こんこん、と扉が鳴った。
ヴァレンの宿の一室。ティリエが薄目を開けると、窓の外はまだ、朝の白い光がようやく差し込んだばかりだった。
寝台の中で、もう一度目を閉じる。
こんこん。こんこん。
ノックは、やむ気配がなかった。
「…………はいはい」
気だるげに身を起こし、乱れた薄緑の髪もそのままに、扉を開ける。
立っていたのは、カレリアだった。すでに身支度を終え、双剣を腰に佩き、妙にきりりとした顔で背筋を伸ばしている。
「おはようございます」
「……おはよう。ええと」
ティリエは、寝ぼけ眼をこすった。
「今日は、休みじゃなかったっけ。レイナードが依頼を探す間、一日二日はゆっくりするって」
「はい。休みです」
「……うん」
「休みで、時間があります。だから、教わりに来ました」
カレリアの顔は、どこまでも真剣だった。
ティリエは数秒、その顔を見つめ――それから、扉の枠にこてんと額を預けた。
「……昨日の今日で?」
「善は急げ、と聞きます」
「その善は、もう少し寝てからでも間に合うと思うんだけどなあ」
「私はもう起きています」
「……知ってる」
押し問答は、しばらく続いた。
そして寝起きのティリエに、朝から気力の満ちたカレリアを押し返すだけの体力は残っていなかった。
「……分かった。分かったから。せめて顔を洗わせて」
「はい。待ちます」
「あと、その堅っ苦しい喋り方。別に敬語じゃなくていいよ」
「いえ。師に対する礼儀ですので」
「まだ師になった覚えもないんだけどなあ……」
律儀に廊下で直立するカレリアを残し、ティリエは深いため息とともに、扉を閉めた。
◇◇◇
顔を洗い、髪を整え、どうにか人心地ついたティリエは、宿の一階の隅でカレリアと向かい合っていた。
卓を挟んで、少女は姿勢を正して座っている。師の言葉を一言も聞き漏らすまいとする、そんな構えだった。
「それで。まず、確認したいんだけど」
ティリエは、まだ少し眠そうな声で切り出した。
「あなたが使うのは、風と氷。……精霊魔術、だよね」
「そうです。……それが、何か」
「その精霊魔術を、私が手取り足取り教えるってのは――たぶん、あんまり意味がないんだ」
カレリアの表情が、ほんの少しだけ強張った。断られるのか、とでも思ったのだろう。
ティリエは、けだるげに手を振った。
「勘違いしないで。意地悪で言ってるんじゃなくてね。……そもそも精霊魔術には、大きく二つの型があるんだよ」
彼女は、卓の上に指を二本立てた。
「ひとつは、精霊が主体の型。こちらは器を差し出すだけで、力を振るうのは精霊のほう。もうひとつは、魔術師が主体の型。精霊から力だけを借りて、組み立てるのも放つのも自分でやる」
「……私のは」
「ちょうど、その真ん中だね。自分で組んで、足りないところを精霊に預けてる。悪くない使い方だよ」
カレリアが、わずかに目を見開いた。自分でも言語化していなかったことを、言い当てられた顔だった。
「で、ここからが問題。精霊主体のほうを伸ばしたいなら、肝になるのは精霊との付き合い方――どれだけ深く関わって、どれだけ気に入られるか。上位の精霊と契約でもできれば話は早いけど、あれは相性と巡り合わせがほとんどでね。私が教えてどうにかなるものじゃない」
「……当ては、ないです」
「でしょ。なら残るのは、自分で組み立てるほう。――でもそれって、要するに魔術の制御の話なんだよ。だったら」
ティリエは、指を一本折った。
「幻想魔術で学んだほうが、ずっと早い」
ティリエは卓の上に指先で、見えない図でも描くようにゆるやかな円を描いた。
「幻想魔術は、世界の事象を術者が自分の内側で組み立てて再現する魔術。精霊任せの相性頼みと違って、こっちは鍛えた分だけ、ちゃんと伸びる。汎用が利くし、できることの幅もまるで違う。精霊がいなくたって撃てるしね」
