長野県警の女関羽 作:長野組推し
薄暗い店内に入店を知らせるベルの音が鳴る。傘を畳みながらバー“桃源”に足を踏み入れたのは高明だった。
バーの店内は閉店間近であるため客の姿はほぼない。唯一の客らしき人影はカウンター席に突っ伏している。その客の前ではバーのマスターが困ったように眉を下げながらグラスを磨いていた。
高明はマスターに対して小さく頭を下げながら、カウンターで突っ伏している人影の傍にまで歩み寄る。その人影は女性で、高明もよく知る人物であった。
「美羽……」
カウンターに突っ伏して眠る美羽の名前を小さく呟き、高明は自分の部下を案ずるように見下ろした。
高明はバーのマスターから美羽が酔い潰れてしまったと連絡を受けこの場に訪れた。高明も美羽もこのバーの常連であり、警察官であることをマスターが知っていたがために上司である高明に連絡が来たのだ。
「連絡を頂きありがとうございます。私の部下がご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ない」
「いやいや、別に騒がれたわけではありませんよ。飲み方も静かなものでしたから」
マスターは小さく首を振り、両腕を枕に眠ってしまっている美羽を見下ろしながら二時間ほど前のことを思い返す。
今から二時間前、雨で客が少ないバーに美羽は一人で訪れた。酷く気落ちした様子で、普段はカクテルのところをロックで只管に飲み続けた。幾ら酒に強い人間でも無理のある飲み方で、マスターには酒を楽しむのではなくただ酔い潰れたいだけのようにしか見えなかった。
案の定、一時間も過ぎる頃には舟を漕ぎ始め、二時間が経つと完全に潰れてしまっていた。そして対応に困ったマスターが高明に連絡を付けた次第である。
「ただ、彼女が酔い潰れることなんて初めてでしたので。様子もおかしかったですから」
「そうですか……」
マスターの言葉に高明の脳裏を昼間の出来事が過る。明らかに尋常ではない様子で、何かを隠している美羽の態度。今まで一度も酔い潰れたことがなかった美羽が無茶な飲み方をした理由は恐らくそこにある。
訳を追究したいところではあるが、何時までもこの場に居座ってはマスターに迷惑が掛かってしまう。今はバーを辞することが先だと、高明は眠る美羽の肩を揺する。
「美羽。起きなさい、美羽」
「……ぅ、あ」
身体を揺さぶられて美羽が微かに呻き声を上げ、無意識の内に高明の手を払おうと腕を動かす。すると両腕に突っ伏していたことで隠れていた美羽の寝顔が露になった。
「────!」
露になった美羽の横顔を見て高明は愕然と目を見開く。両腕に隠されていた寝顔は穏やかなものとは掛け離れた、酷く泣き腫らしたものだったからだ。
美羽と幼馴染として長く付き合ってきた高明でも滅多に見たことのない泣き顔。嫌なことや辛いこと、凹むようなことがあっても涙を零すなんてこと早々ない美羽が、酔い潰れるような酒の飲み方をした上で泣いていた。
信じられない光景を前にして硬直していた高明は、美羽の手が大事そうに握り締めるスマホの存在に気が付いた。美羽の物ではない、恐らくは昼間に隠そうとしていた品だろう。
カバーも何も付いていないそのスマホから、高明はどうして目を離すことができない。好奇心とは違う、焦燥のようなものが胸の奥底から湧いて抑えられなかった。
美羽に無断で悪いと思いつつも高明は起こさないように気を付けながらスマホを抜き取る。そしてスマホを細部まで観察した。
スマホは画面の中央部に穴が開き、破損して使い道のない代物だった。穴の内側と周囲の罅割れには血痕らしき黒ずみがあり、裏には歪ながらも“H”と読めなくない傷跡が刻まれている。
このスマホだけでは流石の高明も何がなんだか分からない。しかし昼間の美羽の酷く取り乱した様子とスマホを隠そうとした挙動。そして一人で泣きながら酔い潰れるまで飲んでいたことを鑑みれば一つの推理が導き出される。
