長野県警の女関羽 作:長野組推し
長野県警本部が捜査一課にて。お昼休みに入ろうとするや否や美羽は自棄に深刻そうな顔色の由衣に手を引かれて給湯室の陰へと連れ込まれた。
「ちょっと、由衣ちゃん。私、これからお昼なんだけど」
「──美羽姉さん」
「な、何よ急に畏まっちゃって……」
ずずっと真剣な表情の美羽に迫られ、美羽は反射的に身を引く。しかし背後を壁に阻まれて逃げることは不可能だった。
引き気味の美羽に由衣は周囲の人目を気にしながら声を潜めて問い掛ける。
「その……東京で作った恋人に振られたって、本当なの?」
「…………はぁ?」
なんの脈絡もなく投下された爆弾に美羽は背景に宇宙を背負ってしまう。恋人など作った覚えもなければ、振られた覚えもない美羽は由衣が何を宣っているのかさっぱり理解できなかった。
呆けたまま立ち尽くすこと十数秒。やっとのことで意識を宇宙から引き戻した美羽は、気まずそうにしながらも答えを待つ由衣を見返した。
「はあぁぁあ? 東京? 恋人? なんでそんなことになってんのよ?」
全くもって理解できない美羽の頭上に疑問符が浮かぶ。欠片も心当たりがなさそうな反応に尋ねた由衣の方が不思議そうに首を傾げた。
「だって美羽姉さん、東京に何度も行ったと思えば急に上機嫌になったり、かと思えばこの前はずぶ濡れで気落ちしていたりして……東京で恋人ができたけど、遠距離が上手くいかなくて別れちゃったんじゃないかってみんなが噂してるのよ」
「そ、それは……」
東京から帰ってきて機嫌が良かったのは景光に再会することができたから。ずぶ濡れで落ち込んでいたのは景光の死を知ってしまったからだ。しかしそれを馬鹿正直に口にすることなどできず、美羽は返答に窮して──ふと、由衣の発言に引っ掛かりを覚えた。
「待って、由衣ちゃん。みんなが噂してるってどういうこと?」
「みんなはみんなよ。一課のみんなが噂しているのよ?」
「んなっ……!?」
驚愕の事実に美羽は目を見開き、給湯室から一課のデスクを見やる。するとこっそり聞き耳を立てていた同僚の刑事たちが揃って目を逸らした。誰も彼もが美羽のことに関して噂していて、その後の顛末が気になっていたのだろう。
「うそぉ……」
ずぶ濡れで県警本部に戻ったのは美羽である。あの時は景光のことで心身ともに参ってしまっており、自分を心配する同僚たちを気に掛けることもできていなかった。故に同僚たちがこそこそと話している噂話にも気付かなかったのだ。
よもや東京で恋人をこさえた挙句に振られて消沈しているなどと噂が流れているとは思わず、美羽は衝撃の勘違いに頭を抱えてしまう。
「なんだってそんな飛躍した話になってんのよ。恋人云々なんてなんの根拠があって……」
「えっと、それは確か諸伏警部が──」
当時のことを思い返しながら美羽が語る。
曰く、美羽が東京から戻ってきて矢鱈と上機嫌に振舞っていた頃。その様子を訝しんだ由衣を始めとした一課の刑事たちに高明が語ったのだ。
高明曰く、“東京で一期一会の運命にでも遭遇したのかもしれない”と。
その発言によって由衣たちは美羽に恋人ができたと勘違いした。美羽と高明の仲睦まじさを知っている由衣たちは信じられないと思いつつも、上機嫌な美羽の様子に真実を確かめることを憚れた。
勘違いは継続され、そして先日。ずぶ濡れのまま、この世の終わりと言わんばかりの有様で本部に戻ってきたのを見れば、恋人に振られてしまったのではと勘違いしてしまうのも無理はない。
由衣から勘違いの発端を聞き出した美羽はこめかみに青筋を浮かべ、デスクで素知らぬ顔をしている上司を睨み付けた。
「あんのくされインテリちょび髭孔明被れがぁ……!」
「美羽姉さん、顔が大変なことになってる……」