カレリアは、いつの間にか身を乗り出していた。眠そうな師とは対照的に、その目には、はっきりとした熱がある。
「理屈は分かりました。……で、私は。幻想魔術、使えるんですか?」
「精霊魔術を使えるんだし、全く扱えないということはないと思うよ」
ティリエは、ふわ、と欠伸を一つ零して。
「――その前に。ひとつ、買い物に付き合ってくれる?」
◇◇◇
「本屋、ですか」
「そう。教本が一冊あると、話が早いんだ」
支度を整えた二人は、朝の通りへと出た。
レイナードは早々に依頼の掲示を漁りに、ジェイは補給と、あとは酒だと言って、それぞれ別の方向へ消えていた。残ったのは、ティリエとカレリアの二人だった。
朝のヴァレンは、宿場町らしく慌ただしい。荷を積み替える隊商、朝市の呼び込み、水を汲む女たち。その雑踏を縫うように、ティリエは慣れた足取りで歩いていく。
「本があると、いくつか都合がいいんだよ」
歩きながら、ティリエは指を折った。
「私がいない時でも、あなた一人で先に進める。それに、元になる形がある方が、私も教えやすい。口であれこれ言うより、『これ読んでおいて』で済むしね」
「……先生が楽をしたいだけでは」
「半分はそう」
悪びれもしない。カレリアは、毒気を抜かれたように口をつぐんだ。
「それに――正直に言うと、私も一冊、欲しくてね」
「先生が、ですか?」
カレリアが意外そうに横を見た。あれだけの魔術を操る師が、いまさら教本を、という顔だった。
「この前の、あの魔術士。結界を張ったでしょ。……あれ、私の知らない組み方だったんだ」
ティリエの声は、どこか遠くを見るようだった。
「私がこの手の勉強をしてたのは、ずいぶん昔でね。知らないうちに魔術式の組み方も、書き表し方も変わってるみたい。……ちょっと、置いていかれた気分」
「ずいぶん昔って、どれくらい前ですか」
「さあ? 昔は昔だよ」
「……はぐらかしましたね」
「気のせいだよ」
通りの外れに、その店はあった。
古びた木の看板に、色褪せた本の絵。中に入ると、埃と古い紙の匂いが鼻をついた。旅人が売り払っていった巻物や写本が、雑多に棚を埋めていた。宿場町らしく、扱いは手広いが――その分、専門的なものは望むべくもなかった。
ティリエは棚を端から検めていき、やがて一冊の薄い本を抜き出した。
「……『はじめての幻想魔術』。入門書。基礎の基礎だね」
「それで足りるんですか?」
「あなたには、ちょうどいい。最初はここから。……で、問題は私のぶんなんだけど」
ティリエはそのまま棚を端から端まで検めていったが、目当てのものは見つからなかった。念のため店主に、もっと専門的な魔術書はないかと尋ねてみても、白髪の店主は、すまなそうに首を横に振るだけだった。
「魔術のご専門となると、うちじゃその入門書が精一杯でねえ。ちゃんとしたのをお求めなら、水都へ行きなさるといい。ラティーナには、大きな魔導書店があるって話ですよ。……さすがにユグノームの魔術塔とまではいきませんがね、品揃えはうちなんぞとは比べ物にならんでしょう」
「魔術塔……」
カレリアが、小さく繰り返す。伝説の魔法使い『無尽のユグノーム』が建てたという、魔術研究の総本山。魔術に関わる者なら、名前くらいは誰でも知っている。
「あそこは本を売る場所じゃないから、比べるだけ酷だよ。……ご主人、水都の店の名前は分かる?」
「さあ、そこまでは。船着き場の近くだと聞いてますが」
「そう。ありがとう、助かった」
ティリエは小さく息をついた。予想していた答えではあった。自分のぶんは、水都までお預けらしい。
肩を落とした帰りしな、棚のひとつで、ティリエの足がふと止まった。
魔術書の棚ではない。物語や伝承の類が並ぶ、雑多な一角だった。
