最初に姿を見せたのは、見慣れた魔物だった。
道の脇の葦原が、あちこちでざわりと揺れる。泥の中から、平たい頭がいくつも覗いた。川で追い払ったものと同じ魔物だ。だが数が違う。十か、それ以上か。
「ヌクヌクだ! 馬車に寄せるな!」
私兵たちが槍を構え、荷馬車の両脇を固めた。
「……違う。あれじゃない」
フィンが、低く呟いた。獣の耳は伏せられたまま、葦原のさらに奥を睨んでいる。
「後ろに、もっと大きいのがいます」
ジェイもまた、目を細めていた。
「……あの群れ、こっちを狙うとるというより、押し出されてきとる。何かに追い立てられとるようじゃ」
次の瞬間、葦原が割れた。
それは、ヌクヌクを幾倍にも膨らませたような姿をしていた。
平たい頭と、裂けた大口。そこまでは同じだ。だが首から肩、前脚にかけての肉が、岩を積み上げたように盛り上がっている。全身を覆う泥は乾いて固まり、幾重もの甲冑となっていた。
長さは大人三人を縦に並べたほど。だが、その厚みが違う。荷馬車の一台くらい、そのまま押し潰してしまいそうな図体だった。
「オ、オオヌクヌク……!」
私兵の一人が、上擦った声を上げた。
巨体が、泥を蹴った。
鈍重そうな見た目からは信じられない勢いだった。泥飛沫を撒き散らし、葦をなぎ倒しながら、一直線に突っ込んでくる。狙いは、隊列の真ん中――二台目の荷馬車。
馬が嘶き、棹立ちになる。私兵たちが慌てて飛び退いた。
あの勢いで当たれば、荷馬車は木っ端微塵になる。積荷も、馬も、御者も、まとめて。
その進路に、ティリエが一歩、踏み出した。
腰から、短い杖を抜く。
握りのすぐ下で、色鮮やかな飾り紐がふわりと揺れた。フォート・グレイブの広場で、旅芸人の少女が押しつけていった、あのおまじないだった。
ティリエは杖の先を、迫りくる巨体へと向けた。
「――我が求めるは強固な守り」
静かな声だった。
けれど、その一言ごとに、周囲の空気が張り詰めていく。
「魔力の渦よ盾となり、万物の衝撃を受け止めよ」
杖の先に、光が集まった。
「――『
光が、弾けるように広がった。
杖の先から、光の板が一枚、生まれる。続けてもう一枚。さらにもう一枚。それぞれが少しずつ角度を変え、前の一枚に寄り添うように重なっていく。三枚、五枚、七枚――生まれた端から互いの縁を噛み合わせ、継ぎ目のない一枚の壁へと組み上がっていった。
その一枚一枚に、細かな魔術式の紋様が隙間なく刻み込まれている。重なった紋様が光を照り返し合い、壁全体が淡く脈打つように輝いていた。
瞬く間に、荷馬車をまるごと背に庇えるほどの、巨大な光の壁が立ち上がる。
オオヌクヌクが、正面からそこへ激突した。
轟音が、湿地を揺らした。
衝撃が波になって広がり、周囲の泥が大きく跳ね上がる。ティリエの足元が、ずぶりと沈んだ。踏ん張った靴の下で、泥が押し出されるように盛り上がる。
――それでも、盾は、揺るがなかった。
ひびひとつ入らない光の壁に弾き返され、泥の鎧の一部が剥がれ落ちる。巨体は、たたらを踏んで後ずさった。
「……短縮詠唱、か」
最後尾の荷台から身を乗り出して、セインが小さく呟いた。
「式の組み方は、ずいぶん古い型だね。……それでも相当な腕だ」
カレリアは、師の背中を見つめていた。
――先生が、詠唱した。
高度な魔術には、詠唱も準備も要る。いつか、そう聞いた。その言葉の意味を、今になって目の当たりにしていた。
「……おかしい」
荷台の上で、ライゼンデが眉を寄せていた。
「この辺りは、オオヌクヌクの縄張りじゃないはずだ。あいつらはもっと北の、深い沼地に棲んでる。こんな街道沿いまで出てくることなんて……」
