その日の夕餉時、レイナードが宿へ戻ってきた。
「ただいまー。いやあ、今日は実りある一日だったよ」
上機嫌で食堂へ入ってきた彼は、卓を囲む面々を見回して――そこで、動きを止めた。
ジェイが、麦酒の杯を片手に、我関せずといった顔で肩を揺らしている。
ティリエは、匙を咥えたまま、ちらりと視線だけをレイナードに寄越した。
そして、その向かいの椅子。
カレリアが、頭のてっぺんから爪先まで、ぐっしょりと濡れていた。
銀色の髪は水を吸って重たげに垂れ、旅装からはぽたぽたと雫が落ちて、床に小さな水溜まりを作っている。当の本人は、そんな有様のまま、湯気の立つスープを実に平然と口へ運んでいた。
「…………ええと」
レイナードは、そっと扉を閉めた。
「何があったの、それ」
「訓練」
「……もう少し詳しく聞いても?」
「うん」
カレリアが、匙を置いた。
「先生が、結界の練習に、いい方法があると」
「ボクは魔術に詳しくないけどさ。結界の練習で、どうしてずぶ濡れになるんだい」
レイナードが助けを求めるように視線を向けると、ティリエは匙を咥えたまま、こともなげに答えた。
「水に包まれるの。頭から」
「うん」
「球形の結界を張らせた状態で、私が魔術で水を生み出して、丸ごと包むの。頭のてっぺんから爪先まで」
「うん?」
「結界に穴が一つでも空いてたら、そこから水が入ってくるでしょ。どこが甘いのか、一目で分かる」
ティリエは、ようやく匙を口から離した。
「それに、水は重い。全面から均等に押してくるからね。魔力の配りが偏ってたら、そこから形が崩れる。……つまり、穴の位置と維持力の両方が、一度に試せるってわけ」
「……なるほど」
レイナードは、感心したように頷いた。
それから、ぽたぽたと雫を垂らしている少女に向き直る。
「で、何回やったの」
「……三十回くらい」
「そりゃ濡れるよ」
「途中から、少しずつ持つようになった」
カレリアは、髪から滴る水を気にする様子もなく、真顔で続けた。
「最初は、頭から浴びた瞬間に崩れた。今は、三つ数えるまでは保つ」
「――ほう」
それまで黙って笑っていたジェイが、面白そうに眉を上げた。
「儂には魔術のことはさっぱりじゃがな。回を追うごとに濡れんようになる、というのは分かりやすくてええの」
「……ジェイさんに、砥ぎを教わる約束もあるから。早く進みたくて」
ティリエは、その様子を横目で眺めながら、木の匙で椀の底をかき混ぜていた。
視線は寄越さない。ただ、口の端が、ほんのわずかに緩んでいる。
「……ま、上出来。でも今夜はもう終わり。ちゃんと拭いて、着替えて、寝ること」
「はい」
「言っておくけど、ゆうべ寝てないのは分かってるからね」
カレリアの肩が、跳ねた。
「……どうして」
「顔に書いてある。今日はちゃんと寝なさい」
「……はい」
◇◇◇
濡れ鼠が着替えに戻ったところで、レイナードは改めて席についた。
「さて。じゃあ、ボクの話をしていいかな」
運ばれてきた麦酒を一口。それから、彼はにやりと笑った。
「依頼、決まったよ。水都ラティーナまでの商隊護衛。四人まとめて雇ってもらえた」
「ほう」
ジェイが、身を乗り出した。
「割は?」
「一人あたり、金貨一枚」
卓の空気が、わずかに変わった。ジェイが口笛を吹く。
「……ずいぶん羽振りがいいね」
「だよねえ。ボクも掲示を二度見したよ」
その時、乾いた服に着替えたカレリアが、髪を拭きながら食堂へ戻ってきた。話の途中だと察したのか、黙って空いた椅子に腰を下ろす。
レイナードは、麦酒の泡を眺めながら続けた。
「依頼主はライゼンデ・ヴェルトっていう、水都の若い行商人でね。これがまた、面白い男でさ」
「ほう、どんな」
「うん。まあ、会えば分かるよ」
彼はそこで言葉を濁して、話を先に進めた。
「出発は、二日後の朝。荷を積み終えてからだって」
ティリエが、指を折った。
「今日を入れて、丸二日か。……まあ、荷積みがあるなら、そんなものかな」
「そこはほら、休めるうちに休んでおこうよ。灰域に入ったら、そうもいかないんだから」
レイナードは、そこでちらりとカレリアを見た。
「――というわけで、明日はまだ休みだからね。カレリアちゃん」
「うん。訓練する」
「……そうきたか」
レイナードは苦笑して、卓に頬杖をついた。
「あのね。休みっていうのは、休むための日なんだよ。一日くらい、町でも見て回ったらどうだい。ここ、意外と面白い市が立つらしいよ」
「…………」
