少年はもがいた。
不思議な空間にたった一人漂っている。
それは夜そのもののようで、周りを見渡すと満天の星空が上にも下にも展開されており、丸い月が頭上にふんわりと浮かんでいる。
月は煌々と輝き、少年を見つめ優しく包み込むようで、それがなぜか心地よかった。
少しすると少年は異変に気付いた。
腹から足にかけて、どろりとした何かがまとわり付いている。
それは腹の中心から流れ出ているようで、手で塞いでみたが止まらなかった。
少しづつ、少しづつ身体から熱が抜けていくような、不思議な焦燥ばかりが募る。
熱が抜けるたび、意識が曖昧になり、身体の自由も奪われてゆく。
すると突然、声が聞こえる。
《――――ボクは―ーキミと繋がった》
知らない声。少年のような、少女のような。
「あ……ぐ……」
しかし、声が出ない。虚ろな意識の中、必死に顎を震わせる。
《背負わせてしまうけれど、やっと見つけたんだ。ごめんね》
声の主は一体誰なのか。何故自分はこんな所に居るのか、そもそも居るという表現が適当なのか……現実なのか夢なのか、それとも――――そんな事を思案していると……
(体が……)
不意に体温が戻る。
体の自由も少しづつ戻って来る。
しかし、それと同時に月の明かりが徐々に消えていった。
少年はそれがなんだか悲しくて、手を伸ばした。
「待って……いか……ないで……」
懇願も虚しく、月は少しづつ朧げになり、終に消えた。
暗闇に包まれた空間には美しい星々だけが瞬いている。
頬に伝う温かい涙がその光を反射してにわかに閃き、静寂と不安が胸を突いた。
《さあ、行って。しばしのお別れ》
声の主は一方的に別れを告げた。
「――――!!」
布団を蹴り上げ飛び起きた少年の名は、ソル・ウェスペル。心臓は跳ね、額には季節外れの汗が滲む。
「……変な夢……」
そう独り
直後、ハっとして隣を確認するが、寝ているはずの人がいない。ぬくもりも既に抜けている。
「ああ、もう!」
少年の寝室には一切の光が無い。窓には板が打ち付けられており、徹底的に光を遮る工夫がされてあった。
しかし、彼は暗中にもかかわらず、まるで全てが見えているかのように淀みなく動く。質素な上下に着替えを済ませ、闇に包まれた鏡を
吸い込まれそうなほど黒い髪、瞳。その目元を覆い隠すように伸ばした前髪。全体的に野暮ったい
ぴょんと跳ねた寝癖を手櫛で
すると、唐突に扉が開き、朝日が差し込む。
「――――ソル?」
低くしわがれた、老人の声。
「うわあ! 起きてるよ! すぐ行くから!」
矢の如く突き刺す朝日にソルは思わず腕全体で光を遮った。
「すまんすまん。
(急がなきゃ)
ごしごしと両目を拭い、てきぱきと身支度を終え扉の前で大きく息をする。
目を閉じ、意識を集中する。
すると、ぴんと空気が張り詰め、水面を打ったかのように部屋中の空気が震えた。
「…………」
やがて、空中にじわじわと闇よりも黒い
それは、まるで夜を圧縮したかのような暗さを持ち、世界を塗り潰してしまうかの様な、全てを吸い込んでしまうかの様な、遠近感を狂わせる程の闇だった。
一つ一つ意思を持つかのように、さながら大量の蛆のようにもぞもぞと
日中、ソルは自身の瞳に魔術を行使し続けている。
光を遮る魔術。
この術がないと目を開けることもままならない。
「……よし」
寝室の扉を開くと再び朝日が差し込む。
短い廊下を抜けた先にある台所に入ると、小さな食卓にはパンや鍋が置いてあるのみで、先程の声の主は庭に居るようだった。
いつも通り硬い黒パンをスープに浸し、口に放り込む。チーズや、スープに沈む細かくなった野菜類も手早く口にかき込み、外へ出る。
木造りのボロ屋を背に庭に出ると、少年を起こした主は
「じいちゃん、おはよう。今朝は少し暖かいね」
「ああ、おはよう。今朝のスープは美味かったろう。エマさんにレシピを教わってな」
