出発から二日目の朝。
野営の火を落とした後、レイナードは膝の上に古びた地図を広げた。
「さて、と。現在地はだいたいこの辺。次の補給ができるのは、街道沿いの宿場町ヴァレンだね。このまま街道なりに行くと……三日ってところかな」
「――回り道じゃな、それは」
横から地図を覗き込んだジェイが、皺だらけの指で、街道の内側に広がる緑の一帯をとんと叩いた。
「このハライの森を突っ切れば、二日で抜けられるわい」
「森かあ。……そりゃ近道だけど、街道より魔物は出るんじゃない?」
「出るの。じゃが、獣道は儂の庭じゃ。何度も抜けとる。それにお前さん、街道なら安全というわけでもなかろ。同じ危険なら、早く抜けるが吉というものよ」
こともなげに言ってのける老人に、レイナードは苦笑して、ティリエを見た。
「だってさ。どうする?」
「私はどちらでも。……でも」
ティリエは、朝靄の向こうに霞む森の稜線に、金色の瞳を向けた。
「森は、いいと思うよ」
方針は決まった。三人は街道を逸れ、ハライの森へと分け入った。
◇◇◇
森の中は、思いのほか歩きやすかった。
ハライの森の木々は、幹の色がどれも灰がかった白で、梢の隙間から落ちる光までどこか銀色じみている。ジェイは獣道を選び、時折足を止めては、折れた枝や地面の窪みを一瞥して進路を直した。
「ここ、鹿の水場が近いの。……こっちの糞は三日前。主は角持ちの大物じゃな」
「見ただけで分かるのかい?」
「分かるようになるんじゃよ、六十年もやっとれば。ほれ、風下から歩くぞ。獣より先に、こっちの匂いが届いてしまうでな」
老人の背中は、街にいた時よりも一回り大きく見えた。
ティリエは、列の真ん中を歩きながら、深く息を吸い込んだ。
土と、苔と、濡れた樹皮の匂い。梢のざわめき。
「……懐かしいな」
ぽつりと、彼女が言った。
「昔は、森で暮らしてたから」
「へえ。ってことは、聖樹の森のほう?」
「そのあたり。……もう、ずいぶん帰ってないけどね」
「じゃあこの森歩きは、ちょっとした里帰り気分だ」
「ふふ、大袈裟だよ。木も、匂いも、まるで違う。……でも、悪くない」
森を歩く彼女の足取りは、街道を歩いていた時よりも、どこか柔らかかった。
◇◇◇
昼を少し過ぎた頃、ジェイが不意に手を挙げて、一行を止めた。
「……おるの」
声を潜め、地面を指す。そこには蹄のような足跡が点々と続いていた。もっとも、レイナードの目には、そこらの鹿の痕とどう違うのかも分からない。
「足跡の沈みが深い。相当な目方じゃな。歩幅からして、体高はティリエの腰ほどか」
ジェイは足跡を数歩ぶん辿り、今度は一本の木を顎で示した。腰の高さで樹皮がごっそりと擦り剝がされ、白い木肌が剥き出しになっている。
「体を擦りつけた痕じゃ。この剝がれ方……並の獣の皮では、こうはならん。それとほれ、あの根元の掘り返し。土がまだ湿っとるじゃろう。今朝がたのものじゃ。寝床はこの近くじゃな」
半信半疑の顔で聞いていたレイナードが、恐る恐る問う。
「……で、師匠。正体は?」
「ボウリじゃよ。岩のように硬い皮膚を持った、猪型の魔物での。気性は荒いが――肉は絶品じゃ」
「え、あれ食べられるの?」
「食べられるとも。今夜の飯じゃよ」
ジェイはにっと歯を見せると、背負子から縄の束を降ろした。
罠張りは、見ていて飽きない仕事だった。
ジェイはまず獣道の中でも、左右から木の張り出した一番狭い場所を選んだ。しなりの強い若木を弓なりに撓めて縄を掛け、その先の輪を、落ち葉の下へと丁寧に隠していく。仕上げに、掘り返されていた木の根を一つ割り、輪のすぐ先へと転がして――革袋の酒を、断面へひと垂らしした。
みるみるうちに割れ口がじゅわりと泡立ち、甘いような、饐えたような濃い匂いが立ちのぼり始める。
「うわ、何この匂い。根っこが、酒に反応してる?」