オオヌクヌクが、頭を振った。
剥がれた泥の鎧の下から、灰褐色の皮膚が覗いている。だが、目に宿る凶暴な光は、少しも衰えていない。巨体が低く沈み込み、前脚に力が溜まっていく。
二度目の突進が、来る。
ティリエが、杖を構え直した。
――その時、オオヌクヌクの足元の泥が、ぐらりと揺らいだ。
泥が渦を巻いた。
ひとりでに、生き物のように。泥と水が螺旋を描き、その真下へと吸い込まれていく。巨体が異変に気づいて身を捩った、その瞬間。
地の底から、何かが突き上げた。
細長い影だった。泥の中から槍のように飛び出したそれは、巨体の腹の下へ潜り込み、宙へと跳ね上げた。
あれほどの巨体が、嘘のように軽々と浮いた。
弧を描いて、荷馬車の頭上を越えていく。誰もが、ただ見上げることしかできなかった。
オオヌクヌクは、街道の反対側の泥地に地響きを立てて叩きつけられた。
その場に残っていたのは、竜だった。
翼はない。代わりに、どこまでも長く、しなやかな体があった。細身で、水を切る魚のような流線型。胴の長さだけならオオヌクヌクを優に越えるのに、その細さのせいで、ずっと小さく見える。
鱗は、濡れた鋼のような青黒い色をしていた。泥を浴びているのに、汚れひとつ纏っていない。頭は細く尖り、琥珀色の眼が、ゆっくりとこちらを見下ろしている。
その足元で、泥と水が、主に従うようにざわざわと蠢いていた。
「……地竜じゃ」
ジェイが、低く呟いた。
「スイグラーク……湿地にごく稀に出るという竜種よ。儂も、本物を見るのは初めてじゃわい」
老人は、ライゼンデのほうをちらりと見た。
「旦那。さっきの答えは、あれじゃろう。オオヌクヌクは、縄張りを追われて逃げてきたんじゃ。……あやつにな」
街道を挟んで、二体の大物が向かい合っていた。
片側には、泥の鎧を剥がされて怒り狂うオオヌクヌク。もう片側には、悠然と身をくねらせるスイグラーク。
そしてその真ん中に、三台の荷馬車と、一行がいた。
「……挟まれちゃったね」
レイナードが、大鎌を構えながら苦笑した。
「――馬車を先に!」
フィンの声が、鋭く飛んだ。
「止まらずに、このまま抜けてください! 私兵の皆さんは、馬車に付いてヌクヌクを寄せないで!」
私兵たちが即座に動く。御者が手綱を叩き、三台の荷馬車が、二体の大物の間を縫うように走り出した。
「残りは、あの二体の足止めです。……倒さなくていい。馬車が抜けるまで、時間を稼いでください!」
「かっか、獲物の取り合いに巻き込まれたわい」
ジェイがナイフを抜き、ヌルポが手甲を打ち合わせる。カレリアも杖を抜いて敵を見据えた。
オオヌクヌクが、泥を蹴った。
スイグラークが、細い喉を震わせた。
葦原の上に、二つの咆哮が重なった。
オオヌクヌクの狙いは、走り出した荷馬車だった。泥の鎧を剥がされた怒りを、手近な獲物へぶつけようとしている。巨体が身を沈め、地面ごと押し出すように加速する。
その正面に、ヌルポが立った。
逃げも、構えもしない。ただ腰を落とし、両の手甲を前へ突き出しただけだった。
巨体と男が、ぶつかった。
鈍い衝撃音。
ヌルポの足が、泥を削って後ろへ滑った。一歩、二歩、三歩。踵が、泥に深い溝を刻んでいく。
だが、倒れない。
裂けた大口の上顎と下顎を、両手でがっちりと掴んでいた。噛み合わさろうとする顎を、太い腕が震えながら押し留めている。首筋に血管が浮き、食いしばった歯の隙間から、獣のような呻きが漏れた。
――四歩目で、巨体の勢いが、止まった。
「今のうちじゃ!」
ジェイが、横合いから滑り込んだ。
