宇宙世紀0082年
世界中を激震させたジオン残党軍の大規模ゲリラ戦『水天の涙作戦』の終幕からしばらくの時が経ち、地球圏は表面上、穏やかな落ち着きを取り戻しつつあった。
地球連邦政府の影響力が極めて薄い独立経済特区——ニューホンコン。
巨大な高層ビル群がひしめき、夜になれば色鮮やかなネオンが海面を染めるこの混沌とした大都市は、戦火の爪痕など最初からなかったかのように、人々の欲望と膨大な資金を飲み込んで回り続けている。
その喧騒の中、一つの高層オフィスビルの入り口へ向かって歩く男女の姿があった。
ジオン残党軍を率いるカルロス・ボドリゲス。そして、その副官であるヤゴ・チエ中尉だ。
しかし、今日の二人は、あの油と汗に塗れた地下基地や泥臭いジャングルで身に纏っていたジオン公国軍の軍服を着てはいなかった。
カルロスは恰幅の良さを引き締める仕立ての良いダークスーツを粋に着こなし、チエは細身の体型に合わせた知的なビジネススーツに身を包んでいる。肩甲骨まで伸ばした黒髪は今日も後ろで無造作にまとめられ、眼鏡の奥の切れ長の瞳が、ビルのガラスに映る自分たちの「偽りの姿」を冷徹に見据えていた。
「フッ、どうだチエ。戦い方を銃から書類に変えるだけで、随分と上等な衣服が手に入るものだな。」
カルロスがネクタイの結び目を軽く弄りながら不敵に笑うと、チエは感情を表に出さないいつもの涼やかな声で返した。
「……少佐、その冗談はアエロさんの前に取っておいてください。不慣れなスーツで背筋が凝るのは、私も同じですから」
内心でカルロスの慣れないスーツ姿に苦笑しつつも、チエは完璧な秘書のように一歩下がって彼に付き従う。
自動ドアが開き、近未来的なデザインの広大なロビーへと足を踏み入れると、その中央で壁の大型ホログラムモニターを眺めていた一人の美しい金髪の女性が、二人に気づいてヒールの音を響かせながら歩み寄ってきた。
ルオ商会の女性エージェント、アエロだった。
「ようこそ、ニューホンコンへ。親愛なるカルロス隊長とチエ中尉。……いえ、これからはカルロス社長、秘書のチエさんと呼んだ方がしっくりくるかしら?」
アエロは豊かに波打つ金髪を軽くかき上げ、周囲の会社員や警備員に紛れるようにして低く囁くと、大人の余裕を感じさせる不敵な笑みを口元に浮かべた。
「デリーの件が綺麗に片付いて、ルオ商会の重役たちもあなたたちの『手際』に大満足よ。……さあ、商談の席へ案内するわ。我が商会のトップがお待ちかねよ。」
アエロはスマートな身のこなしで綺麗な脚を崩さずに二人を促し、ロビーの奥にあるプライベートエレベーターへと案内を始めた。
全面ガラス張りになった近未来的なプライベートエレベーターが、滑らかに加速しながら上層階へと昇っていく。
「——それにしても、いつ見ても鼻に突く街並みだな。」
カルロスは動き続けるエレベーターの中から、眼下に広がるニューホンコンの景色を見下ろし、皮肉たっぷりに吐き捨てた。
視界の先には、一年戦争という大戦の爪痕など微塵も感じさせない、眩いばかりの巨大な高層ビル群がひしめいている。
地球連邦政府の重税に苦しむ各地のコロニーや、飢えに喘ぎながら残党狩りに怯えるジャングルの同胞たち。
彼らの困窮とはあまりにもかけ離れた、人々の欲望と膨大な資金の匂い。
それらがすべてこの経済特区に集まり、何事もなかったかのように繁栄している現実が、元ジオン軍人であるカルロスの目には、酷く滑稽で歪なものに映っていた。
「あら、手厳しいわね、少佐。」
カルロスのボヤきに反応し、隣に立つアエロが豊かな金髪を揺らしながらフッと大人の笑みをこぼした。
「でも、その鼻に突く街が動かす濁ったお金のおかげで、あなたたちのドムやザクの予備パーツが手に入っているのよ? 私たちみたいな『はぐれ者』が、連邦の目を盗んでまともな服を着ていられるのもね。……それとも何かしら? 札束のベッドよりも、あの油と泥に塗れたジャングルの泥水のベッドの方が、まだ寝心地が良かった?」
アエロの容赦のない、しかし親愛の情がこもった冗談に、カルロスは「ハハハ、一本取られたな」と肩をすくめて笑い飛ばした。
