桜の下で生きたい   作:空田空

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にしょう

「それでさ、昨日のテレビ見た?あれやばくね」

「んな!新聞とかで一面びっしりって言われても釈然としないけどテレビでどこも報道してたら実感するよな!」

 前の方のドアが開かれ身長およそ180cmはあるであろう大男が入ってくる。しかし、身体は細いため、大男と言うのは不適切であると感じられる。手には出席簿と一限目の担当である科目の教科書。

 男はその身体に見合わぬほど静かな足音とどことなく感じさせる弱気の雰囲気から、教室が静かになることは無い。

 生徒はみな先生が教室に入ってきた事に気づいているが誰もがなりふり構わず喋っている。いや、静かに朝のホームルームが始まるのを待っている生徒もいる。しかし物静かな生徒から伝播して教室全体が静かになる、なんてことは起こり得ない。

「静かに」

 男は教室全体に丁度行き渡るくらいの声量で言う。

 しかし依然騒がしさが鳴りを潜めることは無い。あまつさえ男に反抗しようと声の大きさを大きくする生徒さえいる。

 男が教卓を蹴る。

 生徒達がやっと静かになる。

「先生が皆さんを静かにさせるまでおよそ一分もかかってしまいました」

 まるで自分に非があるかのように、男は頭を下げた。 

 教室はその後騒がしくなることはなく、静かなままだった。

 

 

 

「そ、それじゃあ、行ってきます」

 私は何年かぶりの慣れない挨拶を家にかける。

 背中からどたどた!、と大きな走る音が聞こえる。

「空!どこ行くの!?」

 姉が靴を履き替え私の肩を掴む。その手は少し震えていた。

「あの、学校に」

 そう答えると姉は幽霊を見たかのように恐怖に顔を歪ませた。

「なんで?学校は怖い場所なんだよ?空を傷つける人達だっているかもしれない。それなのになんで?」

 その後も姉は「なぜなぜなぜ」と宙に言葉を吐き出していた。その様子を見て、一度私は家の中に戻る。私の肩を掴む姉も必然的に後ろ向きで家に戻ることになる。

 瞬間姉の顔は安堵で満たされた。まるで自分を信じてくれた、と思っているかのようだった。

「空ちゃん!分かってくれたんだ!良かった!私、空ちゃんが居なくなったらどうなるか...考えただけでも恐ろしいよ」

 そう言った姉は私の肩を掴む手を背中に伸ばし抱きしめてくる。次第にその力が強くなっていき、私の肌に爪が入り込んでくる。徐々に私の顔も歪んでいく。

「い、痛いから離して」

 そう言うと姉は安堵の顔から悲しそうな顔へと変えた。

「ねぇ。なんで私を否定するの?なんで私を拒絶するの?私を裏切るの?あの男がママを捨てたみたいにさ。空ちゃんも私の事を捨てるの!?」

 私の背中をきつく抱きしめていた手が私の首元に来る。

 思わず目を瞑る。頭の中には嫌な記憶がフラッシュバックする。苦しい、辛い、気持ち悪い記憶が。

「やめて!」

 目を開けると玄関に倒れ込んでいる姉がいた。どうすればいいの分からなくなりその場で佇んでいると私の耳に声が入り込んでくる。

「痛いなぁ。あ、ほら見てよここ。血出ちゃったよ。悪いことしちゃったねぇ。ねぇ、悪いことしたらなんて言うんだっけ?私の空ちゃんなら分かるよね?さぁ、ほら!」

 姉はそう言い私を見上げる。その目には私しか映らない。

「いい加減弟離れしなよ。もうだめなんだよ、私たち」

「変わっちゃったね。空ちゃんも」

 悲しむ、と言うよりもこの状況を面白がっている姉に私は少し恐怖を覚える。

「どうして、なんで笑えるんだよ。この状況で」

「えぇ?だってさ、空ちゃん優しいからどうせ怪我しちゃった私に対して罪悪感感じてるんでしょ?その事実がなにより嬉しくて嬉しくて!それに空ちゃんはここから離れられないんだよ?一緒に庭行こっか?大丈夫。お姉ちゃんが手を握っておいてあげるから」

