「………ん~、今日は一段と、月が綺麗だなぁ」
――――その日の夜は、この冬の最盛の季節では珍しく、雪は降っていなく、空には雲一つかかっていなかった。
どこまでも広がる黒い空は巨大な黒い画用紙の様に。
画用紙には、所々に小さな穴が開いていて、その中心に、鎮座するように一際大きな穴が空いている。
穴からは黄金の光が差し込んで、黒い画用紙に囲まれて居る暗い空間の、地面に広がる白銀を映し出す。
白銀は黄金の光を写し取って、それを元あった場所へと跳ね返していた。
黄金と、黒と、白銀が形成する世界。
そこには他の色が入る意味も、その余地も無い。
ライラはそう思って、嬉しそうに、楽しそうに、懐かしむように、空を見上げた。
「あはは。こんなに綺麗な月を見たのなんて、本当に久しぶりだなぁ。………出来ればこのまま、何事も無くて、楽しいお月見のままで終わってほしいけど………」
ライラはそう言ったのと殆ど同時に、遠くの方で小さな叫び声が聞こえる。
それは、昼間のライラだったら聞こえていなかった筈の声。
今が夜だったからこそ聞こえてしまった声。
それを聞いたライラは、少しだけ諦めたように苦笑を浮かべる。
「やっぱり、こうなるか~。………さて、と。折角の景色を台無しにする、無粋な妖怪を懲らしめに行こっかな~」
ライラはそんなことをおどけたように呟くと、ばさり、と純白の、天使のような翼をはためかせて宙に浮く。
そしてそのまま声がした方に体を向けると、もう一度翼をはためかせて、声のした方へと向かって行った。
◆
「――――ぁ!………はぁ、はぁ……は…………っあ」
辺りに落ちた暗闇。
月と、星と、足元の雪だけが光を放つその道を、少女は全速で、転ぶことも、疲れることも、自分が走っていく先に何があるのかも考えずに走り続ける。
「はっ……はっ………はぁ…………っ」
……………最初は、ただの好奇心だった。
大人達は何時も、人里から一人で外に出て行ってはいけない、特に夜には、例え大人と一緒だったとしても人里から出てはいけない、と言っていた。
理由を聞けば、怖い妖怪が出るから、食べられてしまうから、とそう言っていて………少女はその答えに満足出来なかった。
だって、少女は産まれてから十年間、一度も妖怪、というものを見たことが無かったから。
妖怪、とだけ言われても、いまいちよく分からなかったから。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…………!」
だからこそ、今日の夜になって、こっそりと家を抜け出して、人里の外に出た。
…………最初のうちはとても静かで、大人達の言ってることなんて、嘘なんだと思ったりもした。
でも、そんな思いはすぐに消えた。
………文字通りの、『怪物』を目にしたことで。
「はぁ……はぁ……はぁ…………!」
少女はそんなことを思いながら、くるりと首だけを回して、自身の背後を確認する。
………やはり、『それ』はまだ彼女のことを追いかけていた。
――――一見、蛙のように見える、少女の何倍もある大きな体に、口から覗く巨大な牙の群れ。
時々ちらりと覗く舌は大蛇の形をしていて、『それ』が口を開いてしまえば、すぐにでも少女に向けて、その体を伸ばすだろう。
その姿が、もう一度視界に入って、ふと自分の中に一つの疑問が浮かび上がった。
――――逃げ切るなんて、無理なのではないか、と。
「はぁ……はぁ………はぁ………あ、」
………だからこそ、それは必然の出来事だったのかもしれない。
少女は、今まで足を取られること等無かった雪に足を取られて、転んでしまう。
受け身もとれず、手を地面に着くことさえ出来なかった少女は、そのままの勢いでぐるん、と一回転してようやく、自分が転んでしまったことを理解する。
体に走る痛みを無視しながら、ゆっくりと立ち上がった少女は、そのまま顔を上げて、
「…………あ」
目の前で口を開けようとしている怪物が、視界いっぱいに映り込んだ。
怪物は口を開く。口の中から、ゆっくりと、恐怖を与えるように、愉しむように、大蛇が這い出てくる。
………少女はそれに、何も感情が湧いてこなかった。
ただ漠然と、自分はこのまま食べられるのだ、と思っただけ。
自分が死んだら、両親や人里の人は、どういう反応をするのかな、とぼんやりと考えるだけ。
そしてそのまま、諦めたようにゆっくりと目を閉じて、衝撃と痛みに備えた。
「………………?」
………少ししてから、少女は内心首を傾げた。
少女自身が思っていたような衝撃も、痛みも掛からなかったから。
感じたのは、もっと優しくて、暖かい、抱き上げるような感覚。
それを疑問に感じた少女は静かに、閉じていた瞼を持ち上げて、
「…………あ………」
目の前に広がった光景に、少女の目の前に立つその存在―――少女よりも五歳程年上の少女の姿をしたその存在に、見とれてしまった。
満月の光を受けて、蒼銀に輝く長髪。
まるで血を落としたように、紅い瞳。
地面に降り積もった雪と比べて、それでも存在を際立たせる純白の翼。
それはまるで、かつて両親に聞かされた、お伽噺の天使の様で。
「…………天使、様?」
気付けば、少女はそんなことを呟いていた。
その言葉に、天使は少しだけ驚いたような表情をした後、にこりと少女を安心させるように笑みを浮かべて見せてから、いつの間にか遠くに離れてしまっていた怪物の方へと向けて、ゆっくりと歩き出した。