ヴァレンを発った一日目は、何事もなく過ぎた。
乾いた荒れ野に一本の道が続くばかりで、見かけたのは遠くを横切る獣の影くらいのものだった。夜は荷馬車を寄せて囲いを作り、私兵たちが交代で火の番に立った。
景色が変わり始めたのは、二日目の朝からだった。
足元の土が、少しずつ湿り気を帯びてくる。まばらだった草が丈を伸ばし、道の脇には名も知らない低木が茂り始めた。風に混じる匂いも、乾いた砂埃から、青臭い草と水の匂いへと移っていく。
「川が近いな」
荷台の上で、ライゼンデが鼻をひくつかせた。
「昼過ぎには着くぞ。川を越えれば、水都まではもう半分だ」
隊列の中ほど、二台目の荷馬車の脇を、カレリアは黙々と歩いていた。
杖を握った右手とは逆の、空いた左手の先に、ときおり掌ほどの光の板が浮かんでは消える。
一度組み上げた形を崩さずに抱え、必要な時だけ魔力を流す。言われた通りに試しているが、形を保てるのはまだ、ほんの数歩の間だけだった。気を抜いた途端、指の間から砂がこぼれるように、組んだものがほどけてしまう。
それでもカレリアは、飽きもせず同じことを繰り返していた。
「……熱心だねえ」
先頭の御者台の隣では、セインが振り返るようにして、欠伸混じりにそれを眺めていた。
「若いっていいなあ。私なんか、この揺れだけで眠くなるよ」
「セインさん、さっきも寝てましたよね」
「フィン、そういうことは言わなくていいんだよ」
◇◇◇
川に着いたのは、昼を少し回った頃だった。
幅は、石を投げてやっと届くかどうか。茶色く濁った水が、ゆったりと下流へ流れている。岸辺には背の高い葦が茂り、ところどころに泥の溜まった淀みができていた。
「ここが渡し場だ」
ライゼンデが指さした先には、川底に打ち込まれた古い杭が、対岸まで点々と並んでいた。杭と杭の間が、馬車の通れる浅瀬の目印なのだという。
「深いところでも、膝の上くらいまでだ。馬車は一台ずつ渡す。慌てず、杭の内側を外れないようにな」
私兵たちは、手慣れた様子で段取りを整えていった。先に数人が川へ入って足場を確かめ、一台目の荷馬車の馬を曳いて進み始める。残りは岸に散って、周囲に目を配った。
レイナードたちもそれに倣って、水際に立つ。
一台目は、何事もなく対岸へ渡り切った。付き添った私兵たちがそのまま向こう岸に残り、両岸から川を見張る形になる。
二台目が、川の真ん中に差しかかった時だった。
「――待って」
「――止まれい」
二つの声が、ほとんど同時に上がった。
フィンと、ジェイだった。
フィンは獣の耳をぴんと立て、鼻先を川面へ向けている。
「泥の匂いに、生臭いのが混じってます。……それも、一つや二つじゃない」
ジェイは、川の流れを睨みつけていた。
「さっきまで鳴いとった蛙が、揃って黙りよった。……それに、見い。あそこの水の濁り方、流れに逆らって動いとる」
言われて見れば、川面のあちこちで、ぽこり、ぽこりと泡が弾けていた。
泥の濁りが、ゆっくりと渦を巻いている。流れとは関係なく、何か大きなものが水底を這い回っているかのように。
「全員、構え!」
フィンの声が、鋭く飛んだ。
「馬を守ってください! 二台目の周りに寄って、槍を外へ! 岸の人たちは、水際から一歩下がって!」
私兵たちが即座に動いた。ライゼンデの子飼いである彼らが、初めて聞く青年の号令に、一瞬の迷いもなく従っている。
それだけ、指示が的確だったということだ。
次の瞬間、水面が割れた。
泥の中から這い出してきたのは、この辺りの川筋ではありふれた魔物だった。