その中の一冊。古びた背表紙の、色褪せた物語本。
ティリエはしばらくその背表紙を見つめてから、そっと抜き出した。表紙をめくる指が、途中で一度止まる。
それきり彼女は、何も言わなかった。
「……先生?」
カレリアの声で、我に返ったように顔を上げる。
「これも、もらっていこうかな」
「魔術の本じゃ、ないですよね」
「うん。昔の……英雄の話だよ」
それだけ言って、ティリエは本を閉じた。
その横顔に浮かんだのが懐かしさなのか、それとも別の何かなのか、カレリアには読み取れなかった。ただ、それ以上は聞いてはいけないような気がして口をつぐんだ。
結局、店で買えたのは、入門書が一冊と、古い英雄譚が一冊。それに、白紙の綴じ本を二冊。術式を書き留めるための帳面だ。
店を出た足で、ティリエはもう一軒、通りの雑貨屋に寄った。
商品の樽から、細い木の杖を一本引き抜いて、カレリアへ差し出す。飾りも彫りもない、削っただけの簡素な代物だった。
「これも。しばらくは、これを使って」
「杖……ですか。私、使ったことは」
「うん。あなたは杖なしでやってきたし、それはそれで大した才能だよ。……でも幻想魔術士が杖を持つのには、ちゃんと理由があってね」
ティリエは、自分の杖を軽く掲げてみせた。
「手で石を投げるのと、弓で矢を射るのと。どっちが正確に飛ぶと思う?」
「……弓、ですね」
「そういうこと。魔力もね、真っ直ぐ通る道を用意してやったほうが、狙ったところへ狙った形で届く。杖ってのは、そのための弓なんだよ。……まあ、杖を持たない流派だってあるけど。あれは、素手で石を当てられる連中の話」
カレリアは、手渡された杖をしげしげと眺めた。剣を握るのとは、まるで勝手の違う手触りらしい。
「……なるほど」
カレリアは革袋から硬貨を数え、店主へと渡した。
店を出ると、朝の光はもうすっかり高くなっていた。
「さて。じゃあ、宿に戻ろうか」
ティリエは、買ったばかりの入門書を、ぱらりとめくった。
「あなたに幻想魔術の才があるかどうか。――さっそく、確かめてみよう」
カレリアの足取りが、ほんの少しだけ速くなった。
◇◇◇
宿に戻り、二人は裏手の空き地に立った。
物干しと薪束の間の、猫の額ほどの土地だ。それでも、二人で向かい合うには十分だった。
ティリエは買ったばかりの入門書を小脇に抱え、カレリアは真新しい帳面を胸に抱えている。
「じゃ、始めようか」
「はい」
「まずあなたに覚えてもらうのは、防護魔術。ふたつ」
ティリエは指を二本立てた。
「ひとつは、自分の体をすっぽり覆う、球形の小さな結界。もうひとつは、魔力で作る盾。こっちは最初、手のひらくらいの大きさからでいい」
「…………」
カレリアの返事が、なかった。
見れば、彼女は帳面を抱えたまま、きょとんとした顔で立ち尽くしている。
「どうかした?」
「……いえ。てっきり」
カレリアは、言い淀んでから続けた。
「もっと、攻撃の魔術を教わるのかと。……あるいは、先生の無詠唱を」
「ああ、なるほど」
ティリエは、なんでもないことのように頷いた。
「言っておくけど、対人戦においては、防護魔術が一番重要と言っても過言じゃないよ」
声の調子は変わらない。ただ、その言葉には妙な重みがあった。
「魔術師は打たれ弱い。当たったら終わり。だから、当たっても終わらないようにしておく。それだけの話」
「……ですが、それは」
「攻めるだけでどうにかなる場面なんて、そうそうないよ。生き残ってさえいれば、攻撃なんていくらでも撃てるんだから。順番が逆なんだ」
カレリアは、すぐには答えなかった。
脳裏をよぎったのは、闇色の蔦と、突き飛ばされた体。そして、首元に矢を受けて崩れ落ちた、名も知らぬ男の姿。
――あの一瞬、自分に壁があったなら。
