第126話 栄光を手にした者たちの乾杯
ラサ基地での祝勝会から数ヶ月。
季節は巡り、宇宙世紀0082年の12月が訪れていた。
コジマ大隊基地の南側、アスファルトの地面に淡く橙色の光を落とす酒保の佇まいは、数年前と変わらない。
カウンター席が8つ、テーブル席が6卓、隅に置かれた古いアップライトピアノも当時のままだ。
しかし、汚れた白いペンキの壁に並ぶ小さな額縁の景色は、確実に変化していた。
かつては一年戦争時の密林の風景画や、大戦で散っていった戦友たちの古ぼけた写真ばかりが寂しげに並んでいた場所。
だが今ではその隣に、競技会の優勝トロフィーを誇らしげに掲げるサンダースやソウヤたち、第4小隊全員の新しい笑顔の写真が、落ち着いた照明の光に瑞々しく浮かび上がっている。
彼らがこの東南アジアの大地で、確かに自分たちの手で新たな歴史を刻んできた証拠が、そこにはあった。
第4小隊の面々は、かつてジョシュアが配属された日の歓迎会と、まったく同じ窓際のテーブル席を占領している。
机を囲む顔ぶれはあの時と同じだが、彼らの肩に輝く階級章の重みはまるで違っていた。
ソウヤ・タカバ大尉、エミリア・ドットナー少尉、テリー・サンダースJr.曹長、ジョシュア曹長、ノア軍曹。
競技会優勝の実績、そしてブレックス准将の後押しによって一階級ずつの昇進を果たしたのだ。
今夜の集まりは、歓迎会ではない。
来年早々、宇宙世紀0083年の幕開けと共にラサ基地へと期間限定赴任する、サンダース曹長の送別会だった。
グラスに注がれたアルコールと、小皿に盛られた質素なつまみが、窓の外から吹き付ける乾いた夜風の音に微かに揺れる。
2年後の再会を約束しているとはいえ、約3年間、過酷な東南アジアの泥沼で生死を共にしてきた仲間とのしばしの別れを前に、テーブルを囲む5人の間には、どこか名残惜しげな温かい時間が流れていた。
「……いや、本当に死ぬかと思いましたよ。」
ジョシュア曹長が、手にしたグラスを乱暴にテーブルに置きながら、心底うんざりしたといった風に顔を歪めた。
「数ヶ月間、日の出から日没まで一瞬たりとも操縦桿から手を離させてもらえないなんて。競技会の時より、あの特訓の方が遥かに地獄でした。全身の筋肉が未だに悲鳴を上げてますよ。」
その言葉に、隣のノア軍曹も大きく首を縦に振り、皿に残ったつまみを恨めしげにつついた。
「俺なんて、予備機のジムにまで無理やり乗せられたんだぞ。毎日、サンダース軍曹――いや、曹長に後ろから100mmマシンガンの演習弾を背中に浴びせられながら『もっと踏み込め!』って吼えられるんだ。あんなの、特訓じゃなくてただの公開処刑だぜ!」
数ヶ月前、ラサ基地の祝勝会でサンダースがブレックス准将に直訴した「赴任延期と若手の鍛え直し」。
その言葉通り、この数ヶ月間、第4小隊には歴戦の鬼軍曹による容赦なき「愛のムチ」がこれでもかと叩き込まれていた。
2人の凄絶な泣き言を聞きながら、対面に座るサンダース曹長は、全く悪びれることなく豪快に笑い飛ばした。
「ははは! なにを情けない声を上げているんだ、お前たちは。まだ五体満足で酒が飲めているなら、俺の特訓メニューは生ぬるかったということだな。」
サンダースはグラスを傾け、2人の若い下士官を鋭く、しかし温かい光を宿した瞳で見据えた。
「口では文句を言っているが、ジョシュ、お前の二挺ビーム・スプレーガンでの回避ステップは、数ヶ月前とは見違えるほどキレが増している。ノア、お前もモビルスーツの挙動を体で覚えたことで、シミュレーターのランキングに名前が入ったじゃないか。……俺が不在の間も、お前たち2人だけで隊長を完璧に守れるようになる。その最低ラインには、なんとか到達したということさ。」
「軍曹……。」
サンダースの言葉の裏にある、不器用なまでの深い信頼と愛情。
それを肌で感じ、ジョシュアとノアはそれ以上文句を言うことができず、ただ気恥ずかしそうに視線を泳がせるのだった。
