砥石、ひと組。携行食、四日分。水袋がふたつに、触媒の魔石。剣は二振り、刃こぼれなし。
装備の点検は、毎朝、決まった順で。確かめ終えた道具は、決まった場所へ。
この習慣を欠かしたことは、一人になってから、一度もない。
身支度の最後に、宿の水盆を覗き込む。
銀色の髪を、いつも通りハーフアップに結い直す。水面に映るのは、我ながら整った造作の顔――ただし、色がひどい。目の下は薄暗く、頬の線は少し削げて、瞳にはおよそ精彩というものがなかった。
昔、商隊の大人たちは、私を「よく笑う子」と呼んだ。
今の私を見たら、あの人たちはなんと呼ぶだろう。
……ふ。どうでもいいことを。
私、カレリア・フィオーレの朝は、いつもこんなふうに始まる。
◇◇◇
フォート・グレイブの依頼掲示は、門前広場の脇にある。
板に貼られた羊皮紙を、端から順に読んでいく。討伐依頼、薬草採取、下水の掃除。報酬と危険度を頭の中で秤にかけ、割に合わないものから消していく。
残ったのは、一枚だった。
――水都ラティーナ方面へ向かう荷馬車の護衛。森を抜ける近道を使うため、行程は二日から三日。報酬は銀貨八枚。
相場より、二枚高い。
急ぎの荷で、森を通るからだろう。危険度に対する上乗せとしては、妥当な範囲。むしろ良心的な部類だ。
依頼主は、ハモンドという中年の商人だった。人の好さそうな丸顔で、何度も頭を下げる。
「いやあ、助かります。腕の立つ方に来ていただけて。……実はもう、六人組のパーティの方々と、ソロの方がお二人、受けてくださっていましてね。あなたで九人。いや、もう安心だ」
……九人?
荷馬車は、一台だと聞いている。
一台の護衛に九人は、いくらなんでも過剰だ。それだけの報酬を払って、森の近道で浮く日数と、はたして割が合うのだろうか。
「ずいぶん、雇うんだね」
「ええ、まあ……最近、この辺りは物騒だと聞くものですから。念には念を、と」
商人は、眉を下げて笑った。
怯えているのだ、と私は解釈した。臆病な商人が、安心を金で買った。それだけのこと。
◇◇◇
出発は翌朝だった。
六人組のパーティは、バッソと名乗る大柄な男が率いていた。よく日に焼けて、よく笑う男だ。
「よろしくなあ、嬢ちゃん。ま、気楽にやろうや」
「……ええ」
握手は、しなかった。
六人の装備が、目に入る。斧が二、剣が二、弓が一、杖持ちが一。
……妙な取り合わせだ。業物めいた細剣を提げた男が、継ぎの当たった安鎧を着ている。かと思えば、隣の男は籠手だけがやけに上物で、しかも寸法が合っていない。値の釣り合いが、ひどくちぐはぐだった。
もっとも、他人の装備の趣味にいちいち首を突っ込むほど、私は暇ではない。懐事情なんて人それぞれだ。
もう一人の護衛は、槍を担いだ無口な男だった。名前は聞いていない。向こうも名乗らない。互いにそれで良かった。
問題は、最後の一人だった。
「よろしく! 俺は――」
「必要ない」
差し出された手と名乗りを、私はまとめて遮った。
「仕事の間だけの関係。名前は、要らない」
「……そっか。まあ、そうだよな」
人懐こそうな若い男は、それでも気を悪くした様子もなく、へらりと笑って手を引っ込めた。
これでいい。どうせこの依頼が終われば、二度と関わることのない相手だ。名前なんて、覚えるだけ無駄になる。
◇◇◇
初日の行程は、順調だった。
街道を逸れ、森に入る。馬車がやっと通れるだけの、踏み固められた小道。バッソたちは道をよく知っているらしく、先頭に立って迷いなく進んだ。
「俺たちゃこのルート、何度も使ってるからよ。任せときな」
歩きながら、癖のように周囲へ目を配る。
六人の位置は、前に三人、後ろに三人。馬車と、商人と、私たち三人の護衛を、ちょうど挟む形。
……護衛の陣形としては、機能する配置ではある。前後を固めるのは定石だ。
ただ、視線が気になった。
彼らの目は、外を――森の闇を警戒する時間より、内を見ている時間のほうが、わずかに長い。荷馬車を。商人を。そして、私を。