このスマホは、恐らく──
「──景光」
実の弟である諸伏景光の私物、それも遺品だろう。明晰な高明の頭脳がその推理を導き出すのに、そう時間は掛からなかった。
美羽はこのスマホを何者かから手渡された。昼間の言動からして、金髪で褐色肌の男なのだろう。
その時にどんなやり取りがあったかは知れないが、景光の死を悟った美羽は相当なショックを受けたはずだ。昼間と今の有様を見れば、受けたショックの大きさが計り知れるというもの。
可愛がっていた弟分の突然の死。しかも景光は上司である高明の実の弟でもある。特大の爆弾を抱えてしまった美羽は、高明に真実を明かすこともできず酒に溺れる道を選んでしまったのだろう。
景光の物であろうスマホを手に、高明は黙祷するように瞑目する。瞼の裏では子供の頃の思い出が浮かんでは消え、その度に後悔と悲哀の念が胸中に広がっていった。
「人生死あり、修短は命なり……か」
人は死を避けられず、短い生涯を終えるのは天命である。とはいえ、いくら天命であったとしてもすんなりと受け入れられるものではない。
両親を早くに失い、初恋の人は病死し、挙句に実の弟は恐らく殉職。不幸もここまで重なると呪われているのではないかと高明は自嘲したくなった。
ともすれば悲嘆に沈んでいってしまいかねなかった高明を引き留めたのは、震える美羽の呟きだった。
「──ごめん。守ってあげられなくて、ごめんなさい……」
「美羽……」
カウンターに突っ伏して、涙ながらに美羽は呟く。酔い潰れて意識すらない状態で景光への謝罪を繰り返していた。美羽が景光の死にどれほどのショックを受け、責任を感じてしまっているのか。高明には手に取るように分かってしまった。自分も同じだからだ。
抱える必要のない責任に圧し潰されそうになっている美羽を高明は見下ろす。目尻から流れ落ちた一滴の涙を見て、一つの決断を下した。
景光の死について、高明から追求することは一切しない。美羽が自分から切り出すまでは何も知らないスタンスを貫く。その上で、美羽の選択を尊重すると。
決めたならば話は早い。高明は手に取ったスマホを美羽のバッグに仕舞いこみ、マスターへと声を掛ける。
「マスター、会計をお願いしたい」
「会計は一関さんが先に出していたから、精算だけですよ」
酔い潰れる前の時点で美羽は一万円札を数枚出していたのだ。既に精算は終えていたようで、キャッシュトレイに乗せられたお釣りが差し出される。
高明はそのお釣りを美羽のバッグの中にあった財布に怪しまれないように仕舞い、バッグに戻すとそのまま小脇に抱える。そしてカウンターに突っ伏して起きる気配のない美羽を、起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら抱え起こした。
「マスター。後日、美羽が今晩のことを何か尋ねることがあった時は、彼女は自力で帰ったと答えて頂けますか?」
「構いませんが、いいんですか?」
「いいんです。本日はお騒がせしました」
美羽を背中に背負い直し、高明はバーを後にした。
その後、高明は自分の車で美羽を一関の屋敷まで送り届けた。今まで一度も酔い潰れることなんてなかった娘の醜態に驚く一関夫妻に、マスターと同様に口裏合わせを頼んだ上で後のことは任せた。
自宅への帰り道。車の運転をしながら高明が考えるのは美羽のこと。
酒に潰れて意識なんてほぼないも同然の状態にも関わらず、美羽は景光のことを思って涙を流していた。音信不通になっていた時も、所在に推測が付いて捜索を打ち切った高明と違って、美羽は諦めることなく景光の行方を追い続けていた。
それ程までに美羽は、景光のことを大切に思っていたのだろう。
「美羽。君は、景光のことを──」
高明の小さな呟きは車を打ち付ける雨の音に呑まれて消えた。