カレリアは、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて真顔で答えた。
「……市を見てから、訓練する」
「うん、まあ、いいか」
もっとも、と、レイナードは指を一本立てた。
「明日の夜は、少し予定がある。同じ隊を護衛する討伐者たちと、顔合わせの会食があるんだ」
「ほう、他にも護衛がおるのか」
「大所帯だからね。ボクらだけじゃ手が足りないってさ。……まあ、同じ道を三日も四日も行くんだ。先に顔と名前くらいは合わせておいたほうが、いざって時に動きやすいでしょ」
「道理じゃな」
ジェイが頷いた。
その隣で、カレリアの手が、わずかに止まっていた。
――同じ隊を、護衛する。討伐者たちと。
脳裏をよぎったのは、あの日の顔ぶれだった。よく笑う大柄な男。ちぐはぐな装備。値踏みするような視線。そして、道端に転がったままの、名も知らぬ護衛。
「……カレリアちゃん」
レイナードの声で、我に返る。
彼はいつもの締まりのない笑顔のまま、けれど少しだけ声を落として言った。
「大丈夫。今度は、ボクらがいるから」
「…………」
カレリアは、何も答えなかった。
ただ、小さく頷いて、まだ湿っている髪を、片手でそっと押さえた。
◇◇◇
翌日の昼。
カレリアは、宿の裏手の空き地で、ティリエと向かい合っていた。
朝のうちに市を一巡りしたのは、彼女なりの譲歩である。もっとも、露店を少し冷やかしてすぐに満足してしまい、昼前にはとうに宿へ戻っていたのだが。
「昨日の結界は、まあいいでしょう。次は、こっち」
ティリエが、教本の頁を指で示した。
――『
「昨日のは自分をまるごと包む形。こっちは、守りたい方向に壁を出す形。……理屈は昨日ので分かってるでしょ。だから今日は」
「実戦形式でいこうか」
「……というと」
「そう難しいことはしないよ。私が土くれを飛ばすから、あなたはそれを盾で防ぐ。防ぎきれないと思ったら、避けてもいい」
ティリエが軽く杖を振ると、足元の土が独りでに盛り上がり、拳ほどの塊になって宙に浮いた。ぐるりと一回転して、ぽとりと地面に落ちる。
「大きさは、これくらいから頭くらいまで。速さは加減する。時間は――」
彼女は懐から、小さな砂時計を取り出して、傍らの切り株に置いた。
「これが落ちきるまで。それまで、ひたすら続ける」
「……当たったら、どうなるんですか」
「痛いよ」
あっさりとした答えだった。
「言っておくけど、手加減はするけど遠慮はしないから。当たれば痣くらいは残る。……嫌なら、今のうちに言って」
カレリアは、迷わず首を横に振った。
「やります」
「よろしい」
ティリエは立ち上がると、埃を払った手を、すっとカレリアに差し出した。
「じゃあ、握手」
「?」
カレリアは戸惑いながらも、その手を握り返した。
細く、白い指だった。剣も鍬も握ったことがないような、少しひんやりとした手だ。
その瞬間、ティリエが、短い言葉を囁くように口にした。
「――この手を取る者を、危害から守る。求められれば、手を貸す。この誓いは、始まりから終わりまで」
どこか歌うような、抑揚のある言い回しだった。
「……今の、何ですか」
「誓いの言葉。そういう作法があるんだよ」
ティリエは手を離しながら、こともなげに答えた。
「模擬とはいえ、これは決闘の形だからね。始める前に、互いの安全を誓っておく。どちらも本気で相手を害さないし、危なくなれば手を貸す。……そういうもの」
「へえ」
カレリアは、素直に感心した様子で頷いた。
「そういうものが、あるんですね」
「まあ、古い作法だから。今どき真面目にやる人も、そういないだろうけどね」
ティリエは、そこで少しだけ肩をすくめた。
「私は、これをやらないと落ち着かないんだ」
「――さて」
ティリエが、砂時計を指で弾いて、ひっくり返した。
さらさらと、白い砂が落ち始める。
「じゃあ、始めようか」
◇◇◇
訓練は、拍子抜けするほど簡単だった。
飛んでくる土塊は、等間隔。速度も、目で追える程度。詠唱を紡ぎ、杖の先に『
それだけの繰り返しだった。
昨日、水を頭からぶちまけられ続けたことを思えば、いっそ穏やかな時間ですらある。
(……これなら)
カレリアは、次の一投に備えて、詠唱を紡ぐ。
この調子なら、砂が落ちきるまで、一発も浴びずに済むかもしれない。
異変を覚えたのは、砂時計の砂が、半分ほど落ちた頃だった。
――かたち が、ぶれる。
いつも通りに編んだはずの盾が、わずかに歪んだ。次の一枚は、端のほうが薄い。指の先が、じんと痺れるような感覚。
(魔力が……減ってる?)