二人はかつて、同じジオン公国軍の制服を着て、戦場という地獄を共にした古い戦友であり、非常に親しい間柄だった。
アエロが今、連邦の支配下でルオ商会のエージェントという「表の顔」を持って暗躍できているのも、カルロスが地上で牙を研ぎ続けているのも、すべてはスペースノイドの未来を繋ぐための役割分担に過ぎない。
「アエロ、お前の言う通りだ。損得勘定で動く商人どもの懐に潜り込むのは業腹だが、組織を末永く存続させるためなら、俺はいくらでも悪魔と握手をしてやるさ。」
カルロスは日本刀の代わりに、仕立ての良いスーツのポケットに手を入れ、不敵に目を細めた。
「ジオンの栄光を叫んで玉砕する兵士たちを見るのは、もうたくさんだ。我々が地上で消えない『抑止力』であり続けるためには、どうしてもルオ商会の力が必要になる。」
『水天の涙作戦』の爆炎が消え去った今、カルロスが見据えているのは、数年、あるいは数十年先の未来だった。エレベーターが最上階へと近づくにつれ、親しい間柄だった二人の空気は、静かに、しかし冷徹なプロの軍人とエージェントのそれへと戻っていった。
チィン、と電子的なチャイムが鳴り、目的の最上階へ到着したエレベーターの扉が左右に開いた。
その瞬間、カルロスとチエの二人は、目の前に広がった予想外の光景に思わず息を呑み、言葉を失った。
そこにあったのは、下層階のロビーで見られたような、ガラスと金属で構成された冷たく近未来的な空間ではなかった。
一歩足を踏み入れれば、まるで歴史のうねりを逆行して数百年前に迷い込んだかのような、重厚で豪奢な古い中華式のレイアウトが施されていたのだ。
「……ほう。近未来のビルの中に、これほど古風な城を築いているとはな。」
カルロスがダークスーツのポケットから手を抜き、感心したように呟く。
赤漆と黒檀の柱が整然と立ち並ぶ通路の壁には、幽玄な山々や激しく流れる大河、そして雲海を往く仙人たちの姿が緻密な筆致で描かれた、巨大な水墨画の掛け軸がいくつも飾られている。
空気には、どこか心を落ち着かせる、微かな白檀の香香の匂いが漂っていた。
アエロはヒールの音を静かに響かせながら、驚く二人を先導して通路の奥へと進む。
チエは眼鏡の奥の切れ長の瞳を鋭く走らせ、その中華式の意匠が単なる成金趣味ではなく、ルオ商会という組織が持つ、宇宙世紀においても決して絶えることのない伝統と、強大な「裏の歴史」の重みを体現しているのだと直感していた。
通路を抜けた先にある大広間へ入ると、二人の視線は、その中央に鎮座する圧倒的な象徴へと吸い寄せられた。
大広間の壁一面に、畏怖を覚えさせるほどのスケールで、陰と陽の調和を示す巨大な太極図が飾られていたのだ。
黒と白の円が組み合わさったその意匠は、宇宙の万物が流転し、表の合法と裏の非合法が常に表裏一体となって回っているニューホンコンの歪なパワーバランスそのものを表しているようだった。
「驚いたかしら? ここがルオ商会の真の『心臓部』よ。」
アエロが金髪を軽く揺らして振り返り、不敵に微笑む。
巨大な太極図が飾られた大広間の奥から、静かに、しかし圧倒的な貫禄を纏った一人の男が姿を現した。男が身に纏っているのは、深みのある藍色の長衫(チャンシャン)。灰色の短髪を無造作に立たせたその姿は、一見して極めて厳つい印象を周囲に与える。額や目尻には幾重もの深い皺が刻まれており、刻んできた年齢の重みを感じさせる精悍な顔立ちをしていた。太く濃い灰色の眉毛の下にある、鋭く細められた目が非常に印象的で、ただそこにいるだけで周囲に睨みを利かせるような、硬く、冷徹な表情を浮かべている。通った鼻筋の下の口元は真一文字に結ばれ、全体から放たれる威圧感と巨万の富を動かす政商としての貫禄は、見る者を気圧すに十分な容貌だった。
先ほどまでカルロスと冗談を交わしていたアエロの空気が、一瞬で引き締まる。
彼女は豊かな金髪を伏せ、その人物に向けて最大級の敬意を込めた丁寧な挨拶をした。
「ルオ・ウーミン会長、カルロス少佐と副官のヤゴ中尉をお連れしました」