 そう言って姉は傷口を恍惚と撫でている。私はもう見てられなくなって姉に背を向ける。

「お前は姉ちゃんじゃない。変わったのはあんたの方だ、じゃあね」

「ううん、私の空ちゃんはお姉ちゃんの事をあんた、なんて汚い呼び方はしないわ。行ってらっしゃい」

 後ろで鳴った閉まるドアの音が私と姉の関係を絶ったかのように感じられ、スッキリとする。

 こんなに清々しい朝はいつぶりだろう。

 胸いっぱいに空気を吸う。そして先程までの毒気を吐き出す。

 ふと先の曲がり角からこちらを見ている子供がいる事に気づく。

 見覚えがないため、知らないフリをして過ぎていこう、と考えていたが妙な偶然か、同じ学校の制服を着ていたため思わず足を止めてしまう。

「やっ、君どこかで会ったことある?」

「びゃっ!?あはわわわ」

 フィクションのような効果音を出して慌てふためく。

「ご、ごめん。そんなびっくりされるとは思ってなくて」

「い、いえ!こちらこそ申し訳ないっス!」

 今どき珍しい語尾を使うもんだ、と私は感嘆した。

「私は二年の霞っス。図書委員なんスけどもう一人の相方がいつになっても学校に来ないもんで、こうやって日課の張り込み調査っス」

 その言葉の節々にどこか無視できない箇所が多く、私は頭を悩ます。

「えーと、私は霞さんと同じ第二学年でつまり同級生。それでいてもう一人の相方、というのが恐らく私。ということは芋づる式に同じクラスメイト。そして私が長い間出席していなかったから私の家に張り込み調査をしていた、と」