当然だ、と気づく。一発ごとに盾を張り直しているのだから、塵も積もれば山になる。昨日までの短い練習では、感じる暇もなかった消耗だった。
そして、それを見計らったかのように。
ひゅっ、と。
風を切る音が、鋭くなった。
「――っ!」
速い。今までの倍近い速度で、土塊が顔の横をかすめていく。慌てて張った盾は、間に合わなかった。
次が来る。
今度は、間がおかしい。等間隔だったはずの間合いが、詰まったり、伸びたり。詠唱の途中で飛んでくる。呼吸が合わない。
「くっ……!」
二つ、三つと、続けざまに飛来する。膝を折って一つを避け、身を捻ってもう一つをやり過ごし、三つ目をどうにか盾で弾く。
息が上がる。額から流れた汗が、目に入った。
視界が、滲む。
「――っ、ぁ」
紡いでいた詠唱が、途切れた。
しまった、と思った時には、もう飛んできていた。
――来る。
考えるより先だった。
目に見えたわけではない。音でもない。ただ、体の芯が、危険だ、と警鐘を鳴らした。
その瞬間、カレリアの左手が、勝手に前へ出ていた。
ばぢっ、と。
乾いた音を立てて、目の前で光が弾けた。
土塊が、砕けて散る。
……盾だ。
詠唱を、していない。
(今、私――無詠唱で、盾を)
自分の掌を、呆然と見下ろす。
風槌や氷弾なら、いくらでも無詠唱で撃ってきた。だが、覚えたばかりの、まだ手に馴染んですらいない魔術で。それも、とっさに。
やった、と思った。
その安堵が、一瞬だけ、意識を弛ませた。
顔を上げる。
視界の先で、ティリエが、静かに杖を掲げていた。
その周囲に浮かんでいるのは――一つではない。
三つ。頭ほどの大きさの土塊が、三つ。ぐるりと彼女の周りを回りながら、こちらへ狙いを定めている。
「――えっ、待っ」
制止は、言葉にならなかった。
三つが、同時に放たれる。
――無理だ。
見た瞬間に、そう思ってしまった。
慌てて張り直した盾は、ひどく薄く、頼りなく。集中を欠いたそれは、一つ目を受けた瞬間に、硝子のような音を立てて砕け散った。
どっ、と。
肩と、腹と、太腿に。
鈍い衝撃が、続けざまに叩き込まれた。
視界が回り、背中から地面に倒れ込む。肺の中の空気が、全部押し出された。
「……っ、ぁ、はっ……」
空が、見えた。
やけに青い、昼下がりの空だった。
その端のほうから、薄緑の髪をした人影が、ひょいと覗き込んでくる。
「はい、そこまで」
ティリエは、切り株の上の砂時計を、指で示した。
白い砂は、まだ半分近く残っていた。
◇◇◇
「さて」
ティリエは、倒れたままのカレリアの傍に、腰を下ろした。
助け起こしもしなければ、労いの言葉もない。
「なぜ駄目だったか、考えてみようか」
「…………」
カレリアは、荒い息のまま、天を睨むように目を開けていた。
打たれた肩と腹が、じんじんと熱を持っている。悔しさは、それより痛かった。
「……魔力が、足りなかった」
絞り出すように言う。
「後半、盾の質が落ちた。……あと、最後は、集中が切れた。無詠唱ができて、油断した」
「うん。半分正解」
ティリエは、あっさりと頷いた。
「半分?」
「魔力が足りなくなったのは、事実。でもね、それは結果であって、原因じゃない」
彼女は、指を二本立てた。
「あなたに足りないものは、二つ」
「ひとつ目は、効率」
ティリエは、地面に落ちた土塊のかけらを、指先で転がした。
「あなた、一発防ぐたびに、いちいち詠唱を最初からやり直してたでしょ」
「……教本の通りに、やりました」
「うん、間違ってない。基本はそれで正しい。……でもね、同じ簡単な魔術を、短い間に何度も使うなら。毎回ゼロから組み直すのは、あまりにも無駄なんだ」
「……というと」
「一度組み上げた魔術を、発動させた後も、崩さずに手元へ置いたままにしておく」
ティリエは、自分の掌を軽く広げてみせた。
