宇宙世紀0083年10月27日
東南アジア方面の新たな心臓部として稼働し始めた、地球連邦軍の巨大要塞――ラサ基地。
その分厚いコンクリート壁に囲まれた、第一モビルエース・シミュレータールームの重い気密扉が開いた。
室内に設置された6台の最新型MSシミュレーター装置から、パイロットを目指す若い士官や下士官たちが、一斉に這い出るようにして姿を現した。
ある者は少尉、ある者は軍曹の階級章を胸に付けているが、全員が例外なくノーマルスーツを汗で濡らし、今にもその場に崩れ落ちそうなほどヘトヘトに疲弊しきっていた。
そんな若者たちの弛緩しかけた空間に、空間そのものを震わせるような、凄まじい大音声の叱咤が炸裂した。
「――何を腑抜けた面をしているッ!!コックピットから出た瞬間が戦場なら、死に時だぞッ!!」
声の主は、190センチを超える強靭な巨躯を直立させ、鋭い眼光を放つ褐色の男。
一年戦争を第08MS小隊のベテランとして生き抜き、戦後はコジマ大隊第4小隊の大黒柱として数々の修羅場を潜り抜けた男――テリー・サンダースJr.曹長だった。
現在はラサ基地の若きパイロット候補生たちにモビルスーツ操縦を叩き込む指導官の任に就いている。
その鬼神の如き怒号を浴び、ヘトヘトだったパイロット候補生たちは、条件反射のように弾かれたように背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢を正した。
「少尉!今のシミュレーション、密林内での互いの連携が甘すぎるッ! 視界が遮られるジャングルで僚機との距離を測れん者は、敵にとって格好のカモだ!それから軍曹、機体の足回りのセッティングが甘いッ!湿地帯の泥濘を走るというのに、あんな標準のトルク値のままでまともに踏み込みが出来ると思っているのかッ!」
「は、はいッ! 申し訳ありません、サンダース教官ッ!!」
候補生たちは直立不動のまま、腹の底から声を絞り出して応じた。
サンダースの指摘は、すべてが実戦の泥を啜ってきた者だけが持つ、冷徹なまでのロジックだったからだ。
彼らにとって、目の前の曹長はただの怖い教官ではなかった。
東南アジア方面軍が誇る最強のエース部隊『コジマ大隊第4小隊』の絶対的な大黒柱であり、何より、去年のトリントン基地で開催されたMS戦技競技会において、満身創痍の状態で180ミリキャノンを固定し、あの北米のウィッチハント隊を打ち破って初代王者の栄冠を勝ち取った生ける伝説、その人なのだ。
サンダースに直接指導を受けられるという至高の名誉。
そして、本物の戦士の威圧感。
若きパイロットたちの胸の内には、彼に対する尊敬と、骨の髄まで叩き直されることへの深い畏怖の念が、同時に渦巻いているのだった。
「――だが。」
サンダースは一度言葉を区切ると、直立不動の若者たちの顔を1人ずつ見据え、その厳格な表情をわずかに緩めた。
「最初の頃に比べれば、ずいぶんとマシになったのも事実だ。かつてのヒーロー気取りの無意味なスタンドプレーは消え、各自が装備の特性や地形の利を意識した立ち回り、そして小隊としての作戦行動ができるようになってきている。
特に後半、2番機が仕掛けた誘導と、それに連動した3番機のスモークの散布タイミングは、密林戦の手本と言っていい出来だった。」
鬼教官からの予想だにしない具体的な「褒め言葉」を浴び、若手パイロットたちの強張っていた表情に、パッと誇らしげな歓喜の光が走った。
互いに視線を交わし、ノーマルスーツに染み込んだ汗の熱量が報われたことに安堵の胸を撫で下ろす。
だが、サンダースはすぐに声音を元の、鉄のように冷徹なトーンへと戻した。
「だが、実戦で生き残るにはまだまだ未熟だ。本当の戦場はもっと狡猾で、汚く、一瞬の判断ミスやわずか1秒の迷いで簡単に命を落とすことになる。いいか、敵を撃破することだけが軍人のすべてではない。五体満足で生きて帰ることこそが一番大事な任務だ。忘れるな、生き残ることそのものが、お前たちの戦いなんだ!」
「――はいッ!!」
