宿に戻ると、一行はそれぞれの部屋へ引き上げた。
「明日は夜明け前に出るからね。寝坊しないように」
「かっか。儂は言われんでも起きとるわい」
「私は起こしてもらう側かな」
そんなやり取りを最後に、廊下の扉がひとつずつ閉じていく。
カレリアも自室に入り、寝台の縁に腰を下ろした。
荷をあらためる。研ぎ直された双剣が二振り。寝台の脇に杖。術式を書き留める帳面。
――教本が、ない。
宴の間、ずっと膝の上に抱えていたはずだった。セインに詰め寄られ、ジェイと食事をして、席を立って。
……あの卓に、置いてきた。
杖を手に取り、そっと扉を開ける。
廊下の灯りは、もう落とされていた。並んだ扉はどれも閉ざされ、その向こうからは物音ひとつしない。
一言、声をかけていくべきだろうか。
けれど、会食をした宿までは通りを二つ渡るだけだ。取って戻るのに、四半刻もかからない。わざわざ誰かを起こすほどのことではなかった。
カレリアは扉を静かに閉め、足音を忍ばせて階段を下りた。
◇◇◇
夜のヴァレンは、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
軒先の灯りはほとんどが落ちていた。月明かりと、杖の先に灯した小さな光だけが、石畳を淡く照らしている。自分の足音が、やけに大きく響いた。
教本は、宴の卓の隅にきちんと寄せて置かれていた。片付けに残っていた給仕に礼を言い、胸に抱えて表へ出る。
帰り道の、半ばほどだった。
かさり、と。
足の裏で、乾いたものが潰れた。
立ち止まって、足元を見る。
枯れ葉だった。黒ずんだ茶色の、縁の縮れた葉が一枚、石畳に貼りついている。
……妙だ、と思った。
ヴァレンの通りに並ぶ木は、どれも青々としていた。葉の落ちる季節でもない。それに、こんな色の葉をつける木を、カレリアは知らなかった。
顔を上げる。
通りに人影はない。
その代わり、すぐ脇に、細い路地が口を開けていた。高い壁に挟まれ、月の光も奥までは届かない。
その暗がりの底に、何かがいた。
杖を掲げて灯りを向け、目を凝らす。
少女が、横たわっていた。
壁際の石畳に身を投げ出すようにして、小さく丸まっている。地面に広がった暗い緑の長い髪には、ところどころ、虫に食われたような黒い斑が散っていた。髪の間から覗く耳の形で、同じファリナだと分かる。
華奢な腕が、何かを抱きしめていた。
枝だった。太く、節くれだった、炭のように黒い木の枝。少女はそれを宝物でも守るように胸に抱えて、目を閉じている。
行き倒れだろうか。
カレリアは、路地へ一歩、踏み出した。
途端に、風が袖を引いた。
髪が後ろへ流れる。肩を、腕を、見えない何かがいくつも掴んで、引き戻そうとする。
精霊たちだった。
普段はただ気ままに周りを漂っているだけの気配が、今は一斉にざわめき、怯え、行くなと訴えている。
カレリアは戸惑って、足を止めた。
精霊にこれほど強く拒まれたことは、今まで一度もなかった。
……あの子に、何かある。
教本の頁が、頭に浮かんだ。結界の項を読み終えたあと、先を急いでめくった基礎技術の章。相手の魔導回路に意識を重ね、その在り方を視る――魔導看破。
まだ一度も試したことはない。それでも、何も確かめずに近づくよりはいい。
杖を握り、呼吸を整える。視線を、眠る少女の輪郭に重ねていく。
何かが、視えかけた。
砕けた硝子を無理やり継ぎ合わせたような、ひどく歪な――
少女の目が、開いた。
血の色をした瞳が、まっすぐにカレリアを捉えた。
◇◇◇
森の中にいた。
黒い森だった。
幹も、枝も、足元を覆う落ち葉も、すべてが煤を被ったように黒い。頭上に空はなく、光もない。それなのに、木々の輪郭だけがなぜかくっきりと見えた。
声を出そうとして、喉が動かないことに気づいた。
指一本、動かせない。瞬きさえできない。胸だけが、勝手に浅い呼吸を繰り返している。
杖を握っていたはずの右手は、空だった。抱えていた教本も消えている。そして――あれほど騒いでいた精霊たちの気配が、ひとつ残らずなくなっていた。
静かだった。
風の音も、虫の声もない。
その静寂の中で、肌だけが、はっきりと感じ取っていた。
見られている。
どこからとも知れない。木々の奥、闇の向こう、あらゆる方向から、無数の視線が注がれている。