「おっと、失礼……後で締めてやる」
静かに決意する美羽。デスクで書類整理に打ち込んでいた高明の背筋に寒気が走ったのは偶然ではないだろう。
荒ぶる感情を一呼吸と共に吐き出し、美羽は呆れながらも由衣の勘違いを訂正する。勿論、景光に関する部分は適当に誤魔化して。
話を聞くにつれて由衣はほっと安堵したように胸を撫で下ろした。その場の流れで勘違いしていたが、美羽に東京在住の恋人ができたというのは受け入れがたい話だったのだ。
「でもよかった、勘違いで」
「私は全然良くないわよ。みんなの勘違いも訂正しないといけないし」
疲れたとばかりに溜め息を吐く。これから同僚の刑事たちの勘違いを訂正しなければならないことを考えると憂鬱で堪らなかった。
そんな美羽の姿を可哀そうに思いつつも由衣はくすりと笑みを零した。
「じゃあ、もう東京に出向くこともないのよね? 恋人なんて存在しないわけだから」
「──いいえ、東京にはまだ用事があるのよ」
えっ、と声を上げる由衣。東京で恋人を作ったという話がガセであった以上、もう行く必要なんてないのではと思ったのだ。
不思議そうに見てくる由衣から目を逸らし、美羽は真剣な顔付きで呟く。
「大事な用事がね」
▼
東京・警視庁のエントランスにて。休暇を利用して再び東京に訪れた美羽は待ち合わせ相手を待っていた。
待ち合わせの相手は警視庁所属の刑事である伊達航。前もって連絡して都合を合わせたのだ。降谷と警察学校時代の同期であり、公安である降谷に繋がりを付けられるかもしれないと考えて。
スマホで待ち合わせ時間を確認していると、人影が美羽に小走りで駆け寄ってくる。視線と気配に気付いた美羽が顔を上げると、僅かに息を弾ませた女性が目の前で立ち止まった。
「あの、長野県警の一関警部補で間違いありませんか?」
「はい、そうですけど……どちら様で?」
「ああ、私は捜査一課所属の佐藤と言います」
美羽に声を掛けた女性は警視庁捜査一課所属の刑事──佐藤美和子。黒髪ショートの顔立ちの整った美人な女刑事だった。
待ち合わせの相手ではない佐藤に声を掛けられて美羽が不思議そうに首を傾げていると、佐藤が申し訳なさそうに口を開く。
「実は伊達さんに一関刑事に伝言を頼まれて。急な仕事が入ってしまって、一時間くらい時間をずらしてほしいとのことです」
「一時間……」
スマホで時間を確認し、帰りの新幹線の時刻を脳裏で照らし合わせる。一時間程度であればズレたところで問題はないだろうと頷いた。
「分かりました。わざわざ伝えてもらって申し訳ありません」
「いえ、気にしないでください」
「それにしても一時間ですか……どうしましょう」
顎に手を当てて悩ましげに唸った美羽は、ふと伝言を頼まれた佐藤に目を向けた。
「そういえば、佐藤刑事は一課所属でしたよね」
「はい、そうですが」
「では、松田刑事をご存じですか?」
伊達と同じく降谷たちの同期である松田陣平。美羽も介入した渋谷の爆弾魔の騒ぎにも居合わせた松田は、その翌日に起きた爆弾事件によって殉職してしまった。伊達に会う約束を取り付けた時にそれを初めて知った美羽は大層驚いたものだ。
「────っ」
美羽は取り留めのない話を振ったつもりだったが、松田刑事の名を聞いた佐藤の反応は劇的だった。
目を見開き愕然と立ち尽くす佐藤。見開かれた瞳は激しい動揺に揺れ動き、唇は荒れ狂う感情に震えている。
只ならない佐藤の様子に美羽が驚いた直後、佐藤の目元から一滴の涙が零れ落ちた。
「も、申し訳ありません。殉職して間もない同僚の話を聞くなどと、無神経でしたね」
涙を拭う佐藤に寄り添い、その震える肩に優しく手を置いた。
美羽の謝罪に佐藤は小さく首を振り、気丈に笑ってみせた。