カルロスたちの目の前に現れたその初老の男こそ、地球連邦政府の内部にまで深く根を張り、宇宙世紀の歴史を裏から操る巨大政商、ルオ商会の最高権力者——ルオ・ウーミンその人であった。
「……っ」
百戦錬磨の指揮官であり、数々の死線を潜り抜けてきたはずのカルロスが、思わず拳を握り締め、武者震いをした。
戦場でモビルスーツの銃口を向けられるのとは全く違う、人間の放つ絶対的な「権力」と「器」の重圧が、彼の肉体を本能的に緊張させたのだ。
そして、隣に立つチエは、あまりの威圧感の前に完全に畏縮していた。
冷静沈着で頭脳明晰、感情を滅多に表に出さない彼女の指先が、スーツの裾の裏で僅かに震える。日系人としての誇りも、このニューホンコンを牛耳る帝王の鋭い眼光の前では、剥き出しの恐怖へと変えられていく。
ウーミン会長は藍色の長衫の袖を静かに払い、太極図の前に置かれた重厚な黒檀の椅子へと腰掛けた。鋭く細められた冷徹な瞳が、値踏みするようにカルロスとチエを真っ直ぐに射抜く。
張り詰めた沈黙が流れる中、ウーミン会長は口元を真一文字に結んだまま、顎で対面の席をかすかにしゃくった。
「……よく来たな、ジオンの狼達よ。――掛けなさい、カルロス少佐。……そこのヤゴ中尉も。」
低く地響きのような威厳に満ちた声が、大広間に重々しく響く。
「失礼します、会長。」
カルロスは武者震いを強固な意思で抑え込むと、ウーミン会長の正面にある重厚な椅子へと腰掛けた。
隣のチエも、畏縮して強張る身体をどうにか動かしながら、失礼のないよう細身の身体を椅子に深く沈める。
2人が席に就いたのを確認すると、アエロもまた、無駄のない流れるような動作でウーミン会長のすぐ横の席へと腰を下ろした。
巨大な太極図が見下ろす広大な空間で、テーブルを挟んで完全に向き合った4人。
卓上の端末が静かに起動し、周囲の明かりがわずかに落とされる。太極図の威容を背負ったルオ・ウーミン会長は、真一文字に結んでいた口元をわずかに緩め、重厚な声を響かせた。
「実に見事だった。カルロス少佐。貴官がデリー基地で見せた手際……あれは単なる軍事作戦ではない。極上の『商談』を見せてもらった気分だったよ。」
巨万の富を動かす最高権力者からの直々の称賛。
しかし、カルロスは決して浮足立つことなく、仕立ての良いスーツの襟元にそっと手を添え、極めて理性的で謙虚な対応に終始した。
「恐れ入ります、ウーミン会長。ですが、過分なお言葉です。私はただ、泥を啜る残党軍を率いる一介の指揮官に過ぎません。今回の勝利も、天の利と、死力を尽くしてくれた部下たちの働きがもたらした偶然の産物です。」
カルロスのその驕らない態度を見据え、ウーミン会長は太く濃い灰色の眉をぴくりと動かした。
睨みを利かせたような鋭い瞳の奥に、確かな知的関心の光が宿る。
「フン、謙遜はいらんよ、少佐。私が称賛しているのは、戦闘の規模や撃破した数ではない。貴官の戦術に仕込まれた『ロジック』だ。」
ウーミン会長は藍色の長衫の袖から精悍な手を出し、指を一本立てて冷徹に分析を始めた。
「第一に、敵の慢心を突いたタイミング。デリー基地が前の戦闘の勝利に酔い、残党狩りのために兵力を分散させたその瞬間を、針の穴を通すような正確さで突いてみせた。守りが最も堅いはずの本陣の、最も脆い瞬間を的確に穿つ勘。これは凡百の指揮官にできることではない。」
さらにウーミン会長は細められた目をさらに鋭くし、カルロスの本質を見抜くように言葉を続けた。
「そして第二に、何よりも素晴らしいのは、引き際の美しさとその後の『処理』だ。強奪という目的を達するや否や、ハノイからの増援が到着する前に完璧に撤退し、追撃を阻むトラップまで仕掛けておいた。それだけではない。貴官は、全世界を巻き込んだインビジブル・ナイツの『水天の涙作戦』という大局を、己の隠れ簑に完璧に利用した。」
ウーミン会長は卓上の端末を軽く叩き、月のマスドライバー占拠のホログラムデータを空間に浮かび上がらせた。