全身の毛が逆立った。逃げろ、と体の芯が叫ぶ。けれど足は、地面に縫いつけられたように動かない。
――やがて、歌が聞こえてきた。
森のずっと奥。細く、途切れがちな、少女の声だった。
耳慣れない、古い言葉。ファリナの間でも、今では祭祀か子守唄の中にしか残っていないような、古い響き。
……知っている、気がした。
この旋律を。
幼い頃、眠れない夜に、誰かが――たぶん母が、枕元で小さく口ずさんでいた歌。意味を尋ねても、教えてはもらえなかった。
けれど、何かが違う。
旋律は確かにあの歌なのに、言葉の運びがどこか違って聞こえる。記憶の中の歌よりも長く、途切れるはずのところで途切れずに、その先へと続いていく。
意味は、どちらも分からない。
ただ、母の声が息を潜めるように低かったのに対して、この声は――まるで誰かを呼んでいるように、柔らかかった。
歌が満ちていくにつれて、何かが、こちらへ来る。
足音はない。それでも分かる。闇の奥から、確かな重さを持った何かが、歌に手を引かれるように、ゆっくりと――
木の影が、蠢いた。
黒い手が、伸びてきた。
一本ではない。幹の陰から、根の隙間から、枝の先から。十、二十と、数えることもできないほどの手が、音もなく這い出してくる。指は細く、長く、関節がひとつ多い。
手は、ためらうことなく近づいてきた。
足首に。指先に。頬に。
冷たい気配が、肌に触れる、その寸前――
光が、弾けた。
胸の奥から、白く淡い光が溢れ出した。
光に触れた手は、焼けた鉄に触れたように跳ね退き、闇の中へ縮み上がっていく。
温かかった。
なぜだか、覚えのある温かさだった。
歌が、ぷつりと途切れた。
闇の奥で、何かがこちらを見つめたまま、じっと動きを止めている。
そんな気配だけが、最後に残って――
◇◇◇
石畳の上に、立っていた。
夜風が頬を撫でる。右手には杖、胸には教本。杖の先に灯していた光は、いつの間にか消えていた。怯えたままの精霊たちが、それでも離れまいとするように、身の回りに戻ってきている。
カレリアは、路地の奥を見た。
少女は、いなかった。
黒い枝も、緑の髪も、あの赤い瞳も。壁と石畳と闇のほかには、何ひとつ残っていなかった。
足元に、目を落とす。
最初に踏んだ黒い葉が、崩れていた。
縁から灰のようにほどけ、風もないのに散っていく。やがて最後の一片まで消えて、石畳には染みひとつ残らなかった。
……今のは、何だったのか。
あの少女は。あの森は。あの歌は。あの手は。
そして、自分を守った、あの光は。
答えは、何ひとつ出なかった。
胸に手を当てると、心臓が痛いほど打っていた。
膝が笑う。杖を握る手が震える。カレリアは奥歯を噛みしめ、震えを押し殺すようにして歩き出した。
振り返りはしなかった。振り返れば、あの路地がまた口を開けて、自分を呑み込んでしまいそうな気がした。
宿の灯りが見えて、ようやく、息を吐くことができた。
◇◇◇
部屋に戻っても、眠れなかった。
寝台に腰を下ろし、杖と教本を膝に置いたまま、カレリアは暗い天井を見上げていた。
頭の中で、起きたことを順に並べてみる。
黒い枯れ葉。路地の少女。怯えて自分を引き留めた精霊たち。赤い目。黒い森と、あの歌。無数の手。そして、胸から溢れた光。
あの歌は、確かに母の歌だった。少なくとも、旋律だけは。
なのに、どこか違って聞こえた気がする。
同じファリナなら、あの歌を知っていてもおかしくはない。……自分の覚え違い、だろうか。何しろ、幼い頃に聞いたきりの歌なのだ。
それに、あの光。
温かかった。なぜか、知っている気がした。けれど、どこで触れたものなのかは、どうしても思い出せない。
……誰かに、話すべきだろうか。
隣の部屋では、先生が眠っている。扉を叩けば、きっと起きてくれるだろう。
でも――何と言えばいいのか。
路地で少女を見かけて、目が合ったら黒い森にいて、昔聞いたはずの歌が少し違って聞こえて、手に掴まれかけたところを光に助けられた。気がついたら少女は消えていて、葉っぱも消えた。
口に出してみると、まるで悪い夢の話だった。証拠は何ひとつ残っていない。自分でさえ、何が起きたのか分かっていないのだ。
カレリアは、膝の上の教本を、そっと撫でた。