サンダースは窓の外の橙色の光を見つめ、懐かしそうに目を細めた。
「ジョシュアの歓迎会をここで開いてから……本当に、色んなことが起きたな。」
曹長はグラスを両手で包み込み、これまでの軌跡を噛み締めるように言葉を紡ぐ。
「ハドソン少将に囮にされた作戦 、ユーグ大尉たちと共闘したジオン残党補給基地の制圧作戦、あのデリー基地の襲撃……。そして、トリントンでの戦技競技会だ。振り返れば、本当に濃い3年間だったよ。」
「本当ですよ。俺たちはいつも、上層部の都合やらジオン残党の襲撃やらで、色んな厄介ごとに巻き込まれてばかりでしたからね。何回死ぬような目にあったか数え切れませんよ。」
ノアが肩をすくめてため息をつくと、ジョシュアがグラスを掲げてニヤリと笑った。
「まあ、そのお陰で危険手当はガッポリ出たし、今回の競技会の優勝で方面軍から支給された『特別功労金』のおかげで、実家への仕送りも大幅に増やせましたからね。俺は第4小隊に配属されて、心底良かったと思ってますよ。」
「ははは、お前たちは相変わらずだな。」
サンダースは2人のいつもと変わらないやり取りに声を上げて笑い、それからふっと表情を和らげた。
「だが……これで、俺も安心してラサ基地へ赴任できる。お前たちなら、私がいない間も間違いなく隊長の盾になれるだろう。」
そう言って、サンダースは優しく微笑んだ。
「……でも、やっぱり寂しいです。」
それまで静かに話を聞いていたエミリア少尉が、物悲しげに俯きながら、ぽつりと本音を漏らした。
グラスの氷が、彼女の微かな震えに合わせて、チリンと寂しげな音を立てて揺れている。
サンダースは優しく、しかしどこか父親のような温かい眼差しでエミリアを見つめた。
「エミリア少尉。あなたは本当に努力家だ。いつも率先して厄介な書類仕事やデータ整理を引き受け、誰よりも隊長を支えてくれた。戦闘になれば的確なオペレートで俺たちを導き、俺達の砲撃や射撃を正確にアシストをしてくれた。あなたがいなければ、第4小隊の勝利はなかった。」
サンダースの真っ直ぐな称賛に、エミリアは少し照れくさそうに微笑んだ。
だが、ベテラン曹長の言葉はそれだけでは終わらなかった。
サンダースは酒保の隅にある、少し調律の狂った古いアップライトピアノへ視線を向ける。
「それに……時間があれば、この酒保のピアノを1人で練習していたり、時には私と一緒に練習したことも、私はちゃんと覚えているよ。」
「えっ……!? あ、あの、1人で弾いていたの、見てたんですか……っ!?」
エミリアは弾かれたように顔を上げ、一瞬にして耳の根元まで真っ赤に染まった。
こっそり1人で練習していた秘密の時間を、まさか教えてくれているサンダース軍曹に目撃されていたとは思ってもみなかったのだ。
その分かりやすすぎる動揺に、対面の席からジョシュアとノアがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「へぇー、エミリア少尉、こっそりピアノなんて可愛いこと練習してたんだ? 俺たちのために一曲披露してくれてもいいんですよ?」
「おいおいジョシュア、エミリア少尉が弾くのは『俺たちのための曲』じゃないだろ? ほら、そこに座ってる『誰かさん』に聴かせるための特別なラブソングに決まってるじゃないか。」
「ちょ、ちょっと2人とも! からかわないでください!!」
エミリアは両手で顔を覆うようにして、全力で2人を睨みつけたが、赤くなった顔は隠しきれていなかった。
ノアとジョシュアはそんな彼女の反応が面白くてたまらないといった風に、声を合わせて豪快に笑った。
そんな賑やかな若手たちのやり取りを微笑ましく見届けてから、サンダースは再び表情を引き締め、エミリアの目を真っ直ぐに見据えた。
「エミリア少尉。俺は来年から、しばしの間この部隊を離れる。……だから、君に頼みたい。公私共に、これからも隊長をしっかりと支えてやってくれ。」
