灰域戦線、加護なき地にて【キャラ募集中】   作:雪兎の手

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GWなので。


出会い

ミスト港村の夜は、いつも海の底から這い上がるような重さと、儚い灯りの温かさを併せ持っていた。

 

カセンドラ湾に面したこの小さな漁村は、王都から馬で半日ほどの距離にありながら、灰域の息吹を間近に感じる最前線のひとつ。

聖紋の結界が届く範囲の端っこに位置するため、夜になると魔物の遠吠えが潮風に乗って届き、漁師たちは船を繋ぐ前に必ず聖神ニノラの短い祈りを捧げるのが習わしだった。

 

そんな村の中心に、唯一の酒場『波止場の灯り』はあった。

古びた木造の建物は、海風と塩で黒ずみ、看板の文字も半分剥げ落ちている。

それでも夜の闇の中で、ランプの橙色の光が窓から漏れ、まるで荒れた海に浮かぶ最後の灯台のように人々を呼び寄せていた。

 

扉を押し開けると、暖かな空気と焼けた魚の脂、麦酒の酵母、煙草の煙、そして微かな潮の匂いが混じり合って迎えてくれる。

カウンターの奥では、店主の寡婦である中年女性・マーサが、大きな鉄鍋をかき回しながら常連たちに声をかけていた。

「ほらほら、夜通し飲んでんじゃないよ! 守護者様方が揃ってるってのに、明日の巡回で倒れるんじゃないよ」

 

カウンター沿いの席と奥の大きなテーブルでは、村の守護者たちが今日も賑やかに集まっていた。

彼らはこの村を守る常備の武装集団。

聖神ニノラの第一種聖典魔術を身につけた者たちが中心で、皆、加護の恩恵を多少なりとも受けている。

 

今夜も夜の巡回を終えたばかりらしく、鎧の留め具を外した者、肩に聖典の短冊を下げた者たちが、杯をぶつけ合いながら笑い声を上げている。

「いやぁ、今夜は東の岩場で魔物の群れが五匹も出たぜ! 俺らがいなきゃ村の羊どころか漁師がやられてたところだ」

「この辺りは聖域が近いからまだ良いがやはり油断はできないな。結界を強化した方がいいかもしれん」

「ははっ、こんな辺鄙な村のどこにそんな金がある。生き残りたきゃ俺らでなんとかするしかないさ」

笑い声が弾け、杯が鳴る。

守護者たちの声には、確かに疲労が滲んでいたが、それでも「今夜も生き延びた」という安堵と誇りが底に流れていた。

 

一方、店内の端や窓際の席には、討伐者たちがポツポツと散らばっていた。

彼らは灰域を渡り歩く者たち。

守護者ほど組織立っておらず、素行の悪い者も少なくない。

 

今夜も数人が、今日の疲れを酒で洗い流すように黙々と杯を傾けている。

「……グリム方面でまた黒蝕の残滓が動いてるらしい。勇者連合が討伐者を募ってるがお前は行くのか?」

「行くわけないでしょ……討伐者をやってればグリム周辺の過酷さは嫌でも耳に入る」

「そうか。かく言う俺も以前あのあたりで大怪我をしたことがある。幸か不幸か加護を得たことだけが収穫だったがな」

短い笑いと、深いため息。

 

さらに窓際の席では、黒のカソックに赤い腰帯を締めた細身の男が、肩甲骨まで伸ばした焦げ茶色の髪を一本に束ね、ニコニコと締まりのない顔で杯を傾けていた。

灰色の三白眼が優しげに細められ、背中には身の丈ほどもある長柄の大鎌を立てかけている。

彼は時折、近くの討伐者に軽く声をかけ、

「ほら、もっと飲んで元気出せよ。今日はまだ早いってさ?」

と冗談めかして笑わせている。

 

そんな夜の『波止場の灯り』に、

ガチャリ……。

扉がゆっくりと押し開かれた。

 

一瞬、店内の喧騒が小さく萎んだ。

海風が冷たい潮の匂いを連れて入り込み、ランプの炎が一斉に揺れた。

 

カウンターの奥で鍋をかき回していたマーサが手を止め、視線の先を辿った守護者たちの笑い声がぴたりと途切れる。

討伐者たちも、杯を傾けていた顔をゆっくりと上げた。

 

ずぶ濡れの外套を一枚だけ身体に巻きつけた女性が、ふらりと店内へ入ってきた。

長い薄緑色の髪が海水で重く肩に張り付き、端々が海藻のように絡まっている。

金色の瞳がぼんやりと店内を映し、ファリナ族特有の長い耳が、濡れた髪の間からわずかに覗いていた。

顔や首筋、露出した腕や足には擦り傷と青あざがいくつも浮かび、白い肌がところどころ血の色に染まっている。

足元からは海水がぽたぽたと床に落ち、粗末な外套の下から覗く素足は傷だらけで、杖で体を支えながら一歩一歩を踏みしめていた。

 

店内が、息を呑むような静けさに包まれた。

 

「……あんた……」

マーサが小さく声を漏らす。

守護者の一人が杯を置く音が、妙に大きく響いた。

窓際の席でニコニコと笑っていた黒のカソックの男も、三白眼をわずかに細めて彼女を見つめ、杯を持ったまま動きを止めた。

 

彼女は店内の視線を一身に浴びながらも、表情はほとんど変わらなかった。

どこか遠い目をしたまま、空いている一番端の席にゆっくりと腰を下ろす。

外套の裾から滴る水が、床に小さな水溜まりを作っていく。

 

