地下要塞の厳重なセキュリティゲートを抜けると、ひんやりとした、しかしどこか神聖で澄み切った空気が二人を包み込んだ。
ソウヤとエミリアは、基地から支給された寒冷地仕様の冬用コートの襟を立て、並んでラサの街へと歩み出る。
標高三千六百メートルを超える高地に広がるラサの街並みは、遥か上空で絶え間なく響く連邦軍の建設重機の音をよそに、古の美しさを色濃く残していた。白壁の家屋が整然と連なり、陽光を浴びて赤と金色に彩られた寺院の屋根が眩いほどの光を反射している。
風が吹くたびに、どこからか巡礼者たちの静かな祈りの声や、伝統的な香の香りがかすかに漂ってきて、ここが鉄とコンクリートの戦場ではないことを教えてくれた。
並んで歩き出したものの、お互いに好意を抱く奥手な二人だ。
ノアたちに半ば強引にお膳立てされた「二人きりの散策」というシチュエーションが頭を離れず、最初の数十メートルは言葉もなく、ただぎこちなく歩調を合わせることしかできない。
そんな沈黙を破るように、エミリアがコートのポケットに手を入れたまま、ソウヤの顔を覗き込んできた。
「……あの、タカバ隊長。最初は、どこから回ってみましょうか?」
「ええと、そうだな……。」
ソウヤは足を止め、視線をあちこちに彷徨わせながら悩んだ。
世界遺産のポタラ宮を見上げるビューポイントに行くべきか、それともノアたちが向かった賑やかな土産屋街を避けて静かな寺院の周辺を歩くべきか。
作戦立案よりも難しい難題に、若き指揮官の脳細胞がフル回転する。
――グゥゥ……。
その時、静かな高地の風に混ざって、なんとも可愛らしい、けれど主張の激しい重低音が二人の間に響き渡った。
「…………え?」
ソウヤが瞬きをして、音の生じた出処――エミリアのお腹のあたりを見つめる。
エミリアは一瞬で動きを止めると、ロボットのようにぎこちなく自分の腹部を手で押さえた。
「あ……」
ブレックス准将との緊迫した面会、さらに競技会の複雑なルールや強敵たちの説明に集中するあまり、二人はすっかり失念していたのだ。
ハノイを出発してから、まともな昼食をとっていないという事実に。
「あはは……。そういえば、准将との話し合いが長引いて、お昼ご飯を食べていなかったな。」
ソウヤが優しく微笑みながら言うと、エミリアは耳の裏まで一気に真っ赤に染め上げた。
恥ずかしさと照れくささで涙目になりながら、コートの襟に顔を埋めるようにして俯いてしまう。
「は、恥ずかしいです……! 隊長の前で、こんな……っ」
「そんなに恥ずかしがらなくて大丈夫だよ。俺だって、エミリアのお腹の音を聞いたら急に空腹を思い出してきたくらいだ。まずはどこか、お店に入して食事をしよう。ノアたちが言っていたチベット料理の露店を探してみるのもいいしね。」
ソウヤのいつもの飾らない穏やかな言葉に、エミリアは真っ赤な顔のまま、けれど救われたようにコクリと小さく頷いた。
「……はい。そう、ですね。まずは、食事に行きましょう、隊長。」
お腹の虫という日常のハプニングのおかげで、二人の間を包んでいたガチガチの緊張は綺麗に霧散していた。
エミリアはまだ少し頬を上気させたまま、けれど嬉しそうにソウヤの半歩後ろに寄り添い、二人は美味しい匂いのする市場の通りを目指して、楽しげにラサの街を歩き進めるのだった。
賑やかな露店が立ち並ぶ市場の通りを歩きながら、二人はどこか素朴で落ち着いた佇まいの一軒の飲食店を発見した。
木造の重厚な看板には、チベットの伝統的な幾何学模様が刻まれており、小綺麗に整えられた窓からは温かみのあるオレンジ色の灯りが漏れている。
地元の巡礼者たちが数人、のんびりと食事を楽しんでいる様子が外からも見え、ここなら落ち着いて食事ができそうだと二人の意見が一致し、中へ入ることにした。
店内は、外の肌寒い風が嘘のように、暖房の熱気と美味しい油の匂いで満たされていた。
赤漆塗りの柱や手織りの絨毯が飾られた内装は、どこか家庭的で心地よい。
壁際にはスパイスの瓶が並び、厨房からは肉がジュージューと焼ける食欲をそそる音が響いていた。
二人が入り口で立ち止まっていると、エプロンをつけた気さくな雰囲気の店員が、朗らかな笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃい! 空いている席ならどこでも自由に座っていいよ。」
