「――監獄塔が、魔物に襲われたんだとよ」
行商の老人は、さも一大事という顔で身を乗り出した。
ミスト港村を発って半日。フォート・グレイブへ続く街道の途中、南へ下る荷車の一団とすれ違ったときのことだった。
「ガモン島の監獄塔さ。詳しいことはとんと分からねえんだが、レイヴン騎士団が調査に出向いたって話でな。どさくさで囚人が抜け出した、なんて噂まであるくらいだ」
「へえ! レイヴン騎士団が? そりゃまた物騒だ」
レイナードが大袈裟に目を丸くしてみせると、老人は我が意を得たりと頷いた。
「ああ。滅多に表へ出てこねえ“鴉”の旦那方が動くんだ。よっぽどキナ臭いんだろうよ。あんたらも気をつけな」
「ご忠告どうも。そちらも良い旅を!」
荷車の軋みが遠ざかっていく。
レイナードはロバの綱を引き直し、しばらく何も言わずに歩いた。
横目に映るティリエは、涼しい顔で水筒を傾けている。その指が杖の上でかすかに動いたのを、彼は見ていないふりをした。
「……世の中、物騒だねえ」
「そうだね」
「キミも気をつけなよ? ファリナの綺麗なお姉さんが一人で歩いてたら、悪い奴に攫われちゃうかもしれない」
「もう一人じゃないよ。腕利きの護衛を雇ったから」
「おっ、信頼された! よーし、ロバくん、聞いたかい今の」
ロバは興味なさそうに鼻を鳴らした。
◇◇◇
旅は、今朝早くに始まった。
夜明け前の薄紫の空の下、村の北門で落ち合った二人は、レイナードが商人から請け負った荷運びのロバを連れて発った。
フォート・グレイブで荷を下ろし、その先は本格的な灰域を抜けて水都ラティーナ方面へ。目的地のガング窟湾までは、順調にいって十日かそこらの長旅になる。
「だからのんびり行こう。足が痛くなったら、最悪キミもロバくんに積んじゃうからね」
「……それは遠慮しておくよ」
そんなやり取りをしたのが、もう随分前のことのように思えるほど、午後の街道は長閑だった。
行き交う人もまばらになった頃、レイナードがふと首を傾げた。
「そういえばさ。さっきから気になってたんだけど」
「ん?」
「キミの周り、やけに精霊が騒がしくない?」
ティリエの足が、半歩分だけ遅れた。
「……あなた、精霊が見えるの?」
「いやいや、まさか。ボクに見えるわけないよ。でも、なんていうか――空気が浮かれてるんだ。お祭りの前の子供たちみたいに。キミが歩くと、道端の草の揺れ方まで機嫌が良さそうに見える」
ティリエは前を向いたまま、ほんの一瞬だけ睫毛を伏せた。
それから軽く指先を振る。ふわりと涼やかな風が起こり、汗ばみ始めたロバの首筋を撫でていった。ロバが気持ちよさそうに耳を揺らす。
「……精霊に好かれる体質なんだ。昔からね」
「へえ、羨ましい限りだ。ボクなんて好かれてるのは死神さまくらいだよ」
「それはそれで大物じゃないか」
「あはは、違いない!」
笑い声が途切れた後、レイナードは思い出したように続けた。
「ああ、そうだ。傷、治しておこうか? ボクの治癒は中級までなら使えるんだ。治癒汚染の説明は――」
「知ってるよ。回復のたびに肉体と精神が蝕まれる、だろう? 昔より、ずいぶん知られるようになったんだね」
「お、博識だ。一昔前まではゴート様の祟りってことにされてたらしいけどね。とんだ濡れ衣さ」
「ふふ。……でも、大丈夫。ほら」
ティリエが袖をまくる。
昨夜あれほど痛々しかった擦り傷や青あざが、もう薄い痕になりかけていた。
レイナードの三白眼が、わずかに見開かれる。
「翠命の雫――翠星の樹の加護だよ。元々、治りは早いほうなんだ」
「……へえ。翠星の樹からこんなに離れてるのに、大した効きだね」
「体質かな」
「……キミ、便利な体質だね。精霊にも好かれるし、傷の治りも早いし」
「でしょ?」
ティリエは表情ひとつ変えずに袖を戻した。
レイナードは数瞬その横顔を眺めてから、いつもの締まりのない笑顔に戻った。
「ま、治癒の出番がないならそれが一番だ。ボクの汚染管理も楽になるしね」
◇◇◇
夕刻、街道沿いの旅人小屋に着いた。
小さな祠が併設された、壁と屋根だけの簡素な避難所だ。聖域の内とはいえ、夜の野宿を避けたい旅人のために、街道のところどころに設けられている。
竈の跡には先客の灰が残り、軒下には旅の無事を願って結ばれたらしい、色褪せた布紐がいくつも下がっていた。
レイナードは背嚢から小ぶりの鉄鍋を取り出すと、慣れた手つきで火を熾した。
「さてと。今夜は干し魚と豆のスープにしようか」
マーサが持たせてくれた干し魚を木べらの背で叩いてほぐし、湯に放り込む。続いて乾燥豆と、村で分けてもらった根菜の切れ端。仕上げに、彼が道すがら街道脇でちょいちょいと摘んでいた小さな葉を、ぱらりと散らした。
「……それ、潮見草だね」
ティリエが鍋を覗き込む。
「海辺の聖域によく生える草だ。精霊の通り道に育つから、香りがいい」
「お、さすがファリナ、正解。ボクは『スープに入れると美味い草』って覚えてたけどね」
塩は小さな革袋から、指で量って二つまみ。灰域では塩も貴重品だ。
レイナードの背嚢に香辛料の類はほとんどないが、代わりに各地の「その辺に生えてる美味いもの」の知識が詰まっているらしい。
