夕餉が済んで、宿営地に夜が降りた。
あちこちの焚き火を囲んで、二つの隊の男たちが酒を回し、笑い声を上げている。最初の見張り番が櫓へ上がっていき、壁の外の闇に向かって松明を掲げた。
ティリエは、賑わいから離れた壁際に腰を下ろしていた。
丸太の壁に背を預け、見るともなしに星を眺めている。そこへ、控えめな足音が近づいてきた。
「先生。……今、少しよろしいですか」
カレリアだった。
「ヴァレンで言った、話したいことです」
「……うん。いいよ」
ティリエは、隣の地面を軽く叩いた。
カレリアはそこへ腰を下ろし、しばらく膝の上で指を組んでいた。どこから話せばいいのか、言葉を探しているようだった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
出発の前の晩、宴の宿に教本を忘れて、一人で取りに戻ったこと。
帰り道で黒い枯れ葉を踏み、路地の奥に、黒い枝を抱いて眠るファリナの少女を見つけたこと。
近づこうとしたら、精霊たちが必死に引き止めてきたこと。念のために、教本で読んだ魔導看破を試したこと。
そして、少女の目が開いて――気づけば、黒い森の中にいたこと。
「黒い、森」
ティリエの声が、わずかに低くなった。
「はい。幹も葉も、全部が黒くて。空も光もないのに、木の形だけは、なぜかはっきり見えました」
「…………」
ティリエは、何も言わなかった。
その言葉に、心当たりがないわけではなかった。黒い森。ファリナであれば誰もが、幼い頃に、ある名前と一緒に教え込まれる場所。
その名を、彼女は口にしなかった。
口にしてはならない。物心ついた頃から、そう言い聞かされて育ってきた。
「……それで?」
「体が動かなくて、杖も教本も、精霊もいなくなっていて。……誰かに、見られている気がしました。それから黒い手がたくさん伸びてきて、触れられる直前に、胸のあたりから光が出て、手を弾いたんです」
カレリアは、自分の胸に手を当てた。
「気がついたら、元の路地にいました。あの子はいなくなっていて、踏んだ葉っぱも、消えていくところでした」
「……そう」
ティリエの視線が、一瞬だけ、カレリアの手に落ちた。
すぐに、夜空へと戻る。
「あの光は、何だったんでしょう」
「さあ。精霊が、守ってくれたのかもしれないね。あなたは、精霊に好かれているし」
「――ひとつ、先に言っておくね」
ティリエは、少し声の調子を変えた。
「魔導看破。あれを試したのは、軽率だった」
「……はい」
「責めてるんじゃないよ。知らなかったんだから。ただ、覚えておいて」
彼女は、指先で自分の目元を軽く示した。
「看破っていうのは、相手の回路を覗き込む技術だけど、覗くってことは、こっちの回路も相手に向けて開くってこと。自分の守りを固めないまま使えば、向こうからも丸見えになる」
「……丸見え」
「扉の鍵を開けて、外の様子を窺うようなものだよ。外が見えるのと同じだけ、外からも入ってこられる。何の備えもなしに開けたら、そこから入り込まれても文句は言えない」
カレリアの顔から、血の気が引いた。
あの時、少女の目が開いたのは――自分が、扉を開けたからだったのか。
「看破を使う時は、必ず、自分の回路の守りと一緒に。これは約束して」
「……はい。約束します」
しばらく、二人は黙っていた。
焚き火の爆ぜる音が、遠くから聞こえてくる。
「……それと、先生。もう一つ、聞きたいことがあって」
「うん」
「森の中で、歌が聞こえたんです。ファリナの、古い言葉の歌でした。……昔、母が歌ってくれていた歌だと思うんです」
「ああ」
ティリエは、少しだけ表情を和らげた。
「それなら、たぶん知ってる。悪いものを寄せつけないための、子守唄だよ。ファリナの親は、たいてい子どもに歌って聞かせる」
「……やっぱり」
「でも、それがどうかしたの?」
「少しだけ、違って聞こえたんです。言葉の運びとか、長さとか。……私の覚え違いかもしれませんけど」
ティリエは、首を傾げた。
「違う歌詞、ねえ。……土地によって、少しずつ歌い方が違うことはあるけど。私には、ちょっと心当たりがないかな」
「……その子のこと、もう少し詳しく教えてくれる?」
ティリエの声は穏やかだったが、どこか慎重な響きがあった。
カレリアは、記憶を手繰るように目を伏せた。
「背丈は、私と同じくらいでした。暗い緑の、長い髪で……ところどころに、黒い模様があって」
「模様?」
「虫に、食われたみたいな」
ティリエの眉が、わずかに動いた。
「看破は、途中までできたんだよね。何か視えた?」
「……一瞬だけ。でも、ひどく歪で。割れた硝子を、無理やり繋ぎ合わせたみたいな」
そこまで言って、カレリアは何かに引っかかったように、言葉を切った。
