アンと見張り番を交代して、そろそろ日もうっすら昇りかけてきた頃。テントに入る直前にアンから借りた本は、召喚士であるわたしにとっては縁遠いながらも興味深いものでした。
それは、彼女が魔法学校で使っていた「教科書」でした。わたしはてっきり、魔法学校というからには魔法学や薬学だけを専門的に扱っているのかと思いきや、どうやら一般教養も極めて高いレベルで行われていたようです。国語、数学、歴史、倫理、美術、生理学……これらを家庭教師から学んだわたしとしては、教科書という集合知に尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。本は高価ですからね……。同じものを大量生産するための「
ほとんどの家庭教師はこんな高価なものを持っていませんし、わたしも実物を見るのは初めてで……ついつい読み耽ってしまい、気付けばこんな時間です。
内容としては、この歴史と生理学の教科書が面白かったですね。前者はやはりこの国に疎い身としてはためになることが多く載っていましたし、後者は召喚士の性分でしょうか。ようは生物学やモンスター生態学に近いようなものですよね。
「一度、自分の周期をきちんと把握しなければいけませんね……」
さて、それはそれとして……そろそろ最後の薪木が燃え尽きる頃合いです。アンには昨日ずいぶんと負担をかけてしまったので、もう少しゆっくり眠ってもらいたいところですが、昨夜それを見越していたアンに「あたしが起きた時に
「アン。朝ですよ、アン。起きてください」
「……くぅ……」
「あの……アン? 朝なので起きてください……」
「くぅ……くぅ……」
「えぇ……?」
おかしいですね……。宿でのやりとりから察するに、アンはそこまで寝起きが悪いイメージはなかったのですが。むしろ、昨夜にせよ宿にせよ、起きるために時間を要するのはわたしの方だと思うのですが、どうして起きてくださらないんでしょうか……? あるいは、もしかして既に起きていてからかわれていたり……?
と、とにかくアンを早く起こさないと、既にとろ火さえ残っていない炭木が冷えてしまいます。叩かれるのももちろん嫌ではあるのですが、それよりもアンのお説教はとにかく正論だけをすらすらと口にするタイプなので、反論の余地がなくひたすら「はい」「その通りです」しか言えなくなるので避けたいところです。……なのに、どうして一向に起きてくださらないのでしょうか。……もしや何者かによって夢の中で攻撃を受けていたりしませんか?
「……召喚士シルヴィアが求める」
◆
「正座」
「はい……」
怒られました。
あの……「起こす才能が致命的にない」なんて言葉、初めて言われました……。起こす才能……?
ようは、単にわたしの起こし方が下手なだけだったといいますか、アン曰く「そんな囁き声で起きるわけないでしょ」「揺らすなら相手の体をひっくり返すくらいの勢いでやりなさい」「布団を剥ぐならともかく掛けなおすバカがどこにいるの」と、やはり正論の奔流が押し寄せてきました。あの……でも囁いてるつもりは……あっはい、確かに召喚詠唱する時の方が声が出ています、ごめんなさい……。
「ゴーストシャークも、おかしいと思ったならちゃんと主にストップかけなさい」
「…………」
「あなたが止めないと、あなたの主が今みたいに叱られたり、悪い時は人からバカにされるのよ。そんなのは嫌でしょう?」
「…………」
アンの諭すような声色に、ゴーストシャークにまで頷かれてしまいました。そんな……あの時点で既にゴーストシャークまでおかしいと思っていたなんて……。
い、いえ……しかしこれを「仕方ない」と自らを甘やかせば、アンにもゴーストシャークにも迷惑をかけてしまいますし、お説教も増える一方です。ここは自らに鞭を打ちなおし、今後の戒めとして襟元を正すいい機会になったと考えましょう……。
ひとまずキャンプ道具や食器類を片付け、焚火の最終確認。燃え尽きた炭木はマグマシャークのおやつにしました。燃料ともなる木炭と違い、炭木は単なる燃え尽きた木なのでマグマシャークにとってもなんの栄養にもならないただのおやつに過ぎませんが、わたしたちにとっては助かります。野営時の炭木は、何かしらのトラブルなどがなければ近隣の町や集落に着くまで「
他にも、焦げすぎて炭のようになってしまった食べものもマグマシャークのおやつですね。他のサメたちの場合、たとえばゴーストシャークは周囲に漂う動物霊であったり、時にはアイテムにかけられた呪いであったりしますし、メガロシャークは肉類であれば獣肉でも魚肉でもなんでもおやつになります。焼いてあるよりは生肉のほうが好みなようですが。
