軽い木と木が打ち合う音が、シャーレの休憩室に静かに響く。
明らかに腕よりも長ぇ袖の中にある手に摘まれた白い兵が、前に出される。
チェス。
向こうじゃ、時折ルパンと暇つぶしをしたり……時には謎解きに使われて、時には命懸けのゲームの正体になったりと何かと縁のあるゲームだ。
俺の目の前にいる少女。
百合園セイアによって指された一手は、d4。
チェスの中でも苛烈なゲームになりやすいオープニングだ。
「さて、先生。せっかくだ、何か賭けないかい?」
「おいおい、お嬢様が賭け事に興じるたぁ。世も末だな」
頭を掻きながら俺は、d5にポーンを置く。
「そう釣れないことを言わないでおくれよ、金銭は賭けないさ」
セイアは、c4にポーンを置きながら、俺へウィンクを飛ばす。
「ったく、いいぜ。お嬢様のワガママにつきやってやるよ」
E5にポーンを置き、俺はセイアを見つめる。
俺の言葉を聞いたセイアは楽しそうに笑い、チェス盤を見つめる。
やれやれ、神秘の暴走が無くなったせいか、前に比べて随分と活発的になったもんだ。
それともこれがセイアの素なのか?
「では、そうだな。話に聞くと先生は料理が上手だというじゃないか」
セイアはd4のポーンを掴み、e5のポーンを倒し、チェステーブルの引き出しにポーンを仕舞う。
「便利屋にでも聞いたか? あいつらの飯は俺が作ってるが……」
俺は、そのままd4にポーンを進める。
「ふふっ、さてどうだろうね? それでだ。時間的にも丁度いい、どうだい?」
セイアは、ナイトをf3へと進め、俺の顔を見つめる。
嫌な手を取ってきやがる。
「それで、俺はお前さんに飯を振舞う。お前さんは俺に何を差し出すつもりだ?」
ナイトをc6に進めて、俺はセイアを見つめ返す。
俺の視線を感じたセイアは、吐息と笑みを漏らし、a3へポーンを突きたてながら、宣言する。
「では、『私の全て』で如何かな?」
ビショップをg4へ渡し、俺は一言かける。
「言ったな?」
「ふふ、女に二言はないさ」
尤も、要るか要らないかで言えば、要らねぇが……
あのセイアがそんなセリフを吐いたんだ。こっちも乗ってやらなきゃ失礼ってもんだろ?
そこから互いに、黙々とチェスの駒を動かしていく。
Nbd2。 Qe7。
b4。 0-0-0。
Qa4。 Kb8。
駒の動く速度は、徐々に上がっていき、小気味いい音にリズムが生まれる。
b5。 Nxe5。
Nxe5。 Qxe5。
Bb2。
俺の手がふと止まる。
「チッ……」
「どうしたんだい、先生?」
セイアはニヤケ面を俺へ見せながら、トントンとボードを指で叩く。
今、確実に追い込まれつつある状況に俺の手は止まっている。
こいつ中々やるな。
伊達に自分を全ベットなんて酔狂なことを言うだけはある。
ナイトをf6へと移動する。
Nb3。 Qe4。
Rd1。 d3。
f3。 Qe3。
俺の攻め手が、尽く防御される。
Bd4。 Rxd4。
Nxd4。 dxe2。
Nc6。
「チェックだ、先生」
不味いな、完全にあいつのペースに飲まれちまってる……
b8にあるキングでc6のナイトを取る。
その瞬間、セイアは初めて歯を見せて笑った。
Rd8。
「さぁ、再びチェックだよ」
キングをb7へ移動する。
セイアの手が、クイーンを持ち上げ、a6へと置かれる。
「チェック……メイト。私の勝ちだ、先生」
「やられちまったな、仕方ねぇ……少し待ってろ」
俺は席を立ち、エプロンを身に着けて昼飯の準備を始める。
その後ろをセイアがついて、テーブルに座ると調理を始めた俺の背中を眺めている。
「ふふっ、先生。途中、本気になっていただろう? そんなに欲しかったのかい?私のことが」
「けっ、マセるんじゃねぇよ。お遊びでも賭けんのなら本気で相手してやるべきだろう」
「確かに、違いないね……それで?献立は何かな?」
いつの間にかテーブルをセットしている彼女は、大層俺の飯が楽しみらしい……
お嬢様の口に合うか分からねぇが……冷蔵庫の中にあるものを使って、サッとパスタを作る。
肉だねを前に仕込んでおいたお陰で時間も取らず、いつぞや作ったミートボールのパスタを、俺はセイアの皿に盛りつけて差し出す。
「ほほう、これが先生の……では頂くとしようか」
セイアは、右手にナイフ、左手にフォークを掴んでお嬢様らしからぬ姿で待機しており、皿が目の前に置かれると、会釈をして食事を始めた。
楽しそうで何よりだが……
「美味いだろ」
「あぁ、本気で挑んだ甲斐があったものだ」
セイアは満面の笑みで俺に返事を返す。
こいつやっぱり自分を追い込むために、自分を賭けたな?
セイアの度胸に驚かされながらも、俺は口に肉団子を放り込む。
いつもよりも甘い気がしたが……俺の気のせいだろう。
身内の創作者さんが、チェスをしてるシーンを出してたので影響されましたな。
前にもチェスをしてるシーンを書いたのですが……今回のはお手元のチェスボードで再現可能なものとなっています。
彼らの見ていた景色をぜひ追体験してもらえると嬉しいですな
卑しフォックスですまない