「あ、ありがとうございます。」
ソウヤとエミリアは礼を言うと、窓際の少し奥まった、落ち着ける空いている二人掛けの席に腰を下ろした。
ソウヤは卓上に置かれていた木製の手書きメニューを手に取ると、それを少し緊張した面持ちのエミリアの前へと滑らせ、先に選ぶように促した。
「エミリア、まずは君から先に選んでくれ。何が食べたい?」
「えっ? い、いえ、隊長から先に決めてください。私は後で構いませんから。」
エミリアは恐縮して遠慮しようとしたが、ソウヤはいたずらっぽく微笑み、首を横に振った。
「こういう時はレディーファーストだよ。それに、さっきの一件もあるからね。遠慮せずに、一番食べたいものを頼んでくれ。」
「う……っ」
さっきのお腹の音を優しく引き合いに出され、エミリアは再び頬を林檎のように赤くしながらも、ソウヤのその気遣いが嬉しくて素直に甘えることにした。
「……ありがとうございます、タカバ隊長。じゃあ、お言葉に甘えて。」
メニューに視線を落とし、チベットの伝統料理の並びを眺める。
エミリアは少し悩んだ末、ハノイを出発する前にノアたちも噂していたチベットのソウルフードに目を留めた。
「それじゃあ、私はこの手作りのモモにします。皮がもちもちしていて美味しいって有名らしいですから。あと、温かいバター茶も。」
食べる物を決めたエミリアは、メニューをソウヤへと両手で丁寧に渡した。
「決まりました。はい、隊長もどうぞ」
「ありがとう。どれどれ……」
メニューを受け取ったソウヤは、ページをめくりながら自分の料理を選び始める。
エミリアのお腹の音で自分自身の猛烈な空腹を思い出した若き指揮官は、長旅の疲れを吹き飛ばすような、がっつりとした料理を探した。
そして、高原の力強い肉料理と手打ち麺のページで目が留まる。
「よし、僕は手打ち麺を野菜と肉で香ばしく炒めたチベット風焼きそばの『トゥクパ・ングマ』。それと、せっかくだからこの『ヤク肉のステーキ』も追加で頼もう。かなり食べ応えがありそうだ。」
「ふふ、本当にがっつりしたメニューですね。でも、隊長にはそれくらい食べてもらわないと。」
エミリアの楽しげな笑顔に、ソウヤは「そうだな」と笑いながら手を挙げ、近くを通りかかった店員に声を掛けた。
「すいません、注文をお願いします」
「はいよ、何にしようかね?」
ソウヤはエミリアの頼んだモモとバター茶、そして自分が選んだトゥクパ・ングマとヤク肉のステーキをテンポよく伝えた。
「はい、モモに焼きそば、ヤクステーキとバター茶ね! すぐに作るから待ってな!」
店員はテキパキとメモを取ると、威勢よく了解し、そのまま足早に注文を厨房へと伝えた。
調理場の火力が上がり、さらに美味しそうな香りが席まで漂ってくる。
注文を終えたことで、テーブルの上には再び二人だけの時間が戻ってきた。
お互いにまだ少しの照れくささを残しながらも、ソウヤとエミリアは、これから始まるオーストラリアでの日々や、先ほどブレックス准将から聞かされた競技会の話について、静かに言葉を交わし始めるのだった。
「……そういえば隊長、さっき准将のお部屋で話に出ていた、特別枠のファントム・スイープ隊のことなのですが。」
お茶を一口すすると、エミリアは少し表情を引き締め、真面目なトーンで切り出した。
「相手はあの『水天の涙作戦』を阻止した超精鋭部隊。技術部の資料によれば、彼らに配備されているモビルスーツ――『ジーライン』が、私たちのジム・コマンドにとって最大の脅威になるのは間違いありません。」
その単語を聞き、ソウヤは記憶の引き出しを探るように天井へ視線を向けた。
「ジーライン……。確か、ガンダムの完全量産を目指して、一年戦争時から開発が続けられていた機体だったな?」
「はい。」
エミリアは大きく頷き、真剣な眼差しで言葉を繋げた。
「基本性能の時点でガンダムの完全量産を目指していますが、何より厄介なのはその拡張性です。去年のジオン残党補給基地で私たちが目撃したジーラインは、戦況や用途に合わせて追加装甲や各種兵装を瞬時に『換装』していました。装甲を付け替えることで、機体の機能と性能そのものがガラリと変わる……。一機で何役もの戦術に対応してくる仕様こそが、この機体の本当の脅威ですね。」
「なるほど……。変幻自在の万能機、というわけか。実戦でもシミュレーターでも、相手の現在の『兵装プラン』を瞬時に見極めないと、一瞬でこちらの裏をかかれることになるな。」