やがて、ことことと鍋が鳴り、干し魚の出汁と香草の澄んだ匂いが小屋に満ちていく。
配膳の前に、レイナードは祠へ向き直り、短い祈りを捧げた。
その姿は、昼間の剽軽さが嘘のように神々しかったが――祈り終えた途端、「あっ、スープ焦げる!」と慌てて鍋に飛びつくのだから、台無しだった。
木の椀を受け取ったティリエは、すぐには口をつけなかった。
両手で椀を包み込んだまま、立ち上る湯気を、長いこと眺めている。
それから、ゆっくりと一口すすり――ほう、と細い息を吐いた。
「……美味しい」
「でしょ? 旅は飯が八割だからね」
レイナードも自分の椀を傾ける。ほぐれた魚の塩気と豆のほのかな甘み、その奥を潮見草の香りがすっと抜けていった。うん、我ながら上出来だ。
「あ、ちなみに食前の祈りも宗派で違うんだよ。聖神派は『日々の糧に感謝を』、慈神派は『恵みの癒しに感謝を』。で、ボクらゴートの信徒は――」
「死神にも食前の祈りがあるの?」
「『今日も死なずに食えました』。……っていうのは冗談で、同じように命を頂くことへの感謝かな。魚にも豆にも、終わった生があるわけだしね」
冗談とも本気ともつかない調子で言って、レイナードは自分の椀を軽く掲げてみせた。
焚き火を挟んで、ティリエがぽつりと尋ねる。
「『ゴートの信徒』って、何を信じてるの? 死神に祈っても、加護で命が助かるわけでもないだろうに」
「うーん、信じてるっていうか……探してるんだよ」
レイナードは木匙でスープをかき混ぜながら、火を見つめた。
「死の意味と、生の価値。ボクらは一生かけてそれを考えて、死んだ後にゴート様と答え合わせをするんだ。まあ、信仰っていうより哲学だね。父の受け売りだけど」
「死の意味、か」
ティリエは炎の向こうの闇に、金色の瞳を向けた。
「……見つかったら、私にも教えてよ」
「いいよ。特別料金で」
「取るんだ」
「冗談さ。――でも」
レイナードは笑みの形のまま、少しだけ声を落とした。
「キミは、もう答えの近くにいるような顔をするね」
ティリエは答えなかった。
薪の爆ぜる音だけが、二人の間でぱちりと鳴った。
やがて彼女は空になった椀を置き、「先に休むよ」とだけ言って、壁際で外套にくるまった。
◇◇◇
夜半。
焚き火は熾火になり、小屋の中には穏やかな寝息と、時折薪の崩れる音だけが残っていた。
レイナードは火の番をしながら、大鎌の刃を布で拭う。
ひと通りの手入れを終えると、背嚢を探って小さな布包みを取り出した。
開けば、熾火の明かりに、赤黒い球体が鈍く照り返す。
――竜の眼。
昨夜、酒場で彼女が食事の代金代わりに転がしてみせたものだ。
拳大のそれを掌の上で転がすと、内側に走る血管めいた模様が、生き物のようにゆらりと光を孕んだ。
(……監獄塔が、魔物に襲われた、か)
昼間の行商人の声が、耳の奥に蘇る。
ガモン島は、カセンドラ湾に浮かぶ孤島だ。そしてミスト港村は、同じ湾に面した漁村。
ずぶ濡れの外套一枚で、海の匂いと一緒に酒場の扉を開けた女。
傷だらけのくせに、当たり前のような顔で差し出された、二つの竜の眼。
そして――抜け出した囚人がいる、という噂。
(考えたくなくても、繋がっちゃうのが困りものだね)
レイナードは苦笑いを一つこぼし、竜の眼を布に包み直した。
ふと、視線を上げた。
眠る彼女の周りで、夜気がかすかに揺れている。
見えないはずの何かが、寄り添うように、守るように、絶え間なく巡っている――そんな気配がした。
(……精霊に好かれる体質、ねえ)
レイナードは静かに目を凝らす。
――『摂理の眼』。
死神ゴートより賜った、生死を見分ける加護。
彼女は、生きている。
それは間違いない。
だが――ほんのわずかに、何かが引っかかる。
死人の昏さでも、アンデッドの淀みでもない。『歪な生』と呼ぶには、あまりに静かで、あまりに淡い。
強いて言うなら、生の輪郭が、焚き火の煙のように一瞬だけほどけて見えるような――瞬きをすれば見失う、それくらいの揺らぎだった。
(……なんなんだろうね、これは)
思えば昨夜、酒場で初めて彼女を視たときから、この小さな違和感はあった。
だから気になった。だから、放っておけなかった。
そして今日一日で、分からないことは増える一方だ。
精霊はやけに彼女を慕っているし、あの傷の治りの早さも――翠星の樹から、これほど離れた土地で、加護はあんなに効くものなのだろうか。
(ま、ボクはファリナじゃないからね。確かなことは何も言えないんだけどさ)
もし、噂の囚人が彼女なのだとしたら。
(普通なら、レイヴン騎士団への通報くらいは考えるところなんだろうけど)
だが彼女は温かいスープに肩の力を抜き、死の意味を問い、仲間の墓参りに行くと言った。
追われる罪人が――そんな顔を、するだろうか?
(……ま、いいか)
レイナードは肩をすくめ、新しい薪を熾火にくべた。
(旅は始まったばかりだ。答え合わせを急ぐのは、『ゴートの信徒』の流儀じゃないしね)
小さくなった炎が、ふたたび薪を舐めて立ち上がる。
遠く、灰域の方角から魔物の遠吠えが聞こえた。
聖域の淡い光に守られた街道の片隅で、夜は静かに更けていった。