「この根は酒気に触れると、こうして匂いを噴くんじゃ。ボウリの大好物での。ただの根っこを転がしただけでは、日が暮れるまで待つ羽目になるわい。……ああ、勿体ない。儂の酒が」
「言うほど惜しそうじゃないけどね」
「かっか。まあの、あの馬鹿力と真正面からやり合えば厄介じゃが――奴の武器は突進よ。つまり、走れんようにしてしまえば、ただの硬い的じゃ。酒の一杯くらい、安い出費というものよ」
あとは風下に潜んで、待つだけだった。
果たして、根の匂いに釣られて現れたボウリは、まっすぐに輪へと突っ込んだ。若木が跳ね、縄が前脚を絞り上げ、巨体が土煙を上げて横転する。暴れる縄が軋む間に、ジェイはするりと間合いを詰め、反り返った喉の、皮のわずかに柔い一点へ、正確にナイフを差し入れた。
荒事というより、手順だった。長年かけて磨き上げられた、一つの仕事だった。
「――狩神ケルヒムよ、彼の者の魂を汝に、血肉を我らに与え給え」
短い祈りを済ませると、ジェイはすぐに解体に取りかかった。
「手伝うよ。何をすればいい?」
「なら、後ろ足を持っとってくれい。魔物の骸はの、時が経つと大半が霞のように消えてなくなる。……じゃが、消えずに残る部位もある」
「へえ……こんな大物でも、消えちゃうんだ」
「ボウリなら、残るのは背中の肉と肝、それに骨と牙といったところかの。どの部位が残って、どこが食えるか――それを見極めて切り出すのが、儂ら魔物食いの仕事というわけじゃ。……ただし、のんびりはしとれんぞ。骸が消えていく間にも、残る部位の鮮度はどんどん落ちる。そこは獣の狩りと同じ――時との勝負での」
血抜きを終えた肉を、ティリエが氷の魔術で軽く冷やしていく。ジェイの手際は見事なもので、みるみるうちにボウリは肉の塊と肝、そして数本の牙へと姿を変えていった。
その最中、腹を開いたジェイが、ふと愉快そうに喉を鳴らした。
「ほう、ええ胃袋じゃ。……ヴェスペリオなら、これを見て小躍りするじゃろうて」
「ふふ。中身ごと瓶に詰めて持って帰りそうだね」
「言えとる」
「――あのさあ!」
レイナードが、後ろ足を抱えたまま声を上げた。
「さっきから気になってたんだけど、その、ヴェスペリオって誰なのさ。酒場でも二人で盛り上がってたけど、ボクだけずっと置いてけぼりなんだよね」
「ん? 言うとらんかったか」
ジェイはナイフの手を止めずに、こともなげに答えた。
「ファリナの魔物学者じゃよ。魔物のこととなると寝食も命も忘れる、筋金入りの変わり者でな。人への挨拶はろくに返さんくせに、魔物への口上だけは長い。偏屈を煮詰めて固めたような爺さんじゃ」
「うわあ……」
「変わってるけど、面白い友人だよ」
ティリエが、氷を当てる手を止めずに補足した。
「魔物の話をさせると、時間を忘れるくらいには」
「へえ、ティリエの友人かあ。なら今度どこかで会えたら、紹介してよ」
「いいけど、会えるかな。あの人、決まった住処を持たないから。……今頃、どこの森で何を追いかけているのやら」
「かっか。魔物のおる所ならどこにでも湧いて、おらん所には影も形もない。そういう男じゃよ」
「なにそれ。それじゃまるで、魔物みたいな人だね」
「言い得て妙じゃの!」
◇◇◇
その晩の飯は、ジェイの独壇場だった。
まず老人は、切り出したボウリの肉を火から遠ざけ、しばし風に当てて休ませた。その間に骨を火で軽く炙り、髄の香りを立たせてから小鍋の湯に沈める。屑肉と干し野菜を加え、背負子の革袋から取り出した数種の乾燥香草を、匂いを確かめながら、ひとつまみずつ。
肉のほうは、筋の走りを見て部位ごとに厚みを変えて切り分け、塩と香草を擦り込んでから、遠火でじっくりと炙り始めた。脂が滴るたびに火がじゅわりと鳴いて、香ばしい煙が立ち上る。
レイナードは、その一部始終を半ば呆れ顔で眺めていた。