平たく、幅の広い頭。そこに埋もれるように、ごく小さな目が二つ。口は耳の辺りまで裂けたように大きく、閉じていても、薄い唇の隙間から濁った水が滴っている。
皮膚は皺だらけで、ぬめりを帯びていた。泥と同じ色の、まだらな模様。太く短い四本の脚が、体の横から突き出している。胴は人の背丈よりも長く、その後ろに、平たく重たげな尾が続いていた。
それが、三匹、五匹――川のあちこちから、次々と姿を現す。
「ヌクヌクだ!」
私兵の一人が叫んだ。
「群れてやがる……! 馬の脚を狙ってくるぞ、気をつけろ!」
「……名前だけは可愛いね」
レイナードが大鎌を構えながら、小さく呟いた。
一匹が、水を蹴って二台目の荷馬車へ突進した。
水の中の動きは、図体からは想像もつかないほど速かった。体をくねらせ、滑るように距離を詰めてくる。狙いは、馬の前脚。
その前に、フィンが立ち塞がった。
左手の、厚みのある剣を斜めに構える。大口を開けて飛びかかってきたヌクヌクの顎を、その剣の腹で受け止め、力を逸らすように横へ流した。
体勢を崩した魔物の頭が、わずかに下がる。
右手の細身の剣が、閃いた。
顎の付け根、ぬめった皮膚の継ぎ目。そこへ、吸い込まれるように切っ先が沈む。
ヌクヌクは一度大きく跳ねて、それきり動かなくなった。
「皮が滑ります! 斬るより、突いて! 顎の裏か、目の後ろ!」
剣を引き抜きながら、フィンは周りへ声を張った。息ひとつ乱れていない。
川の中ほどでは、ヌルポが膝まで水に浸かったまま、仁王立ちになっていた。
そこへ、別の一匹が真正面から突っ込んでくる。
ヌルポは、避けなかった。
大きく開いた顎を、両手で上下から掴んだ。噛み合わさる寸前で、魔物の口がこじ開けられたまま止まる。ヌクヌクが暴れて水飛沫が上がったが、男の体は川底に根を張ったように微動だにしない。
短く息を吐いて――ヌルポは魔物を、そのまま頭から川底の岩へと叩きつけた。
鈍い音が、水の中から響いた。
「おい、そっちだ!」
三台目の荷馬車の陰から、別の一匹が岸へ這い上がろうとしていた。
その眉間に、一本の矢が突き立った。
振り返れば、一台目の荷台の上で、ライゼンデが弓を構えていた。飾り気のない短弓。すでに次の矢を番えている。
「悪いな、荷に傷をつけられると困るんだ」
放たれた二本目の矢が、魔物の小さな目を正確に射抜いた。ヌクヌクは身をよじらせて、泥の中へ沈んでいく。
「……本当に、運だけの男じゃなかったね」
レイナードが、口の端を上げた。
新顔たちに負けじと、一行も動いていた。
岸へ上がってきた一匹に、レイナードの大鎌が振り下ろされる。水から上がったヌクヌクは、嘘のように動きが鈍くなっていた。のそりと向きを変えようとした首筋へ、刃が深々と食い込む。
「なるほど。陸に上げちゃえば、こっちのものだ」
「ほれ、もう一匹上げてやるわい」
ジェイの手から縄が飛び、別の一匹の後ろ脚に絡みついた。老人が身を捻って引くと、魔物の体が水から引きずり出される。泥の上でもがくそれを、待ち構えていた私兵たちの槍が囲んだ。
二台目の荷馬車の車輪の横では、一匹の魔物が、身を低くして馬の後ろ脚を狙っていた。
ティリエが、杖の先を軽く向ける。
魔物の足元で、川底の泥がぐずりと盛り上がった。泥は生き物のように脚と尾へ這い上がり、そのまま石のように固まる。足を取られたヌクヌクが、動けずにもがいた。その頭へ、駆け寄った私兵の槍が突き立った。
ティリエはそれを見届けると、何事もなかったように杖を下ろした。
そしてカレリアの足元でも、水面が膨らんだ。
川縁の葦の間から、一匹が彼女めがけて這い出してくる。水から上がったその動きは、鈍い。
詠唱する余裕は、十分にあった。
