長野県警の女関羽 作:長野組推し
未宝岳の山中。大雪が吹き荒れる林の中を敢助は拳銃を持って走っていた。敢助の前方には猟銃を抱えて逃走する御厨貞邦がいる。
雪に足を取られながら逃げる御厨は追ってくる敢助を振り返り、顔を引き攣らせて逃げ足を早める。吹き荒れる吹雪の中に消えていく御厨の背中に敢助は舌打ちをし、声を張り上げた。
「待て、御厨ッ!!」
必死の形相で追いかける敢助。甲斐巡査が亡くなってから六年。その死に疑問を抱いてずっと追い続けていた相手だ。逃がすわけにはいかない。
「ひっ、来るな!!」
拳銃片手に凄まじい形相で迫る敢助に恐怖し、御厨は殆ど反射的に銃口を背後に向けた。
白く煙る吹雪の中で耳を劈く銃声が響き渡った。吹雪で視界も悪く、殆ど狙いも付けずに発砲された弾丸はあらぬ方向に飛んでいった。
しかし突然の発砲に敢助は顔を顰めて足を止める。撃たれる危険性を危惧したのもあるが、深追いして御厨が銃を乱射することを恐れたのだ。かつて親友が薬物を服用して銃を乱射した苦い事件が脳裏を過ったのもある。
「くそっ……!」
吹雪も酷くなっている。ここは一度追跡を取り止め、応援に呼んだ上原や後から駆け付けるだろう同僚たちと足並みを揃えるべきだ。頭の片隅に残った冷静な部分がそう訴えていた。
白く染まる視界の中、忸怩とした思いを抱きながら御厨の背中を睨み付けていた敢助は、ふと視界の端に映った車と人影に意識を奪われた。
その車は敢助と御厨が走っている獣道よりも高い位置を通る林道に停められており、人影は突然の銃声に驚いたのかきょろきょろと周囲を見回している。
「おいあんた! 今すぐここを離れろ!」
銃を発砲するほどに追い詰められた御厨に目を付けられては危ないと考え、敢助は車の傍に立っていた人影に叫んだ。
敢助の声に気付いた人影が振り返る。厚手のコートを着込み、フードを被った人影は獣道の途中で足を止めている敢助を見付けるや、手にしていた筒状の何かを構えた。そして──
──ダァァァン!!
再びの銃声が山中に轟いた。
「ぐ、あああぁぁ!?」
予想だにしない発砲と左眼を襲う激痛に蹲る敢助。弾丸が左眼を掠め、だらだらと鮮血が流れ落ち真っ白な雪原を赤く染めた。
左眼が訴える激痛と燃え盛るような熱に顔を手で抑えた敢助は、耳朶を叩く地鳴りのような音に顔を上げる。残された右目の視界に映ったのは、迫りくる白い波濤だった。
雪山において最も恐れられるだろう自然災害──雪崩だ。恐らくは二度の銃声によって誘発されてしまったのだろう。
津波の如く押し寄せる自然の脅威に敢助は撃たれた痛みで動くことができない。ただ呆然と迫る純白の壁を見ていることしかできなかった。
雪崩が敢助を無慈悲に吞み込む。その直前、敢助の耳に聞き馴染みのある女の声が届いた。
「敢助──!!」
敢助が純白の瀑布に呑まれる寸前、飛翔するように雪原を疾走する影が敢助に飛び付いた。しかし雪崩はそんなもの関係ないとばかりに全てを押し流してしまった。
林道の上から強風で剝がれてしまったフードを被り直した人影が、雪崩が巻き起こった眼下を見やる。
人影は広範囲に渡って樹木も何もかもが薙ぎ倒され、押し流された周囲一帯を確認し、その手に持つライフルカバーの掛けられた銃を握り直した。
▼
敢助を襲った雪崩が発生してから数時間。吹雪が弱まり始めた山中を、美羽は敢助を背負いながら歩いていた。
深く積もった雪をしっかりと踏み締め、荒い息を吐きながら美羽は下山するべく必死に歩みを進めていた。その身体に目立った外傷はないが、敢助諸共雪崩に巻き込まれた際の衝撃や全身打撲の痛みが心身を蝕んでいる。