「連邦の官僚どもは身内の不覚を隠したがる。貴官の読み通り、彼らはデリー基地の壊滅を、すべてエリク・ブランケの罪として書類上に収め、彼に極刑を言い渡した。おかげで貴官たちの部隊は、連邦の公式記録から完全に『煙』のように消え去った。……自らの手を一切汚さず、連邦の面子を利用して完全犯罪を成立させたその知略。これほどルオ商会の『実行部隊』にふさわしい牙は、地球圏中を探しても他にはいないのだよ」
ウーミン会長の理路整然とした、かつ圧倒的なまでの絶賛。
その冷徹な戦術分析を静かに聞いていたチエは、隣で息を呑みながらも、カルロスという男の恐るべき格の違いを、改めて肌で感じていた。
ひと通りの絶賛を終えたウーミン会長は、太く濃い眉の下の瞳をさらに細め、探るような冷徹な視線をカルロスに注いだ。
「――ひとつ、質問がある、カルロス少佐。」
地響きのような声が黒檀のテーブルを揺らす。
「そのインジビブル・ナイツの若造……エリク・ブランケを利用し、デリー陥落の罪のすべてを背負わせようと思いついたのは、一体いつ頃だ?」
ウーミン会長の鋭い問いかけに対し、カルロスは表情を変えないまま、隣に座るアエロへと静かに視線を向け、目配せをした。
(アエロ、お前のところのトップはどこまでこちらの意図を見抜いている?)
アエロは豊かに波打つ金髪を僅かに揺らし、観念して正直にすべてを話すようにと、目で静かに合図を返してきた。
カルロスはフッと不敵な笑みを深くすると、スーツのボタンを外し、ウーミン会長を真っ直ぐに見据えて答えた。
「――『水天の涙作戦』が実行されると、最初にアエロから耳にしたその瞬間から、私はエリク・ブランケ少佐を利用しようと考えていました」
「ほう……」
ウーミン会長の精悍な顔に、刻まれた深い皺がぴくりと動き、確かな感心の光が宿った。
カルロスはコンソールを叩くチエの指先が止まるほどの冷徹なトーンで、ジオンの同胞たちの「若さ」を切り捨ててみせた。
「月のマスドライバーを占領し、巨大な質量兵器で地球連邦政府を脅して交渉の席に着かせる……。フッ、実に見事な大義名分ですが、あまりにも非効率的であり、いかにも若手将校が好きそうなロマンチックな筋書きに過ぎません。あまりに大博打すぎて、戦術的に失敗する確率が高すぎた。」
カルロスは黒檀の椅子に深く背を預け、冷ややかに言葉を繋ぐ。
「何より、あの傲慢な連邦政府が、たかが一発や二発の岩石を落とされたくらいで、残党の若造どもと『対等な立場』で大真面目に交渉の席に座るなど、あり得ない。彼らは面子のためなら、地球が半分壊滅してでも組織の面子を守る連中です。最初から破綻している作戦だったのですよ。」
カルロスの放った理路整然とした、かつ同胞への情を一切排除した冷徹な現実主義。
それは、ただのジオンの栄光に縋る残党兵ではなく、歴史の勝者である連邦の「組織としての本質」を完璧に見抜いている本物の軍師の言葉だった。
ウーミン会長の睨みを利かせたような硬い表情が、ここで初めて、心底満足そうな深い笑みへと変わっていった。
「――なので、大いに利用させてもらったというわけです。」
カルロスは黒檀の椅子の背にもたれかかり、何でもないことのように言葉を繋いだ。
「エリクの部隊が、ここ東南アジアのジオン残党補給基地へ立ち寄るという情報を掴んだ時、すべてが繋がりました。あの臆病な基地司令官が奥底に死蔵していたモビルスーツを、混乱に乗じて、強奪するために。フィジー諸島で潜伏していたフレッドをアエロに頼んで、イフリート・ナハトの『影武者』として呼び寄せました。彼には、強奪した機体のうち1機を譲渡する条件に、陽動の手伝いをしてもらったのです。案の定、エリク達の派手な動きに釣られて補給基地は絶好の戦場となり、私の計画通りに強力なMSを無傷で奪うことができました。」
ウーミン会長は太く濃い灰色の眉を僅かに動かし、深く、感心したようにカルロスの言葉に耳を傾けていた。
ただの残党の暴発だと思われていた一連の事件の裏で、これほど緻密な、他人の作戦すらも自分の兵站の駒として組み込む冷徹な計算があったとは。
「では、あのデリー基地の強襲も予定通りだったかね?」
ウーミン会長の鋭い問いに、カルロスはフッと肩をすくめて首を横に振った。