けれど――試してみたかった。道中ずっと抱え続けてきた、あの形を。
のそりと持ち上がった頭が、大口を開けて食らいついてくる。そこへ左手を突き出し、魔力を流し込んだ。
ばちっ、と乾いた音が弾けた。掌の先に張られた光の板が、ヌクヌクの顎を正面から受け止める。弾かれた魔物が大きくのけぞり、生白い腹が目の前に晒された。
「――『
風圧の塊が、その腹を打ち抜いた。魔物は川の中ほどまで吹き飛ばされ、腹を上にして、ぷかりと水面に浮かんだ。
カレリアは、自分の左手を見下ろした。
……保てていた。今の一瞬だけは。
視線を上げると、少し離れた場所で、ティリエが小さく頷いたのが見えた。
戦いは、長くは続かなかった。
何匹かが倒れたところで、残りのヌクヌクたちは、形勢が悪いと見たのだろう。一匹、また一匹と身を翻し、濁った水の底へ消えていく。やがて川面の泡も収まり、何事もなかったかのように、流れはゆったりと下流へ向かい始めた。
遠くで、また蛙が鳴き出した。
「……引いたみたいですね」
フィンが、剣の水気を払いながら言った。
怪我人は、ほとんど出なかった。
馬は一頭残らず無事。私兵が一人、ヌクヌクの尾に払われて腕を擦りむいたくらいのものだった。
それを見つけるや否や、荷台の中に潜り込んでいたセインが、幌の隙間からいそいそと這い出してきた。
「おお、怪我人かい! 任せてくれ、ようやく私の出番だ」
「あんた、今までどこにいたんだ?」
「荷台の中さ。言ったろう、戦いはからっきしなんだって」
悪びれもせずに言うと、セインは私兵の腕を取り、擦り傷に手のひらを当てた。
淡い光が滲む。ものの十ほど数えるうちに手が離れると、赤く腫れていた傷は、薄い痕を残すだけになっていた。
「……おお。痛くねえ」
「だろう? ついでに肩も凝ってるね、君。今夜、ちょっと揉んであげようか」
「い、いや、そっちは遠慮しとく」
◇◇◇
残る二台の荷馬車も無事に川を渡り切り、一行は対岸の木陰で休息を取ることになった。
馬に水を飲ませ、濡れた足元を乾かし、それぞれが水筒の水で喉を潤す。
「いやあ、頼もしいね」
木の根元に腰を下ろしながら、レイナードが感心したように言った。
「フィンくんの指揮に、ヌルポさんの怪力。ライゼンデの弓まで、ちゃんと実戦で使えるときた。私兵の人たちも、動きに無駄がない」
「かっか。いい隊じゃ。こういう隊は、そうそう崩れん」
ジェイも、上機嫌で頷いた。
少し離れた場所では、ヌルポが川で手を洗っていた。フィンがその横にしゃがみ込み、何やら話しかけている。大男は相変わらずほとんど口を開かないが、青年の言葉に、ときおり小さく頷いていた。
ライゼンデは、荷台の上で弓の弦を確かめながら、私兵たちと笑い合っている。
「……先生」
カレリアが、そっとティリエの隣に腰を下ろした。
「さっきの、盾。保留、できていました」
「見てたよ。詠唱する間はあったのに、わざと試したでしょ」
「……はい。試してみたくて」
カレリアは、少しだけ俯いた。
「でも、あれ一回きりです。すぐに崩れました」
「一回できたなら、十分」
ティリエは水筒を傾けて、それから、ちらりとカレリアを見た。
「次は、二回だね」
「……はい」
川面を渡って、涼しい風が吹いてきた。
水の匂いが、朝よりもずっと濃くなっている。
この流れの行き着く先、海と川が出会う場所に、水都がある。
◇◇◇
休息を終えると、一行は再び歩き出した。
道は、川に寄り添うようにして下流へと続いていた。