「公私共に」という言葉の持つ、少しだけ意味深な響き。
エミリアはさらに顔を真っ赤にしながらも、ちらりと隣のソウヤの様子を窺い、それから小さく俯いて、蚊の鳴くような声で答えた。
「……は、はい。……前向きに、善処します。」
はにかみながらも、確かに決意を口にしたエミリアの健気な姿に、酒保のテーブルには、これまでの激戦の疲れをすべて吹き飛ばすような、最高に温かく心地よい空気が満ちていくのだった。
からからと笑うジョシュアたちの声を背に受けながら、ソウヤは手元にあったグラスをそっと持ち上げた。
隣でまだ顔を赤くしているエミリアをそっと庇うように、対面に座るサンダースへと視線を向ける。
「……サンダース曹長。ジョシュたちも言っていたが、本当にこの3年間、あなたには助けられてばかりだった。」
ソウヤの落ち着いた、しかし心の底からの実感がこもった声に、酒保のテーブルが一気に静まり返った。
「東南アジアに赴任したばかりの右も左も分からなかった俺が、『1人でも多くのジオン残党を生かして宇宙へ帰したい』なんて無茶な理想を口にしたあの日、あなたは真っ先に俺に力を貸してくれた。密林での戦い方を一から教えてくれて、死線を潜りながらずっと一緒に戦ってくれたんだ。前線であれだけ思い切った不殺の戦い方を貫くことができたのは、あなたのお陰だ。ありがとう。」
ソウヤは1人の戦友として、温かい眼差しをサンダースの大きな身体へと注ぐ。
「ラサ基地のブレックス准将に、自分から2年間の期間限定を直訴してくれたと聞いた時は、本当に嬉しかった。あなたがそこまで、この第4小隊を、俺を支えたいと思ってくれていることが嬉しかった。」
「タカバ隊長……。」
サンダースは少し目元を潤ませながら、ソウヤの言葉を重く受け止めた。
ソウヤはグラスを前に突き出し、白い歯を見せて笑う。
「来年からはしばしの別れだ。だが、なんの憂いもなくラサへ行って、ブレックス准将の元でその圧倒的な経験を振るってきてくれ。」
ソウヤは一度言葉を区切り、壁に飾られた彼ら自身の新しい笑顔の写真を見つめた。
「2年後、この酒保の同じ席で、またあなたの帰りを待っている。……その時はまた、一緒に酒を酌み交わそう!」
「はっ……! 2年後、必ずや、このテリー・サンダース、一回りも二回りも強くなって、再び大尉の盾となるために戻ってまいります!」
サンダースは椅子から背筋を限界まで伸ばし、涙を堪えながら、これ以上ないほど誇らしげに顔を上気させた。
ソウヤがグラスを中央へ差し出すと、サンダースが、エミリアが、そしてジョシュアとノアもそれぞれのグラスを重ね合わせる。
「テリー・サンダース曹長の新たなる門出と、2年後の再会を祝して――」
ソウヤの力強い言葉が、酒保の古い天井に心地よく響く。
「乾杯!!」
チリン、と澄んだ美しい金属音が響き、5つのグラスが中央で重なり合った。
喉を潤し、ひとしきり乾杯の余韻が落ち着いた頃、エミリア少尉が意を決したようにスッと席を立ち上がった。
まだ少し赤みの残る顔を恥ずかしそうに伏せながらも、まっすぐな瞳でサンダース曹長を見つめる。
「……サンダース曹長。旅立つあなたのために、私、ピアノを演奏しますね。」
その宣言に、ジョシュアとノアが「おおっ!」と顔を見合わせて歓声を上げた。
「マジですかエミリア少尉! 本当に弾いてくれるなんて!」
「おいジョシュ、静かにしろ。特等席でじっくり拝聴しようじゃねえか。」
2人が悪戯っぽく、けれど嬉しそうに席を整える中、サンダースは驚きに目を見張ったあと、優しい笑みをその厳つい顔に浮かべた。
「ふふ、それはありがたい。少尉の演奏を聴けるなら、これ以上の餞別はありません。」
エミリアは小さく頷くと、酒保の隅にある古いアップライトピアノへと歩み寄り、木製の椅子に静かに腰掛けた。
深呼吸を一つ。鍵盤の上に白く細い指が乗せられ、次の瞬間、静かな酒保の空気を震わせて、軽やかでどこか哀愁を帯びた旋律が流れ出した。