「いえ。デリー基地の件に関して言えば、それこそ本当に『幸運な偶然』です。エリクが地球各地の残党に対し、陽動のためのゲリラ活動を要請したと聞いた瞬間、これ以上のタイミングはないと確信したのです。連邦軍は世界中に分散した残党の火消しに追われ、戦力と注意力が完全に散漫になる。東南アジア方面の絶対的な心臓部を襲うなら、この瞬間しかない……とね。」
カルロスはネクタイを軽く緩め、真一文字に結ばれたウーミン会長の口元を真っ直ぐに見据えた。
「そもそも、地球に大質量兵器を落とすなど、最初から悪手中の悪手なのです。プロパガンダとしては派手でインパクトがあり、大衆に強烈な恐怖を植え付けることはできるでしょう。……ですが、それは同時に、取り返しのつかない根深い『禍根』を残すことになる。」
カルロスは低く、凄みのある声で言葉を落とした。
「例えるなら……旧時代における、広島と長崎の核爆弾のようなものですよ。一瞬の破壊で恐怖を植え付けたつもりでも、結果として残ったのは、数世代にわたって消えることのない絶対的な『憎悪』だけ。そんなロマン主義に付き合う気は、私にはありません。」
広島と長崎。地球の歴史に刻まれた最悪の悲劇を例えに出したカルロスの言葉に、ウーミン会長は細めた瞳の奥で、激しい衝撃と、それを遥かに上回る最大級の歓喜の光を走らせた。
(普通のジオン残党とは、見ている地平が完全に違うな。)
ジオンの栄光という過去の幻影に縋り、無差別なテロや玉砕を繰り返す狂信的な残党兵たち。
だが、目の前にいるカルロスという男は、歴史の勝者である連邦の官僚心理を冷徹に分析し、大局的な政治の損得勘定と未来への影響までをも見据えて戦う、本物の『狼』だった。
ウーミン会長は黒檀の机をバン、と叩くと、額の深い皺を深く刻みながら、心底満足そうに笑みを浮かべた。
連邦という独裁的な怪物の喉元へ、ルオ商会の名前を一切汚さずに「見えない牙」を突き立てられる最高の実行部隊。
その指揮官として、カルロス・ボドリゲスはこれ以上ない、完璧な合格点に達していた。
「広島と長崎、か。……よもや、ジオンの残党を名乗る男の口から、旧世紀の歴史の本質を突いた言葉を聞くことになるとはな。」
ルオ・ウーミン会長は太く濃い灰色の眉を深く寄せ、鋭く細められた目の奥に、これ以上ないほどの深い満足の光を宿らせた。
無差別なテロや玉砕の美学に酔いしれる、他の有象無象の残党どもとは格が違う。
このカルロス・ボドリゲスという男は、戦いの引き際と、その後に生じる政治的な損得勘定までをも完璧に計算できる本物の傑物だと、ウーミン会長は完全に確信した。
そのウーミン会長の様子を見て、カルロスは仕立ての良いダークスーツの襟元にそっと手を添え、不敵な笑みを口元に浮かべながら静かに頭を下げた。
「満足されて、何よりです。会長。」
慇懃(いんぎん)でありながら、決して対等な立場を崩さないカルロスの会釈。
ウーミン会長は黒檀の椅子に深く背を預けると、藍色の長衫の袖から精悍な手を出し、単刀直入に本題を切り出した。
「これほどの手際と頭脳を持つ貴官が、わざわざルオ商会の心臓部へ足を運んできたのだ。ただの物資の横流しが目的ではあるまい。……カルロス少佐、お前は我がルオ商会に、一体何を求める?」
最高権力者からの直接の問いかけ。カルロスは椅子から僅かに身を乗り出し、その鋭い眼光を真っ直ぐにウーミン会長へと向けた。
「我が隊の希望は一つです。ウーミン会長、我々をルオ商会の傘下に入れ、この組織を『末永く存続』させてほしい。」
「存続、だと?」
ウーミン会長は、太く濃い灰色の眉をぴくりと動かした。
「具体的には、我が商会に何をさせ、どのような形での存続を望むのかね?」
カルロスの思想の「核」を試すようなウーミンの問い。
カルロスは日本刀の代わりにスーツの内ポケットへと手を滑らせ、そこに忍ばせていた書類の存在を意識しながら、冷徹にして完璧な着地点を言い放った。
「――ルオ商会傘下の、極秘の『民間軍事会社(PMC)』に起用していただきたい。」
PMC。
それは、連邦の公式記録から完全に「存在を消された」カルロス隊が、潤沢な商会の資金と裏ルートの兵站を受け取り、連邦の喉元に刃を突き立てたまま半永久的に生き残り続けるための、最高にして唯一の合法的隠れ簑だった。