彼とて旅暮らしは長い。料理は毎晩のようにするし、味にも多少の自負はある。だが、彼のそれは「手持ちの材料を、ちゃんと食える味にまとめる」旅の飯だ。目の前の老人がやっているのは、まるで別の営みだった。素材のどこが旨いかを見抜いて、そこへ一直線に持っていく――狩りのときと同じ、職人の手つきだった。
「……参ったなあ。ボクも料理はする方なんだけど、これは敵わないや」
「かっか。六十年、飯のために狩ってきた男じゃぞ。張り合うだけ無駄というものよ。……なに、旅の飯はまず腹に入って力になるのが一番。お前さんの飯には、お前さんの飯の良さがあるわい」
「フォローをどうも。素直に弟子入りを検討するよ」
「ほれ、約束の飯じゃ。食え食え」
「……いただきます、っと」
一口噛んだ瞬間、レイナードの三白眼が丸くなった。
硬い皮からは想像もつかない、柔らかな赤身だった。噛むほどに脂の甘みが染み出して、香草の青い香りがそれを追いかけてくる。
「何これ、美味っ……! え、これがあの岩みたいな猪!?」
「皮が硬い魔物ほど、中の肉は柔いもんじゃ。……ふむ、儂としては塩がもうひと摘み欲しかったの」
「いや十分すぎるよ! ティリエもほら――って、もう食べてる」
ティリエは既に二切れ目に取りかかっていた。彼女は目が合うと、もぐもぐと口を動かしたまま、皿を軽く掲げてみせた。実に雄弁な仕草だった。
火を囲みながら、レイナードはふと、思い出したように言った。
「そういえば、さっきの祈り。ケルヒム様のだよね。……アニマスの人が神に祈るのって、珍しいなと思ってさ」
「ほう、よう知っとるの」
「一応これでも聖職者くずれなんでね。アニマスは神を信仰しない――ってのが通り相場だから」
「まぁ、色々あったんじゃよ」
ジェイは汁物をすすり、しばし焚き火を眺めた。
それから、ぽつりと続けた。
「……昔な、死にかけとった儂を、拾ってくれた狩人がおっての。狩りも、祈りも、飯の作法も、みんなそやつの受け売りじゃ。あやつが獲物に祈るもんで、隣で真似しとるうちに――いつの間にか、儂の祈りになっとった」
「へえ……。なんだか、他人の話に聞こえないな」
レイナードは、焚き火に薪を一本くべた。
「ボクも孤児でね。拾ってくれた養父から、鎌の振り方も、祈りも、ぜんぶ教わったんだ。今のボクは、頭のてっぺんから爪先まで、あの人の受け売りでできてるようなものさ」
「かっか。なんじゃ、お前さんもか」
「ふふ、道理で気が合うわけだ」
二人の笑い声が、夜の森に柔らかく溶けていく。
ティリエは、皿を膝に置いたまま、そのやり取りを静かに眺めていた。
その横顔は、何かを懐かしむようでもあり――手の中の何かを、そっと確かめるようでもあった。
「なんじゃお嬢さん、しんみりした顔をして。ほれ、肉ならまだあるぞ」
「……うん。もらうよ」
夜の森に、焚き火の爆ぜる音と、遠い梟の声だけが響いていた。
◇◇◇
翌日の昼前だった。
先頭のジェイが、ふ、と足を止めた。
「……囲まれとるの」
低い声だった。レイナードの手が、するりと大鎌の柄に掛かる。
「数は?」
「十四、五。小物じゃが、群れとる。――ブリグリンじゃな」
言い終わるかどうかのうちに、茂みが割れた。
薄汚れた緑の肌、子供ほどの背丈に、欠けた棍棒や錆びた小刀。甲高い奇声を上げながら、ブリグリンの群れが三方から湧き出してくる。
「はいはい、お出ましだ――!」
レイナードが前に出た。身の丈ほどの大鎌が横薙ぎに唸り、先頭の二匹をまとめて刈り飛ばす。
「こっちじゃ、こっちじゃ! ほれほれ、爺さんは美味いぞ!」
ジェイは挑発しながら後ろへ跳び、群れの一角を茂みの間へと誘い込む。直後、張られていた縄が跳ね、数匹がまとめて宙吊りになった。いつの間に仕掛けたのか、レイナードにはまるで見えていなかった。
そして――