彼女が奏でたのは、ブルグミュラーの『アラベスク』。
初心者が基礎を終え、表現を学ぶための瑞々しい練習曲だった。
「……っ。アラベスクを弾けるようになったのですか……!」
サンダースの胸に、熱い衝撃が奔った。
かつて自分が彼女にピアノの手ほどきをしたとき、エミリアはまだ指の動かし方すらおぼつかない状態だった。
その彼女が、この短期間で一本の曲を、それも自分に聴かせるために死に物狂いで鍵盤に向かい、努力を重ねてここまで弾けるようになっていたのだ。
ソウヤ、ジョシュア、ノア、そしてサンダースの4人は、ただ静かに、エミリアの紡ぐ『アラベスク』の音色に耳を傾けていた。
少し調律の狂った古いピアノの音が、窓の外から吹き付ける12月の夜風と混ざり合い、彼らの3年間の思い出を優しく包み込んでいく。
最後の和音が美しく響き渡り、余韻の中に消えていくと、エミリアは鍵盤から手を離し、席を立って小さく一礼した。
パチパチパチパチ……と、酒保の中に温かい拍手が沸き起こる。
サンダースは目元を拭い、照れくさそうにするエミリアへ向かって微笑みかけた。
「見事でした、エミリア少尉。テンポの揺れや指の引っかかりなど、まだまだ改善の余地は山ほどありますが。――しかし、私のためにここまで頑張って練習して、演奏してくれたこと。本当に、心から感謝します。」
その温かい労いの言葉に、堪えていた感情が堰を切った。エミリアの大きな瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、頬を伝って制服の胸元へ落ちていく。
「……っ、ぐす。教えてくれたサンダースさんに……どうしても聞いてほしくて、驚かせたくて……っ。がんばって、いっぱい、練習したんです……っ!」
鼻をすすり、涙を拭いながら健気に笑うエミリアの姿に、サンダースは大きく頷いた。
彼は席を立つと、彼女の元へ歩み寄り、大きな、分厚い手のひらでその茶色い髪を優しく撫でた。
「ええ、よく分かっていますよ。ありがとうございます。――では、次は私の番です。お返しの演奏をさせてください。」
サンダースが代わりにピアノの前に腰掛けると、酒保の空気は一瞬にしてあの『ジョシュアの歓迎会の夜』へと巻き戻された。
ベテランの太い指が鍵盤を叩いた瞬間、狂った調律すらも味方に変えるような、力強く、最高に軽快なリズムが溢れ出す。
ソウヤ、エミリア、ジョシュア、ノアの4人は、グラスを片手に、歓迎会と全く同じようにサンダースのピアノに聴き入っていた。
死線を潜り抜け、互いの背中を預け合ってきた彼らの絆は、この小さな酒保の中で、何物にも代えがたい温かい記憶として昇華されていく。
窓の白いペンキの壁には、彼らが掴み取った栄光の笑顔の写真が、橙色の光に照らされて静かに佇んでいた。
――しかし、この穏やかな平穏は、長くは続かない。
時計の針が、宇宙世紀0083年の幕開けを刻むその時。
深き闇の底で雌伏の時を過ごしてきたジオン公国軍の残党『デラーズ・フリート』が、地球圏の全てを震撼させる――【星の屑作戦】を遂行すべく、牙を剥いて歴史の表舞台へと這い上がってくる。
そして、その激動と憎悪の嵐の果てに、スペースノイドへの激しい弾圧と排他主義を掲げる冷酷な軍事組織『ティターンズ』が誕生し、世界をさらなる泥沼の戦場へと引きずり込んでいくことを、5人は知る由もなかった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
これにて、宇宙世紀0082年の競技会編は終了です。
次からはティターンズが創設される要因になった、星の屑作戦の時代である、宇宙世紀0083年になります。
競技会の時は熱血王道のスポコン風にしましたが、0083年はミステリー風になると思います。
まさかの結末になるので、お楽しみください。
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