魂を揺さぶられるようなサンダースの人生観、そしてシロー・アマダから受け継いだ「生きるための戦い」という言葉の重みに、若者たちは腹の底から力強い怒号のような返事を突き返した。
「よし。候補生諸君、本日の課題だ。今回のシミュレーターでの各自の戦闘ログを徹底的に自己分析し、明日の朝までに改善案をまとめたレポートを提出しろ。」
「了解しました、教官ッ!!」
敬礼を返す若者たちを見届け、サンダースは満足げに短く頷いた。
「結構。本日の訓練はここまでとする。――解散!」
「「「失礼しますッ!!」」」
サンダースの力強い号令とともに、若きパイロットたちは再び引き締まった顔つきで、それぞれのシミュレーター装置から私物の整理へと動き出した。
シローとソウヤに育まれた戦闘経験は確実に、次の世代の戦士たちへと受け継がれようとしていた。
サンダースは去りゆく候補生たちの背中を見送ると、シミュレーターの管制室へと入り、今日の訓練データを端末から素早く抜き取った。
それから無人の部屋を見渡し、機材の主電源を落として部屋の片づけを手際よく終わらせた。
自分の任務を完了したサンダースは、基地内に与えられた自室へと戻る。
デスクのランプを点け、先ほど抜き取った訓練データを手元のモニターに映し出す。
候補生1人1人の細かなレバーワークや、密林の遮蔽物に対する回避の遅れ。
それらを細かくチェックしながら、今後の訓練内容とスケジュールの微調整に数時間を費やした。時計の針が午後8時を指した頃、サンダースは仕事を終えて一息つくと、ラサの街へと出ることにした。
ラサの夜は、標高の高さも相まって急激に冷え込む。
彼は頑強な体躯に厚手の防寒着を着込み、ようやく慣れたラサ基地の無機質な通路を歩いて地上出口のゲートへと向かった。
「サンダース曹長、お疲れ様です。」
検問所の警備兵が身分証を確認し、敬礼と共にゲートを開く。
サンダースは短く応じ、夜のラサの街へと足を踏み出す。
夜のラサは、連邦軍の巨大要塞として活気に満ちていた。
軍の車輌が砂塵を上げて行き交う大通りの街灯は冷たく、その影には昔ながらの石造りの民家や露店がひっそりと佇んでいる。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返る路地裏からは、乾いた夜風がヒューヒューと吹き抜けていた。
サンダースはこうして時間が空けば、ラサの街を静かに歩いてパトロールすることを習慣にしていた。
目的は、ただの夜の散歩ではない。
1年前のあの日のように、彼女――アイナ・サハリンが再びこの街へと薬を買いに現れ、もし何かトラブルに巻き込まれたのなら、今度こそ最初から自らの手で確実に助け出せるようにするためだった。
だが、幸いなことに、あの日を最後として彼女がラサの街に姿を現したことは一度もなかった。 地球連邦軍の東南アジアにおける最重要拠点となったこのラサに、アプサラスの開発に携わったジオンの彼女が近づくことは安全上、決して好ましくない。
頭ではそれを理解し、来ないことが一番の平穏だと分かってはいる。
だが、それと同時に、かつて地獄の戦場を共に戦った大切な『上官』に、二度と会えないかもしれないという、男ならではの寂しさと侘しさも、その胸の奥には確かに存在していた。
ドレッドヘアを夜風に揺らしながら、サンダースはポケットに手を突っ込み、物静かな夜のラサの街をただ1人、ゆっくりと歩き続けるのだった。
「――お久しぶりね、テリー・サンダースJr.軍曹。いえ、今は曹長だったかしら?」
乾いた夜風のなかに、低く鈴を転がすような女の声が響いた。
サンダースの大きな身体がピタリと止まり、防寒着の襟を立てたまま、静かに後ろを振り返る。 冷たい街灯の光の下に佇んでいたのは、長い金髪を後ろでまとめ、深いサングラスをかけた女性だった。
仕立ての良いビジネススーツの上にシックなコートを羽織り、九竜中央報知の記者『アエロ・ハルピー』としての完璧な知性を漂わせている。
だが、その佇まいが放つ「本物の戦士」特有の消せない硝煙の気配を、サンダースの老練な直感は見逃さなかった。
(……この女、アエロ・ハルピーっ!)