「そっス!」

 こちらの疑問に対し、全力で肯定するように霞さんは敬礼のポーズをとる。そして長い苦労がようやく実を結んだ事に対して少し目元が潤んでいる。

「あの、一応聞くけどいつから張り込みしてたの?」

 私は恐る恐る霞さんに尋ねる。

「んーと、二学期の委員会が決まったのが三日前スね」

「あぁ、なんだ。一学期の頃は違かったんだ」

 もし長い間迷惑かけてたらどうしようかと考えていたため、その返答に安心した。

「ん?なんか勘違いしてる様なんで一応言っとくっスけど、一学期の頃も同じ図書委員でしたよ?」

「え」

「なんかうちのクラスって変化が嫌いみたいで、委員会とか係とか学期変わっても何も変更ないんスよね」

 私はだんだんと悪い想像が現実になってきている事に気づき一歩後退る。

「なんで逃げるんすか。もしかして図書委員嫌でした?それは申し訳ないスけど半ば強制みたいな感じだったんで私にはどうにも出来ないっス」

 そう言い霞さんは両手を合わせてこちらに頭を下げる。

「いや、別に図書委員自体は嫌いじゃないからいいよ。むしろ本は読む方だしね」

 そう言って、肝心の話の内容からズレている事に気づく。

「って、そんなことはどうでもいいんだ!そんなことよりもしかして一学期から私の家の前に張り込んでたってこと!?」

 その首を横に振ることだけを願い、私は答えを待つ。

「普通に最初からっスけど」

 私は思わず項垂れる。 

 まさかそんなに長い間誰かを傷つけてしまっていた事に私は後悔する。

「ごめんね。そんな長い間縛りつけちゃって」

 私は誠心誠意の謝意を込めて謝る。許されようとは思っていない。高校生活のおよそ一割強の期間の朝を奪ってしまったのだ。

「そんな頭下げなくていいっスよ」

 私の頭に声がかかる。

「で、でも私は君の大事な高校生活の時間を」

「もー、本人が大丈夫って言ってんスから大丈夫っスよ!それに今までの時間返してくれ、なんて一切思ってないし」

「え?」

 予想外の言葉に私は思わず顔を上げる。

「意外と楽しかったんスよ?今までの生活。そりゃあ最初はなんで、って思ったりしたっスけど、段々と変わり続ける風景とか綺麗だったんスから」

 そう言って霞さんは私にスマホの画面を見せてくる。それは写真フォルダだった。そこには綺麗な桜や朝顔、ナメクジなどの多種多様な季節の風物詩の写真が収めてあった。

「へぇ、綺麗だね」

「っス!自分でも結構気に入ってるんスよ!だから正直な事言うと、前までの自分を殴ってやりたいくらいに空々さんの評価は爆上がりっス!」

「そう言ってくれると嬉しいね。霞さんが同じ図書委員の人で良かったと思うよ」

 そう言い霞さんの頭を撫でる。

「えへへっ!努力した甲斐があったっス!」

 霞さんも私の撫でる手を跳ね除ける訳もなくただただ静かに撫でられている。髪の毛が砂浜のようにさらさらとしていて、それを撫でる私の手はまるで波の様に感じられた。

「そういえばなんで呼べばいいスか?」

 人差し指を顎に当てて「空々さん?いやなんか違うな、空さん?うーんややこしい」と言って一人で悩みに耽っていた。

 私も一人考える。今まで私は他者から名前を呼ばれる機会があまり無かった。唯一の呼ばれ方は「空ちゃん」だが、如何せん高校生の私には正直もう似合わない。

「うーん」

 私が頭を悩ませていると耳に声が劈いた。

「センパイ!センパイはどうスか!?」

「え」

 私は耳を疑う。霞さんと私は同じ学年のため歳に差はない。だから先輩と言われる立場では無いはずだ。いや、誕生日によって歳に差が生まれたいたとしても、同学年の人に対して先輩、と呼ぶのは些か不適切では無いだろうか?だがそもそも私の誕生日を霞さんが知っているはずもない。じゃあ何故先輩と言われているだろうか。

 私は一つの結論に辿り着く。

「もしかして私って、留年してると思われてる?」

 項垂れながら私は聞く。正直これ以外に先輩と呼ばれる理由がない。

「え、違うんスか?」

 霞さんは口に手を当て、信じられない、と言っているかのようだった。その姿に私の心はさらに破られる。

「ち、違うよ。全然学校には行ってなかったけど、今はネットがあるからそこで勉強して、家でテストしてるの。だから成績とかは一応ついてるよ。まぁ可もなく不可もなく、って感じだけど」

 それに対し霞さんは「家でテスト?」と聞き返す。

「えーと、一年の頃にねこのままじゃ退学になる、って言ってアポ無し家庭訪問が始まってそこでテストを家で受けるってことになったの。なんか独断っぽいから良いのか悪いのかは正直分からないけどね」

 私はもうちょっと話そうとしたが霞さんがつまらなそうにしていたため、口を閉じる。

「あの、ごめんね。こんなこと聞いてもつまらないよね」

 私は申し訳なさを感じて謝る。

「ぶ、あははははは!!ごめんっス!別にセンパイが留年してるとは思ってないっスよ!さっきはそう反応した方が面白いかな、って思っただけで本心では思ってないっス!」

 私はムスッとして聞き返す。

「じゃあなんで私の事を先輩って呼ぶの?理由が見当たらないんだけど」

「うーん。なんなんですかね?センパイがなんだか歳上って感じするんスよね」

「誰がジジイじゃ」

「あはっ!センパイめちゃくちゃその語尾似合ってますよ!」

 霞さんはお腹に手を当て笑いを耐えている。その笑顔がとても素敵で、こうやって出会えたきっかけを作った閉じこもった日々に感謝しそうになる。

 思う存分に笑ったのか、霞さんはバッグからスマホを取り出し時間を確認する。

「それにしてもセンパイ時間大丈夫スか?」

「え?うちの学校って朝何時だっけ?」

「九時っスよ?やだなぁセンパイ。もうそんなこと忘れちゃったんですか?」

 そう言われ「もう随分行ってなかったんだから、仕方ないだろ」と言おうとしたが、なんだか学校に行ってない事が優位である、と誇示しているようで気が引けた。

「それで、今何時なんだよ。生憎と腕時計もスマホも持ち合わせていないんだ」

「今どき珍しいっスね。ちなみに今は八時五十分スよ」

「は?」

 私は聞き返す。学校までは、バスで駅まで行ってから電車に乗り、そこから学校まで歩きだからだ。少なくとも十分では辿り着けない。バスと電車が毎回私たちの到着と同時に来る、なんていう奇跡を連発させても最低でも三十分はかかる。

「絶対間に合わないじゃん...」

 ため息をこぼす。それなりの浮き輪を膨らませるくらいに大きなため息をこぼす。

 そんな私を見て霞さんは肩に手を置く。

「まぁ、何となくなるっスよ!頑張ってください!」

「なんだよ、その言い方。霞さんだって遅刻じゃん。もしかして成績優秀者は大目に見てもらえるとかあるの?」

「そんなのある訳ないじゃないスか。仮にあったとしてもそんなの私には要らないスけどね」

 何故、と問いかける。

「だってそんなの成績優秀者、っていう権力を振りかざしているだけじゃないスか。自分が成績優秀だとしても他の所では優秀だとは限らない。そこを混同させて権力を振りかざして、当の本人に悪気が無かったらそれこそが盲目の正義、っていうヤツっスよ。私はそんな人になりたくないっす。例え周りがそれを強要してきたとしても、私は流されないっス」

