その老人――――アルフがなじられる姿を見て、居た
厳しくて、優しくて、温かくて強い。何処までも偉大で、ソルの目標だった。
たった一人の家族。ソルにとっては、世界そのものと言っても良かった。
そんなアルフが――――
なんとなく頭では分かっている。
きっと「金を稼ぐ」という事は、そういうものなのだろう。
時として若輩に頭を下げ、自分を殺し、しがみつかなくてはならない。
そう……分かっている。分かっているつもりなのだ。
だけど――――
(僕のせいだ……僕のせいで……お金が要るから……やっぱり……僕は)
情けなくて、怒りを覚えた。
「――――あれ? ソル君? どうしたの?」
帰り道の途中、同じ貧民街に住む娘、ララが桶を抱え不思議そうに話しかけてきた。
「……あ……学校、休みだって。昨日の夜、魔物が出て校舎が少し壊れたみたいで」
「ん、そっか。今夜は新月だもんね。
……ソル君? なにかあった?」
「――えっ? いや、ないない! なにもないよ! それよりほら! ねっ! 今日はたくさん勉強できるよ!」
初めてみた祖父の小さな背中に動揺が収まらず、知らず知らずのうちに態度に出ていたようだ。
ララはソルと同い年で、幼馴染の女の子。学校へは行っておらず、家業の手伝いをしている。
栗色のおさげと、そばかすが特徴の快活な女の子だ。
彼女は知識欲が強く、以前読み書きを教えた事をきっかけに手が空けば教鞭を執っていた。ララの両親も歓迎してくれている。
「やったぁ! 早くお仕事終わらせるね! 今日は現代史の続きね! ソル君一回帰る?」
「ん……いや、このまま待とうかな」
ぱあっと明るくなるララの顔を見て、なんだか少し、ほっとした。
「――――そっか、
「うん、どっちの種族も昔の戦争が主な原因。それに、元々の数も多くなかったみたいだよ。高名な学者さんによると、戦争がなくても
「へー……どっちの種族もすっごい長生きなのにね。不思議だねぇ」
ララの自宅の居間にて、二人並んで本を広げる。
彼女の木造の家は殆どソルの家と同じ間取りだ。
しかし、やはり男二人の家と違いどことなくこざっぱりとしていて、整然と並んだ調理器具が
「そういえば、じいちゃんがエマさんに教わったスープ、凄く美味しかったよ」
二人で笑うこの時間はとても好きだ。
どこにも、誰にも気を遣うことも無く、お互い高め合っている気がする。
夢中になって教えていたら、いつの間にか太陽が傾き始めていた。暗くなる前に帰路につかなくては。
「ねぇ、ソル君は勉強して将来何を目指してるの? やっぱり学者さん?」
帰り支度の途中、不意にララが口を開く。
「ん……いや、僕は……そうだな、そうだね。学者さんかな」
思わず言い淀む。
「そっ……か。いつか町を出ちゃうのかなぁ。私も学校……行ってみたいなぁ」
ララの顔に少しだけ影が落ちる。彼女は賢い。教えたら教えた分だけ吸収し、それを元に様々な疑問を持ち、鋭い質問をぶつけてくる。
学校は楽しい。
彼女の両親さえ良ければ、一緒に通えたら……
「またね」
考えたところで答えは出ず、何となくばつが悪くなってしまったソルはぶっきらぼうに挨拶を済ませてしまった。
「……うん。ソル君、何かあったら聞くから……話してね?」
「……ありがとう」
去来する不安を胸に、ララの家を後にした。
少し歩くと自宅が見えてくる。短時間で辺りはだいぶ暗くなっていた。
日の入りを目前に、等間隔に並んだ街灯に橙色の火が灯る。深い闇と、ある程度の広さが瘴霧の発生条件とされているため、徹底的に闇を潰す工夫がされている。それは魔術によって緻密に管理されているらしい。
すると、自宅の程近くで若い男に声を掛けられた。
「もうすぐ日の入りだぞー。早く帰れよー」
彼はワット・シアーズ。
この町の衛兵で、ソルを気にかけてくれる数少ない大人の一人だ。
登校、下校の際によく声を掛けてくれる。
赤茶の髪に、端正な顔立ち、槍を携えたその腕には特徴的な入れ墨の様なものがちらりと見えていた。
「ワットさん。こんにちは。何でこんなところに? 珍しいですね」
「いや、まぁ、少し用事があってだな」
「用事って?」
「ほら、今夜は新月だろ? 警備のことで色々あってな」
通常、衛兵は貧民街を警備しないのだが、何かよっぽどの事があったのだろうか。
彼は多くを語らず、そそくさと何処かに去っていった。
