6月。梅雨の時期だ。
じめじめとした湿気は苦手だが、雨が好きな棗はこの時期が存外好きであった。
「殺せんせー。33%ほど巨大化した頭部についてご説明を」
先程から皆が気になっていた疑問を、律がぶつける。
「あー、水分を吸ってふやけました。湿度が高いので…」
「生米みてーだな!!」
殺せんせーは顔を絞り吸ってしまった水分を出そうとしている。湿度だけでこれならば、水に浸かればとんでもないことになりそうだ。
「雨粒は全部避けて登校したんですが、湿気ばかりはどうにもなりません」
(まぁ、空気中に浮かんでる見えない水分だからなぁ)
「……ま、E組のボロ校舎じゃ仕方ねーな」
「エアコンでベスト湿度の本校舎が羨ましーわ」
確かにエアコンは便利ではあるが、故郷の小学校にはエアコン設備がなく、オニヤンマなどの虫が乱入してくるのは当たり前の環境だった。流石に校舎はこんなにボロボロではなかったし、雨漏りもここまで酷くはなかったものの、似たような環境である為そこまで不便には感じていない。寧ろここまで雨漏りが酷いのは一周回って面白いとさえ思える。
「先生帽子どうしたの?ちょっと浮いてるよ」
「よくぞ聞いてくれました。先生、ついに生えて来たんです。髪が」
「キノコだよ!!」
いつも通り見事な総ツッコミである。
殺せんせーの身体ってキノコ生えるんだ、と思うが、確かキノコは菌だ。人間の身体にもカビは生えるし、殺せんせーの身体にキノコが生えるのも案外おかしなことではないのかもしれない。
「湿気にも恩恵があるもんですねぇ。暗くならずに明るくじめじめ過ごしましょう」
明るくじめじめ…はよくわからないが、このクラスで過ごす限り、例え嫌なことや辛いことがあっても、それ以上に楽しい思い出が出来るだろう。棗はそう楽観的に捉えていた。
その日の放課後のことだ。
棗は母親にお使いを頼まれ、それも終わって駅に向かっている途中だった。
「?」
そんな時、何故かズブ濡れで汚れた制服を着た椚ヶ丘の生徒が2人、コンビニに駆け込むのが見えた。何だか只事ではなさそうだな…と少し気になった棗は、そのままコンビニへ入店する。
「ちょっと!!普通私の方が先でしょ!!この醜男!!」
「あンだとこのドブス!!」
「キィーッ!!何よー!!」
「…………おー」
地獄絵図だ。
地獄絵図が広がっている。顔も名前も知らないが、同じ学校の生徒2人がトイレひとつで掴み合いの喧嘩をしている。コンビニの店員もほとほと困り果てているようだ。
(……そうだ)
「もー!!2人何してんの!!」
棗は彼等の元へ小走りで近づき、そう声をかけた。
「は?何よあんた!!」
「お前E組の…!!」
「いーからほら、2人とも周りよく見て!他のお客さんの迷惑だよ」
そう言われて周りの視線を集めていることに気がついたのか、2人は腑に落ちない表情をしながらも大人しくなる。
「友達がお騒がせしちゃってすいません…」
「い、いえ…」
「どうしたの?2人ともお腹痛いの?」
「あんたに関係無いでしょ!」
くわっと顔を歪ませて女子生徒が棗に噛み付く。
「だから、騒いだら迷惑になっちゃうよー…取り敢えずえっと…名前わからん…女の子が先に入ったらどうかな?」
「あ!?ふざけんな!!」
「レディファースト!!ほら、行って来な!!」
「ちょ…」
棗は女子生徒の背中を軽く押し、個室へ入るよう促した。女子生徒は戸惑っていたが、そのまま個室へと入って行く。
「それじゃあ君は私と来て!」
「は?何でだよ、誰がE組と…」
「いーから!ほら!」
うだうだ言っている男子生徒の腕を引いて、コンビニから出る。
「取り敢えず近くの家の人にトイレ借りよう!」
「はぁ!?何で俺がそんなことしなくちゃいけねーんだよ!!」
「今ここで出ちゃうのと、誰かにトイレ借りるの、君的にはどっちが嫌なん?」
「うぐっ…それは…」
「君が頼めんなら私頼むよ。ちょっと待ってて」
棗は人見知りなので、見ず知らずの人に声をかけて何かを頼むのは苦手だが……緊急時だ。迷っている暇はない。近くの民家のインターホンを押す。「はーい」と穏やかな女性の声がした。
「あ、あの!すみません!友達が腹痛で辛そうで…でもコンビニの御手洗が空いてないみたいで。その、良かったらそちらでお借りすることは出来ないでしょうか…?」
『あら…ちょっと待ってね』