サンダースの全身の筋肉が一瞬にして緊張の糸を張る。
1年前のあの日、このラサの街で窮地に陥ったアイナ・サハリンを『命に代えても逃がす』と言い放ち、実際に連邦の目を盗んで完璧に安全な場所へと送り届けてみせた謎の記者。
彼女のその手際の良さと、背景にあるジオン残党の影。
サンダースはそれらを骨の髄まで警戒し、目を鋭く細めた。
アエロはサンダースの剥き出しの警戒心を気にする風もなく、コツコツ、とヒールの音を響かせてゆっくりと近づいてきた。
そして、サンダースの巨体のすぐ傍らに立つと、周囲の闇に溶けるような微かな声で、その耳元へと直接囁いた。
「警戒しないで。……シロー・アマダとアイナ・サハリン、そしてね――あなたの今の隊長、ソウヤ・タカバに関する極めて重要な話があるの。黙って私に付いてきて頂戴。……あなたが連邦の憲兵へ密告をするような真似をしなければ、こちらから危害を加えるつもりは毛頭ないわ。」
その3人の名前が、彼女の唇から同時に紡がれた瞬間。
サンダースの胸の奥に、かつてないほど強烈な激震が走った。
「……何の、用だ?」
サンダースは低く、地鳴りのような声で応じ、拳を固く握り締めた。
「……場所を変えましょ。ここでは、耳が多すぎるわ。」
アエロはサングラスの奥の視線を周囲の路地裏へと走らせ、冷徹なトーンで告げた。
連邦軍の車輌が定期的に巡回するこの大通り沿いでは、これ以上踏み込んだ秘密の会話を続けるのはリスクが高すぎた。
サンダースは顎を引き、防寒着のポケットのなかで固く拳を握り締めたまま、急速に思考を巡らせた。
(隊長にアイナ……そしてタカバ大尉だと?)
この女のバックボーンには、ジオン残党の昏い闇が確実に潜んでいる。
誘いに乗れば、最悪の場合は罠にはめられ、消される可能性すらあった。
普通の下士官なら、ここで即座にハンドガンを引き抜き、憲兵隊へ無線を入れるのが軍人としての正しい模範解答だ。
だが、アエロの口から出たのは、自分の人生のすべてを変えた第08MS小隊の隊長の名前と、いま自らが魂を懸けて支えようとしている若き大尉の名前だった。
(もし、あの2人の平穏が本当に脅かされているのだとしたら……。そして、タカバ大尉が俺たちの知らないジオンの巨大な陰謀に巻き込まれようとしているのだとしたら、俺がここで退くわけにはいかん。)
サンダースの脳裏に、3年前に軍のシステムを捨ててまでアイナの手を取った、シロー・アマダのあの真っ直ぐな背中が鮮烈に蘇る。
あの生き様を肯定し、ソウヤの理想に未来を懸けると決めたその瞬間から、サンダースのなかの「戦士の天秤」は、とっくに軍の規則などという枠組みを飛び越えていたのだ。
「――良いだろう、案内しろ。」
サンダースは低い声で応じ、アエロを正面から睨み据えた。
「ただし、忘れるなよ、アエロ・ハルピー。もしお前たちがタカバ大尉やあの2人に少しでも仇なす動きを見せるなら、お前と一緒に地獄へ道連れにする。」
「ふふ、さすが『コジマの第4』のメンバーね。脅し文句の重みが違うわ。」
アエロはサングラスの奥で不敵に微笑むと、コートの襟を立て、夜のラサのさらに深い闇のなかへと、滑らかに踵を返した。
サンダースはその巨躯を静かに揺らし、連邦軍の光が届かない路地裏の深淵へと、彼女の背中を追って足を踏み出すのだった。