貧民街では自衛が求められている。
そのくせ、夜警には駆り出されるのだから困ったものだ。
自宅の前に来ると、煙突からは煙が上がり、窓からは灯りが漏れている。既にアルフは帰ってきて居るのだろう。
戸口の先、短い廊下の最奥にて足を止め、少し
(言おう……ちゃんと……今日こそ、はっきりと)
「ただいま」
扉を開けると、馴染んだ光景が飛び込んでくる。
埃っぽい居間は薄暗く、台所では鍋が煮え、食卓には食器が並ぶ。
「おかえり」
アルフは台所で作業をしていたが、手を止め、こちらへ歩み寄る。
「学校、休みだったんだろう? ララちゃんの所に居たようだが」
辛い思いをしたであろうアルフは、いつも通り優しい笑顔で迎えてくれた。きっとこれまでも、山ほど苦労をかけたはずだ。
祖父はその片鱗すら見せず、常に機嫌よく振る舞ってくれている。
普段であれば、見ただけで安心するはずの笑顔を見て……
「……ソル? どうした?」
食卓にもつかず、その場で立ちすくみ肩を震わせるソルに、困惑したアルフが顔を寄せる。
「……じいちゃん……僕、やっぱり学校辞める。働くよ」
精一杯声を絞り出す。
いつもであれば、間髪入れずに諭されてこの話は終わる。しかし、ソルの異様な態度に、なおもアルフは困惑している。
厚い前髪から覗く潤んだその瞳には、決意が宿っていた。
「……そうだ。毎日畑仕事してさ、剣の稽古だって今より沢山して、強い男になる! じいちゃんにだって負けない男になる! ほら、衛兵として雇ってもらうよ! 狩人もいいな! 何でもやるよ! ね、だから――」
「……ソル」
低く、力強いアルフの一喝。同時に大きな両手で肩を力強く掴まれた。
「……何度も言わせないでくれ。お前に必要なのは教養だ。今学校を辞めなんてしたら……将来のお前が困るんだ。わかるだろう? お前には幸せになって欲しいんだ」
ソルは十分理解していた。だが……それでも。
「じいちゃんは
この話も何度も聞いた。そして何度も折れた。
だけれど、今日は違った。
「でも……それじゃあ、じいちゃんの幸せはどうなるの……? 僕が働けば生活だって楽になるでしょ? じいちゃんとだってもっと一緒に居たいよ」
少々姑息な言い回しかもしれないが、嘘ではない。勉強も学校も楽しい。だが、アルフの幸せと天秤にかけられるような物ではない。
「……子供はそんな事考えなくて良いんだ」
「――――っ! またそうやって自分だけで背負いこむんだ! 確かに僕はまだ子供かもしれないけど……僕だってちゃんと考えてるよ!」
議論の余地もなくバッサリと切り捨てる様な言い分に、苛立ちを抑えられなかったソルは声を荒げる。
「僕はっ! 僕はじいちゃんがあんなにつらい仕事してるなんて知らなかった! 嫌だよ! あんなじいちゃんは嫌だ!」
ここまで言って、ソルは口を滑らせた事に気づいた。
「ソル……お前……」
概ね察したであろうアルフは、決して感情的にならず優しい声で諭すように続ける。
「じいちゃんはな……十分幸せだ。お前のような聡く優しい孫に恵まれて……今だってじいちゃんを気遣って泣いてくれているんだろう? これを幸せと呼ばずになんと呼ぶんだ? ……ソル。聞き分けなさい」
「でも……だからって……!」
言葉に詰まる。
アルフは真っ当で、理路整然だ。だけどソルの感情がそれを認めようとしない。
嫌だ。とにかく嫌だ。嫌なんだ。
自分の為に祖父が磨り減り、命を燃やすことが許せないのだ。
「――――っ!」
「ソル!」
居間を飛び出し、寝室の毛布に
少しして、扉の外からアルフの気配を感じた。
しかし、彼は寝室に入っては来ない。
「今夜は新月だ。じいちゃんは
ソルは、返事をしなかった。
「うわぁ!」
びくんと全身を震わせ、毛布を蹴り飛ばした。
外ではけたたましく、甲高い警鐘が鳴り響いている。
どうやらあのまま眠ってしまったようだ。
防壁内へ魔物の侵入を許したか、街灯に何かしらが起きて瘴霧が発生したという所であろう。
通常であれば、予め石造りの教会等への避難が推奨されるが、貧民街の人間はそれを許されない。なので、家に籠もるしかない。
すっかり覚めて目をぎゅっと瞑り、真っ暗な部屋で不安を抱え丸くなっていると、不意に部屋の空気が張り詰める。
上体を起こし、耳を澄ます。
まるで水中に落ちたかのように鐘の音が遠くなる。
『――――・・・――――・・・』
(なに……?)