インタホーンがプツリと切れて、暫くして玄関から妙齢の女性が出て来た。
「お待たせしてごめんなさいね。うちで良ければどうぞ、使って行って」
「ありがとうございます!本当にすみません…!」
こういうことは初めてなのでどうなるかと緊張していたが、家主が優しい人で良かったと棗は安心した。
「ほら、いいって。早く行って来なよ」
「…ぐ…ッ」
男子生徒は悔しそうな顔をしながらも、「お邪魔します…」と言って民家の中へ入って行った。
「すみません。実はあの子と一緒に女の子がいて、その子はコンビニの方にいるんですけど…心配なので一度コンビニへ戻っても大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。あの男の子には伝えておくから、行ってあげて」
「ありがとうございます!では…」
棗はぺこりと一礼して、コンビニへと戻った。
丁度終わったところらしく、女子生徒がお腹を擦りながらコンビニから出て来ているのが見えた。
「大丈夫?落ち着いた?」
「……うるさいわね。何よあんた」
「ご、ごめんなさい。えっと、さっき一緒にいた子はすぐそこのおうちの人に頼んでトイレを借りさせて貰ったんだけど…」
「だったら何なのよ。はぁ…最悪…まだお腹変な感じするわ…」
顔を顰めながらお腹を擦る女子生徒。湿気の多いこの時期である。食中毒か何かだろうか。
「とにかく、こっち来て」
「はぁ?何でよ」
棗はごねる女子生徒を引っ張って、先程の民家へと戻る。すると家主の女性が外は雨が酷いから入りなさいと言ってくれたので、女子生徒も渋々民家へと上がった。
男子生徒もトイレから出て来ている。
「そう言えば貴方達、随分とズブ濡れなのね。どうしたの?」
「それに関しては私もよくわからなくて…2人ともなんでそんなに制服汚れてるの?」
そう質問したら、2人はぐっと答えを喉に詰まらせた。色々あったようで、詳しいことはあまり話したくないらしい。
「良かったらシャワーも浴びて行ったらどうかしら?」
親切な女性は、にこやかにそう申し出てくれたが、男子生徒は小さな声で「や…大丈夫ッス…」と言って断る。女子生徒もそれに同調し、「私も大丈夫です…」と言った。確かにシャワーを借りたところで、代わりの服もないので、当然と言えば当然だろう。
「俺等もう帰るんで…御手洗、アリガトウゴザイマシタ…」
「いいのよ、気にしないで。お大事にね」
「…ッス」
コンビニでの剣幕が嘘だったかのようにしおらしい態度の2人に、おかしくて棗は苦笑した。
「今日は本当にありがとうございました。また後日改めてお礼しに伺います」
深々と頭を下げれば、女性はいいのよいいのよ、と笑って言ってくれる。本当に感謝しかない。
女性の家から出る際、棗は余分に買っていた水を買い物袋から2本出して2人に手渡した。
「良かったらどうぞ。常温水だからお腹にも優しいと思う」
「何のつもりだよ。俺らに恩でも売るつもりかよ、E組が」
「そうよ。私たちはあんたらみたいな落ちこぼれに借りを作る気無いんだけど」
家を出た瞬間高圧的な態度を取られるが、これまでの出来事があってか、最初コンビニで会った時程の勢いは無い。
「え。別に今私がしたことは全部無かったことにしてくれて全然いいよ!」
2人して訳が分からないとでも言うような表情で棗を見つめてきた。棗としては、コンビニ店員が困っていたし、周りの客も困っていたし、2人も困っていたようなので声をかけただけだ。
(浅野くんも全然関わりのない私が困ってた時声かけて助けてくれたし!)
良い行いは見習うべきである。
「まぁそれに、貸してくれたおうちの人のお陰だからさ。…あ、勝手に友達って言っちゃってゴメンね。それじゃあ、またね!2人ともお大事に!」
それだけ言い残して傘を差すと、棗は駅へ向かうべく一直線に走り去ったのであった。
後日、棗はトイレを貸してくれた民家の女性に菓子折りを持ってお礼に行った。ちなみに2人…瀬尾智也と土屋果穂がそれぞれ棗にお礼だと言って菓子折り渡して来たのはまた別の話である。
去った後の棗
「怖ぇ〜!超怖ぇ〜!めちゃくちゃ緊張したんだが!!頑張ったぞ〜私!!!」
棗ちゃんは竹林君との会話の中で「今日帰りにお使い頼まれてるんだ〜」と言っていたので、計画に誘われませんでした。だから何も知りません。