「……それに、今思うと、おかしいんです」
「何が?」
「あんなに近くにいたのに――あの子から、魔力を少しも感じなかった」
人は誰しも、多かれ少なかれ魔力を帯びている。魔術とは縁遠いアニマスでさえ、その身の内には微かな流れがある。ましてファリナであれば、なおさらだ。まったくのゼロなど、本来はあり得ない。
虫に食われたような髪の模様。歪な回路。魔力を持たない、ファリナの少女。
――そして、怯えて引き留めた精霊たち。
ずっと昔、人伝に聞いた話が、記憶の底から浮かび上がってきた。
ファリナとして生まれながら、魔力を持たない者がいた。魔導回路はまともに働かず、精霊にさえ忌み嫌われる。森の民にとって、それは生まれながらの異端だった。
疎まれ、追われ、居場所を失ったその果てに――その者は、森の悪魔と契りを結んだのだという。
その名は。
「……黒枝の、ティルア」
ぽつりと、声に出ていた。
「先生?」
「ああ、ごめん。……昔、噂で聞いたことがあるだけ。森の悪魔と契約した、ファリナがいるって。黒枝のティルア、と呼ばれてた。詳しいことは、私も知らない」
「黒枝……あの子が抱いていた、枝のことでしょうか」
「さあ、どうだろう。名前の由来までは、聞いたことがないな」
言いながら、ティリエは眉を寄せていた。
――だがおかしい。
あの悪魔の力は、森の中でこそ真価を発揮するはずだ。
それなのに、なぜ。
ファリナの森から遠く離れた、こんな灰域の宿場町に、その契約者がいたのか。
嫌な予感が、胸の奥にじわりと滲んだ。
「カレリア」
ティリエは、少女のほうへ向き直った。
いつになく、真剣な顔だった。
「もし、また同じ人に会うことがあったら。その時は、何もしないで。近づかないで、看破もしないで、すぐに逃げて。……そして、私を呼んで」
「……はい」
「何があっても、必ず助けるから」
カレリアは、ティリエの金色の目を見返した。
それから、深く頷いた。
「必ず、そうします」
話し終えると、カレリアの肩から、ふっと力が抜けたのが分かった。
二日間ずっと一人で抱えていたものを、ようやく誰かに渡せたのだろう。
「……ありがとうございます、先生。聞いてもらえて、少し楽になりました」
「うん。今夜は、ちゃんと寝なね」
「はい」
立ち上がって焚き火のほうへ戻っていく少女の背中を、ティリエはしばらく見送っていた。
それから、壁の向こうの闇へと視線を移す。
葦原を渡る風が、丸太の隙間から細く吹き込んでくる。星は冷たく瞬いて、何も答えてはくれなかった。
◇◇◇
翌朝、一行は宿営地を発った。
先客の隊商とは門の前で別れ、互いの道中の無事を祈り合う。向こうはヴァレンへ、こちらは水都へ。背中合わせに遠ざかっていく車輪の音が、やがて聞こえなくなった。
その朝は、妙に冷えた。
葦原には低く靄が垂れ込め、道の脇の草の葉先が、うっすらと白く縁取られている。空は晴れているのに色が薄く、陽の光にもどこか力がなかった。
「……思ったより冷えるね」
レイナードが、両手をこすり合わせながらこぼした。
「朝だからってのもあるだろうけど、それにしても」
「はい。この辺りは、まだ寒くなる季節ではないはずなんですけど」
カレリアも、不思議そうに空を見上げた。葉先に降りたものは、どう見ても霜だった。
「冬渡りが、近いんじゃと」
隣を歩いていたジェイが、事もなげに言った。
「昨夜、ライゼンデの旦那から聞いたわい。今年は、そろそろらしい。この冷え込みは、その前触れじゃろう」
「冬渡り……」
カレリアが、小さく繰り返す。
「ヴァレンでも、討伐者たちがそんなことを言ってたね」
レイナードが思い出したように言うと、カレリアは少し困ったように眉を下げた。
「言葉は、聞いたことがあるんです。でも、何のことなのかまでは」
「ほう、知らんか。……まあ、嬢ちゃんのおった辺りは通らんかったんじゃろ。あれは嵐のようなもんで、毎度同じ道を行くわけじゃないからの」
ジェイは、白い息をひとつ吐いてから話し始めた。
「討伐不可能個体、というのは聞いたことがあるかの」
「……名前だけは」
「なら、そこからじゃな。まずは魔王種。魔物の中でも、とびきり強い連中をそう呼ぶ。討伐者が束になってかかっても、まず敵わんような化け物どもよ」
老人は、指を一本立てた。
「その魔王種の中でも、さらに上澄み。とりわけ手に負えん連中が、討伐不可能個体じゃ。倒そうとすれば、倒すまでに払う代償のほうがよほど高くつく。じゃから、人はそいつらを討つのを諦めて、被害を『許せる』ものとして呑み込んどる」
ジェイは、薄い空を仰いだ。
「その一体が、冬渡りの老竜――フィンブルじゃ」
「竜……」