狙ったのは、ティリエの盾に弾かれた時に鎧が剥がれた、左の脇腹。覗いた生の皮膚へ、ナイフが深々と突き立つ。引き抜いた刃には、黒い脂がぬらりと光っていた。
反対側から、レイナードの大鎌が唸った。
前脚の付け根を狙った一撃。だが刃は、乾いた泥の鎧に当たって、甲高い音とともに弾かれた。
「っ、硬いな……!」
手首に、痺れるような衝撃が返ってくる。ただの泥ではなかった。幾重にも塗り重ねられ、乾いて固まったそれは、焼き締めた陶器のような硬さだった。
「レイナードさん、下がってください!」
カレリアの声が飛んだ。
「『
風圧の塊が、その肩口を打つ。
狙ったのは、肉ではなく鎧のほうだった。乾いた泥の板が衝撃でばきりと割れ、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。その下から、生の皮膚が覗いた。
「――なるほど、そういうことか」
レイナードの口の端が、吊り上がった。
剥き出しになった肩へ、今度こそ大鎌が食い込む。分厚い肉を裂いて、どす黒い血が泥に散った。
オオヌクヌクが、咆えた。
巨体が身を捩る。顎を掴まれたまま、首を振り回すようにして暴れた。ヌルポの体が、地面から浮きかける。
「……っ」
男の手が、ついに外れた。
自由になった頭が、横薙ぎに振るわれる。ヌルポは咄嗟に両腕を交差させて受けたが、その体ごと、泥の上を転がるように弾き飛ばされた。
「ヌルポさん!」
「……問題、ない」
泥まみれで身を起こしたヌルポは、口の端の血を手の甲で拭った。その目は、少しも揺らいでいなかった。
脇腹からは血が流れ、肩の鎧は剥がれている。だが巨体の動きは、まだ少しも鈍っていない。
痛手は与えている。だが、倒すには程遠い。
◇◇◇
街道を挟んだ反対側では、スイグラークが、泥の中へ沈んでいた。
ほんの一瞬前まで、そこにいたはずだった。長い体が、水に飛び込むように、何の抵抗もなく泥地へ吸い込まれていったのだ。後には、緩やかに渦を巻く泥の跡だけが残っている。
ティリエは杖を構えたまま、魔導看破で泥の下を探った。
自分の回路を固く閉ざしたうえで、視線だけを相手の魔力に重ねていく。泥の底を、太い魔力の流れが這っているのは分かった。だが泥そのものが竜の魔力に染まっていて、輪郭がひどく滲んでいる。
「右です」
隣で、フィンが言った。
獣の耳が小刻みに動き、鼻先が地面すれすれまで下がっている。
「泥の中を回り込んでます。……今、真後ろ。止まった。――来ます、足元!」
言うが早いか、フィンはティリエの腕を掴んで横へ跳んだ。
直後、二人が立っていた場所の泥が爆ぜた。泥飛沫と一緒に、細く尖った竜の頭が突き上がってくる。降りかかる泥の塊を、ティリエの掲げた小さな光の板が斜めに受け流した。
空を噛んだ顎が、がちりと鳴る。琥珀色の眼が、ぎょろりと二人を捉えた。
「――僕が咬みます」
フィンが、低く呟いた。
――『血脈覚醒』。
アニマスの中でも、限られた者だけが身につける技だ。己の内に宿る獣の血をあえて昂ぶらせ、肉体そのものを獣の側へと傾ける。感覚は研ぎ澄まされ、四肢には獣の力が宿る。
獣の耳が、後ろへぴたりと伏せられた。瞳孔が針のように細く絞られ、喉の奥から、低く唸るような呼吸が漏れ始める。小柄な体が、さらに低く、地面を這うような姿勢へと傾いていく。
その体から、何かが立ちのぼった。
目には見えない。だが、肌がざらりと粟立つ。乾いた荒野を渡る熱風のような、獣の息遣いを孕んだ気配が、青年の周りの空気をゆらゆらと歪ませていた。
フィンが、跳んだ。