高明と由衣を残して吹雪が吹き荒れる未宝岳に突入した美羽は、間もなく山中に轟いた銃声の元へと一目散に向かった。吹雪で悪い視界も足元も物ともせず疾走した美羽の耳に二発目の銃声が聞こえ、その音を頼りに敢助の元に辿り着いたのだ。
やっとの思いで発見した敢助は負傷したのか血を流していた上、今まさに雪崩に吞み込まれようとしていた。
負傷した状態で雪崩になんて巻き込まれようものなら命はない。焦った美羽は衝動のままに飛び出し、敢助を庇いながら諸共に雪崩に呑み込まれ流されてしまった。
女関羽と謳われる美羽であっても雪崩には敵わない。しかし運は良かった。雪崩に巻き込まれながらも美羽は生存し、自力で雪を掻き分けて敢助とともに脱出したのだ。代償として全身を激しく打ち付け、立っているのもやっとな状態にまで陥ってしまったが。
一方、美羽共々雪崩に巻き込まれた敢助は酷いものだ。雪崩に呑まれる前に負った左眼の負傷は言うまでもなく、雪崩の衝撃で左足が折れてしまっている。美羽が上着を破って左眼を止血、適当な枝木を添え木にして応急処置をしたが、一人で歩くことは不可能だろう。そもそも意識が戻っていないので受け答えすらできないのだが。
意識不明重体の男を背負って美羽は麓を目指して歩みを進める。幸いなことに吹雪は弱まり始め、視界や足元の状態はマシになりつつある。一課の刑事たちが捜索隊を手配している可能性を考慮すれば、一時間以内には麓に戻れるだろうと考えていた。
全身から訴えられる激痛を堪えながら歩いていると、背中に背負った敢助が微かに呻き声を上げた。
「敢助?」
「ぅ……」
小さく呻く敢助の声に耳を傾ける美羽。美羽の華奢な背中に背負われた敢助は無意識のまま、譫言のように呟きを洩らす。
「由衣……俺は、甲斐巡査を……」
「…………っ」
はっきりと聞こえた呟きに美羽は怒りに顔を顰めた。
「そんなに大切に思ってるのなら、こんなとこでくたばってんじゃないわよ。由衣ちゃん泣かせた責任、絶対に取らせてやるから覚悟しときなさいよ、バカンスケ……!」
敢助が無事だったならばぶん殴っていたと言わんばかりの声音で呟き、美羽は麓を目指す歩みを早めた。一刻も早く下山して敢助を病院に送り届けるため、幼馴染の無事を待ち侘びている由衣と高明の下に帰るために。
歩く衝撃に顔を歪めながらも力強く足を踏み出した美羽は──背筋を貫いた特大の悪寒に顔を引き攣らせた。
転生時に授けられた直感が命の危機を訴えている。美羽は迷うことなく敢助諸共雪原に身を投げた。
直後──美羽が倒れ込んだすぐそばの雪面が銃声と共に弾けた。
「まさか、御厨!?」
即座に立ち上がった美羽は銃弾が飛んできた方向を見やる。しかし視界に映るのは無数の林木だけで発砲した相手の姿は見えない。
「くそっ、死なせてたまるかっての!!」
立ち止まったままでは一方的に撃たれるだけだ。美羽は歯を食いしばって全力で走り出す。そんな美羽たちを容赦のない銃撃が襲う。
雪面が弾け、近くの樹木が銃撃に裂ける。次から次へと撃ち込まれる銃弾を美羽は直感をフル活用して避け続けた。だが大の男を背負った状態、なおかつ全身を激しく打ち付けた状態で無理な逃走を続ければどうなるか。答えは明らかだった。
「う、くぅ。足が……!」
限界を迎えた美羽がその場に膝を突く。立ち上がることすらできない激痛が足首に走った。逃走も回避もこれ以上は不可能だ。
蹲った美羽の背筋に再び悪寒が走る。逃げなければ無慈悲な凶弾が敢助ごと己を貫く。それが分っていてももはや美羽に打つ手は残されていなかった。
(撃たれる──!)
