我がことながら、アンの頼みとなるとどうにも断るのが下手だという自覚はあります。
しかしNiCHは元々、観賞魚として養殖された
自然界には決して存在しないはずのそれが、人口密集地から遠く離れたアスペリマム大森林に流れる大河川の、こんな下流にまでに存在するということは、間違いなく人の手で飼育されていた何かしらの
……が、アンには水のついでに魚も獲ってくるよう言われてしまいましたので、どうにかしましょう。
NiCHのおそろしいところは、バクテリアとして考えられないほどに極めて高い熱耐性です。普通に内臓まで火を通して食べても、人間が食べると体内でその脅威性を発揮するというのですから、この国の人があまり淡水魚を好んで食べたがらないのも納得というもの。中には美味しい淡水魚もいっぱい居るはずですが、「淡水魚≒
なぜNiCHがこうも高い熱耐性を持つかといえば、NiCHを構成する特殊なタンパク質にほとんど答えがあります。通常、タンパク質は高熱に弱いです。だいたい温度60近くになると凝固してしまいますし、温度70近くになると水分を放出してしまいます。アン曰く、属性魔法の性質について「生き物を殺す上で『火』に勝るものはない」と言われるそうですが、生物の肉体はタンパク質で出来ているため高温に弱いという性質を簡潔に表現したものでしょう。実際、NiCHも魚の内臓と一緒に焼かれるとタンパク質が凝固し、分水作用によって水分を失い生命活動を停止します。……一時的には。
しかし加熱処理後、すぐに水分を取り戻すと彼らの特殊タンパク質は再び結合し合い、本来よりもさらに小さく分裂した状態でありながら生命活動を再開。そして、その水分を取り戻す場所こそが、加熱された魚を摂食した人間の体内である、というわけですね。
「NiCH対策……。一番簡単なのは冷凍処理か、あるいは加熱後しばらく放置して完全に生命活動を終えさせてから食べるか、になるわけですが……」
NiCHは高温には耐性がありますが、低温には為す術がありません。温度マイナス18度以下で放置すれば、さほど間もなく死滅します。
ですが冷凍処理した魚類を解凍するにも手間が掛かる、とは我がチームの料理担当アンの談です。何より、急速に冷凍してさらに解凍も行うと、食品の味や品質を著しく損なってしまうそうで……料理はできますが美味しいものは作れないわたしとしては、冷凍と解凍くらいでそんなに味が変わるものでしょうかと思ったのですが、アンが言うなら間違いはないでしょう。
となると……急速冷凍・急速解凍による調理は少なくともアンの選択肢にはないでしょう。それくらいなら、しっかり冷凍保存して今後の明日のお昼に回す方がいいはずです。最低限の食べ物はルカとソフィーが確保してくれるでしょうから。
よって、私にできることといえば
「召喚士シルヴィアが求める。灼熱なる牙を持つ者よ、煮えたぎる深淵より来たれ。召喚、マグマシャーク!」
召喚士、ですからね。
◆
「なるほど、それで近くの川一帯みんな熱湯に変えて獲れるだけ獲ってきたと?」
水と魚を確保してキャンプに戻り、NiCHの取り扱いついでに経緯を説明したところ、アンは少しだけ思案した様子でこちらの弁明を促しました。
「NiCHの繁殖そのものは上流でも手遅れになっていますから、一時的に水質と生態が変化したところで大きな影響はありません。上流から流れくるNiCH汚染水とそれを追ってきた魚たちによって、おそらく夜を越す頃には元通りでしょう。あの川をNiCH汚染から正すためには、途方もない時間と労力と資金が必要になります」
「んー……まぁ自然界との共生を大事にする
「良くも悪くも自然界は循環するものですからね。その一部に一時的な影響を与えてもすぐ元に戻ってしまいます。ただ、それもまた自然のひとつとして受け入れてしまう
自然界のサイクルの変化。それは魔法士たちが辿る道程の終着点「自然界との和解」において、ゴール手前の最終チェックポイントとも言うべきでしょう。
アンは「ほとんど必要な場面がないから」と
確か……星座のしるべ、海風のひびき、地脈のめぐり、だったでしょうか。魔法士はそうした自然界の「声」に耳を傾け、その力の一端を「魔力」という形で借りて「魔法」として行使する。魔法と向き合うこととは、即ち自然と向き合うこと。故に行き着く先は――自然界との和解。互いに理解を示し合い、力の一端ではなく自然そのものを「魔法」に変える、といったところでしょうか。そのあたりの「答え」を出せた人は魔法士の歴史上存在しないみたいですが、わたしなりの「答え」はそんなようなものではないかと思っています。
「ところでアン、この際もう
「え、でも
「そうなんですが、こう……風情というか、手間暇の楽しみというか……」
アン、こういうところ効率重視の魔法士らしい魔法士なんですよね。言えばやらせてくれるので、他の魔法士の方がどうかは知らないもののだいぶ良心的だとは思いますが。
ともあれ、薪木も拾って焚火も熾して水と魚も確保して、あとはルカとソフィーの帰りを待ちながら火の管理という建前の下、のんびり火の様子を見守るだけ。煮沸消毒のためという尤もらしい理由と仕事をとっておかないと、まるでわたしだけ何もせずに暇を持て余しているようで、少しだけ気恥ずかしいのです。働かざるもの食うべからず、とは良く言ったものです。いや働いてないわけではないんです本当に。働き終えたのがみんなよりちょっとだけ早かっただけ……だと思います。
「さて……こんなものかな。あとはルカとソフィーが材料を持ってきてくれないと作るものも作れないし、配膳もとっくに終わってるし。今のうちにトライアルブックでも読もうかな」
「確か、アンの恩師から頂いた本でしたか?」
「ええ。ライサ先生はあたしの好きな魔道具学の担当なんだけど、魔法……特に近代魔法学に詳しい人でね、たぶん学校で一番お世話になった人だよ」
近代魔法学? と思わず聞き慣れない言葉に反応してしまったのが運の尽き。
まるでわたしに対して「軟骨魚類?」と尋ねるのと同じように、アンは目を爛々と輝かせながら近代魔法学について説明を始め――、
『きゃああああああっ!』
突如、森の奥から聞こえた悲鳴に、わたしとアンはすぐさま熾した火を消し、互いに自らの杖を手に取りました。
「フォレストシャークを経由して、ソフィーの護衛に付いていたトレントリモーラたちと相互交感で繋げます」
「こっちも
まずは二人の状況を把握しましょう。少なくともここが集合地点であることはルカとソフィーも理解しているのですから、こちらが駆け付けて入れ違いになるより、まずは状況を把握してから駆け付けるべきかここから援護をするべきか判断した方がいいでしょう。トレントリモーラの警戒心と攻撃的な感情がわたしへと逆流してきている時点で、かなり状況は切迫しているようですが……焦れば焦るだけ事態の把握から精細さを欠きます。
「結果が出た。送るわよ」
「これは……モンスターの群れ? それに、トレントシャークの反応からして、このモンスターは……!」
「行きましょう、シルヴィ!」
「もちろんです!」
アンの言葉を待つまでもなく、わたしは彼女と共に駆け出しました。
トレントシャークは魚であると同時に、植物としての性質も持ちます。ただのモンスターの群れであるならまだしも、そんなトレントシャークが明らかな警戒心と攻撃性を露わにしているとすれば、理由は明白。天敵――猛毒物質を撒き散らすポイズン生物の襲来です。