アエロは夜風を遮るように、路地裏の片隅にひっそりと佇む人気のない小さなバーの扉を押した。
サンダースもその巨躯を屈めるようにして、彼女の後に続いて薄暗い店内へと足を踏み入れる。 カウンターの奥には、剥げかけたグラスを静かに磨く初老のマスターが佇んでいた。
アエロはカウンターの上に置かれた仙人の置物の頭を、トントンと軽く指先で触れた。
磨いていた手を止めたマスターが、じろりとサングラスの奥を睨み、静かに言葉を放つ。
「――『禍福は糾(あざな)える縄のごとし』」
アエロが静かに合言葉を返す。
「――『天網(てんもう)恢々(かいかい)、疎(そ)にして漏らさず』」
道教の教えを引いた、ルオ商会特有の冷徹な符牒。
マスターは合言葉が正しく交わされたことを確認すると、何も言わずに顎で店の最奥を示し、2人を隠し扉の先にある小さな個室へと案内した。
壁の薄い、だが完全に密閉された防音仕様の個室に案内された2人は、対面の古びたレザースツールへと腰掛けた。
アエロは深くサングラスを外すと、コートの襟を緩め、真摯な、そして1人の大人の女性としての瞳を真っ直ぐにサンダースへ向けた。
「座って早々、不躾だけど……まずは謝らせて頂戴、サンダース曹長。さっき路上で、あなたが敬愛している2人の名前、そしてソウヤ・タカバの名前を出して、あなたを脅迫するような真似をしたことをね。」
アエロ――キリー・ギャレットは、細い指先をテーブルの上で軽く組み、痛ましげに声を落とした。
「どうしても、あなたの信頼と力を貸して欲しかったの。だから、こんな強引な手段を使ってしまったわ。私もね、本当ならこんな汚い真似はしたくなかったのよ。だけど……今まさに起きようとしている事態の深刻さを考えれば、もう時間が残されていないの。本当に申し訳なかったわ。」
サンダースは微動だにせず、巨躯をレザースツールに預けたまま、アエロの言葉の重みをじっと測るように沈黙を保った。
巨体から放たれる威圧感は鋭く、部屋の空気をピリピリと緊張させていたが、アエロの真摯な謝罪とその瞳にある本物の覚悟を認めると、サンダースはサングラスの奥の目をわずかに細め、防寒着のポケットからゆっくりと手を抜いた。
「……謝罪は受け取る。お前がそこまで頭を低くするほどの事態だ、ただ事ではないのだろう。」
サンダースは上卓に腕を組んで置いた。
「だが、綺麗事は抜きだ。元ジオンの残党が、なぜ連邦の俺を頼る。アマダ隊長やアイナ・サハリン、そしてタカバ大尉に一体何が起きようとしているのか……包み隠さず、本題を話してもらおうか。」
サンダースは警戒を完全に解いたわけではなかったが、アエロが提示した「3人の名前」の裏にある危機を正しく見極めるため、1人の戦士として、冷徹に彼女の次の言葉を促す態度を取った。
アエロは組み合わされた指先に微かに力を込め、個室の静寂を切り裂くように切り出した。
「――トリントン基地で戦術核を搭載した新型ガンダムが強奪された話は、どこまで知っているかしら?」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、サンダースの強靭な眉が跳ね上がった。
サングラスの奥の目が驚愕に見開かれ、巨躯が僅かに強張る。
(……何だと? ガンダムが強奪された……それも、戦術核を積んだ機体だと……っ!?)