「……水と、何か温かいものを……お願いできる?」

声は掠れていたが、穏やかで柔らかい響きを残していた。

まるで遠い昔から何度も繰り返してきたような、自然な物言いだった。

 

マーサが慌てて水の入った杯を差し出しながら、

「あ、あんた、どこから来たんだい? そんな格好で……海に落ちたのかい?」

と心配そうに尋ねる。

 

守護者たちのテーブルから、低い声が漏れた。

「ファリナ……? それにしても随分とボロボロだな……」

「あの格好、山賊にでも襲われたのか? だとしたら気の毒だな」

 

一方、討伐者たちの間でも小さなざわめきが広がり始めていた。

窓際の男は、静かに彼女の様子を観察している。

 

彼女は杯を両手で包み込むようにして口をつけ、冷たい水をゆっくりと喉に流し込んだ。

長い幽閉生活で衰えた体が、ようやく温もりを求めているかのように小さく震えていた。

 

——

 

マーサは慌てた様子で、カウンターの奥から湯気の立つ木の椀を運んできた。

中には魚と根菜のシンプルなスープが入っている。

 

「ほら、まずはこれを……冷えてる体に悪いよ。ゆっくり飲んでおくれ」

彼女は掠れた声で小さく礼を言い、椀を両手で受け取った。

熱が指先にじんわりと染み渡る。

彼女はゆっくりとスープを口に運び、一息に飲み干した。

温かい液体が胃の奥まで落ちていく感覚に、わずかに肩の力が抜ける。

「……ふう」

小さく息をつき、彼女は空になった椀をカウンターに置いた。

 

金色の瞳が、店主のマーサを静かに見つめる。

「申し訳ないんだけど……お代の話なんだけど」

マーサが「ん?」と首を傾げた瞬間、彼女は外套の内側に手を入れ、ごろりと二つの球体をカウンターの上に転がした。

それは拳大ほどの、暗く濁った赤黒い球体だった。

表面はまだわずかに湿り気を帯び、内部に複雑な血管のような模様が浮かんでいる。

店内のランプの光を鈍く反射し、まるで生き物のように不気味に光っていた。

 

「……え?」

マーサが目を丸くする。

守護者たちのテーブルからも、ざわめきが漏れた。

窓際の男も、杯を置いてわずかに身を乗り出した。

 

彼女は淡々と答えた。

「竜の眼。他の部位は持って来れなかった。加工すれば、多少の値にはなると思うんだけど……どうかな?」

 

店内が、再び息を呑んだ。

 

マーサは球体をじっと見つめたまま、困惑した顔で首を傾げる。

「……竜の眼? えっと……それって、魔物の……? ごめんね、よく分からないんだけど……この村じゃ加工できるところなんてないよ……?」

 

守護者の一人が、低い声で言った。

「竜の眼……? 聞いたことねえな……そんなもの持ってきても、村の鍛冶屋じゃどうしようもねえだろ……」

 

討伐者たちの間では、明らかに疑いの視線が交わされていた。

「本物かよ……? ただの石じゃねえのか?」

「加工するにしても、この村じゃ売るあてもねえし……」

 

マーサは困ったように球体と彼女を交互に見つめ、

「え、えっと……どうしようかな」

と小さな声で呟いた。

 

そのとき、窓際の席から立ち上がる音がした。

細身の男が、笑顔のままゆっくりとカウンターへ近づいてきた。

「まあまあ、みんな落ち着いて。ボクがその眼、受け取ってお代を肩代わりしようか?」

 

彼女は金色の瞳をわずかに細め、黒のカソックの男を静かに見つめた。

一瞬の間を置いて、柔らかな声で答える。

「……ありがとう。そうしてもらえると助かるよ」

 

男はニコニコとした笑顔を崩さず、軽く手を振った。

「よし決まり! じゃあ、こっちの席に来てくれよ」

 

彼女は小さく頷き、杖を突きながらゆっくりと立ち上がった。

外套の裾からまだ水滴が落ち、足音が湿った音を立てる。

男は自分のいた窓際の席に彼女を案内し、自分も隣の椅子を引いて座った。

二人は自然と同席する形になる。

 

男はカウンターに向かって明るく声を張った。

「マーサさん! 悪いけど、このお姉さんの分にもう少し温かいものを追加で頼むよ。スープのおかわりと、パンでも何か腹に溜まるものがあれば! ボクが払うからさ」

 

マーサはまだ少し戸惑った顔をしていたが、男の気さくな態度に救われたように頷いた。

「わ、わかったよ……すぐ用意するね」

 

男は彼女に向き直り、灰色の三白眼を優しげに細めたまま、

「ボクはレイナード。旅の討伐者やってるよ。何があったのか……って、聞いても良いのかな?」

彼女は外套の襟を軽く引き寄せ、

「旅の途中で襲われて、なんとか生き延びたただの魔術士だよ。名前はティリエ」

と、柔らかい声で答えた。

 

店内のランプの光が、二人の影を長く窓際に伸ばしていた。

外では潮風が波止場を叩く音が続き、遠く灰域の闇から魔物の低い唸りが混じって聞こえてくる。

今夜の『波止場の灯り』は、いつものように賑やかで、いつものように儚く、ただ一人の濡れた魔術士と、ニコニコとした僧兵の出会いを、静かに包み込んでいた。

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