ソウヤはエミリアの理路整然とした分析に、深く納得して腕を組んだ。
すると今度は、エミリアが少し好奇心を滲ませるようにして、身を乗り出してきた。
「では、もう一つのウィッチハント隊はどんな部隊なのですか? 隊長は一年戦争の時、彼らに命を助けられたとおっしゃっていましたが……。」
ソウヤは懐かしい記憶を思い出すように、ふっと穏やかに目を細めた。
「ウィッチハント隊は一年戦争の後半、北米戦線で猛威を振るっていたジオン軍の凄腕特殊部隊――通称『北米の魔女』を狩るために特別に編成された部隊なんだ。リリス・エイデン少尉をはじめ、乗り手の腕が突出しているのはもちろんだけど、あそこにはあの『ガンダム・ピクシー』が配備されているんだよ。」
「……えっ!? ガ、ガンダム・ピクシーですか!?」
『ピクシー』の名前がソウヤの口から飛び出した瞬間、エミリアの態度が劇的に一変した。
先ほどまでの冷静なオペレーターの顔はどこへやら、彼女は驚愕と興奮で頬を上気させ、テーブルから身を乗り出して一気に言葉を捲し立て始めた。
「ガンダム・ピクシーって、あの一年戦争時に地球連邦軍『陸軍』が、独自に極秘開発したというあの幻の機体ですか!? 徹底的な軽量化と、白兵戦・格闘戦にのみ特化させた超絶的なインファイト専用機……! わずか『3機』しか製造されなかったと言われている、あの伝説のピクシーですか!?」
「あ、あはは……。うん、よく知っているね、エミリア。」
機関銃のように凄まじい熱量で知識を披露するエミリアの勢いに、ソウヤは少し圧倒されながらも苦笑して頷いた。
「まさか、あの超弩級の激レア機体が今でも現役で、しかも北米のウィッチハント隊で運用されているなんて……! 信じられません! データを取るだけでも軍事技術者たちが大泣きして喜ぶレベルのオバケ機体ですよ! ああ、そんな幻のガンダムと競技会で戦えるかもしれないなんて、オペレーターとして今からデータ解析の腕が鳴りまくりです……!」
エミリアは拳を握りしめ、恍惚とした表情で熱弁を振るっている。
恋愛に関しては驚くほど奥手で、二人きりの状況にドギマギしていた先ほどまでの初々しい彼女はどこへ行ったのか。
そんなエミリアの軍事マニアとしての微笑ましい暴走っぷりを見つめながら、ソウヤは「ノアたちがここにいなくて本当に良かったな」と、心の底から安堵の息を漏らすのだった。
二人の熱いモビルスーツトークが一段落した絶妙なタイミングで、厨房から「お待たせしました!」と、威勢の良い店員の声が響いた。
次々とテーブルに並べられていく出来立てのアツアツのチベット料理。
その圧倒的なビジュアルと香りに、二人は思わず目を奪われた。
エミリアの前に置かれた『モモ』は、日本の小籠包を一回り大きくしたような形をしており、蒸し器の蓋が開いた瞬間に真っ白な湯気が立ち上った。
半透明の皮の向こうには、たっぷりと詰まった肉餡の輪郭が透けて見え、隙間から肉汁がじわりと滲み出ている。
一方、ソウヤの前に運ばれた『トゥクパ・ングマ』は、たっぷりの高原野菜と細切れのヤク肉が、数種類の特製スパイスと共に中太の手打ち麺と香ばしく炒め合わされていた。
そして、厚切りの『ヤク肉のステーキ』は、鉄板の上でジューシーな音を立てており、ハーブとニンニクの効いたソースが泡を立てて弾けている。
「うわぁ……! すごく美味しそうですね……!」
「ハノイの料理とはまた全然違った匂いだ。本当に美味しそうだ。」
二人は自然と顔を見合わせて笑みをこぼすと、手を合わせて「いただきます」と小さく唱え、待ちに待った食事を口へと運んだ。
エミリアが箸でそっとモモを持ち上げ、火傷をしないようにハフハフと息を吹きかけながら一口齧る。
その瞬間、もちもちとした弾力のある厚めの皮がぷつりと弾け、中から凝縮された濃厚な肉汁がじゅわっと口いっぱいに広がった。
羊肉の旨味がしっかりと効いているが、生姜やネギといった薬味のおかげで臭みは全くなく、非常にジューシーで食べ応えがある。
「んんっ……! 皮がすごくモチモチしていて、噛むたびにスープが溢れてきます……! お、美味しい……!」
エミリアはあまりの美味しさに頬を緩ませ、エメラルドグリーンの瞳を幸せそうに細めた。
ソウヤもまた、アツアツのヤク肉ステーキをナイフで切り分け、口へと放り込む。