値踏みするような、あの目。
……街の酒場でも、市場でも、飽きるほど浴びてきた種類の視線だ。女の討伐者なんて、どこでもああいう目で見られる。珍しくもない。
私はまた、思考の棚に仕舞った。
「なあ、これ食う?」
隣に並んだ名乗り損ねの男が、干した果実を差し出してきた。
「……いい」
「そう言うなって。歩きながら食えるし、甘いもんは疲れに効くぜ。ほら」
半ば押しつけられて、受け取った。
……甘い。それに、悪くない品だ。市場なら、ひと袋で銅貨五枚はする。
「あんた、二刀流なんだな。両手で別々に剣を振るのって、実際どういう感覚なんだ? 俺なんか、盾がないと不安で仕方ないんだけど」
「……慣れ」
「慣れかあ。いや、それが出来る時点ですごいんだって」
男はそれきり詮索をやめて、代わりに、どうでもいい話をした。ヴァレンの宿の飯がまずいこと。故郷の妹が生意気なこと。この間の依頼で沼に落ちたこと。
返事は、ほとんどしなかった。
それでも男は喋り続け、時々ひとりで笑った。
……不思議と、不快ではなかった。彼の言葉は、何も要求してこない。値踏みも、詮索も、下心もない。ただ道端に転がしていくだけの、軽い言葉。
拾うかどうかは、こちらの自由。
――そういう話し方をする人間を、私は父の商隊で、何人か知っていた。
◇◇◇
二日目の昼、分かれ道に差しかかった。
古びた看板は、右の広い道の先に「ヴァレン」と示している。
バッソは、左の細い道を指した。
「こっちだ。右の道は先で川が荒れてて、馬車だと難儀する。左から回るのが早え」
「え、ええと……看板は、右とありますが……」
商人のハモンドが、おずおずと口を挟む。
「だから何度も使ってるって言ったろ? なあに、心配すんな。夜までには本道に戻れるさ」
バッソは笑い、馬車は左へ折れた。
轍が、細い道に刻まれていく。
……釣り合いが、悪い。
左の道は右よりも明らかに細く、荒れてもいる。馬車の速度は確実に落ちる。「早い」という言葉と、道の状態が、噛み合っていない。
それに、彼らはこのルートを何度も使ったと言った。六人という大所帯が、こんな小口の護衛仕事を「何度も」? その稼ぎで、六人の腹が満ちる?
それでも――嘘だと断じるだけの根拠は、なかった。川が荒れているのが本当なら、説明が、つかなくはない。
私は答えを保留にして、剣帯の位置だけ、指一本ぶん直した。
◇◇◇
夕刻が近づく頃、バッソの手下が二人、槍の男を伴って馬車を離れた。
「この先の水場を検分してくる」と、言い残して。
半刻後、戻ってきたのは、手下の二人だけだった。
「槍のあんちゃんなら、水場で野営の下見をしとくとさ」
そのまた半刻が過ぎた頃、隣を歩いていた男の顔から、へらりとした笑みが消えていることに、私は気づいた。
「……なあ。変だと思わないか」
男は声を落とし、視線は前に向けたまま、早口で言った。
「野営の下見なんて話、出発のときの段取りにはなかった。あの槍の人、そういう勝手をする人に見えたか? それに――あの六人の装備。ちぐはぐすぎる。上等な剣に安物の鎧、寸法の合わない籠手。あれじゃまるで、あちこちで剥ぎ取ってきたみたいだ」
――剥ぎ取ってきた。
その一言で、仕舞い込んでいた棚が、音を立てて開いた。値踏みの視線。過剰な人数。道の選択。ばらばらだった違和感が、ひとつの答えに向かって、転がり始める。
「もしかしたら、あいつら――」
男が、そこまで言いかけた時だった。
――低い詠唱が、耳に届いた。
振り向くより早く、地面が爆ぜた。
闇色の蔦が幾条も、鞭のようにしなって私たちへ殺到する。
反応が、遅れた。
それでも指は動いていた。傍らの精霊へ呼びかけ、術を編もうと――した体が、横ざまに突き飛ばされた。
地面に転がった私の視界の中で、男の体に、蔦が絡みついていく。腕を、胴を、瞬く間に縛り上げて――
「逃げろ……っ!」