泥の上を、ほとんど音もなく駆ける。竜の首が振り向くより早く、その顎の下へと潜り込んでいた。
左の厚い剣で、喉元へ伸びかけた顎の縁を払い上げる。がら空きになった首の付け根――鱗と鱗の継ぎ目へ、右の細身の剣を突き入れた。
浅い。刃は鱗の隙間を抉っただけで、肉までは届かない。
だがフィンは、それ以上を追わなかった。突いた反動のまま身を翻して離れ、竜の死角を回るように円を描く。そしてまた、懐へ入る。前脚の裏。尾の付け根。脇腹の鱗の継ぎ目。一度に深くは斬らない。ただ浅い傷を、少しずつ、確実に刻んでいく。
竜が首を巡らせるたびに、青年はもうそこにはいない。
息は乱れていなかった。むしろ時が経つほどに、その動きは研ぎ澄まされ、竜の動きに寄り添うように馴染んでいく。獲物が倒れるまでどこまでも食らいついて離れない、群れの狩人の動きだった。
ティリエは、魔導看破を解かなかった。
泥の中から姿を現した今なら、竜の魔力の流れははっきりと視える。鱗の下を巡る、太く、うねるような流れ。
爪や尾の動きまでは、それでは追えない。そちらは、獣の勘で動く前衛に任せればいい。ティリエが視るべきは、竜が魔術を使うその瞬間だった。
竜の後ろ脚が、わずかに沈んだ。
フィンは、それを見逃さなかった。横薙ぎに振るわれた尾を身を伏せてやり過ごし、そのまま尾の下を潜って脇腹へ回り込む。
踏み込んだ先の泥は、深い。足を取られれば、それで終わりだ。
ティリエは杖の先を小さく振った。フィンが踏み込むその一歩ぶんだけ、足元の泥が固まる。青年はそれを当然のように蹴って、竜の脇腹へ刃を走らせた。
スイグラークが、細い喉を鳴らした。
煩わしげな音だった。
――その喉元へ、魔力が奔った。
体中を巡っていた流れが、一斉に首へと吸い上げられていく。喉の奥で、それが固く、細く、絞り込まれていくのが視えた。
「息吹が来る! 正面から離れて!」
竜種は、魔物の中でも抜きん出た身体能力を誇る。種によっては、知恵と魔術までも併せ持つ。そして何より恐れられているのが、その喉から放たれる息吹だった。
竜の顎が開いた。
吐き出されたのは、炎ではなかった。
水だった。細く、細く絞り込まれた、一条の水流。それが目にも留まらぬ速さで、空気を裂いて奔る。
フィンが、紙一重で身を捻った。
水流は青年の脇をすり抜け、その背後の泥地を深々と抉り抜いていく。翻った外套の裾が、音もなく切り離されて宙を舞った。まるで、研ぎ澄まされた刃で断たれたような、真っ直ぐな切り口だった。
竜の首が、ゆっくりと横へ振られた。
放たれ続ける水流が、それに合わせて横薙ぎに走る。その先には――街道がある。オオヌクヌクと戦う仲間たちがいる。走り去ろうとする荷馬車がある。
ティリエは、水流の進路へ身を割り込ませた。
「『
ただの魔力の盾ではない。反射させる、というイメージを練り込んだ、即興の複合魔術だった。
正面からは受けない。あれを真っ向から止めれば、どんな盾でも削り抜かれる。
光の板を、斜めに。水流が触れる面に、わずかな角度をつけて張った。
水流が、盾の面を叩く。甲高い音が鳴り響き、光の板が軋んだ。だが水流は盾を貫くことなく、その面を滑るようにして、大きく軌道を逸らされていく。
弾かれた水の刃は、空へ向かって跳ね上がり――遠く、葦原の向こうに一本だけ立っていた大木の幹を、斜めに断ち割った。
ゆっくりと傾いた大木が、地響きを立てて倒れていく。
竜の眼が、初めてティリエへと向けられた。
息吹が、止んだ。
代わりに、竜の足元へ、水が流れ込み始めた。
――引いている。