高原の厳しい環境で育ったヤクの肉は、一般的な牛よりも赤身の味が非常に濃厚だった。
噛めば噛むほど肉本来の力強い旨味が溢れ出し、適度な歯ごたえが心地よい。
トゥクパ・ングマのスパイシーな味付けともちもちの手打ち麺も、空腹のソウヤの胃袋を瞬く間に満たしていく。
「このヤクの肉、すごくジューシーなのに脂っこくなくて、いくらでも食べられそうだ。焼きそばの方もスパイスがピリッと効いていて、麺のコシが最高だよ」
「本当ですか? 隊長、よければそのモモと、少し交換しませんか?」
「あはは、いいね。じゃあ、このステーキとトゥクパを少し分けるよ。」
最初は二人きりの空間にガチガチになっていた二人だったが、美味しい料理を前にすると自然と会話が弾んだ。
お互いの皿から料理を分け合い、「これも美味しい」「こっちの味付けも面白いですね」と感想を言い合いながら、和やかな雰囲気の中で食事を楽しんでいく。
スパイシーな料理の合間に飲む、ほんのり塩気のある温かいバター茶が、高地特有の乾燥した喉を優しく潤してくれた。
やがて、あれほどボリュームのあった料理を、二人は綺麗に完食した。
「ぷはぁ……、ごちそうさまでした。本当にお腹いっぱいです」
「うん、大満足だね。ハノイを出る時はどうなるかと思ったけれど、こんなに素晴らしいチベット料理を堪能できるなんて思わなかったよ。」
エミリアは満足げにお腹をさすり、ソウヤも温かいお茶を飲みながら深く息を吐いた。
ブレックス准将からの破格の支援、トリントンで待ち受けるかつての戦友や命の恩人といった強敵たちの影。
これから始まる地獄の軍事競技会を前に、二人はラサの温かい家庭的な味に心も体も芯から癒やされ、この上ないエネルギーをしっかりとチャージすることができたのだった。
美味しいチベット料理を心ゆくまで堪能した二人は、店員に「ごちそうさまでした」と温かい感謝の言葉を伝え、会計を済ませて店をあとにした。
お腹が満たされたことで、体も芯からぽかぽかと温まっている。
外に出たソウヤとエミリアは、再び並んで歩調を合わせ、鮮やかな色彩に満ちたラサの街中を歩き出した。
道の至る所には、歴史の重みを感じさせる厳かな寺院が佇んでおり、色とりどりの五色の祈祷旗「タルチョ」が、高地の冷たく澄んだ風に吹かれてパタパタと小気味よい音を立てている。
伝統的な白壁の家屋と、連邦軍の近代的な重機が遠くに見える歪な景色ではあったが、古き良き異国情緒溢れる街並みは、見ているだけで二人の心を穏やかにしてくれた。
「空気は少し冷たいけれど、本当に綺麗な街ですね」
「うん、ハノイの熱帯ジャングルとは大違いだ。ブレックス准将が外出を勧めてくれた理由がよく分かるよ。」
そんな会話を交わしながらのんびりと歩き進めると、二人はやがて、ひと際賑やかな活気に満ちた土産屋街のエリアへとたどり着いた。
通りの両側には無数の屋台がひしめき合い、観光客や地元の巡礼者たちで溢れかえっている。
屋台の店先や軒下には、精緻な刺繍が施された民族衣装や、チベット伝統の織物、木彫りの仏具といった色鮮やかな商品が所狭しと飾られていた。
そして何より目を引いたのは、ラサの屋台に並ぶ、この土地特有の美しい宝石や鉱石の数々だった。陽光を浴びて怪しくも美しい緑の光を放つトルコ石や、夜空をそのまま切り取ったかのような深い青色のラピスラズリ。
それらが太陽の光を浴びてキラキラと輝く光景は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように美しく、ソウヤとエミリアはただ歩いているだけでもそのきらびやかな空間を十分に楽しむことができた。
「すごいな……。これ、全部本物の原石なのかな。」
「さあ、どうでしょう。でも、見ているだけで何だかワクワクしてきちゃいますね。」
エミリアは楽しげに弾む声で答え、次々と屋台の商品に目を移していく。
すると、数ある店の中の一つの屋台の前を通りかかった時、エミリアの足がふと止まった。
彼女の視線の先――様々な装飾品が陳列されている木箱の片隅に、一つのラピスラズリのシルバーリングが静かに置かれていた。
それは、周囲の派手な首飾りや大きな腕輪に比べると、非常に簡素なデザインだった。