あの人も、守れたかもしれない。
「……はい」
俯いたまま返ってきた返事に、ティリエは、その重さの理由を知らないまま頷いた。
「それに、無詠唱ね」
ティリエは、そこで少しだけ間を置いた。
「あれ、あなたのと私のとじゃ、まったくの別物だから。同じ言葉で呼んでるだけ」
「――別物?」
カレリアの声が、跳ねた。
「どういう意味ですか。私のは詠唱を省いているだけで、先生のも……」
「ほら、始めるよ」
ティリエは入門書をぱらりとめくり、あるページで手を止めると、それをカレリアの胸に押しつけた。
「まずは、この頁。防護魔術の基礎」
「先生」
「今の話は、いずれね。順番があるんだ」
押しつけられた本を、カレリアは渋々といった様子で受け取った。
開かれた頁には、球形の結界の術式図が、几帳面な線で描かれている。
……いずれ。
その言葉を、彼女は帳面の隅に、書き留めておくことにした。
◇◇◇
それから半刻ほど、講義が続いた。
球形の結界とは、魔力を膜状に薄く延ばし、自分を中心に閉じた形へ整えたもの。全方位を守れる代わりに、常に全面へ魔力を配らねばならず、消耗が大きいこと。魔力の盾は、その逆。守れるのは向けた一方向だけだが、力を一点に集められるぶん、同じ消耗ならずっと硬くなること。
カレリアの帳面は、みるみるうちに文字と図で埋まっていった。
「――で。理屈はここまで。あとは、やってみないと始まらない」
ティリエは、教本の頁を指で叩いた。
「じゃあ、そこに書いてある詠唱で、結界を張ってみて」
「詠唱……」
カレリアの手が、止まった。
「無詠唱では、駄目ですか。……私、そちらのほうが慣れているので、そのほうが早いかと」
「駄目」
即答だった。
「……理由を、聞いても」
「もちろん」
ティリエは、薪束に腰を下ろした。
「そもそもの話をしようか。――詠唱って、何のためにあると思う?」
「……魔術の、起動の合図。あとは、集中のため」
「半分正解。でも本題はそこじゃない」
彼女は、足元の土に指で線を引いた。
「幻想魔術は、事象の再現。ここまではさっき言ったね。で、大事なのはここから。――同じ事象を再現するのでも、必要な魔力と技量は、条件次第で天と地ほど変わる」
「条件」
「起こしたい事象を、どれだけ鮮明に思い描けるか。それがどういう理屈で起きるのかを、どれだけ知っているか。手元に、拠りどころになる媒体があるか。……そういうものが揃っているほど、魔術は軽くなる。逆に欠ければ欠けるほど、足りない分をあなた自身の魔力で埋めることになる。制御も効きが悪くなるし、出来上がるものも粗くなる」
カレリアが、帳面に何かを書き付ける音がした。
「そこで、ひとつ裏技がある」
ティリエは、指を一本立てた。
「事象そのものを再現しようとするんじゃなくて、――『魔術によって起きた事象』のほうを再現するの」
「……?」
カレリアの眉が寄る。ティリエは、少し考えてから言い直した。
「絵で例えようか。何もない野原に立って、目の前の景色を一から写生するのは、大変でしょ。光の加減も、木の形も、全部自分で見て、測って、写し取らないといけない」
「はい」
「でも、誰かが描いた同じ景色の絵が手元にあれば? それを模写するほうが、ずっと楽で、ずっと正確に仕上がる」
カレリアの目が、わずかに見開かれた。
「魔術も同じ。『炎』そのものを一から思い描くより、『炎を生む魔術』という、すでに誰かが完成させた形を写し取るほうが、圧倒的に安定するし、消耗も少ない」
「その、誰かが描いた絵にあたるのが……」
「そう。詠唱と、あとはその教本」
ティリエは、カレリアの抱えた入門書を軽く叩いてみせた。