ラサ基地所属のサンダースにすら、その最悪の凶報は一切知らされていなかった。
ジャブローが総力を挙げて情報を統制し、隠蔽に躍起になっている証拠だった。
だが、サンダースは驚異的な直感で、バラバラだったピースを脳内で一瞬にして繋ぎ合わせた。
(――だからか。)
いつもなら月のフォン・ブラウンや連邦議会のあるダカールを飛び回り、政治活動に身を投じているはずの司令官ブレックス・フォーラ准将が、なぜ今、この東南アジアのラサ基地に駐在をしているのか。
そして、2日前にブレックス准将がタカバ大尉に超法規的な特命書を携えさせたのか。
すべての異常な事態の合点がいった。
宇宙世紀全体の安全保障を揺るがす特大の爆弾が、すでに破裂しそうになっているのだ。
「……初耳だな。」
サンダースは冷徹な戦士の思考を取り戻し、アエロを鋭く睨み据えた。
「軍の上層部が必死に揉み消しているその国家機密を、なぜ一民間の記者が当然のように握っている。……アエロ、お前たちはその核の強奪に、どこまで噛んでいるんだ?」
「私たちは直接、その強奪には関わっていないわ。」
アエロは首を横に振り、薄暗い個室の灯りのなかでサングラスを外した目を静かに細めた。
「むしろ、私たちもその身勝手な暴挙に巻き込まれた『被害者』の側よ。」
サンダースは鼻を鳴らし、その要領を得ない発言に険しい表情を崩さなかった。
同じジオン残党が被害者を自称するなど、連邦の軍人からすればにわかには信じがたい話だった。
だがアエロは、サンダースのその拒絶に近い反応を冷徹に観察し、確信を得たように言葉を続けた。
「……やっぱり、大まかな中身までは聞かされていなかったようね。だけど、ラサの異変にはとっくに気づいていた、そんな顔をしているわ。」
アエロは一度、個室の防音壁に視線を走らせてから、サンダースに説明を始めた。
「ガンダム試作2号機を強奪したのは、宇宙を拠点にしているエギーユ・デラーズ直属の『デラーズ・フリート』。ここまではジャブローも把握しているわ。問題はここからよ。……その2号機強奪と連動するように、北米のジオン過激派が動き出したの。」
「北米の、残党だと……?」
「ええ。あいつら、一年戦争の時に北米戦線を震撼させた『北米の魔女』のモビルスーツをどこからか持ち出し、北米で大規模なテロを起こそうとしているわ。宇宙の核強奪に呼応して、地上でも火の手を上げる『宇宙と地上の二面作戦』を行うためにね。その北米残党の通信を傍受して、とある不穏な作戦ワードを聞き取ったみたいなのよ。」
アエロは声を一段と落とし、サンダースの目を真っ直ぐに見据えた。
「――『ギニアスの遺産』。その単語から、かつてこの東南アジアで巨大MAアプサラスを開発した『ギニアス・サハリン』であることを特定したわ。だから、東南アジアのあなたの隊長、ソウヤ・タカバ大尉に極秘裏に調査を依頼したのよ。」
(……そういうことだったのかッ!!)
その決定的な一言が落とされた瞬間、サンダースの脳内で全ての疑問が雷撃のように氷解した。 ラサ基地の内部でも、ブレックス准将が正規の手続きをすべて踏み倒し、一介の小隊長であるソウヤに超法規的な『特命調査書』を急遽発給したという噂は、下士官たちの間で大きな話題になっていたのだ。
あまりにも官僚主義的な連邦軍において、最高司令官がそんな『特命調査書』を一部隊の隊長に持たせた理由が、ようやく理解できた。
戦術核を持った最悪のガンダムの強奪。そして、それに呼応する北米のテロ計画と、かつて東南アジアを恐怖に陥れたアプサラスの影。
1分1秒の遅れすら許されない極限の国家危機だからこそ、ブレックス准将は軍の壁をすべて捩じ伏せてソウヤを動かしたのだ。
サンダースは深く息を吐き、事態のあまりの重さに沈黙するしかなかった。
アエロは個室の薄暗い光のなかで、一切の迷いのない冷徹な声を響かせた。
「私の本当の目的はね、ソウヤ・タカバ大尉に『ギニアスの遺産』に関するすべての情報をリークすることよ。大尉に情報を掴ませて連邦軍を動かし、北米のジオン過激派どもを根こそぎ叩き潰す。奴らが企てている最悪のテロを、未然に防ぎたいの。」
その言葉を耳にした瞬間、サンダースは驚愕のあまり絶句し、怪訝そうに眉をひそめた。