しかし、細身のシルバーの台座にはチベット特有の神秘的な幾何学模様が細かく施されており、中央に埋め込まれた小ぶりのラピスラズリは、まるでラサの深く澄んだ青空を凝縮したかのような、気品のある深い青色を宿してひっそりと輝いていた。
エミリアはそのラピスラズリのシルバーリングから目を離せず、ただじっと見つめていた。
簡素でありながらも気品を感じさせる深い青。その佇まいに何か惹かれるものがあったのだろう。
隣で歩みを止めたソウヤは、彼女の視線を追い、穏やかな声で尋ねた。
「エミリア、その指輪が欲しいのかい?」
「えっ!? い、いえ、そういうわけでは……っ」
ソウヤに見られていたことに気づき、エミリアは慌てて手を振って遠慮した。
軍人である自分が指輪など、という気恥ずかしさもあった。
「おやおや、お若い軍人さん、お目が高いね。」
二人のやり取りを見ていたのだろう、露店の奥から日に焼けた気さくな笑顔の屋台の主人が現れ、木箱の指輪を指差しながら自慢げにラピスラズリの説明を始めた。
「それはこの土地で古くから大切にされている、聖なる青い石さ。ラピスラズリはね、持ち主に最高の幸運と成功を呼び込むと言われているんだ。ただの目先の幸運じゃない。持ち主が本当の意味で成長するための『正しい試練』を乗り越えさせ、その先にある本質的な幸福へと導いてくれる。迷いを去り、進むべき正しい道を見つけ出す、人生の転機をサポートしてくれる石なんだよ。」
「正しい試練、ですか……」
ソウヤは主人の言葉を、興味深そうに、そしてどこか真剣な面持ちで聞いていた。
これからトリントンで数々の強敵という名の試練に直面する自分たちの状況に、不思議と重なるものがあったからだ。
主人はソウヤの反応に気を良くしたのか、さらに言葉を続けた。
「それだけじゃない。この石は知性と直感力を高める。頭脳を明晰にし、正しい決断を下せるよう判断力と洞察力を強化してくれるんだ。仕事の運気を高めたい時にも最適だし、古くから『第3の目(サードアイ)』を開花させ、直感力や創造力を刺激するとも言われているのさ」
「へえ、知性と判断力の強化か……。エミリア、まさにオペレーターの君にぴったりじゃないか?」
ソウヤが納得したように微笑むと、エミリアは
「えっ、私ですか……?」と少し気恥ずかしそうに身を縮めた。主人の解説はまだ終わらない。
「それにね、魔除け・邪気払いの力も一級品さ。他人からの嫉妬や悪意などの『外からの邪気』をブロックするだけじゃない。自分自身の怒り、不安、迷いといった『内なる邪念』を静める強力な力がある。」
「内なる、邪念を……」
その言葉に、今度はエミリアが小さく反応した。 ソウヤの不殺の理想を信じながらも、心のどこかで「本当に誰も死なさずに勝てるのだろうか」という不安や迷いを抱えていたエミリアにとって、その魔除けの効能は胸に深く突き刺さるものがあった。
「このラピスラズリの深い青色はね、遮るもののない、どこまでも広がるチベットの天空そのものなんだよ。仏教における『究極の智慧』を表す、本当に格別の石さ。」
どこまでも広がるチベットの天空。
主人がそう言って見上げたラサの青空は、どこまでも澄み切っていて、まるでソウヤの真っ直ぐな瞳の色のようでもあった。
「……店主さん。そのシルバーリングをください。」
ソウヤは迷いのない声でそう言うと、財布を取り出そうとした。
「えっ!? ちょっ、ちょっと待ってください、タカバ隊長!」
エミリアは驚いて慌ててソウヤの袖を引っ張った。
「そんな、悪いです! 冗談じゃありません、本当に結構ですから……っ!」
「いいんだよ、エミリア。」
ソウヤは袖を引くエミリアの手の甲にそっと自分の手を重ね、いつもの優しい、けれど拒ませない確かな眼差しで彼女を見つめた。
「いつも、僕が溜め込んでしまう苦手な書類仕事を文句も言わずに手伝ってくれているだろう? それに、戦場では優秀なオペレーターとして、僕だけでなく第4小隊のみんなの命をいつも後ろから守ってくれている。これは、そのささやかなお礼だよ。お守り代わりに、持っていてほしいんだ」
「隊長……」
いつも通り真っ直ぐで、あまりにも誠実なソウヤの感謝の言葉に、エミリアはもうそれ以上拒む言葉が見つからなかった。
ただ、胸の鼓動が激しく跳ね上がり、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして俯くことしかできない。