敢助を庇うように抱き寄せ、思わず美羽は目を固く瞑って──林の中に乾いた筒音が鳴り響いた。
目を瞑り身体を強張らせていた美羽は、いつまでも衝撃が襲いこないことに首を傾げた。外れたのかと顔を上げたところで、林の中に女性の切羽詰まった叫び声が響いた。
「敢ちゃん! 美羽姉さん!」
「え、由衣ちゃん!?」
拳銃を構えて駆け寄ってくる由衣の姿に美羽は驚いて目を見開いた。
由衣は息を弾ませながら美羽と敢助を庇うように立ち、片手で拳銃を林の先に向ける。そしてもう片方の手でスマホを耳に宛がった。
「諸伏警部。そっちはどう?」
『敢助君と美羽を襲っていた相手は、私の牽制の一発を受けて逃走しました。後は応援に任せましょう。この山は既に、完全に包囲されていますから』
「了解」
高明との通話を切った由衣は拳銃を下ろすと、座り込んだ美羽を振り返り安心したように笑みを浮かべた。
「間に合ってよかった、美羽姉さん」
「由衣ちゃん……そうだっ、敢助が!」
血相を変えて美羽が叫べば、由衣も状況を察してすぐに敢助の傍に駆け寄った。
美羽が抱えていた敢助に由衣は慌てて駆け寄り、その酷い怪我の状態を見て顔を青褪めさせる。
「か、敢ちゃん。しっかりして、敢ちゃん!?」
美羽に代わって敢助を支え起こした由衣が必死に呼び掛ける。すると今まで全く意識を取り戻す気配のなかった敢助の右瞼が微かに震えた。
「……由衣?」
薄瞼を開き掠れた声で名を呼ぶ。蚊の鳴くようにか細い声であったが、由衣がその声を聞き逃すはずもない。
「敢ちゃん!」
辛うじて意識を取り戻した敢助に由衣は喜色満面の笑顔を浮かべた。傍に座り込んでいた美羽も安堵したように胸を撫で下ろした。
「すぐに麓の病院に敢ちゃんを連れていきましょう!」
「あ、待って由衣ちゃん。足が折れてるから無理に動かすのは──」
肩を貸すような姿勢で運ぼうとする由衣を止めるために立ち上がろうとして、かくんと力が抜けて崩れ落ちる。あわや雪原に倒れ込みそうになったところで、横合いから伸びた手が美羽の身体を支えた。
え、と顔を上げるとそこには切れ長の瞳を怜悧に細めた高明が、倒れかかった美羽の腕を掴んで支えていた。
「こ、コウメイ……」
「怪我の具合は?」
「えっと……目に見える怪我はないと思う。うん」
敢助のように出血もなければ骨折もない。ただ、全身打撲と積み重ねた無理が祟っているだけだ。常人ならばベッドから一歩も動けなくて当然の状態ではあるのだが。
爪先から頭までを具に観察し、怪我がないことを確認すると高明は美羽を支えつつ立ち上がらせた。
「支えがあれば歩けますか?」
「なんとかいけそう……」
「分かりました。由衣さん、美羽をお願いします。敢助君は僕が背負いましょう」
「ええ、分かったわ」
敢助をゆっくりと下ろし、由衣が美羽に肩を貸す。代わりに高明が敢助を背負い上げた。
「ごめんね、由衣ちゃん。迷惑かけちゃって……」
「いいのよ。美羽姉さんが助けに行ってくれてなかったから、敢ちゃん、今頃どうなってたことか分からないし。あ、でも」
美羽に肩を貸しながら歩く由衣の目が、敢助を背負って少し先を歩く高明へと向けられる。
「諸伏警部、めちゃくちゃ怒ってたから、覚悟しておいた方がいいわよ」
「うっ、そりゃそうよね……」
思わず小さく呻いて美羽は前を見る。先を行く高明の表情は分からない。ただ、怒っているのは間違いないだろう。
後で何を言われるのか、想像するだけで美羽は憂鬱な気分になった。
その後、美羽たちは同じく山に踏み込んでいた捜査員たちと合流。無事に下山し、そのまま救急車で付近の病院へと運ばれていった。