男が叫んだ、その首元に。
風を切って飛来した矢が、突き立った。
鮮血が、散った。
――どうして。
庇われなくたって、あれくらい、私一人で凌ぐ術はあった。蔦の一本や二本、風で払える。矢だって、見えてさえいれば。
……いや。
伝えていなかったのは、私だ。ただの剣士ではないことも、魔術が使えることも。
この人は、何も知らないまま。何も知らされないまま、私を庇って。
「おい馬鹿、女には当てるなよ! 傷モンにする気か!」
賊の怒声が、ひどく遠くで聞こえた。
◇◇◇
悲鳴が上がった。
商人の悲鳴だった。振り向いた先で、ハモンドが胸倉を掴み上げられていた。掴んでいるのは、バッソの手下のひとり。
「な、なにを――護衛の皆さん、何を……!」
「あー、もう着いたんだよ、旦那。あんたの終点にな」
バッソが、笑いながら大振りの剣を担いだ。
立ち上がる。双剣を、抜く。
……手が、震えていた。
視界の端では、蔦に縛られた彼が、もう動かない。ついさっきまで、隣で笑っていたのに。
――落ち着け。
深く息を吸い、吐く。震えごと、腹の底へ押し込む。
思考を明晰にするは、戦術。戦術とは、移動。
敵は、六人。後方に杖の魔術士と、弓手。残る四人が、剣と斧を手にこちらを囲みつつある。道は狭く、左右は深い茂み。
その四人のうち、二人の得物に――乾きかけた血が、こびりついているのが見えた。
槍の男を「水場」へ連れて行った、あの二人だった。
……あの人も、もう生きてはいないのだろう。
背後で風が唸った。屈む。直前まで私の頭があった高さを、何かが薙ぎ払っていく。
――鞘だ。刃を、抜いていない。
殺す気がない。つまり、殺す以外の用が、私にはあるということ。
「おっと。勘のいい嬢ちゃんだ」
――風の精霊。お願い。
傍らを漂う気配に、胸の内で短く呼びかける。応えるように、空気がふわりと張り詰めた。
「『
無詠唱で生み出された風圧の塊が、正面の男を吹き飛ばした。
「がっ……!?」
男は数歩ぶん後ろの茂みへ突っ込み、呻きながら藻掻いている。
……手応えは、浅い。
詠唱を削った魔術は、威力も精度も目減りする。不意打ちの一手としては上等でも、これで致命傷までは、望めない。
――それでも。
双剣を構え、四人の間合いを測り、その裏で並行して術を編む。平時ならまだしも、囲まれたこの状況で発動まで持っていけるだけ、上出来と思うべきだった。
「――魔術士だぁ!? おいおい、聞いてねえぞ。ただの剣士じゃねえのかよ!」
バッソが目を剥いた。
「辛気くせえ顔した、ひ弱な女剣士――そう踏んでたんだがなあ。……はっ。詠唱なしたぁ、珍しい芸を持ってやがる。だが見ろよ、あのおざなりな威力。当たったところで屁でもねえ! おら、囲め囲め!」
聞いていない――そう。誰も、知らない。私が、誰にも明かしてこなかったから。
そのせいで、彼は私の力を知らないまま、私を庇って死んだ。
そのおかげで、この賊どもは私の力を知らないまま、仕留め損ねた。
同じひとつの癖が、人をひとり死なせ、いま、私を生かしている。
「殺すなよ、お前ら! 女は傷物にするな、上物なんだ!」
ああ、そういうこと。
荷と、装備と、私。全部まとめて、最初から彼らの獲物だった。
過剰な護衛の数も、割に合わない依頼を受けた六人組も、この細い道も――答えは、ずっと目の前に転がっていたのに。
「『
挟み込むように回り込んでくる一人へ、牽制の氷礫を撃ち込む。怯んで足が止まった隙に、三人目の鞘の一撃を半身で往なし、膝裏を浅く裂いて機動を削ぐ。足は止めない。止まった瞬間、まとめて呑まれる。
凌げている。凌げては、いる。けれど。
魔力はまだあるが潤沢とは言えない。身体強化もかけ続けているため、『
時間が経つほど、擦り減っていくのは、こちらだけだ。この状況下では高威力の魔術を組む時間も、集中力も足りない。暴発したらそれこそ終わりだ。
向こうは六。倒しきるまで、保たない。なら、逃げる?
