『それ、嘘ですよね』
曰く――『ティマイアスの瞳』というらしい。
私の母は、俗に
母の持論によれば、人類の文化は言葉と共にあり、言葉の進化は嘘の進化に等しい。即ち、嘘こそが人類の文明を発展させた最大の要因なのだそうです。
嘘、という言い方が誤解を招くというのなら、あるいは「虚構」と言い換えることも間違いではないでしょう。例えば詩人が音に載せて奏でる言葉が、果たして1から10まで真実だけで詠われているなどと誰が思うでしょう。誰もが多少の修飾・脚色を受け入れた上で、詩人の音色と歌を楽しむはずです。もしくは近ごろ貴族の間で流行っている空想文集などは、ありもしない筆者の夢想をさも読者自らが体感するかのように文字に綴った「楽しい虚構」の最前線。
虚構に詰め込まれるものは、必ずしも誰かを偽って欺こうという嘲りや虚栄心ばかりではありません。他者を傷付ける真実から相手を守るために向けられた「優しい嘘」はたくさんあります。とんでもないホラ話だとしても、その場の空気を温かく盛り上げるためならそれもまたよいでしょう。
そう――全ての真実が誰かのためになるとは限らないように、全ての嘘が誰かを傷付けるわけではありません。
そんな嘘を、ありとあらゆる虚構のヴェールを強引に暴き、残酷な真実を突きつける。それが私の持つ力――『ティマイアスの瞳』なのだそうです。
色んなものを諦めてきた19年間でした。
真っ先に諦めたのは、自分の意見を出すことでした。私の瞳に映るものが全て真実だけで出来ているのなら、それにそぐわない道筋を立てる意見は「嘘」になってしまいます。
たとえば、朝市に買い物へ出かけたとして、リンゴとかぼちゃを買おうとすれば、私にはそれが売られていないお店はうっすら影が差しているように見えます。なのでそうでないお店に向かえば、それが目的への最短ルートになります。そして、影の差す店に向かおうとすることは、目的から遠ざかる行為になってしまいます。嘘へ向かえば真実から遠ざかる。だから真実だけが見える私の意見は、誰にとっても目的への正答かつ最短のルートになる。なってしまうのです。
けれど、人々は虚構を受け入れて楽しむものです。どこに何があって、そのためにはどのルートが最短だとわかっていても、買う予定の無いものを見るだけで楽しいこともあります。
あるいは、最初からそれが目的で、予定にない買い物でこっそり自分のためだけのご褒美を買うというのも、「偽ることの楽しさ」であると言えるでしょう。
なので、私は自分の意見を呑み込み続けました。真実を知るわたしだからこそ、誰かの虚構を否定してはいけない。虚構が作る楽しさを遮ってはいけない。そう思ったからです。
次に諦めたのは、14歳の頃に初めて抱いた恋慕の気持ち。
周囲から言わせれば、私はいつも一歩引いたところで知人の意見に頷くだけの、よく言えば大人しい、悪く言えば印象の薄い子だったようです。
だけれどそんな私にも、青春というものはやってきました。私の初恋の相手は、考古学者である母のお弟子さん。当時の私とはひと回り程度の歳の差で、穏やかで気が優しく、平民としては珍しく書物に溢れる環境に居た私に、家庭教師のようなことをしてくれました。解放的で奔放な母のお弟子さんとは思えないほど、言葉が柔らかく呑み込みやすい言葉遣いが特徴的でした。もちろん、恋という『心』の動きを楽しむものに対して、私の瞳はいつにも増して残酷でした。
男性の劣情など、さすがに14年も生きていればある程度のことには目を瞑ってきました。同年代の子より少し発育のよい体つきをしていたのも災いして、そういう視線には辟易しながらも「仕方ない」と諦めていたところもあります。女性の誰もがそうでしたし、特にこの瞳によって相手の心に宿る真実を見てしまう私などは、自分の態度が自意識過剰なように映らないよう無用な気疲れを得たものです。
もっとも、その気疲れが「無用」であり続けることを願っていたわけですが。
『もう無理。今夜ゼッタイに襲う』
犯行予告でした。
いえ、もちろん声には出ていませんでした。でも見えてしまうんですもの。直前まで教材代わりにしていた本から目を逸らし、ふと隣の席に座る彼を見たら、それはもうばっちりと。
それまでも何度か、生徒に向けるには余りある視線を受けていたのは把握していました。けれどその程度のことは彼に限りませんし、むしろ想いを寄せている相手に魅力的だと思ってもらえるのなら、それまで望まない視線に苛まれる原因となっていたこの身体つきも、悪いものではないと思っていました。
けれど、さすがに当時まだ14歳。19となった今でも、同じ状況で同じことを言われれば背筋をぞくりと震わせるでしょう。千年の恋も冷めるとは、まさしくあれを言うのでしょう。
私は努めていつも通りに勉強を終えると、早々に自分が見たものを母に告げて助けを求めました。母は「あちゃー」と言って軽い態度を崩さないながらも、表向きは人事とスケジュールの変更という形で、迅速かつ的確に私と彼の距離を作ってくれました。彼はやや抵抗しつつも、母は平民ながらも考古学の世界ではそれなりの発言力を持つ権威であることは間違いなく、それほど時間を要さず彼はそれを受け入れました。