「魔術の理屈や式が書き留めてあるってことは、誰かが一度、その景色を描き取ってくれてるってことでしょ。読んで頭に入れておけば、それだけで再現がぐっと楽になる。……本を買ったのは、そういう意味でもあるんだよ」
ティリエは、足元の土に引いた線を指でなぞった。
「詠唱も同じ。言葉そのものに力があるわけじゃない。ただ、その言い回しを、これまで数えきれないほどの魔術師が唱えて、同じ事象を起こしてきた。何百年ぶんもね。……その積み重ねが、そのまま道になってる。再現するときの、拠りどころに」
「……踏み固められた道、みたいな」
「うん、近い。詠唱を使うってことは、先人が均してくれた道を歩くってこと。自分で藪を切り拓くより、そりゃ楽に決まってる」
「他の魔術でも、同じですか」
「いや、そこは系統によるかな」
ティリエは、指を折りながら数え上げた。
「精霊魔術の詠唱は、大半が精霊に意思を伝えるためのもの。何をしてほしいのかを、向こうに分かる形で伝える手続きだね。聖典魔術に至っては、そもそも儀式そのもの。神様への祈りだから、省略も何もない」
「幻想魔術は」
「ほとんど、効率のためだけ。……だから理屈のうえでは、誰でも自分専用の詠唱を編むことだってできる」
「それは――」
カレリアが、身を乗り出しかけた。
「言っておくけど、骨が折れるよ。誰も歩いてない道を、自分ひとりで均すようなものだから。よほどの腕がないと、まともな一本にはならない」
「……でも、見合うだけの利点はある。そういう顔をしています」
「ふふ」
ティリエは笑って、それきりその話を切り上げた。
「その話は、また今度ね」
ティリエは、そこで小さく笑った。
「だから、詠唱を省くっていうのはね。わざわざその道を捨てて、藪の中を突っ切るってことなんだ。……それが何を意味するか、分かる?」
「…………」
カレリアは、答えなかった。
答えの代わりに、自分の掌をじっと見つめている。あの日、囲まれた道で撃った『
「あ、勘違いしないでね。無駄だとは言ってないよ」
ティリエが、軽く付け足した。
「藪を突っ切るってことは、道を回り込むより、着くのが早いってこと。あの時のあなたみたいに、囲まれて詠唱する余裕がない場面じゃ、それが命綱になる。粗くても形になる魔術を放てるなら、それは立派な武器だよ」
「……でも、粗い」
「うん、粗い。だから両方持っておくの。均された道と、藪を突っ切る足と。使い分けられる子が、一番強いよ」
「……先生」
「うん」
「詠唱、します」
「よろしい」
ティリエは満足げに頷いて、薪束の上で頬杖をついた。
「じゃあ、まずは一回。ゆっくりでいいよ」
◇◇◇
カレリアは、買ったばかりの杖を両手で構えた。
どうにも、収まりが悪い。剣なら、握った瞬間に体が形を思い出す。だがこの細い木の棒は、どこにも噛み合わないまま、ただ手の中にあった。
「肩の力、抜いて。それ、振り回すものじゃないから」
「……はい」
教本の頁を思い浮かべる。膜状に薄く延ばした魔力を、自分を中心に閉じた形へ。
息を吸って、詠唱を紡ぐ。
馴染みのない言葉が、舌の上を転がっていった。
――ぱち、と。
弾ける音がして、それきりだった。
杖の先で、魔力が形になりかけて、ほどけた。
「……っ」
もう一度。
今度は、詠唱の途中で霧散した。手の中の魔力が、指の間から零れていく感覚だけが残る。
三度目も、四度目も、同じだった。
自分の魔術なら、目を閉じていても撃てる。それなのに、教本に書かれたたった一つの結界が、どうしても形にならない。
カレリアの眉間に、皺が寄っていく。
「そんな顔しないの。当たり前だよ」
薪束の上から、ティリエののんびりした声が飛んだ。
「精霊魔術と幻想魔術じゃ、勝手がまるで違うんだから。あなたが今までやってたのは、精霊に力を預けて、押してもらう感じでしょ。こっちは全部、自分で持ち上げないといけない。……最初から出来たら、私の立場がないよ」