「ひとまず、今日の予定を決めましょう。まずは今日はこのまま北上して『スターヂャン』に着くこと。あんまり野宿はしたくないしね」
「スターヂャン……リンコドン北部の村、でしたね。これといった名産はなくとも、山の幸が豊富で村人も温和だと聞いています」
スターヂャンの驚くべきところは、治安の良さよりも、その治安を維持する
スターヂャンは基本的に「世帯」という概念が曖昧な村だそうで、村の子供は村全体で守り、村の全ての女性は村の全ての男性の妻である、という考え方だそうです。随分と原始的な倫理・価値観とも思えますが、結果としてこの考え方が村全体の結束力を高める最大の要因となっており、村人はその命に代えても村とそこに住まう者を守る「結束の戦士」となるのだそうです。
命あっての物種として盗みを働く山賊と、村のためなら命すら盾として荒れ狂う戦士のどちらが恐怖の対象であるかは……その山賊たちも含めて「一般的には」後者でしょう。さすがに歴戦の勇ともなれば、引き際を見極め、自らの命を保証して戦う者の方がはるかに厄介だと考えるでしょうが、素人判断であれば自分の命を顧みない狂戦士が恐ろしく映るのも致し方ありません。
「途中、薬に使えそうなものがあったら採収も付き合ってもらっていい? 薬学は専門じゃないけど、これでも魔法士だから売り物になるくらいのものは作れるよ」
「路銀稼ぎ……。そうですね、先立つものは必要です。……けれど、わたしにできることといえば荒事を治めるくらいしか……」
「そっか、前いた港町では用心棒してたんだっけ」
海と町とを行き来していた「海の用心棒」時代と違い、村や街で用心棒をするとなると、だいたいが別の村や街を行き来する必要があります。
現状、わたしとアンの最終目的地は『王都セトリヌス』なので、ここに至るまでのルートからあまり大きく外れたくはありません。なので、街で用心棒として稼ぐことはほぼ不可と判断すべきでしょう。しかし、召喚士としての知識は魔法士であるアンの知識のように幅の利くものではありません。モンスターや動物の身体構造・生活習慣・自然界や生態系としての役割など、無駄な知識はありませんが、かといって必要とされる場面が常に多い知識とも言い難いからです。
薬が作れるわけでもなく、便利な魔道具を開発することもできない。できることはモンスターや動物がいかに脅威であり、どのように対処すべきかを教えられる程度。
これがもし他の召喚士の方であれば、様々な召喚獣を駆使して「できること」を増やしたのかもしれませんが、わたしはサメしか召喚できませんし、一般的にサメというものは「なんとなく怖い」「見たことはないけど狂暴そう」というイメージが根強いので、わざわざサメ使いであるわたしの手を借りようとする人も多くはないでしょう。……こんなにも可愛いのに。
「そもそもモンスターがいるとわかっていて、わざわざ好き好んで街の外に出たがる人なんて冒険者くらいですからね。この知識が行かされる場というものがはたしてどれだけあるか……」
「うーん……ちなみにその生物学って昆虫とかも含まれてるの?」
「え? あ、はい。昆虫も生き物ですからね」
獣、鳥、昆虫、魚、爬虫類、両生類、節足動物、軟体動物……だいたいは把握しているつもりです。
「……でも薬の材料になることは知らなかったのよね?」
「はい。他の召喚士の方々の名誉のために言い訳をさせていただくと、自然界において昆虫や獣を薬として利用する動物は存在しませんからね」
「エルフとかも?」
「エルフは「自然界から生まれた命は自然の摂理に従って地に還すべき」という考えなので、昆虫はもちろん薬草さえそういう風には利用しませんよ」
というか、エルフやドワーフは見た目が人間に似ているせいで人間の近縁種みたいに思われていることについては召喚士含め生物学者はみなさん眉を顰める思いですよ。
彼ら……特にエルフは自然界のエネルギーの結晶体であって、人間はおろかそもそも「生命」としてもかなり逸脱した存在ですからね。こう……本来は形のない魔力や自然エネルギーの結晶体が「明確にそこに存在する」という情報だけを人間に認識させるせいで、脳が勝手に「形ないものを見えるようにした」のがエルフの成り立ちですからね。
なので実はエルフって見る人によって見た目が全然違うんですよ。性別もありませんし。なんなら人間と同じ価値観なんてこれっぽっちも持ち合わせてませんよ。
「え、じゃあエルフって何食べてるの……?」
「何も食べてません」
「ならどうやって生きてるの……?」
「まず生きてません」
生死という概念自体ありません。