 再び私は何故、と問いかける。違うのは声色に好奇心がのっている事だけ。

「『何を読もうと、何を聞かされようと、自分の理性が同意したこと以外信じるな』この言葉知ってるスか?」

 私は首を横に振る。霞さんは路地に生えている切られたばかりの木を見ている。あの木が前のように姿に戻る頃には私はどうなっているんだろう、そんな想像をした。

「仏陀スよ。名前は有名っスけど、肝心の中身を知る人はあまりいないっスよね」

 私は怪訝な顔をする。霞さんの態度が妙だからだ。

「あぁ、別に知らない人の事をバカにする意図はないっスよ。なんなら私もこの前まで知らなかったスから。哲学の祖って言われてるソクラテスの『無知は罪なり』なんて言葉もあるっスけど、この後に『知は空虚なり、英知を持つ者は英雄なり』って続くんスよね。知らないことをなじって馬鹿にしてる人ってやっぱ何処にでもいるっスけど、その実知っているから馬鹿にした彼ら彼女も知っているだけじゃ意味が無いんスよ。その事を知らない彼ら彼女らは無知なんスかね?もしそうだとしたら無知じゃなかったのに無知へと収束する。本当に無知じゃない人ってこの世にいるんスかね?何か実用的、実践的に利用しないとそも意味が無い。だから」

 言葉が止まる。視線を上げると目が合った。しかしその目は少し元気がない、まるで色褪せた硝子玉のようだった。

「どうしたの?」

「急ぐっスよ」

 そう言って私の手を取り走り出す。

「間に合わないんだし、どうせならゆっくり行こうよ。それに暑いしさ」

 足を止め、こちらを振り向く。

「センパイって案外不良生徒なんスか?」

 その顔は心の底から純粋に聞いている様だった。ジッと見つめられてどこか居心地が悪い。

「全然違うよ!まぁ、学校に行ってないって所だけを見れば不良生徒かもしれないけど...」

「あー、申し訳ないっス。別にそんな意図はないんスよ」

 視線を戻し、再び走り出す。

 

 

 