風の刃が、鋭く空を裂いた。
レイナードの死角から回り込もうとした一匹が、悲鳴も上げずに転がる。返す手で氷の礫が三連、乱戦の隙間を縫うように飛び、宙吊りの群れに手を伸ばしかけたブリグリンたちを正確に打ち抜いた。
振り向けば、ティリエは杖を軽く構えたまま、涼しい顔で立っている。詠唱の声は、一度も聞こえなかった。
戦いは、ものの数分で終わった。
辺りには、ブリグリンたちの骸が転がっている。これも数刻もすれば大半は消えてなくなり、後に残るのは、ひしゃげた棍棒と錆びた小刀くらいのものだろう。
「ふう。怪我は? 二人とも」
「ないよ」
「儂もじゃ。ま、この程度なら準備運動にもならんの」
レイナードは大鎌を背に戻しながら、ティリエのほうへ向き直った。
「そういえばさ。キミ、さっき一度も詠唱してなかったよね」
「そうだね」
「事もなげに言うなあ……。無詠唱の使い手なんて、そうそうお目にかかれないよ。ボクの知り合いには一人もいない」
「かっか。魔術師どのは頼りになるのう」
「便利なだけだよ。それに――」
ティリエは杖の飾り紐を指先で軽く弾き、どこか遠くを見るように続けた。
「精霊魔術も幻想魔術も、上には上がいるものだから」
「そういうものかねえ。……ま、何にせよ頼りにしてるよ」
「ほれ、無駄口はそこまでじゃ。日のあるうちに、稼げるだけ距離を稼ぐぞ」
ジェイの号令で、三人は再び森の道を歩き出した。
◇◇◇
午後の日が傾き始める頃には、道は獣道から、人の踏み固めた小道へと変わっていた。下草が払われ、荷車がどうにか一台通れるだけの幅がある。
「この分なら、日のあるうちに森を抜けられるじゃろう」
ジェイの声にも、どこか張りがあった。
「へえ、森の中にもちゃんと道があるんだね。ここを通る人も、いるのかい?」
「急ぎの者なら、たまにおるの。街道は大回りじゃからな。森に慣れた商人や討伐者なら、日程を惜しんでこっちを使うこともある。……ん?」
ジェイの足が、ぴたりと止まった。
視線の先――湿った地面に、二筋の轍が、くっきりと刻まれていた。
「……この轍、新しいの」
老人は屈み込み、轍の縁を指でなぞった。
「崩れがほとんどない。昨日か、今日か。それくらいじゃな。馬車が通っとる」
「じゃあ、先客がいるわけだ。急ぎの商人かな」
「じゃろうな」
頷きながらも、ジェイの眉間の皺は、消えなかった。
ほどなくして、一行は分かれ道に差しかかった。
右手は、これまでと変わらぬ幅の道。左手は、木々の間へと消えていく、ひと回り細い道だ。分かれ目には古びた木の看板が立ち、右の道の先を指して「ヴァレン」と、削れかけた文字が刻まれている。
「街は右、と。……あれ?」
レイナードが、足元に目を落とした。
真新しい轍は、看板の指す道を素通りして――左の、細い道へと続いていた。
「……妙じゃな」
ジェイが、首を傾げた。
「こっちの道は、儂の覚えとる限り、街道には繋がっとらんはずじゃ。行き着く先は、せいぜい古い炭焼き小屋か……いや、あれもとうの昔に潰れとるわい」
「道を、間違えたとか?」
「にしては、轍に迷いがない。真っ直ぐ入っていきよる」
ジェイが唸るように黙り込んだ、そのときだった。
ティリエが、ふ、と杖を握り直した。
「……ざわついてる」
「ん?」
「精霊が。――この先で、何かあったみたいだ」
金色の瞳が、細い道の奥の暗がりを、静かに見据えていた。
――と。
風に乗って、微かな音が届いた。
怒号だ。男たちの、荒々しい声。遠く、木々の向こうから、切れ切れに。
三人は、一瞬だけ顔を見合わせた。
言葉は、要らなかった。
「――行こうか」
「じゃの」
「うん」
三人は迷いなく、細い道へと足を踏み入れた。
西へ沈みかけた日が、灰色の木々の影を長く伸ばしていく。
森の奥から届く剣呑な声は、風が鳴るたびに、少しずつ近くなっていった。