「……何だと?」
サンダースの口から、困惑の声が漏れる。
目の前にいる女は、どうひっくり返してもジオン地上軍の深い闇に繋がっている人間だ。
それなのに、その口から出た作戦は、連邦に寝返るような身内の売却工作だった。
「ジオンの残党が、同じジオンの残党を連邦の手で叩き潰す、だと……? お前たちが大義のために結束しているというのは、ただのハッタリだったわけか。一体どういう風の吹き回しだ?」
サンダースは目の前の女の本意がどこにあるのか測りかね、強い困惑の念を隠しきれなかった
「大義、大義と誰もが口にするけれどね。」
アエロは自嘲気味に笑い、テーブルを細い指先でトントンと叩いた。
「北米で暴れようとしているあの男――アイロス・バーデは、高潔なジオンの騎士なんかじゃない。デラーズ・フリートという時代の狂気に便乗して、他人の物を横取りしただけの、大義の仮面を被ったコソ泥よ。あんな狂信者の好き勝手にさせて、無関係な民間人を巻き込む大規模テロなんて起こされたらどうなる?アースノイドはスペースノイドを完全に『対話不能な怪物』と見なし、さらなる抑圧と差別の檻を強固にするわ。……それは、私たちの哲学に反するのよ。」
その言葉に嘘偽りがないことは、サンダースにも分かった。
だが、だからこそ純粋な疑問が口を突いて出る。
「言い分は分かった。それならなぜ直接、タカバ大尉にその情報を持ち込まない。軍の端末に匿名でデータを放り込むなり、いくらでもやりようはあるはずだ。」
「それは無理よ。」
アエロは冷徹な目のまま、首を横に振った。
「連邦軍の情報網を舐めないで。下手に私たちのルートから直接発信すれば、まだ世間に明るみに出したくない『私たちの存在』の証拠を残してしまう、絶対に私たちと繋がっていることがバレない、安全な『仲介者』が必要なのよ。」
「……待て。その役割を、俺にやれと言うんじゃないだろうな?」
サンダースは身を乗り出し、アエロを睨み据えた。
「俺が急にそのネタをタカバ隊長に伝えたら、今度は俺が怪しまれる。そうなれば、俺と大尉がジオンの残党と通じていると軍の査問会に睨まれ、お前だって徹底的に捜査されて、捕まることになるぞ?」
「分かっているわ。だから、あなたにも私にも、そしてソウヤ・タカバにも一切の被害を出さずに、100%正確な情報を連邦へ伝えられる人物が、たった1人だけいるのよ。」
「まさか……。」
「――アイナ・サハリン。」
アエロの口から静かに毀れ落ちたその名前に、サンダースは頭を殴られたような衝撃を受け、次の瞬間、はらわたの底から湧き上がる激しい怒りに顔を怒らせた。
スツールを蹴り破らんばかりの勢いで立ち上がり、巨躯から凄まじい殺気を放つ。
「アエロ・ハルピーッ!!お前、正気かッ!? あの2人が、あの地獄からどれほどの想いで生き延びて、ようやく今の平穏を掴み取ったか知っていて言っているのか! あの一家を、また軍の大義だの残党の裏工作だのという争い事に巻き込もうというのかッ!!」
個室の空気がサンダースの怒号でビリビリと震える。
しかし、アエロは真っ直ぐにその怒りを受け止め、悲痛な、しかし揺るぎない眼光のまま頭を下げた。
「……少なからずあの2人を巻き込んでしまうことは、本当に申し訳ないと思っているわ。だけど、これは彼に情報を渡すための、唯一の安全なルートなの。サンダース曹長、お願い。彼女たちが静かに暮らしている山奥の場所を、ソウヤ大尉に教える役目を引き受けて。……もちろん、ただでとは言わないわ。情報を大尉にリークしてくれた『お礼』として、それ相応の、あなたにとっても最上の見返りを用意するわ。」
「見返りだと……? 俺たちの仲間を売るような真似をして、一体何を差し出す気だッ!」
サンダースが拳を握り締め、アエロの胸ぐらを掴まんと迫る。
アエロは逃げることなく、その喉元に言葉の刃を静かに突き立てた。
「――アイナ・サハリンとシロー・アマダ、そして、あの2人の間に生まれたまだ幼い娘。その一家全員を、地球連邦軍の目が絶対に届かない、ルオ商会の息がかかった『世界で最も安全な場所』へ完全に移住させてあげる。戸籍も、暮らしも、すべてを私たちが生涯保証するわ。……連邦の巨大要塞がある土地に、サハリン家の御息女と元連邦の脱走兵をこれ以上置いておく方が、よっぽど危険だと思わない?」