「形は、もう出来てる。あとは魔力を流すだけ。そうすれば、次からは詠唱もいらないし、消耗も何分の一かで済む。……魔術を『撃つ』んじゃなくて、『点ける』感覚かな」
――ずっとだよ。
初日に聞いた、あの答えが、頭の隅で像を結んだ。
どれだけ魔力を垂れ流すつもりなのかと、あの時は思った。そういうことか。組み上げた形を保ったまま、必要な時だけ魔力を流す。だから「ずっと」でいられるのだ。
カレリアは、ゆっくりと身を起こした。打たれた腹を押さえながら、なんとか座り込む。
「……それ、簡単に言いますけど」
「うん、言うのは簡単。やるほうは、それなりに時間がかかるよ」
あっさりと肯定された。
「組んだ形を、崩さずに保ち続けるわけだからね。最初は、数える間も保たないと思う。……ただ、才能がいる類の話じゃない。積み重ねれば、必ずできるようになる。そうなれば、あなたの戦い方は根本から変わるよ」
「そして、ふたつ目」
ティリエは、そこで少しだけ声の調子を変えた。
「――思い込み」
カレリアが、顔を上げた。
「あなた、私の攻撃はずっと一つずつ飛んでくるものだと、勝手に決めつけてたでしょ」
息が、詰まった。
「私、そんなルールは一言も言ってない。土くれを飛ばす、大きさはこれくらいまで、速さは加減する。言ったのはそれだけ。……それと、実戦形式だとも、ちゃんと伝えてあるよね」
言われて、始める前のやり取りを思い返す。……確かに、そんな約束は一つもなかった。
「最初の半分で、あなたは『これはこういう訓練だ』と決めた。だから、そうじゃない形が来た瞬間、対応できずに転がった。……それに」
ティリエは、そこで少しだけ声を落とした。
「最後の盾を作った時。あなた、『防げない』と思ったでしょう」
「…………」
「完全に受けきるのは、確かに無理だった。でもね、逸らすことはできたかもしれない。三つのうち一つだけでも、止められたかもしれない。……諦めた分だけ、あの盾は薄くなった」
あの一瞬の、諦めの色まで見透かされていた。
「イメージはね、魔術にとって何よりも大事なものだよ。……良くも悪くも。思い描けないものは、決して形にならない。『できない』と決めた時点で、その魔術は、もう一生あなたの手には乗らない」
そして、指を折って締めくくる。
「効率が悪いから、魔力が尽きる。思い込むから、崩される。……そのふたつが、今日のあなたの負けた理由」
カレリアは、俯いたまま、握った拳を膝の上に置いていた。
言い返す言葉は、何ひとつ思いつかなかった。全部、その通りだったからだ。
やがて、彼女は顔を上げた。
「……もう一回、お願いします」
「駄目」
即答だった。
「今日はここまで。効率の話は、しばらく自主練習でやってみて。感覚を掴むのが先だから、私が横で見ていても仕方ないしね」
「……はい」
「それに」
ティリエは立ち上がり、ぱんぱんと土を払った。
「今日は夕方から、会食があるんでしょ。痣だらけの顔で行くつもり?」
「……顔は、打たれてません」
「顔『は』ね」
ティリエは、そう言って手を差し出した。
「それに明日は、朝から出発。荷を作る時間くらい、残しておきなさい」
カレリアは、少しだけためらってから、その手を取った。
やはり、少しひんやりとした手だった。細いのに、引き上げる力は驚くほど強い。
ティリエは、涼しい顔で歩き出した。
その背中が、二歩ほど進んだところで、ふと止まる。
「――でも」
振り返らないまま、彼女は言った。
「最後の、無詠唱の盾。あれは咄嗟によく出したね。……筋は、悪くないよ」
言い置いて、今度こそ歩き去っていく。
残されたカレリアは、しばらくその背中を見送っていた。
打たれた肩も腹も、まだじくじくと痛む。悔しさも、消えてはいない。
それでも――握られていた掌を、彼女はそっと握り直した。
ディーペンスディーペンス!
物語が全然進まねぇのだ!
でもここのパートも大事だし、うーん……