カルロスが放ったその明確な要求に対し、ウーミン会長は太い灰色の眉の下にある、鋭く細められた目をさらに細くし、試すような冷徹な問いを重ねた。
「面白い提案だが、カルロス少佐。君はジオンの軍人だろう。ジオンの理想やスペースノイドの大義を示すため、あのエリク・ブランケのように命を賭して公に蜂起する道は選ばないのかね?」
ジオン公国の軍人としての忠誠と誇りを問うウーミンの言葉。
しかし、カルロスは仕立ての良いダークスーツの胸元を正しながら、静かに、そしてきっぱりと首を横に振った。
「確かに、大衆に自分たちの存在を認識させるという意味では、エリクたちがやったような派手なパフォーマンスも一概に無駄とは言いません。……ですが、私の考えは根本から違います。」
カルロスはそこで言葉を少し溜め、太極図の前に座るウーミンの目を真っ直ぐに見据えて言い放った。
「私は、自分たちが『存在し続けること』で、連邦に対する終わりのない抑止力になりたいのです。」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、それまで冷徹な仮面のようだったウーミン会長の目が、驚愕によって微かに、しかし確かに見開かれた。
巨万の富と権力を動かし、あらゆる人間の欲と大義名分を見飽きてきた老政商の心が、明確に揺さぶられた瞬間だった。
「自分たちが消えずに存在し続けるということは、連邦政府にとって、永遠に消えないシミや汚れのようなもの。連邦という巨大な組織は、そのシミを無視することができないからこそ、常にその存在を注視し続けなければならなくなる。」
カルロスはフッと自嘲気味な鼻笑いを漏らし、歴史の冷酷な現実を言葉に変える。
「そもそも、私たちスペースノイドは、先の一年戦争で勝利を収められなかったあの時点で、独立を勝ち取れる可能性のほとんどを既に失ってしまったのです。ジオンは勝つべき時に勝てなかった。ならば——勝てないからこそ、私たちは絶対に『消えない』ことです。」
カルロスの放つ、徹底的な現実主義に基づいた戦術思想。
「連邦の支配下にあってなお、ジオンの牙が今も健在であると絶え間なく示し続ける。生きて歴史の足枷となり、スペースノイドを過度に弾圧させないための『消えない抑止力』となる。そのためになら、私は玉砕の美学など喜んでドブに捨ててみせますよ、会長。」
勝てないからこそ、永遠に消えないシミとなって相手を縛り続ける。ジオンの栄光を叫んで自爆していく有象無象の残党兵とは一線を画す、カルロスという男の底知れない知略と軍人としての異質な執念。ウーミン会長は、驚きから静かに感服の息を漏らし、黒檀の椅子に深く背を預けた。
ルオ商会という「表と裏」を回す組織のトップとして、これほど頼もしく、これほど不気味で完璧な『見えない牙』は他になかった。
「ハハハ……! 勝てないからこそ、消えない、か。実に見事な合理主義だ。」
ルオ・ウーミン会長は、太く濃い灰色の眉を大きく動かし、深く、心底から満足そうに喉を鳴らした。
彼はカルロスという男を完全に気に入っていた。
とりわけ、その口から出た『末永く存続させる』という一言が、老政商の胸にこれ以上ないほど深く刺さっていたのだ。
ウーミン会長は細めた瞳の奥に鋭い知性を光らせ、藍色の長衫の袖を払って姿勢を正した。
「気に入ったよ、カルロス少佐。貴官が下手に大義を叫んで連邦に噛みつく、ただの狂信的な残党ではないということがよく分かった。……私としてもな、我がルオ商会の傘下に加える者が、見境なく吠え散らかす狂犬のようでは困るのだよ。ビジネスというものは、互いに理性を持ち、引き際を弁えた者同士でしか成立せんからな。」
その言葉を聞いた瞬間、それまで完璧なポーカーフェイスを維持していたカルロスの口元に、不敵な確信の笑みが浮かび上がった。
「では……」
「ああ、良かろう。」
ウーミン会長は卓上の情報端末に手を置き、睨みを利かせるような精悍な顔立ちのまま、力強く頷いた。