「……っ!?」
サンダースの動きが、完全に凍りついた。 アエロが突きつけてきたのは、脅しでも、汚い金でもなかった。
自分がパトロールを続けながらずっと心の底で案じていた、あの最愛の隊長たちの「本当の安全と未来」そのものだった。
アエロは怒りで身を震わせるサンダースの巨躯を真っ直ぐに見つめ、声を落とした。
「激怒されて当然の提案よね。あなたが今でもシロー・アマダを深く敬愛し、あの家族を命に代えても守りたいと思っている。だからこその、当然の反応よ。」
その悲痛な、しかし嘘偽りのないアエロの表情を見たサンダースは、はらわたを焼き焦がすような怒りを辛うじて抑え込み、ゆっくりと元のレザースツールへと腰を下ろした。
個室の空気が、じっとりとした重い緊張感を取り戻す。
「あの北米のアイロスたちが持ち出した『北米の魔女』の機体……あれはね、一年戦争の時に私の、私の部下たちが命を懸けて駆っていた機体なのよ。」
アエロは組み合わされた指先に白くなるほど力を込め、自らの昏い過去の皮膚を剥ぎ取るようにして語り始めた。
「私たちは過酷な北米の戦場で生き残るために、あの『妖精』の機体を作り上げ、一年戦争を戦い抜いた。その甲斐あって、私が我が子のように愛した部下の娘たちは全員、無事に終戦を迎え、今は故郷のサイド3で普通の女の子として平穏に暮らすことができているわ。」
アエロはそこで顔を跳ね上げ、その端正な顔を涙で濡らしながら、はらわたの底から震える声を絞り出した。
「なのに、あの男はあの機体を持ち出し、最悪のテロの道具として使おうとしている!あの娘達の機体が北米で大量の民間人を巻き込む無差別テロに利用されたら!故郷でようやく平穏を掴み取ったあの娘たちが、実はテロの首謀者で、連邦への反乱分子だったと世界中から疑われ、一生暗闇の檻に放り込まれることになる!私にとって、これ以上ない屈辱と絶望なの!……本当はね、あの娘たちの生きた証である機体を、破壊したくない。だけど、あの子たちの名誉と未来を守るためには、私たちの手で破壊するしか道がないのよ!」
ドサ、と激しい音が個室に響いた。
アエロはレザースツールから崩れ落ちるようにしてテーブルに両手を突き、その額を木目へと激しく擦りつけるほどに深く、深く頭を下げた。
長い金髪が乱れ、涙が古い卓上に点々とシミを作っていく。
「――私の身勝手な都合であることは、百も承知よ!あなたが愛した一家を巻き込むなんて、汚い裏工作だって分かっている!だけど、私は……私は私の命と魂を懸けてでも、自分の大切な部下を、あの娘たちの未来を絶対に守りたいの!だから……だからお願い。私に力を貸して頂戴。……アイナ・サハリンの居場所を、教えて!」
サンダースは微動だにせず、テーブルの向こうで深く頭を下げ続ける女の背中を、じっと見つめていた。その頑強な胸の奥には、かつてシローの「生きるための戦い」に魂を救われたあの日の熱量と、いま目の前の女が放つ「部下を守りたい」という狂おしいほどの愛が、激しくシンクロして響き渡っていた。
サンダースは深く息を吐き出すと、組んでいた頑強な腕をゆっくりと解き、テーブルに額を擦り付けたまま身震いしているアエロを静かに見下ろす。
その巨躯から放たれていた刺すような殺気は、いつの間にか綺麗に消え失せていた。
代わりに宿っていたのは、同じように一年戦争という名の生き地獄を潜り抜け、誰かの「生きたい」という願いのために魂を焦がしてきた、深い共感の眼差しだった。
サンダースはアエロへと静かに尋ねた。
「……一つ、聞かせてくれ。お前が命に代えても守りたいと言ったその娘たちは……、俺にとって、かつてのシロー・アマダ隊長と同じ存在なのか?」
アエロは弾かれたように顔を上げ、涙に濡れた瞳でサンダースを見つめた。
サンダースは目を僅かに細め、自らの人生の核心である第08MS小隊の記憶を重ね合わせるように言葉を紡ぐ。