屋台の主は、そんな初々しくて微笑ましい二人の様子をニヤニヤと眺めていたが、ぽんと手を叩いて尋ねた。
「ヒュー、熱いねぇ! お二人さん、もしかしてカップルかい?」
「「えっっ!?!?!?」」
その言葉が直撃した瞬間、ソウヤとエミリアの二人は同時に飛び上がり、耳の裏まで一気に大赤面した。
「ち、違います! 私たちはその、上官と部下で……!」
「そ、そうです! 隊長とオペレーターの、ただの仕事の仲間で……!」
お互いに声を裏返らせながら必死に弁明する二人を見て、屋台の主人は声を上げて快活に笑った。
「ハハハ! 隠さなくたっていいさ! いやぁ、昼間から実に良いものが見られたよ。よし、若者の熱い純情に免じて、その指輪、ガッツリ値引きしてあげるよ!」
「あ……あはは。ありがとうございます、店主さん。」
ソウヤは顔の赤みが引かないまま、照れ隠しに苦笑しながら感謝を述べ、値引きされた代金を支払った。
こうして、ラサの澄んだ天空の色を宿した、ラピスラズリのシルバーリングの購入を済ませたのだった。
「ありがとうございました。大切にします。」
ソウヤは屋台の主人に丁寧にお礼を言い、丁寧に包装された小さな紙包みを受け取ると、二人で賑やかな土産屋街をあとにした。
通りから少し外れた、静かな寺院の裏手へと続く道に出たところで、ソウヤは「はい、これ」と紙包みをエミリアへと手渡した。
「ありがとうございます、隊長……っ」
エミリアは両手で大切にそれを受け取ると、中から先ほどのラピスラズリのシルバーリングを取り出した。
ラサの柔らかな陽光を浴びて、深い青色が上品にきらめいている。エミリアは歩きながら、手のひらの上の指輪をそれはそれは嬉しそうに、愛おしげにじっと眺めていた。
その純粋に喜ぶ姿を見て、ソウヤも自然と心が温かくなる。
ふと気になったことを尋ねてみた。
「エミリア。さっき、他にもたくさん派手で綺麗な宝石があったのに、どうしてその指輪がそんなに気になったんだい?」
「え……っ」
ソウヤの何気ない質問に、エミリアはピタリと足を止め、一瞬で顔を真っ赤にして恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
コートの襟に顎を埋め、指輪を胸元に抱きしめるようにして、小さくモジモジと震えている。
「エミリア……?」
あまりの動揺ぶりに、ソウヤは「何か悪いことを聞いてしまっただろうか」と不思議に思い、不思議そうに首を傾げた。
長い沈黙の後、エミリアは蚊の鳴くような、しかし引き締まった静かな高地の風の中でもはっきりと聞こえる小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……このラピスラズリの青が、隊長の、あの真っ直ぐな蒼い瞳と……すごく似ているな、と思ったからです。」
「…………っ」
エミリアのあまりにも純粋で、かつ破壊力抜群の本音を告げられ、今度はソウヤが耳の裏まで一気に真っ赤に燃え上がった。
まさかそんな理由で、選んでいたなんて夢にも思わなかったからだ。
お互いに顔を赤くしたまま、二人はしばらくの間、心臓の鼓動が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほどの猛烈な無言のまま、ぎこちなく歩き続けた。
チベットの冷たい風すら、今の二人には熱く感じられるほどだった。
ソウヤは高鳴る胸を落ち着かせようと大きく息を吸い込むと、照れ隠しに軽く咳払いをしてエミリアに声をかけた。
「ええと……エミリア、せっかくの指輪だし、一度指に嵌めてみたらどうかな?」
「え? あ、そうですね。こうして手に持ち歩いてたら、うっかり無くしてしまうかもしれませんし……一度、嵌めてみます。」
エミリアも緊張を誤魔化すように何度も頷くと、少し震える指先でシルバーリングを持ち上げ、右手の、まずは人差し指へと通そうとした。
しかし――指輪は第二関節のあたりで引っかかり、それ以上奥へ進まない。
「あれ……? じゃあ、中指に……」
今度は中指に試してみるが、やはりサイズが小さくて途中で止まってしまう。
その瞬間、エミリアの顔から一気に血の気が引き、真っ青に青ざめた。
(嘘……っ、嘘でしょ!? 隊長にせっかく買っていただいたのに、サイズが合わなくて嵌まらないなんて……そんなの悲しすぎます……っ!)