――ちらりと、後方の弓手を見る。矢は番えたまま、しかし放ってこない。今は生け捕りが目的だから、撃たないだけ。私が背を向けた瞬間、あの矢が容赦なく飛んでくることは、容易に想像がついた。
仮に躱せたとして――この残り体力で、勝手を知らない森を、六人相手に。逃げ切れるとは、とても思えなかった。
……でも。いいじゃないか、それなら。
望んでいた死地だ。ここで果てれば、ようやく――お父様と、お母様のもとへ。
――その一瞬。切っ先が、下がった。
「――どうしたどうした、足が鈍ってきたぜえ?」
四人目の一撃を受けた瞬間、雨上がりの泥が、踵の下で滑った。
体勢が、崩れる。
蹴りが腹に入り、荷馬車の車輪まで吹き飛ばされた。肺から空気が抜ける。双剣の片割れが、手を離れて泥の上を滑っていく。
「はい、おしまい」
囲まれていた。六つの影が、逆光の中で私を見下ろしている。
「安心しな。殺しゃあしねえよ。……勿体ねえからな」
……そう。殺しは、しない。
この男たちは私を捕らえて、慰み者にして、売る。
――なら、せめて。
敵はもう倒せなくとも、この切っ先を自分の喉へ向けるくらいは、まだできる。
そんな生き恥を晒すくらいなら、いっそ――
視界の端で、蔦に縛られた彼が、動かないまま横たわっていた。
……でも。
ここで私が、自分で終わらせてしまったら。
この人は、何のために命を投げ出したのだろう。庇う価値のない女を庇って死んだと、ただそれだけのことに、なってしまうのだろうか。
この人の死に――意味は、なかったのか。
気づけば、身を起こしていた。
足に、力が入らない。それでも、残った剣を杖にして、立つ。魔力も、もうほとんど残っていない。
……それでも、私は。
助けられた命だ。助けたい、と思われた命だ。
無駄には、しない。
――差し違えてでも、最低ひとりは、道連れにする。
その決意ごと、私は男たちを睨みつけた。
「――おいおい、嬢ちゃんよお。その体で、まだやる気かよ?」
嗤いながら、男たちが無造作に間合いを詰めてくる。
――風が、鳴いた。
銀色の何かが夕日を裂いて、先頭の男の得物を、根元から刈り飛ばした。
地に突き立ったそれは、身の丈ほどもある長柄の、大鎌。
「――やあ、お取り込み中に失礼するよ」
声のした方を、賊たちが一斉に振り向く。
細い道の先、長く伸びた木々の影の中から、三つの人影が歩いてくる。
黒いカソックの、優男。
小柄な、白黒髪の老人。
そして、薄緑の髪を夕風になびかせた、ファリナの魔術師。
「六対一とは、また威勢のいいことじゃの」
「……随分と、騒がしいね」
「……あぁ? なんだ、てめえら」
バッソが眉を寄せた。賊たちの得物が、一斉に三人へと向き直る。
頭数なら、まだ向こうが上。警戒はしても、怯えはしない。当然の反応だった。
……誰だ、この人たちは。
味方だと、決まったわけじゃない。こんな道を使う時点で、まともな旅人とも限らない。賊の、同業かもしれない。
それでも――大鎌の男は、賊には目もくれず、倒れた彼と、転がされた商人と、私の傷とを順に見て。笑みの形のまま、目だけを、すっと細めた。
敵か、味方か。
分からないまま、私はただ、残った剣を握り直した。