「あの人はな、軍の規律も、連邦という組織のシステムもすべてを投げ打って、アイナ・サハリンを……たった1人の女性の命と平穏を救うために引き金を止めた。俺たち第08小隊は、そんな少尉の『甘さ』に救われ、生き残ることができたんだ。……お前が今、頭を床に擦り付けてまで守ろうとしているのは、あの時の少尉と同じ、システムに踏み躙られようとしている『個人の未来』なのか?」
アエロは乱れた金髪をそのままに、はらはらと零れ落ちる涙を拭おうともせず、真っ直ぐに頷いた。
「ええ……そうよ。あの子たちは私のすべて。ジオンの栄光なんてどうでもいい、連邦との勝ち負けなんて知ったことじゃない。私はただ……あの子たちの未来を、あの子たちの笑顔を守りたいだけ。それだけが、私の生きる理由よ。」
「……そうか。」
サンダースは、彼女の言葉のなかに一片の嘘も、大義という名の欺瞞もないことを完全に確信した。彼はレザースツールから静かに立ち上がると、190センチを超える巨躯で個室の狭い天井を見上げ、ふっと不器用な笑みを口元に浮かべた。
「ならば、俺が断る理由はどこにもないな。……お前のその、最高に泥臭くて美しい『エゴ』に、俺の意地を賭けて乗らせてもらうぞ、アエロ・ハルピー。」
「アエロ・ハルピーじゃないわ。」
頭を下げていた彼女はゆっくりと顔を上げると、溢れる涙を乱暴に手甲で拭い去り、右手を真っ直ぐに差し出した。
「キリー・ギャレットよ。……ありがとう、サンダース曹長。」
その本名が聞かされた瞬間、サンダースは驚愕した。
だが、すぐに大きな手でその右手を力強く握り返し、固い握手を交わした。
「キリー・ギャレット……!?ジオン公国軍女性エースの『キラー・ハーピー』のキリー・ギャレット少佐だったのか……!」
キリーはかつての自身の二つ名に苦笑を浮かべ、戦後の過酷な隠密生活とルオ商会との契約など、様々な事情から偽名を使わざるを得なかった非礼を実直に謝罪した。
だが、サンダースにとってその釈明はもう不要だった。
連邦軍の軍人である自分に対し、本当の名前を明かした。
その事実だけで、彼女が自分を信頼し、部下のために退路を断つほどの狂おしい「覚悟」を持っていることが、伝わったからだ。
「……事情は分かった。ギャレット少佐、俺からも1つ、頼みがある。……アマダ少尉とアイナ・サハリン、そしてあの2人の小さな娘を、必ずお前たちの言う『安全な場所』へ送り届けてやってくれ。」
「ええ。1年前のあの広場で誓ったように、今度も私の命に代えて、あの家族をエスケープさせてみせるわ。……約束する。私はこれからすぐに、アイナたちの住む山小屋へと向かって事情を説明するわ。」
それを聴いたサンダースは深く頷くと、スツールから身を乗り出し、キリーの耳元へと顔を寄せた。
「なら、キリー。アマダ隊長のところへ行くなら、俺からの『伝言』を預かってくれ。」
サンダースは周囲の静寂にすら悟られぬよう、低く短い声を彼女の耳へと滑り込ませた。
伝言を聴き終えたキリーは、サングラスをかけ直しながら、深く、確信を込めて力強く頷いてみせた。
「……ありがとう、サンダース曹長。この言葉があれば、最初からアイナもシローも私を信用してくれるわ。必ず、その伝言のすべてを伝えるわね。」
「ああ、頼んだ。」
2人はレザースツールから立ち上がり、小さな防音の個室を後にした。
初老のマスターが静かに見守るなか、夜の帳が降りたバーの扉を押し開けて、冷たいラサの夜風のなかへと戻っていく。
路地裏の分かれ道。キリーはもう一度サンダースと視線を交わすと、長い金髪のコートを夜風に翻し、アイナとシローが待つ山奥へと向けて、闇のなかを駆け足で静かに去っていった。
サンダースはその小さくなっていく背中を、街灯の影からじっと見届けると、ポケットに手を突っ込み、自らの城であるラサ基地への帰路をゆっくりと歩き出した。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回はラサに栄転したサンダースの近状と、キリーとサンダースが会い、ソウヤとアマダ一家に会わせる話の回でした。
次回は遂に、08小隊の主人公のシロー・アマダとヒロインのアイナ・サハリンと出会う回になります。
お楽しみに!
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