「うん! いつもありがとう」
たった一人の家族。ソルの祖父であるアルフ。
白髪を短く切り揃え、薄汚れたボロの作業着を身にまとう。
健康的な浅黒い肌、茶色の瞳。両手は土で汚れている。
アルフはソルにとって唯一の家族だ。
母は五年前、父はソルが生まれる前に、祖母はもっともっと前に死んでしまった。
今年で九つになるソルは、アルフと二人暮らし。決して裕福とは言えない。でも、ソルはこの暮らしが好きだった。
「もう畑仕事は終わり? じいちゃんが起きるとき一緒に起こしてくれたら良かったのに」
「日も登らないうちにか? よく寝ないと大きくなれないぞ」
「いいの! 少しづつ暖かくなってきたんだし忙しんでしょ? 手伝わせてよ。それに、じいちゃんこそ昨日も遅かったくせに」
「じいちゃんはお前ほど寝なくても良いんだ」
「えー……嘘ばっかり」
「それに学校もあるんだから、そこで精一杯頑張りなさい」
「僕は行かせてなんて頼んでないもん。じいちゃんと働いて、稽古して、じいちゃんみたいな強い剣士になって狩人する。勉強なんか出来なくても生きていけるし。もっと稽古増やしてよ」
「またそんな事を……お前は賢い。剣より筆で食いなさい」
何度このやり取りを繰り返しただろうか。
アルフとの稽古は純粋に好きだったが、正直なところ剣士なんてどうでも良かった。
老体に鞭を打ち、ソルの学費の為に昼も夜もなく働く祖父を見ると、自分の無力感に歯噛みした。
アルフの背中がどんどん年老いていくような気がして、申し訳ないような、焦れったいような気持ちになる。
祖父はソルが小さい頃から戯れに剣技を教えてくれたが、今は少しだけ後悔しているようだった。
せめて、学費が無くなれば……そう思っていた。
「そろそろ学校へ行く準備をしなさい。じいちゃんも頑張るからお前もしゃんとするんだ」
「もう……はぁーい」
城壁に囲まれた町、サイノン。
都市と言っても差し支えのないほど多くの人間で賑わっているこの町において、ソルの家は南の高台へ隔離された貧民街にある。
木造りの家々、あんぐりと口を開き虚空を見つめる浮浪者。
いつもの光景を尻目に町の北側に位置する学校へ向かう。
肩を落とし背中を丸め、石造りの家々で構成される庶民街の隙間を縫うように歩く。
本来であれば活発であろう男児が自信なさげに歩く姿は異様である。しかし、住人にとってはもう見慣れた光景だった。
「…………」
誰も気には止めないが、それでも誰かに見られているような気がして、背中を丸めて歩いた。
(魔術師だ……)
すると、二人の魔術師とすれ違う。
「今夜は新月か……
「ああ、とりあえず破壊された街灯の代わりを用意しよう」
彼らの切迫した声が耳に入って来る。そこで出た『
瘴霧とは、魔物を生み出すとされる黒い
夜の間、どこからともなく発生し、魔物を放出、朝日と共に魔物共々消えてゆく。多少の対策は出来るにしろ、原因はほとんど解明されておらず、とにかく恐ろしい物という共通認識だけがある。
それは、ソルが魔術で生み出す
彼らがそんな事知る由もないだろうが、無意識に体が反応した。
何故一目で彼らを魔術師と認識できたのか。
それは、彼らの人間離れした色の髪や瞳が見えたからだ。
一人はレンガの様なくすんだ赤、もう一人は未熟なオリーブのような暗い緑。火を操る者と、風を操る者だろう。
それは実力が突出しているほど鮮烈な色へと変貌し、最高水準の魔術師となればそれはそれは、目の覚めるような色になるのだろう。
ソルは、瞳も髪も真っ黒だ。
瞳は夜のように黒く。それを隠すため長く伸ばした前髪。
その髪も、瞳と同様に光を吸い込む程の深い黒。
元々髪は栗色で、瞳も似た茶色であった。それが五年前、母の死を境にたった一晩で変質してしまった。