「貴官らの牙と知略、我がルオ商会がすべて買い取ろう。これより貴官らは、公式記録から抹消された幽霊部隊——我が商会お抱えの、極秘の『民間軍事会社』だ。」
これで、カルロス隊の永続的な生存は完全に保証された。
隣に座るチエが、スーツの裾を握る手からようやく安堵で力を抜く。
しかし、ウーミン会長の鋭い眼光は、決して彼らをただ匿うための慈善事業で囲うわけではないことを示していた。
「カルロス少佐。この先、地球圏の争いは間違いなく、より激しく、より歪な形で再燃する。……貴官の言う通り、あのエリク・ブランケの起こした大騒乱が、何よりの証拠だ。」
ウーミン会長は巨大な太極図を見上げ、冷徹に未来の年表を予言した。
「連邦の官僚どもは驕りからスペースノイドへの抑圧をさらに強め、それに対する不満の火種は決して収まらん。遠くない未来、必ずまた新たな戦乱が起きるだろう。……ならば、ルオ商会としても、その激動が起きた時に『最低限対処できるだけの力』は、手元に蓄えておく必要がある。それが、このニューホンコンを永く回し続けるための、私たちの防衛戦術だ。」
「——よく分かります、会長。そのために、私たちはルオ商会の『見えない矛と盾』になりましょう。」
カルロスは席を立ち、新時代の戦士としての冷徹な一礼を捧げた。
その後、テーブルの上にルオ商会が用意した民間軍事会社設立に関する複数の書類が滑るように並べられた。
カルロスは胸ポケットから万年筆を取り出すと、一切の躊躇なく自身のサインを走らせた。ウーミン会長もまた、藍色の長衫の袖を払って精悍な手で自らの署名を書き込んでいく。
書類が揃い、契約が正式に結ばれた瞬間、2人は互いの目を真っ直ぐに見据え、言葉はなくとも互いの意図をすべて理解したかのように、力強く、固い握手を交わした。
「期待しているよ、カルロス社長。」
「お任せください、ウーミン会長。」
短い別れの挨拶を交わし、カルロスとチエはウーミン会長のいる大広間を後にした。
通路を先導するアエロに連れられ、2人は再びあの全面ガラス張りのプライベートエレベーターへと乗り込む。
ガシャ、と重厚な電子ロックが掛かり、エレベーターが下層階へと滑らかに下降を始めた瞬間。
それまで完璧な秘書として張り詰めていたチエが、大きく肩の力を抜き、深く、長くため息を吐き出した。
その額には、うっすらと冷や汗が浮かんでいる。
「……ハァ。生きた心地がしませんでした。さすがは連邦の内部にまで根を張る政商のトップですね。連邦兵に銃口を向けられるより、何倍も心臓に悪いです。」
チエが眼鏡のブリッジを押し上げながら本音を零すと、隣に立つアエロもまた、豊かな金髪をかき上げながら、苦笑混じりに同意した。
「本当よ。私も会長の横に座っていて、途中で息をするのを忘れそうだったわ。チエ中尉……いえ、チエ秘書殿、よくあの重圧の中で気絶しなかったわね。普通の人間なら、あの鋭い眼光で見下ろされただけで、一言も喋れずに引き下がっているところよ」
「アエロ、お前も大げさだな。」
2人の冷や汗ものの振り返りを聞きながら、カルロスはスーツのネクタイを少しだけ緩め、楽しそうに鼻笑いを漏らした。
「ウーミン会長はただの老人ではない。人間の欲と大義の裏表を見尽くした本物の怪物だ。だからこそ、こちらの『理性』と『存続への執念』を提示すれば、必ずビジネスとして乗ってくると分かっていたさ。」
「少佐はそう仰いますけれど、あの『広島と長崎の核爆弾』を引き合いに出した時は、聞いていて本当に血の気が引きました。」
チエは呆れたようにカルロスを睨みつけたが、その切れ長の瞳の奥には、やはりこの型破りな指揮官への絶対的な信頼が戻っていた。
「おかげで俺たちの存在は、連邦の目から完全に消えた。今の俺達は合法的なPMCとして生まれ変わったんだ。アエロ、基地で待っている先生とキャノコたちにも、この最高の結果を早く伝えてやろう。」
「ええ、喜んで案内するわ、社長。商会からの最初の補給物資と、新しい偽造IDも、すでに基地に持っていてあげる。」
チィン、と軽快な電子音が鳴り、エレベーターが1階のフロアへと到着した。