「いいえ、こちらこそごめんなさい。松田君とはちょっとあって……」
「親しくされていたのですか?」
只の同僚にしては大袈裟な佐藤の反応から美羽が問い掛ける。小さく頷いた佐藤が涙声で語り始める。
「ええ。と言っても、松田君が一課に配属されて殉職するまでの一週間、一緒に組んでいただけですけど」
「そうなのですね。佐藤刑事さえよければ、お話を聞かせてもらっても?」
初対面の相手に踏み込み過ぎかと思いつつも、泣かせてしまった佐藤を少しでもフォローできればと考えての提案だった。抱えている想いを吐き出すことで少しでも気が楽になるかもしれないと考えたからだ。
「大したことは話せないと思うけど、それでもよければ……」
腕時計で時間を確認してから佐藤は頷きを返す。仕事も一段落しているので、軽い休憩がてら美羽と話すのも問題ないと判断したのだ。
それから美羽と佐藤は殉職した松田刑事について話し始める。主に佐藤が松田との短いながらも濃密な一週間のエピソードを語り、美羽が聞き手に徹する形ではあるが。
歳は近いながらも年下の佐藤に生来の姉貴属性を発揮した美羽によって、佐藤は徐々に平静を取り戻していく。美羽が佐藤の境遇に強く共感を抱いていたのも大きな要因だろう。一週間分の話を終える頃にはすっかり元気を取り戻していた。
話を終える頃にはすっかり意気投合した美羽と佐藤は言葉遣いも砕け、親密に言葉を交わすくらいには仲睦まじくなっていた。
「ごめんなさいね、一関さん。面白くもない愚痴に付き合わせてしまって」
「いーの、いーの。松田刑事が
「ちょっともう、止めてくださいよ」
気恥ずかしそうに笑いながら佐藤が言えば、美羽も釣られて笑みを零した。
楽しげに談笑する美羽と佐藤。その二人の元へと歩み寄る人影が現れた。
「すまん、遅くなった佐藤。それから、一関刑事」
声を掛けられた美羽と佐藤が振り返る。そこには爪楊枝を咥えたがたいの良い男が立っていた。
「伊達さん。仕事の方は終わったんですか?」
「ああ、一応な。後は俺に任せて、佐藤は戻っていいぞ」
「分かりました。じゃあ、私はこれで」
「ありがとね、佐藤刑事。また今度、お茶でもしましょう」
美羽が気さくにそう言えば佐藤も満更でもなさそうに微笑んで手を振り、エントランスから去っていった。
美羽が佐藤の後ろ姿を見送っていると隣に立った伊達が声を掛ける。
「佐藤と随分仲良くなったみたいだな」
「ええ、松田刑事の話で盛り上がったもので」
「……そうか、佐藤は松田と組んでいたんだったな」
横顔に憂いの色を貼り付けて伊達は寂しげに呟いた。警察学校の同期で同じ班に所属していた松田の死は、伊達の心にも少なくない傷を残していたのだ。
「まあいい。俺に話があるんだったよな?」
「はい。できれば場所を変えて話したいのですけど」
「いいぜ。近場に洒落た店があってな。ちょっとお茶でもどうだ?」
「…………」
敢助に負けず劣らずの厳つい顔立ちの伊達から放たれた誘い文句に美羽は面食らってぽかんとする。数秒程固まった後、美羽は堪らず噴き出して笑い始めた。
「なんだよ、急に笑い始めて」
「いえ、その顔でその誘い文句はちょっとギャップが……」
「失礼な奴だな、おい」
くすくすと笑う美羽を伊達は半目で睨んだ。老け顔だのと周囲から言われているが、ほぼ初対面の相手にここまで笑われるのは伊達としても面白くなかった。
一頻り笑い終えた美羽は目元に滲んだ涙を拭うと気を取り直して口を開いた。
「では行きましょうか。伊達刑事お勧めのお洒落なお店に」
「馬鹿にしてねぇか?」
ぼそりと文句を零しながらも伊達はエントランス外へと歩き出した。その後を美羽も置いていかれまいと駆け足についていった。