそれに操られ、我らを襲った!」
「何だと……!?」
まさかゲマトリアがアルファ・ワームに襲われて壊滅していたとは。しかも、あのベアトリーチェが感染体になったという事実にマイケルは驚きを隠せない。そして、それはこの2人がアルファ・ワームの感染者となったということでもある。
こんな所に感染者が出現したことは、D.U.の安全保障上大きな問題であった。せっかく封じ込めに成功して新規感染者を出さずに居たのに、ここで感染変異体が出現すれば大事だ。一体でも変異体が現れれば爆発的に感染は広がってしまう。
ここでマイケルが取るべき選択肢はただ1つ、感染を今この瞬間で終息させること。そのために必要なものは彼の手の内にあった。
「マエストロ、黒服……これを使え」
そう言って彼はハッチを開けると、懐から15cmほどの長さの筒を取り出し放り投げた。マエストロはボロボロではあったものの、それを落とさずにキャッチしてまじまじと見つめる。
「これは……
思わず呟き、彼はマイケルの顔を見上げた。
「今すぐそれを使え、ベアトリーチェと同じようになりたくなければな。腕か脚の何処でもいい、そういうものだ」
「……わかった」
「黒服は元気がないようだからマエストロ、お前がやってやれよ」
「ああ」
マエストロとしても、ベアトリーチェが変貌したような醜悪な怪物になりたくはない。受け取った注射がそれを防ぐというのであれば、彼はそれを打つことに躊躇はなかった。
木製の肉体に注射をしてどうなのかというところだが、このキヴォトスではロボット人が腹痛に苛まれることもあるので気にしてはいけない。この世界ではそれが通るのだ。
続いてぐったりしている黒服にも注射を打つ。黒服がぐったりしているのは、負傷というよりもアルファ・ワームの感染が進行しているのが原因だとマイケルは見ていた。ここまで進行している場合、ワクチンを打ってもどれほどのレベルまで回復できるのかは不明だった。
なにせ、このワクチンが真価を発揮したのは今回の事例が初めてであり、ついでに言えば地球人、ホモ・サピエンス以外に打つのは初めてだったのだ。感染が急速に加速する中やむを得ない状況であったとはいえ、安全性の確認もなしに生徒に注射するというのは中々のギャンブルである。結果としてうまく行ったから良いものの、最悪も十分あり得た話だろう。だが、マイケル・ウィルソンは見事にアタリを引き当てたのだ。
「さて、これで一安心といったところかな? さあてマエストロ、それと黒服……ここで立ち話をするのもなんだ、我がS.C.H.A.L.Eに招待しようじゃあないか?」
「……どうやら、逃がすつもりはないということか」
「人聞きの悪いことを……
「……やむを得まい」
マエストロは抵抗は無駄だと考え、座り込んだまま動かない。しかしこの男一人でどうやって2人を運ぶのだろうか? まさかあのパワードスーツで脇に抱えるつもりなのか、自分が荷物のように扱われる姿を想像し、ほんの少しだけ彼は顔をしかめた。もっとも、他人から見ればこの顔に表情など感じられぬだろうが――――
『―――せい、先生! 聞こえていますか? こちら夕立号、奥空アヤネです』
その時、ヘリのエンジンとローターが風を切る音が混ざりあった騒音が急に近くに聞こえ、スピーカーで拡大された音声が周囲に響く。何かと見上げれば、ビルの谷間から覗く赤い空に割り込むようにヘリが一機、上空でホバリングしていた。
ダウンウォッシュにより路地に溜まっていたゴミが吹き飛び、埃も舞う。普通の人間がこの場にいれば到底目を開けられぬ状況の中、濃紺色の巨人は顔を空に向け、赤い単眼でそのヘリを見つめている。
「アヤネか、要救助者2名だ。感染していたが、ワクチンを打って落ち着きつつある。あいにくメタルウルフは一人乗りなんでね、そっちで搬送してくれないか?」
『りょーかい、一旦アヤネちゃんは着地できる場所を探して、私と大きなシロコちゃんで要救助者を運ぶよ』
『足元に気をつけてね』
次の瞬間、メタルウルフの真横の空間に穴が空き、そこからホシノと黒衣のシロコが出てくると彼女たちは目を見開いて驚愕の表情を浮かべていた。なにせ眼の前にいるのは彼女たちとって因縁の相手であるゲマトリアなのだ。
「……先生、これ一体どういうこと? 説明してくれるんだよね?」
「落ち着いてからな、今はそれどころではない」
「まだ生きていたなんて、正直驚いた。とっくに死んでいるものかと……」
黒服を救助するハメになったホシノは明らかに不信が滲んでいる目つきでメタルウルフを見上げる。その隣では、2人をここまでボロボロにした張本人である黒衣のシロコが口に手を当て、率直に感想を述べる。
「……暁のホルスに、
マエストロとしても、まさかこの2人が眼の前に現れるとは思っていなかった事もあり戸惑いを隠せない。少し恨めしそうにマイケルを見上げるが、彼は肩を竦める。
「なんだね、死神を呼んだつもりはないよ。彼女達はむしろ天使というべきだろう?」
「……どちらにせよ、それは
少々ブラックなジョークを口にするマイケルに対し、マエストロは呆れた様子で息を吐く。それが彼の精一杯の抗議であった。
その後ホシノと黒衣のシロコの2人は嫌そうな顔をしたまま、しかしゲマトリアの救出を拒否することもなく着地した夕立号へと乗せ、シャーレへと向かう。それを見送った後、彼は再び避難民の列へと合流したのだが―――
「……どうやら、お客さんを待たせることになったようだな。やれやれ、お詫びの品を考えないといけなくなった」
「は、はぁ……」
空を見上げ、呟くマイケル。隣でカンナが困惑しているが、メタルウルフのカメラにはハッキリとシャーレへと向かう航空機の姿が捉えられている。
急いで帰りたいが、避難民とカンナたちを放っておくことも出来ない。彼はそのジレンマに悩まされながら彼女らと共にシャーレ近辺の防衛線に到着すると、後のことは任せて大急ぎでホワイトハウスへと向かう。呼んだ本人が遅刻するようでは、皆に笑われてしまうとぼやきながら。