涙目になりながら焦るエミリアは、最後に残った、人差し指や中指よりも細い『あの指』へと、祈るような気持ちで指輪を滑らせた。
――スルリ。
何の抵抗もなく、吸い付くように完璧なシンデレラサイズで、ラピスラズリの指輪が彼女の左手の薬指の根元へとぴったり嵌まった。
「あ……」
綺麗に収まった深い青色の輝きを見つめ、エミリアは一瞬、呆然と固まった。
しかし、すぐにその指が持つ『意味』に気づいてしまう。
まだ恋人同士でもない、奥手な二人の関係。それなのに、上官から贈られた指輪が、よりによって結婚や婚約を意味する「左手の薬指」にしか嵌まらなかったという、あまりにも出来すぎた運命の悪戯。
さっきまで青ざめていたエミリアの顔が、今度は文字通り、爆発でもしたかのように真っ赤に燃え上がった。
「あ、あの! 隊長! これは、その、他意はなくて! この指にしか、サイズが合わなくて……っっ!?」
「え、あ、う、うん……! 分かってる、分かってるよエミリア……!!」
ソウヤもまた、エミリアの左手薬指で綺麗に輝くラピスラズリを見つめ、顔面を真っ赤に染め上げてお互いにあわあわと手を振りながら激しく動転するのだった。
「あ、あの! エミリア、やっぱりさっきの屋台に戻ろう! サイズが合わないんじゃ困るし、別の、その……ちゃんと人差し指とか中指に合うデザインの物を買い直そう!」
左手の薬指というあまりにも意味深な場所に収まった青い輝きに、ソウヤは狼狽を隠せないまま、真っ赤な顔で来た道を戻ろうとした。
しかし、エミリアはソウヤのコートの袖を、今度はきゅっと優しく引っ張って彼を止めた。
「……いいえ、隊長。戻らなくて大丈夫です。」
ソウヤが振り返ると、エミリアはまだ耳の裏まで真っ赤に染め上げたままであったが、そのエメラルドグリーンの瞳には真っ直ぐな、強い意志が宿っていた。
彼女は左手をそっと胸元に当て、薬指のラピスラズリを愛おしそうに見つめる。
「この指輪は、隊長が買ってくださった物ですから……。だから、私はこの指輪を、このまま大事にしたいんです。」
他の誰でもない、大好きなソウヤから贈られたからこそ、この不器用な偶然が愛おしい。
そんなエミリアの心からの本音を告げられ、ソウヤは胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。
「……そっか。うん、エミリアがそう言ってくれるなら……分かった。」
ソウヤは照れくささに頭の後ろを掻きながら、消え入りそうな声で微笑んだ。
それから、二人は再び無言で歩き出した。
けれど、その沈黙はさっきまでの気まずいものとは違い、どこか心地よく、互いの体温を近くに感じるような温かいものに変わっていた。
歩きながら、ソウヤはコートのポケットの中で、何度も自分の右手を握ったり開いたりしていた。 デリーの夜に「お前のその甘い理想は、いつか殺される」と突きつけられ、自分の選択に迷い、怯えていたはずの自分が、いま、隣を歩く一人の女性を前にして、別の意味で心臓を激しく脈打たせている。
(拒絶されるかもしれない。職務を言い訳に、上官として引かれてしまうかもしれない……)
そんな不安が脳裏を過り、呼吸が上手くできなくなるほどの緊張がソウヤを襲う。
けれど、ここで一歩を踏み出さなければ、きっと後悔する。
ソウヤは意を決すると、ポケットから右手を出し、恐る恐る、隣を歩くエミリアの左手へと自分の指を伸ばしてみた。
そっと、触れるか触れないかの距離から、彼女の細い指先に自分の手を重ねていく。
一瞬、エミリアの身体がビクリと強張るのが分かった。
ソウヤは心臓が口から飛び出しそうなほどの恐怖を覚えたが、次の瞬間、その不安は優しい温もりによって跡形もなく溶かされた。
エミリアは拒絶することなど微塵もせず、ソウヤの少し冷えた大きな手を、柔らかく、けれどほどけないようにしっかりと包み込むようにして握り返してくれたのだ。
「あ……」
ソウヤが驚いて隣を見ると、エミリアは顔を真っ赤にしたまま俯いていたが、繋いだ手にはしっかりと力がこもっていた。