左右に開いた扉から、カルロス、チエ、そしてアエロの3人が大理石の床へと降り立つ。ロビーを行き交う会社員たちの喧騒が、先ほどまでの極秘空間が現実だったことを一気に引き戻してくる。
「さて、社長。新しい偽造IDの登録や、ハンガーへの物資の搬入スケジュール、やることは山積みよ。私はここで失礼して、裏のセッティングに回るわ。」
アエロが豊かな金髪を指先で軽くはね上げ、エージェントらしい引き締まった笑みを浮かべた。
「ああ、頼むよアエロ。すべてが終わったら、基地で落ち合おう」
「了解しました、アエロさん。手配、よろしくお願いいたします。」
カルロスとチエが短く応じると、アエロはヒールの音を軽快に響かせながら、ロビーの雑踏の奥へと鮮やかに姿を消していった。
残されたカルロスとチエの2人は、そのまま自動ドアをくぐり、高層ビルの外へと出た。
ニューホンコンの街には、相変わらず生温かい海風と、行き交う電気自動車の駆動音が満ち溢れている。
命がけの商談を見事にまとめ上げ、新しい組織の「盾と牙」になったカルロスは、仕立ての良いダークスーツのボタンを外し、大きく伸びをしながら隣の副官へと向き直った。
「ふぅ……。チエ、まずは最大の難所を越えたな。貴官の完璧なサポートのおかげだ。……どうだ、大事な商談も終わったことだし、君の労をねぎらうために、これから美味いものでも食うか、それとも買い物にでも行かないかい? 私がいくらでも付き合うぞ。」
「買い物、ですか……。そうですね。少佐の奢りというのであれば、デパートへ行きたいです。」
チエが眼鏡の奥の切れ長の瞳をわずかに細め、淡々と言い放った。
カルロスは一瞬、意外そうな顔をして目を丸くする。
普段の彼女なら、兵器のデータ解析や新しい潜伏先の選定にしか興味を示さないからだ。
「デパート、ねえ。チエ、君がそんな場所に行きたがるなんて珍しいじゃないか。一体どう風が吹いたんだ?」
カルロスが不思議そうに尋ねると、チエは感情を表に出さない冷徹なトーンのまま、とんでもない依頼内容を口にした。
「……実は、隠れ家を発つ前に、妹分のキャノコ軍曹から買い物を頼まれましてね。彼女の愛用している『ピンクの下着』を、ニューホンコンの上等なデパートでいくつか新調してきてほしい、と。——ええ、もちろん、すべてカルロス社長のマネーで、お願いします。」
「………………っ!?」
カルロスは絶句した。
恰幅の良い体躯を硬直させ、思わず片手で自分の顔を覆い隠す。
「チ、チエ……! 男の、それも上官である私に向かって、そんな破廉恥な買い物の報告をするんじゃない……!」
あの連邦軍のアジア方面本部をたった8機で叩き潰し、ルオ・ウーミン会長の重圧すらも知略で撥ね退けた稀代の戦術家が、18歳の少女の下着の色の前で、完全に狼狽して呆れ果てていた。
「少佐、私たちはもう軍人ではなく『民間企業』の社員です。社長が部下の福利厚生に私費を投じるのは、当然の義務かと思いますが?」
チエは眼鏡の位置をクイと直すと、内心でカルロスのうろたえぶりに大真面目な顔で苦笑しつつ、さっさと歩き始めた。
「ハァ……。まったく、戦場よりも手強いな、我が隊の女性陣は……。」
カルロスは天を仰いで盛大なため息を吐くと、渋々、チエの容赦のないお買い物ツアーに付き合わされるのだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この話からは年代が宇宙世紀0082年になります。
「水天の涙作戦」と「星の屑作戦」の中間に位置する年になります。
この話では、星の屑作戦の要素に続く内容や、まさかの人物達が登場したりするので、お楽しみください。
カルロスはエリクに罪を着せて、ルオ商会の傘下の民間軍事会社になったので、連邦軍でも容易にカルロス達を捕まえることが出来なくりましたね。
いやー、カルロスはずるい奴ですね(笑)
そして、ヤゴ・チエ中尉の天然爆弾発言(笑)
楽しんでいただけたら、なによりです。
ではでは、次の話もよろしくお願いいたします。
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