突如、微かに声のようなものが聞こえる。部屋を見渡しても、あいも変わらず闇が包むだけ。突然の事に狼狽えてしまうが、事実、聞こえている。
部屋の隅、足元、腹の底、耳の後ろ、頭の中。どこからともなく、子供のような大人のような、男性のような女性のような、掴みどころのない声が響いている。
『――アルフが――――・・・――』
『――――・・・――急いで――』
既視感の正体は、この声だ。今朝の夢と同じ声。
通常であれば不気味さを覚えるはずが、不思議とソルは冷静だった。
母の顔を思い出したからだろうか。
しかし、それよりも内容が気になった。
「……じいちゃんが……どうしたの……?」
『――――危ない――――急いで――――』
「ど……どういう事?」
瞬間、張り詰めた空気がもとに戻り、再び警鐘が耳を
どっと全身に汗が滲み、嫌な予感に頭が支配される。
心臓が肋骨を激しく叩き、うまく呼吸できない。
謎の声の言葉は荒唐無稽のようだが、なぜだか真実であると確信が持てた。理由は分からない。
ただ、ソルの心を動かす、何か気迫のようなものを感じた。
とにかく寝台から飛び降り、着の身着のまま家を飛び出した。
何があるか分からない。せめてもの慰めに農具入れから
広大な町からアルフを見つけるには、文字通り
警鐘の乱打は未だ止まず、ソルの危機感を大いに煽った。遠くからは悲鳴とも咆哮とも取れる声がする。その様子から、瘴霧は貧民街で発生した訳では無いようだった。
「はぁっ、はぁっ……よしっ……」
器用に無人の櫓を登り、町を見渡す。
街灯が転々と輝くが、いつもより明らかに少ない。それに、一つ一つの光りも弱いようだ。
しかし、今は好都合。ソルの瞳は特異な能力を持っていた。
魔力を集中し、目を凝らすと深い闇を見通す事ができる。
光に弱くなった代わりとも言うべきか、それは見通すなどという
(まさか……そんな……)
ソルの目が捉えたのは、巨大な魔狼だった。
町のあちらこちらを転々と
戦況は一進一退のようで町人を庇う余裕など無いように見える。幾度も新月を越えてきたこの町だが、今回は明らかに被害が大きい。
(じいちゃん……どこ……!?)
アルフは若い頃戦士として名を馳せたらしい。それはそれは勇猛だったと聞いている。
だが、それは昔の話。特殊な
(くそっ……くそっ……!)
ソルの目を持ってしても流石に建物を透過して見ることなど叶わない。とにかく、ここから見える範囲でアルフを探す。
焦燥に駆られていると、目の奥で何かが蠢めいた。
『―――・・・――――・・・―――』
同時に、微かに聞こえた
内容は聞き取れないが、何かを訴えているように聞こえる。
「どこ!? ねえ! 知ってるんでしょ!?」
声はこちらの呼びかけに答えることは無かったが、ソルは一つの異変に気づいた。
「なんだ……あれ……」
遠くに
(――あれだ!)
町の中央、開けた場所にて子供を庇い、自身より遥かに大きな魔狼に追われるアルフを目視する。
得も言われぬ悪い予感が拭えない。
魔物と戦った事など無い。力れなれるはずもない。だが、選択肢は一つであった。
「――――ソルくん! 何してるの!? 外は危ないよ! こっちへおいで!」
櫓を降りると、隣家のララと母親が窓からこちらへ声をかけてきた。この状況で声を荒らげるなど危険でしかないだろうに、それでも構わずソルを招いてくれた。
「……ありがとうございます……でも、ごめんなさい!」
「ソルくん!」
少年はその声を振り切り、闇夜へと消えた。