周囲の湿地から、溜まっていた水が、竜のほうへと吸い寄せられていく。葦の根元の水溜まりが干上がり、泥の上を細い流れが幾筋も逆巻いて、竜の足元へと集まっていく。潮が引くように、辺り一面の水が、竜のもとへ。
竜の懐に張りついていたフィンが、大きく飛び退いた。泥の上を跳ねるように駆け戻り、ティリエの隣で足を止める。耳は伏せられたまま、息ひとつ乱れていない。
「……何か、溜めてますね」
「うん。下がってて」
そうして溜め込まれた水が、竜の周りで、ゆっくりと盛り上がり始めた。
小屋ほどの高さの、水と泥の壁だった。
「……これは、躱すだけじゃ足りないね」
ティリエは、杖を両手で握り直した。
背後には、まだ荷馬車がいる。
「――荒ぶる理に安らぎを」
静かに、言葉を紡ぐ。
「万象を包むは深き静寂の帳。その威光を解き、ただ無垢なる凪へと還せ――」
竜が、身をくねらせた。
水の壁が、雪崩のように二人へ押し寄せる。
「――『
杖の先から、音のない波紋が広がった。
押し寄せる大波に、それが触れる。荒れ狂っていた水の勢いが、目に見えて鈍った。うねりが崩れ、逆巻いていた流れがほどけ、竜の魔力に駆り立てられていた水が、ただの水へと還っていく。
大波は、その場で半ば崩れ落ちた。
――だが、すべてではなかった。
鎮めきれなかった水と泥が、波の縁から溢れ出す。勢いを削がれながらも、それはなお重く、二人の脇をすり抜けて流れていく。
その先に、街道があった。
直後、街道の先で悲鳴が上がった。
振り向いた先で、三台目の荷馬車が傾いていた。
――車輪が、沈んでいる。
溢れた水と泥が、街道を覆っていた。固かったはずの道が一瞬で泥濘に変わり、最後尾の荷馬車の後輪が、車軸の近くまで埋まっている。
馬が嘶き、もがく。私兵たちが車輪に取りつき、必死に押し上げようとしている。その周りを、ヌクヌクの群れがじりじりと囲み始めていた。
見かねたライゼンデが先頭の荷台から飛び降り、最後尾の荷台へと駆け上がった。矢を番え、群れの一匹を射抜く。だが、数が多い。
「くそっ、上がらねえ……!」
その傍らでは、セインが青い顔で身を縮めていた。
そして、その荷馬車に、もう一つの巨大な影が向き直った。
オオヌクヌクだった。
レイナードたちを振り払うように身を捩り、血を流しながら、それでも動けなくなった獲物を見つけた眼で、傾いた荷馬車を睨みつけている。
「――まずい」
レイナードの声が、掠れた。
その先には、傾いた荷馬車があった。車輪に取りついた私兵たち。荷台の上で弓を構えるライゼンデ。そして、逃げ場のないセイン。
その巨体が低く沈んだ後、荷馬車へと飛び掛かった。
【ヌクヌク】
川筋の泥に潜む、水棲の魔物。
平たい頭と、耳まで裂けた口を持つ。
水中では素早く、陸に上がれば鈍い。渡し場に群れを成し、馬の脚を狙うという。
川辺の蛙が鳴きやんだなら、水には入らぬことだ。泥の底で、それは口を開けて待っている。
【オオヌクヌク】
ヌクヌクの群れを統べる、大型の個体。
幾重にも塗り固めた泥を、鎧として纏う。
その身より滲む粘液は泥と混ざって固まり、焼き締めた陶のごとく、並の刃を退けるという。
隊商を襲えば、荷馬車ごと泥濘へと沈めることもある。老練の討伐者とて、侮れば同じ末路を辿る。
【スイグラーク】
湿地にごく稀に生まれ落ちる、翼なき竜。
濡れた鋼のごとき鱗は、泥に染まらない。
水と泥を従え、沼の底を泳ぐ。その喉より放たれる息吹は一条の水となり、大木すら断ち割るという。
竜は、いつの世も人の手に余る。泥の主すら、その獲物に過ぎぬのだから。