……先生なら、分かるかもしれない。
魔術のことなら、あの人が一番詳しい。精霊のことも。それに、同じファリナで、自分よりずっと長く生きているあの人なら――あの古い歌のことを知っていても、おかしくはない。
ただ、それは今夜ではない。
眠っているところを起こしてまで、夢のような話を聞かせることでもない。明日は夜明け前に発つのだ。道中のどこか、落ち着いて話せる時を見つけて――その時までに、自分の中でも、もう少し整理をしておこう。
そう決めて、カレリアは寝台に横になった。
目を閉じると、瞼の裏に、あの赤い色が滲んだ。
結局、窓の外が白み始めるまで、彼女は一睡もできなかった。
◇◇◇
夜明けの宿の中庭は、慌ただしかった。
三台の荷馬車が並び、私兵たちが最後の荷を積み込んでいる。馬が白い息を吐き、蹄で石畳を掻いた。縄を締める音、荷を叩いて確かめる音、互いを呼ぶ声。夜のうちに冷え込んだ空気の中で、人と獣の熱気だけが白く立ち昇っている。
「よーし、そっちの樽は二台目の後ろだ! 揺れると割れるからな、藁を多めに噛ませてくれよ!」
ライゼンデが、荷台の上から指示を飛ばしていた。朝から声がよく通る。
「おはよう、カレリアちゃん。……おや」
背嚢を背負ったレイナードが、彼女の顔を見て、首を傾げた。
「目の下、すごいことになってるよ。緊張して眠れなかった?」
「……少し、考え事をしていて」
「そっか。まあ、馬車に乗れる時は乗せてもらいなよ。ライゼンデも、疲れたら荷台で休んでいいって言ってたしさ」
少し離れた場所では、ジェイが私兵の一人と、馬の蹄を覗き込んで何やら話し込んでいる。その向こうでは、フィンが荷台の縄を一本ずつ確かめて回り、ヌルポは黙って、重そうな木箱を一人で担ぎ上げていた。
セインは、ちゃっかりと先頭の荷馬車の御者台の隣に腰を落ち着けて、欠伸を噛み殺している。
「いやあ、朝は弱くてね。私は戦えないから、ここが定位置ということで」
「セインさんはそこでいいですよ。何かあったら真っ先に隠れてくださいね」
「おや、フィン。君は話が分かるねえ」
ティリエは、中庭の隅で壁にもたれていた。
短い杖を片手に下げたまま、まだ半分眠っているような顔をしている。カレリアが近づくと、薄く目を開けた。
「……おはよう」
「おはようございます、先生」
ティリエの金色の目が、カレリアの顔の上で、一度だけ止まった。
「また寝てないね」
「……はい」
「訓練?」
「いえ。そういうわけでは」
言いかけて、カレリアは口を噤んだ。
――今、話すべきだろうか。
だが中庭には人が溢れていて、荷を積む音と怒鳴り声が絶え間なく飛び交っている。こんな場所で切り出すような話ではない。それに、まだ自分の中でも、言葉になっていない。
「……また今度、お話ししたいことがあります。落ち着いた時に」
「ふうん」
ティリエは、それ以上は聞かなかった。
ただ、少しだけ首を傾けて、カレリアの顔をじっと見た。
「分かった。……無理して抱えなくていいからね」
「……はい」
「――よし、全部積んだな! 出発するぞー!」
ライゼンデの声が、中庭に響き渡った。
◇◇◇
三台の荷馬車は、朝靄の中をゆっくりと進み、ヴァレンの門をくぐった。
門番の守護者たちが、短い祈りの言葉で一行を送り出す。
門を抜けてしばらく行くと、あの感覚が来た。
肌を撫でていた柔らかな膜が、ふっと途切れる。光が、わずかに鈍る。音が、少しだけ遠のく。
聖域の外。灰域だ。
背後を振り返れば、低い城壁に囲まれた小さな町が、だだっ広い荒れ野の中に、ぽつんと取り残されたように見えた。
荷馬車の列は、先頭と殿を私兵が固め、その間を討伐者たちが歩く。レイナードとフィンが前寄りに、ジェイとヌルポが後ろ寄りに。ティリエとカレリアは、真ん中の荷馬車の脇についた。
車輪が、乾いた土を噛んで回る。
「さて、ここからが本番だね」
隣を歩きながら、レイナードが空を仰いだ。
「何事もなく着けば、それが一番なんだけど」
カレリアは、何も言わずに歩いていた。
杖を握る手に、自然と力がこもる。
振り返った町の、どこかの路地に。あの黒い枯れ葉が、まだ落ちているような気がした。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。