「……はい」
もう一度、詠唱を紡ぐ。やはり、魔力は形になる手前でほどけた。
その一部始終を眺めていたティリエが、ふむ、と小さく息をついて腰を上げる。
「うん。だいたい分かった」
ティリエはカレリアの隣まで来ると、その手元を覗き込んだ。
「知識は入ってる。魔力も足りてる。ただ、道順を知らないだけだね。……ちょっと、時短しようか」
「時短、ですか」
「そう」
ティリエはカレリアの背後に回ると、その手にそっと自分の手を重ねた。杖を握る指の上から、包み込むように。
「もう一回、詠唱して。今度は、私が横についてるから」
「……はい」
カレリアが、再び詠唱を紡ぎ始める。
その途中だった。
――何かが、内側に触れた。
自分の体の奥。魔力を巡らせている、目には見えない道筋。そこへ、外から誰かの指先が滑り込んでくるような、奇妙な感覚。
乱暴さは、まるでなかった。むしろ迷子の手を引くような優しさで、それは滞っていた魔力の流れを整え、行き先を示していく。
こっちだよ、とでも言うように。
詠唱の最後の一節が、口から零れた瞬間。
――ふわり、と。
カレリアの体を包み込むように、淡い光の膜が広がった。
薄い、球形の結界。教本の図と、寸分違わぬ形。
「……っ、できた」
「うん、上出来。……はい、これで一回目」
ティリエが手を離すと、結界はゆっくりと薄れて消えた。
カレリアは、しばらく呆然と自分の掌と、消えた光の名残とを見比べていた。
それから、はたと気づいたように振り返る。
「先生、今の。……何をしたんですか」
「魔力の流れを、ちょっと手伝っただけ。一度でも通れば、体が道を覚えるから。あとは自分で辿れるよ」
こともなげな答えだった。
「はい、じゃあ次。今度は一人でね」
「……はい」
◇◇◇
結局、その日の午後は、まるごと反復に費やされた。
一度形を掴んでしまえば、あとは早かった。十回のうち二回。五回のうち三回。日が傾く頃には、詠唱さえきちんと唱えれば、カレリアは自力で結界を張れるようになっていた。
「うん、上等。今日はここまで」
「……もう少し、やれます」
「魔力が空になったら、明日の分の稽古ができないでしょ」
ティリエは、教本をカレリアの帳面の上にぽんと置いた。
「あとは、しばらく自習ね。その結界が安定して張れるようになったら、次の頁の魔力の盾に進んでいいよ。分からないところだけ、聞きに来て」
「はい」
「――あ、それと。ひとつだけ約束」
ティリエは、一度だけ声の調子を変えた。
「魔力が減ってきたと思ったら、必ずやめること。空になるまで絞り出すと、魔力欠乏症になる。目眩や吐き気で済めばいいけど、酷いと寝込むし、下手を打てば回路そのものを痛める」
「……はい。必ず、やめます」
「よろしい」
ティリエは満足そうに頷いた。
「……ありがとうございました」
深々と頭を下げるカレリアに、ティリエはひらひらと手を振って、宿の中へ戻っていく。
空き地には、少女が一人残された。
カレリアは杖を握り直し、日が落ちるまで、飽きもせず同じ詠唱を繰り返していた。
薄い光の膜が、何度も、何度も、宵闇の中に灯っては消えていく。
その光を、宿の二階の窓から、ティリエが頬杖をついて眺めていた。
「……ほんと、真面目な子」
呆れたような、けれどどこか眩しそうな声だった。
少女が倒れる気配のないことだけ、しばらく見届けて――やがて彼女は、窓辺を離れた。
『無尽のユグノーム』
かつて幻神ロズウェルに謁見を許され、『無限に等しき魔力を得る魔法』を賜りし英雄。歴史上四人しかいない魔法使いの一人。
魔術史と人類の発展に多大な功績を残すも、討伐不可能と称される個体を退けるべくその身を捧げ、波乱に満ちた生涯の幕を閉じた。