ええ、皆様、本日もようこそお越しくださいました。
ご隠居さん、またその渋い顔で奥の席に座って、何をお考えでございますか?ああ、お栄さん、今日もその素敵な笑顔で、私の噺に花を添えてくださいますな。ありがとうございます。
さて、五月も過ぎ、六月ともなれば、嫌が応にもやってくるのが梅雨でございます。じめじめと湿気が肌にまとわりつき、洗濯物は乾かず、気分は滅入りがち。しかし、この梅雨、私にとっては少々、いや、かなり特別な季節でしてな。
先日からのことなのですが、夜分にふと目が覚めますと、枕元から微かに、いや、徐々に、いやはや、確実に、聞こえてくるものがございまして。
それは、カエルです。カエルの鳴き声。ゲコゲコ、と。
まあ、梅雨時ですからカエルが鳴くのは当たり前、と一笑に付す方もいらっしゃるでしょう。しかし、私の耳に届くその鳴き声は、どうも、普通ではなかったのです。
初めは単なる幻聴かと思いました。疲れているのかな、と。ですが、日を追うごとにその声は鮮明になり、そして、規則的になっていくのです。ゲコ、ゲコゲコ、ゲコ、ゲコゲコゲコ……まるで、誰かが指揮でもしているかのように。
ある晩、私はついに耐えきれなくなり、布団をはねのけて窓を開けました。雨はしとしと降っています。そして、その音源を探しました。
家の周りをぐるりと見回しましたが、カエルの姿は見当たりません。しかし、鳴き声は確かにそこにある。それも、私の耳元で鳴っているような、そんな錯覚に陥るほどの近さで。
「おかしい……これはおかしい」
私はそう呟きました。すると、その途端です。鳴き声が一斉に止みました。シン、と。雨音だけが残ります。そして、次の瞬間。
「……ゲコォォオオオ!!!」
と、たった一匹のカエルが、まるでオペラのバリトン歌手のように、力強く、耳をつんざくような大声で鳴いたのです。その声は、私の脳の奥底に直接響き渡るような、不快な振動を伴っていました。私は思わず、両手で耳を塞ぎました。
翌朝、私は完全に寝不足でございました。朝食も喉を通らず、ただただ、あのカエルの声が耳にこびりついて離れません。日中も、仕事の手が止まるたびに、幻聴のように「ゲコォォオオオ!!!」という声が聞こえてくるのです。
まるで、私を呼んでいるかのように。
その日も夜になり、再びカエルの合唱が始まりました。今度は、明らかに増えている。ゲコゲコゲコゲコ……その数たるや、数百、いや、数千にも及ぶのではないかと。そして、その合唱は、段々と、旋律を帯びてくるのです。どこかで聞いたことのあるような、しかし、決して思い出せない、不気味なメロディ。
私はいてもたってもいられなくなり、ふと、部屋の隅にある古い蓄音機に目をやりました。普段は埃をかぶっているだけの置物です。しかし、その時、私はなぜか、それに針を落とさねばならぬ、という強迫観念に駆られました。
震える手で蓄音機のハンドルを回し、針をレコードに落とします。
すると、どうでしょう。蓄音機から流れてきたのは、信じがたいことに、あのカエルたちの合唱だったのです!しかも、外で鳴いているカエルたちの声と、完全に同期している。そして、蓄音機から流れるメロディに合わせて、外のカエルたちが、まるで練習を積んだ合唱団のように、完璧なハーモニーを奏でているではありませんか!
私は、恐怖のあまり、その場にへたり込みました。
「これは夢か?悪夢か?」
私は自分の頬を何度もつねりましたが、痛みは確かにありました。そして、蓄音機から流れるカエルの合唱は、どんどん、狂気を帯びていく。メロディは複雑になり、不協和音が増え、まるで混沌としたジャズセッションのよう。私の意識は、そのカエルの声に飲み込まれていくようでした。
その時、ふと、蓄音機の横に置かれていた、父の遺品である古い日記帳に目が留まりました。私はなぜか、それを手に取り、開いてみました。すると、そこには、父の震えるような筆跡で、こう書かれていたのです。
「……梅雨時のカエルは、魂を奪う……」
私は日記を放り出し、再びカエルの合唱に耳を澄ませました。もう、その声はカエルの声には聞こえません。
それは、無数の、人間の声でした。怒り、悲しみ、喜び、そして、狂気。あらゆる感情が、ゲコゲコという鳴き声に混じり合い、私に訴えかけてくるのです。
そして、その合唱のクライマックス。
蓄音機から、そして外から、一斉に
「助けてくれ」
という声が、カエルの鳴き声に混じって聞こえてきたのです。
その時、私の脳裏に、一本の線が走りました。そう、思い出したのです!幼い頃、父が私によく聞かせてくれた童謡がありました。それは、カエルが登場する、ごくありふれた童謡。そして、その童謡の歌詞の、最後のフレーズ。
「……カエルの歌が聞こえてくるよ、ゲコゲコゲコゲコ、グワッグワッグワッ……」
皆様、お分かりいただけましたでしょうか?ええ、あのカエルたちは、私に、あの童謡の続きを、歌わせようとしていたのですよ。そして、私が、その「グワッグワッグワッ」を歌ってしまえば、きっと私の魂も、あの合唱団の一員として、永遠に梅雨の夜に鳴き続けることになったのでしょうな。
ああ、危ない危ない。
ええ、私は慌てて蓄音機の針を上げ、窓を閉めました。それ以来、梅雨の夜は、耳栓をして寝ております。
皆様も、梅雨時のカエルの合唱には、どうぞお気をつけあそばせ。特に、童謡の続きを歌いたくなったら、要注意でございますよ。