進むにつれて、景色はさらに水気を帯びていく。道の両脇には背丈を越えるほどの葦原が広がり、その切れ間から、ときおり鈍く光る水溜まりが覗いた。足元の土は柔らかく、荷馬車の車輪がところどころで沈みかける。そのたびに私兵たちが後ろから押し、馬を励まして、また前へ進んだ。
水鳥が、群れをなして頭上を渡っていった。
日が西に傾き、空の端が赤く染まり始めた頃。
先頭を行くライゼンデが、荷台の上から前方を指さした。
「見えたぞ。今夜の宿だ」
葦原が途切れた先の、わずかに小高くなった土地に、それはあった。
ぐるりと囲う壁の、下半分は積み上げた石。その上に、先を尖らせた丸太が隙間なく並べられている。高さは大人の背丈の倍ほどだろうか。一箇所だけ開いた門の脇と、壁の四隅には、見張り台らしい櫓が組まれていた。
「宿営地ってやつだ。このあたりを行き来する商人や旅人が、夜を明かすための場所さ」
ライゼンデが、荷台の上から身を乗り出して説明した。
「聖域じゃないから、魔物が絶対に来ないってわけじゃない。けど、壁があるだけで夜の気の張り方がまるで違う。……水が出ても浸からないように、わざわざ高いところに建ててあるんだ」
「……こういう場所、父の商隊でもよく使いました」
カレリアが、どこか懐かしむように壁を見上げた。
門をくぐると、中は思いのほか広かった。
踏み固められた地面に、焚き火の跡がいくつも黒く残っている。隅には石組みの井戸と、屋根だけを掛けた粗末な小屋が並び、馬を繋ぐための柵も設えてあった。壁の内側の丸太には、刃物で刻まれた名前や日付が、数えきれないほど残っている。ここで夜を越した者たちの、ささやかな落書きだった。
そして、先客がいた。
奥のほうに、二台の荷馬車が並べて停められている。その脇では、すでに火が焚かれ、鍋が湯気を立てていた。十人ほどの男たちが、それを囲んで腰を下ろしている。
「お、先に着いてる隊があるな」
向こうの焚き火から、恰幅のいい男がひとり立ち上がって、こちらへ大きく手を振った。
ライゼンデが目を細め――それから、ぱっと顔を明るくする。
「なんだ、あんたのとこか! 久しぶりだなあ!」
どうやら、顔見知りの商人らしい。水都から荷を運んで、これからヴァレンへ向かう途中なのだという。
二人はしばらく互いの肩を叩き合い、景気の話や道の具合を交わしていたが、やがてライゼンデが、ぽんと手を打った。
「そうだ。見張り、一緒に回さないか? うちとそっちの人手を合わせれば、一人あたりの番がずいぶん短くなる」
「おお、そいつは助かる。こっちも護衛が少なくてな、どうしたものかと思っていたところだ」
話は、あっという間にまとまった。
二つの隊の人手を合わせれば、見張りに立てる者は二十人を超える。
門と四隅の櫓に人を置き、夜を四つに区切って順繰りに番を回す。そうすれば、一人が立つのは夜のうちのほんの一刻ほどで済んだ。残りの時間は、壁の内側で、火の傍らで、ゆっくりと体を休めることができる。
「これはありがたいね」
割り振りを聞いたレイナードが、しみじみと言った。
「灰域でこれだけ眠れる夜なんて、そうそうないよ」
「かっか。こういう夜は貴重じゃ。存分に寝ておけい」
荷馬車が並べられ、馬が柵に繋がれ、あちこちで新しい火が熾されていく。
ジェイは早々に大鍋を借りて夕餉の支度に取りかかり、セインは向こうの隊の男たちの中に凝っていそうな肩を見つけては、目を輝かせて近づいていった。フィンとヌルポは、見張りの割り振りを確かめに櫓のほうへ向かっている。
壁の外では、日がすっかり沈もうとしていた。
葦原を渡る風の音と、遠くの水鳥の声。
丸太の壁に囲まれた小さな灯りの輪の中で、一行は、ようやく肩の力を抜いた。
新キャラがいないと進みが早くていいや!