私はその日、失恋と恐怖でぐちゃぐちゃになった感情を涙に換えて、久方ぶりに母の胸に抱かれながら眠りに就いたことを今でも覚えています。
そして三つめに諦めたもの。それは理解でした。
16歳の時、私はフリーランスのメイドになりました。その前年、母が遺跡の崩落に巻き込まれて命を落としたことで、私は私だけの力で生きなければならなくなったからです。自分の意思を露わにすることなく、恋愛とは縁遠く、相手の意思の真実を覗き込んで、相手の望みを誰より早く満たすことができる『メイド』という仕事は、想像より遥かに私に会っていました。
一年契約のフリーランスという形式をとったのは、母が亡くなる前日に私に遺した最後の言葉を成し遂げるため。
『ソフィヤ。あんたのその
『呪い……』
『けどね、呪いなんてものは「口」から出るから呪いなのさ。口から嘘が出る前に、あんたは心にある真実を見ちまうんだろう? ならあんたがすべきことは「口」で言うことじゃない。言葉じゃなくて行動で「示す」んだよ。嘘と本当を上手に使い分けられるその日まで、あんたは寡黙に誠実に生きな。そうすりゃ必ずいつかあんたの
そんな母の
寡黙に、誠実に、主の意思を汲み取り逸早くそれを成し遂げる。掃除・洗濯はもちろん読み書き計算を含む書類補佐もやりました。なぜか料理だけはいつまで経っても上達しませんが、代わりに買い物は目利きと値切りで貢献しました。メイドを複数雇うような大貴族でなく、一人暮らしの家に私だけを雇うような隠居の主さんもおり、その性格も様々。
ただひとつ共通していたのは、私の持つ力を知った場合、彼らの起こす行動パターンは大きく2つに別れていたこと。
私の力を利用しようとするか、遠ざけようとするか。この2つです。
今こうして私を雇ってくれているトゥルシン家の主さんはどちらかと言えば前者でした。
とはいえ、ここに至るまで仕えてきた5人の主と比較すれば最も良心的なほうで、利用するといっても身にそぐわぬ野心や行動力を持つのではなく、地道に使い時を見極めて使ってくれるお人でした。正直、メイドとして「使われ甲斐」のある主だと断言できるほどの名君でいらっしゃいました。
でも――それは私の求めていたものではありません。
そんな時でした。
トゥルシン家に訪れた三人の冒険者。その冒険者たちは旅を共にするメイドを求めているそうで、料理のできない私は真っ先に紹介候補から外れました。
不満もなければ納得もありません。料理ができないのは事実です。旅のメイドをお探しとあれば、食事の用意ができないメイドなど単なるお荷物です。けれど料理を除けば、この屋敷のメイドで私より上手にこなせる人物などメイド長くらいのものです。そのメイド長はこのお屋敷に骨を埋めるつもりだと、自らご辞退なさっていましたが。
なので、メイドとしてのほんの少しの仕返しのつもりで、お相手の視界に映る程度のいたずらを思いつきました。決して、先輩メイドたちのお邪魔をするつもりなど毛頭なかったと断言できます。なのに……。
「この子! この子にします! わたしこの子すごく気に入りました!」
思わず「えっ」と素の反応をしてしまいそうになりましたが、咄嗟にそれを呑み込みました。
私はただ、彼女たちの視界に入って、そのまま通り過ぎるだけのつもりだったのに。本当に無意識に、まるで見えない何かに背を押されているかのように、私は彼女の求める返答ができない先輩メイドたちに代わり、その答えを告げました。
振り返るその少女は、ガラスのように透き通った長い髪を風に躍らせ、大きな丸眼鏡の向こうに除く朝焼けのような薄紫の瞳をこちらに向ける。
その瞳を見た瞬間、私の中に根拠のない確信が走りました。
(この人だ……)
今、わたしをまっすぐに見つめる彼女こそが、私の求めていた……母の遺した言葉通りの人物でした。
わたしは主に視線を送ると、彼はまるで何かを察したかのように口元を緩めて――、
「招致した。ではソフィヤ・セーニン。最後の命令だ。お前は今この時を以てトゥルシン家ではなく彼女らの使用人となる。餞別としてその奉仕服はお前に与えよう。手に余る荷物は私が出来人を持ってお前の実家に送っておくので、お前は必要な私財を持って彼女らの旅に同行せよ」
――私が欲しくてたまらない
『惜しいヤツを持っていかれるな』
彼が言葉にしない
ああ、また私は任期を満了できなかった。いい主も、そうでない主にも仕えた。けれど誰もが私を引き留めなかった。
その理由は様々でしたが……それでも、私との別れを惜しんでくれたのは貴方が初めてです。
ありがとう。どうかいつまでもお元気で。マルク・トゥルシン伯爵。私に流れる血のもうひとつ。
「短い間ではありましたが、大変お世話になりました!」
主と、その向こうのお屋敷に頭を下げて、そして彼女たちへと向き直る。
「このソフィヤ、必ず皆さまのお役に立ってみせますね!」
この言葉に、