戦場では一瞬の迷いも許されない指挥官とオペレーター。
けれど、いまこの広いチベットの空の下では、ただお互いを愛おしく想う、不器用で奥手な男と女だった。
二人はそれ以上言葉を交わすことはなかったが、繋いだ手から伝わる確かな鼓動と温もりだけで、すべてが通じ合っているのが分かった。
二人はラサの中心部にある開けた広場へとたどり着いた。
大きな噴水を中心に、チベットの伝統的な露店や休憩用のベンチが並ぶその場所は、穏やかな陽光が降り注いでいて、散策の終着点にはぴったりだった。
「……今日は本当にありがとうございました、隊長。一緒に美味しいお昼を食べて、市場をお買い物して……こんなに楽しい散策ができて、本当に良かったです。」
エミリアは繋いでいない方の手を薬指の指輪にそっと添え、恥ずかしそうに、けれど心からの喜びを込めて微笑んだ。
「俺の方こそ、ありがとう。ハノイを出る時はこれからの競技会のことで頭がいっぱいだったけれど、エミリアと一緒に歩けて、なんだかすごく救われた気がするよ。明日からの厳しい訓練も、みんなで乗り越えられそうだ」
ソウヤもまた、いつもの穏やかな笑顔でエミリアを見つめ返した。
見つめ合う二人の間には、もう言葉など必要ないほどの、甘く確かな絆が結ばれつつあった。
――しかし、そのあまりにも幸福で平穏な時間は、突如として破られる。
「お願いです……その薬を返してください! 高熱を出して苦しんでいる、娘のための薬なんです……!」
広場の一角から、悲痛な女性の懇願する声が響き渡った。
続いて、それを冷酷に撥ね付けるような、野暮ったく荒くれた男の怒号が降ってくる。
「ハッ、往生際の悪いスペースノイドめ。おい、お前らも今の喋り方を聞いただろ? 隠そうとしたって、その独特のジオン訛りは誤魔化せねえんだよ!」
「な、何が起きたの……?」
エミリアがハッと表情を強張らせ、繋いだ手に思わずギュッと力がこもる。
ソウヤもまた、先ほどまでの穏やかな表情から一転、一人の指揮官としての鋭い双眸へと切り替わっていた。
「行こう、エミリア」
「はい!」
二人は自然と手を離すと、騒ぎの起きている方向に向かって足早に駆け出した。
たどり着いた場所には、すでに街の巡礼者や観光客たちによる不穏な人だかりが出来ていた。
ソウヤとエミリアが群衆の最前線へと割り込むと、そこにはフードの付いた服に身を包んだ、一人の女性が地面にへたり込んでいた。
彼女はその場に立ちはだかる連邦軍の男たちを見上げ、必死に懇願している。
「お願いします……薬を!薬を返してください!チサの大事な薬なんです!」
しかし、彼女を傲慢に見下ろしている連邦軍の若手士官――襟元に少尉の階級章を光らせた男は、手にした薬の小瓶を弄びながら鼻で笑った。
少尉の背後には、同じくガラの悪い態度で周囲を威圧する部下の兵士が3人、合計4人の連邦軍人が人だかりの中心で凄んでいる。
少尉は不敵な笑みを浮かべ、へたり込む女性に向けて冷酷に言い放った。
「一年戦争で行き場をなくし、このラサに不法に潜り込んだジオン残党が、大人しく市井に紛れてると思えば……。どうせこの上等な薬も、連邦の配給基地か医療施設から盗み出してきたものなんだろう? 治安維持法に基づき、この不審な物資は我々が没収させてもらう!」
「違います! ちゃんとお金を払って手に入れたものです……! 娘が、チサの命が危ないんです……!」
女性はフードの隙間から絶望に染まった顔を覗かせ、泥に塗れながらも少尉の靴に縋り付こうとした。
しかし、少尉はそれを汚らわしいものを見るかのように足蹴にして撥ね付ける。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
ソウヤとエミリアのデート回、どうでしたか?
作者は書いてる途中に砂糖をマーライオンしながら、書いてました。
自分のキャラクターだけど、リア充爆発しろ!
ではでは、次の話も楽しみにしてくださいね。
感想など、気軽に書いてくださいね~。
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