通常長い時間の鍛錬の果てに徐々に変化するのが通例。それを一遍に、それも黒に変色するとなると、聞いたこともない異常なことだ。
当時住民は大変不気味がり、またたく間に噂は広まった。
「悪魔と契約した」「神に背いた」「母を殺した」
幼いソルの心へ大きな傷を与えるには十分であっただろう。
今でもソルを怪訝な目で見る大人は絶えない。
もちろんアルフの耳にも入ったはず。だが、だからこそ、祖父は無理をしてでもソルを学校へと通わせるのだろうと思う。
「……わかってるよ……でも……」
そう独り言ち、小さな背中を丸め学校に到着すると、校門に人だかりが出来ていた。
(昨日の魔物……学校に出たんだ……)
聞き耳を立てると、どうやら昨晩発生した魔物が校舎の一部を破壊してしまったらしい。今日は休校のようだ。
(どうしよう……じいちゃんも仕事だし……)
とはいえ、ここでじっとしている訳にもいかない。
休校にいくぶんか肩を落とし、踵を返すと良く見知った顔が見えた。
「あっ! ダリル君!」
「よお! ソル!」
町長の息子で、ガキ大将であるダリル・フォルティスが立っていた。
彼は快活で、おおらかで、好奇心旺盛なソルと同い年の男児だ。
誰にでも分け隔てなく接するダリルのおかげで学校は楽しく、ソルの小さな楽しみであった。
「今日は休校だってよー! ラッキー!」
良くも悪くも、彼の粗雑な部分がソルには心地よかった。
数年前、入学直後、同級生達はソルに対して距離を取っていた。
どうやら皆親に『
しかし、それをダリルが一喝した。
『ダッセーな! みーんなパパママの言いなりかよ!』
そんな言葉に救われた。
おそらく彼も例外無く親に何か言われただろうに、そんな事おくびにも出さず、しれっとそう言ってのけた。
彼は、きっといつかこの町を正しく導く素晴らしい指導者になるだろう。
そう思わざるを得なかった。
「ダリル君はこのまま帰るの?」
「まぁな! 父さんが勝手に家庭教師呼びやがってよー! 休校だからって遊ばせないんだってよ! 今夜家抜け出してやろうかなー……それよりさ、王都に所属不明の無人巨大戦艦が漂着したって噂、聞いたか!?」
「あー。あれ、本当なのかなぁ?」
ダリルはこの手の噂がとても好きで、いつかこの町を出るつもりだと常々言っていた。
「本当だって! まぁ今日は時間ないから行くわ! また明日話そうな!」
「うん! バイバーイ!」
そう言って彼と別れ、帰路についた。
ソルは毎日帰り道を細かく変えていた。
人目を分散させたかったからだ。
やはり、同級生達の元を離れると心細く、足早にそそくさと歩く。
しかし、それでもいつもと違う時間の帰路は新鮮だった。
町は何だか落ち着かない様子で、あちこちに人だかりが出来ており、それを避けながら帰るうち、普段はあまり使わない道に差し掛かる。
ふと、その路地の奥からパンの焼ける甘い匂いが漂ってきた。いつもなら気にも留めないのに、なぜか鼻をくすぐるその香りが、ソルの心をわずかに揺さぶった。
直後、激しい衝突音と男の怒鳴り声が響く。
「なんだ…?」
心臓がドキリと跳ねた。変則的な一日に、不思議な高揚を覚えたのだろうか。知らず知らずのうちに足が音のする方へ向かっていた。
そこには井戸があり、二人の人影が見えた。
「おい爺さん! これ、洗っとけって言ったよなぁ!」
一方の男が、しゃがみ込む老人に靴のようなものを投げつけた。
「ですから、奥方様から仰せつかった仕事を終えましたらと……」
「ああん!? 口答えしてんじゃねえよ! さっさとやりゃあいいんだよ!」
「はい、申し訳ございません。すぐに……」
「ったく! これくらい出来てもらわなきゃ困るんだよ!」
丸々と太った中年男性が、老人に悪態を付いていた。
ソルの足は釘付けだった。
心がざわつき、得も言われない怒りに似た何かに支配された。
背中を丸め、頭を下げる老人が