「白銀の鱗をした、それは見事な竜じゃそうな。神の使いじゃと言う者もおる。……普段は北のどこかでじっとしとるが、数年に一度、大陸を渡る。暴風雪を身に纏うてな」
カレリアの目が、わずかに見開かれた。
「その通り道になった土地は、ひとたまりもない。村ひとつ、雪の下に埋まることもある。……じゃがな、あやつが撒いていった魔力の名残が、土を肥やす。冬渡りの翌年は、麦がよう実るし、獣もよう肥える」
「……だから、討たないんですか」
「討たんとも言えるし、討てんとも言える。……被害が出るのは間違いない。じゃが、ただ根こそぎ壊されて終わり、というわけでもない。そういう奴じゃよ」
ジェイは、どこか煮え切らない顔で、皺の寄った顎をさすった。
「そういうのが、他にもいるんですか」
「ヴェスペリオの奴の受け売りじゃがな。たしか、五体おる。海の底の大蛇やら、地の底の虫やら。……おお、そうじゃ。嬢ちゃんらファリナなら、聞いたことがあるじゃろ」
ジェイは、何でもないことのように続けた。
「ファリナの森に棲むという、森侵しの悪魔――マグ」
「ジェイ」
静かな声だった。
けれど、それだけで老人の言葉は止まった。
ティリエが、ジェイの腕に、そっと手を置いていた。
「その名前は、むやみに口にするものじゃないよ」
「……おお」
ジェイは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「すまん、すまん。そうじゃった。あやつは、ちと厄介な性質を持っとるんじゃったな」
「うん。……まあ、ファリナの森からはずいぶん離れてるし。大丈夫だとは思うけどね」
ティリエは手を離すと、いつもの気の抜けた調子に戻って、ひらりと手を振った。
カレリアは、ほんの一瞬だけ、ティリエの横顔を見た。
――森の悪魔。
昨夜、同じ言葉を、この人の口から聞いたばかりだった。
しばらく何かを考えるように黙り込んでから、彼女は大真面目な顔で口を開いた。
「……先生でも、勝てませんか」
「無理だろうね」
即答だった。
「……即答、ですか」
「うん。即答」
「かっかっか! こりゃあ潔いわい」
ジェイが、腹を抱えて笑った。レイナードも、堪えきれずに吹き出している。
「だって、そうでしょ」
ティリエは、少しだけ口を尖らせた。
「会ったこともない相手だもの。勝てるかどうかなんて、分かるわけない。……でもね」
そこで、彼女の声から、ふっと軽さが抜けた。
「あれは、ずっと昔からあの森にいる。森には精霊王がいて、守護竜がいて、腕の立つ魔術師だっていくらでもいる。それなのに、誰ひとり、あれを討とうとしない。討てた者もいない」
葦原を渡る風が、ひときわ冷たく吹き抜けた。
「倒さない、あるいは、倒せない。……そうなるだけの理由が、きっとあるんだよ」
カレリアは、言葉を返せなかった。
この人が、あっさりと『無理』だと言う。その意味を、少し遅れて呑み込んだ。
その時だった。
少し前を歩いていたフィンが、ぴたりと足を止めた。
獣の耳が、後ろへ伏せられている。鼻先は、北の空へ向けられていた。
その隣で、ヌルポもまた立ち止まっていた。表情は変わらない。だが、手甲に包まれた拳が、ゆっくりと握り込まれていく。
「……ヌルポさん」
「……ああ」
短いやり取りのあと、フィンは身を翻し、先頭の荷馬車へと駆け出した。
「ライゼンデさん!」
荷台の上のライゼンデが振り返る。
「隊の足を、少しでも速めてください。こんな開けた場所で捕まったら、いい的です。……それと、全員に警戒を」
「どうした」
「――大物が来ます」
その言葉に、重なるように。
ちりん、と。
澄んだ音が鳴った。
ライゼンデの腰に下げられた、親指ほどの水晶の鈴だった。誰も触れていないのに、ひとりでに震えている。ちりん、ちりん、と、細く高い音が途切れることなく続いた。
ライゼンデの顔から、いつもの笑みが消えた。
近くを歩いていた私兵の一人が、はっと顔を上げた。
「……旦那の鈴が、鳴ってる」
男の喉が、ごくりと動いた。手が、無意識に腰の得物へ伸びている。
「こいつを聞くのは、何年ぶりだ……」
ライゼンデは鈴を掌に握り込むと、荷台の上で立ち上がった。
「全員、聞いたな! 足を速めろ、少しでも先へ進むぞ! 得物は手の届くところに置いておけ!」
いつになく、低く張った声だった。
ちりん、ちりん、と。
握り込まれた掌の中でも、鈴は鳴り止まなかった。それどころか、その間隔が、少しずつ短くなっていく。
葦原の奥で、水鳥の群れがいっせいに飛び立った。羽音が空を埋め、南へ、南へと逃げていく。
北から吹く風が、ひときわ冷たくなった。
その風に乗って、遠く、低い音が届く。雷鳴とも地鳴りともつかない、腹の底に響くような音。
――何かが、来る。
薄い靄の向こうから、確かに、こちらへ。