この地には、祝福と災厄が等しく降り注ぐ。
人々は悪神が生み出した魔物と、蔓延る黒き呪いに怯えながら、それでも神の加護にすがり、生きながらえている。
だが、神の加護があろうとも、安全な地は限られていた。
聖なる力で護られた、数少ない人の楽園──『守護圏』。
呪われ、人の生を拒む地獄──『黒蝕領域』。
そして、そのどちらでもない、灰色の現実。
大多数の人々が生きる、希望と絶望が入り混じる地──『灰域』。
◇◇◇
聖域の外れ、カセンドラ湾に浮かぶ小さな孤島――ガモン島。
その中央に、灰色の石で積まれた古い監獄塔がひっそりと立っていた。
特殊な罪人を封じる為に建てられた塔であり、強固な結界で守られた堅牢な監獄。
その塔の最上階の独房。
鉄格子に囲まれた狭い石室で、長い薄緑色の白髪が床に広がっていた。
金色の瞳は半開きで、天井のひび割れをぼんやりと眺めている。
「……ふふ、また今日もネズミ君か。相変わらず元気だね」
床の隅でひげを震わせる灰色のネズミが、ピィと小さく鳴いた。
彼女はそれを聞いて、くすりと笑う。
「外は相変わらず魔物だらけだって? それは大変だ。私もそろそろ外の空気が吸いたいんだけどね……」
長い間、ここに閉じ込められていたファリナの女。
名前を呼ばれることも、罪状を問われることも、もう何年もなかった。
ただ「化け物」と呼ばれ、忘れ去られるだけの存在だった。
重い鉄扉が軋む音を立てて開く。
看守が、錆びたトレイに粗末なパンと水を乗せて入ってきた。
中年男性の顔には、いつもの嫌悪と疲労が張り付いている。
「……まだ生きてるのか、化け物め」
「ふふっ。こんなところに何十年も閉じ込めているキミたちが、それを言うのかい?」
彼女はゆっくりと上体を起こし、鉄格子越しに看守を見上げた。
声音は穏やかだが、どこか皮肉が混じっている。
看守の眉がピクリと動いた。
「お前みたいな危険人物を野放しにできるかよ。……お前がやったことさえなければ、今頃は——」
その瞬間。
ゴォォォッ!!
背後の石壁が、凄まじい爆音とともに吹き飛んだ。
粉塵が舞い上がり、視界が真っ白になる。
巨大な影が、外壁にがっちりと張り付いたまま、崩れた穴から室内を睨みつけた。
黒く輝く鱗。
赤く爛れた双眸。
塔の壁に爪を深く突き立て、首を低く伸ばした竜種の魔物だ。
「うわああっ!?」
看守が悲鳴を上げ、腰の剣に手を伸ばすより早く、魔物の前脚が一閃した。
看守の体が壁に叩きつけられ、意識を失って崩れ落ちる。
竜は低く唸りながら、今度は鉄格子ごと彼女の牢を狙った。
魔術で強化されているはずの分厚い鉄格子が、軋みを上げて歪み始める。
「……あら。塔全体の結界が、ずいぶん弱ってるみたいだね」
彼女はゆっくり立ち上がった。
長い幽閉生活で衰えていたはずの魔力が、かすかに疼くのを感じる。
次の瞬間、竜の爪が鉄格子を粉砕した。
鉄格子が吹き飛び、破片が飛び散る。
同時に竜が大きく口を開け、彼女に噛みついてきた。
「っ!」
咄嗟に両手首の枷を掲げて防御する。
金属が激しく軋み、火花が散った。
――ガキィィン!
枷が真っ二つにへし折られ、彼女の両手が自由になる。
同時に、長い間封じられていた魔力が、堰を切ったように体内を駆け巡った。
しかしそれは、かつての輝きに比べれば頼りないほど弱々しいものだった。
彼女は軽やかに身を翻し、倒れている看守の腰から古びた木の杖を一本抜き取った。
指が触れた瞬間、微かな緑色の光が宿る。
「やれやれ……魔術を使うなんて、何十年ぶりかな。腕が鈍ってないといいけど」
杖を握りしめ、彼女は素早く詠唱を紡いだ。
幻想魔術――雷の奔流。
ビリビリッと青白い稲妻が竜の鱗を直撃した。
しかし、竜はただ一瞬怯んだだけで、すぐに激昂して突進してくる。
「くっ……!」
彼女はギリギリで横に跳び、壁際へと転がる。
竜の巨体が床を抉り、部屋全体が震えた。
窮地に陥った瞬間、彼女は杖を振るい、再び魔力を叩き込んだ。
今度は風の刃。
竜の首の下に滑り込むように身を低くし、鋭い風の刃を横薙ぎに放つ。
――ザシュッ!
風の刃が鱗の隙間を捉え、首を深く切り裂いた。
竜が断末魔の咆哮を上げ、巨大な体が彼女の上に倒れ込んでくる。
……やった。
息を切らしながら、彼女はなんとか竜の死骸の下から這い出た。
しかし、安堵したのも束の間。
外から新たな竜の鳴き声が、次々と響き渡った。
「……え?」
這い出した彼女は、崩れた壁の穴から外を見る。
ガモン島の空を、黒い影が何体も旋回していた。
竜の群れだった。
「たしかここは聖域の中のはずだけど……」
呟かれた声はすぐに暗がりへと溶けていった。
塔の外では、竜の影と荒れる海が広がっている。
灰域の闇は、どれほどの時が経とうとそこにあるのだ。