「つ、着いたー」

「おつかれっスよ、センパイ。しかしまぁよくそんな疲れたような声出せるっスね。俳優とかどうスか?結構合いそうっスけど」

「本当に疲れてるんだよ!」

 揶揄ってきた霞さんに私は反論する。

 駅まで走って電車に乗ったあと、走って学校に辿り着いた私は燦々と輝く太陽光の産物である汗を額に携えて学校の正面玄関に居た。

「そういえば私たちのクラスの下駄箱ってどこ?」

「そういえば初めての学校なんスよね。今まであんま実感なかったっスけど、そんな発言されたら理解せざるを得ないっスね」

 そう言って歩き出した霞さんの背中に大人しくついて行く。

 数秒後、足が止まる。

「ここっスよ。センパイは、えーと」

 そう言ってスマホを取り出し、画面とにらめっこをし始めた。

「あー、センパイはなんと出席番号一番っスね!」

 残念がる私の肩に手を乗せる。「良かったスね!」と心の底から祝ってくれている様な声で言う。馬鹿にされてる、と感じているのは私が他人を信じられないからだろうか。

「うーん、私一番上の下駄箱嫌いなんだよなー」

「なんでっスか?身長的に丁度いいじゃないっスか」

「いや、だっていちいち腕を上にあげなきゃいけないのめんどくさいじゃん。手って普通下にして歩いているんだからどうせなら腰辺りにある方が良くない?」

「センパイ、見てください!」

 そう言われ、私は下駄箱を開けようとしていた手を止め、霞さんの方へと目を向ける。そこには今私の言った状況を完全に再現している霞さんが居た。

「もしかして、そこが霞さんの下駄箱?」

「むふーん!どうっスか!?羨ましいっスか?」

 真新しそうな上履きを履き私の腰辺りをつついてくる。猫のように感じられるその様を見て私は好奇心にそそられ首辺りを掴む。

 疑問の顔が途端に苦悶の表情へと変わったのを見て、私は反射的に手を離す。

「はぁ....すぅ、ごほっ...!ちょ、ちょっと何するんスか!」

「わ、ごめん。なんか猫みたいだな、って思ってそういえば首を掴むと落ち着くって文献をどこかで見た気がしたから...」

「確かに猫は首を掴むと落ち着くらしいっスけど、持ち上げたらダメっスよ!成猫は仔猫と比べて体重があるんですから身体にも大きな負荷がかかるんスよ!」

「わ、悪かった。ほら、この通り」

 私は頭を下げる。

 決してこの行為で全てを許されようとは思ってはいないが、頭を下げる。何故悪いことをしたら頭を下げなきゃいけないのか、その本当の理由を何も知らないまま下げる。

 そんな一人で考え事をしていたら頭に声がかかる。

「頭、あげてください。センパイってなんかシナるの似合わないっスよ」

「え?」

「センパイってなんか善人っていうよりちょっとクズっぽいじゃないですか?だから真摯に謝られると私の中のイメージと乖離があって気持ち悪くなっちゃうんスよ」

「ご、ごめん」

 再び反射的に謝罪の言葉を口に出す。

「だ、か、ら。そう言う所っスよ!もうちょっとくらい自信を持ってもいいと思うんスけどね。どうせこの先数え切れないくらいに過ちを繰り返すんスからそんくらいの一つくらいどうにかなるっスよ」

「でも今回は霞さんだから許されている様な物じゃん。この先一回の失敗で許されない状況になって失敗の記録が数えれる程度の物になってしまうかもしれない」

「それ、どういう意味で言ってます?」

 真面目な顔をしてこちらを覗き込む。その綺麗な顔が目の前にあるため、私の頬は桃色になり、少し心臓の鼓動が早くなる。

「それは....それは」

 口にしていいものなのか分からくなった私は言葉に出来ず言い淀む。

 そんな様子の私を見て霞さんは笑顔になる。

「大方何を言おうとしてたのかは分かるっス。けど言わなかったのは偉いっスね!それにそんな未来こないっスよ」

 不満を覚えた私は「そんなの、分からないじゃないか」と弱気に主張する。

「いや、来ないっス。私がいますから。私の傍にいてくれたらそんな簡単に離れさせないっス。だから」

 言葉を一度区切って下を向く。その様子を認めた私はここぞとばかりにその頭に手を伸ばす。

「な、何するんスか!?セクハラって訴えますよ!」

「ふ。なんだかやられっぱなしだと癪に障るからね。それにセクハラで訴える、ということは私の行動が霞さんを不快にさせたという事に他ならない。つまりは私の目論見は達成された、ということだ」

 そうして静かに頭を撫でられていた霞さんは、私の手から離れこちらを睨む。

「なんか上手く誤魔化されたような気がしてならないっスけど、今回は私の負けでいいっスよ!覚えといてくださいね!」

「はいはい。私の勝ちだ」

「な!?私がわざわざ勝負に乗って負けてあげたのにそんな態度なんて...センパイってクズっすね」

「あ、ちゃんと出来てた?やっぱり私俳優向いてるのかも」

 私は上機嫌になって、下駄箱に向き直り扉を開ける。

「あれ?」

 そこにはあるべきはずの上履きがなかった。

 

 

 

「センパイ?どうしたんスか?」

 私の背中に声がかかる。

「いや、私の上履きがないんだよ」

 おかしな出来事に直面し、私は頭を掻き回す。指先に髪の毛が絡みつく感覚だけを感じる。

「そりゃ、学校来てなかったんスから当然上履きもあるはずないじゃないスか」

 困惑の表情を浮かべてこちらを見つめる。こちらの記憶を少し疑っているかのようだった。

「元々入って無かったなら普通に持ってきてるよ。一応入学式の時に姉が持ってきてくれたらしくて、進級する時にも先生が移動させてくれたって言ってたから入ってるはずなんだけど」

 私は頭を悩ます。

「まぁ、とりあえず職員室に行ってスリッパでも借りに行ったらどうスか?靴下のまま歩いてたら絶対怒られるっスよ」

 納得した私は頭を縦に動かし、肯定の意を伝える。

「そうだね、とりあえずは職員室に行こうか。じゃあ案内を頼んでもいい?」

「あー、そうっスね。そういえば学校に来たの初めてなんスよね」

 先程も同じような事を言っていたため、私は首を傾げる。

 そんな私を認めて霞さんは口を開ける。

「なんかセンパイって何年も学校に入り浸っているようなそんな貫禄が滲み出てるんスよね」

「だから留年はしてないって」

「まぁ雰囲気程度のものですからそんなに怒らないでくださいよ」

 そう言って歩き出した背中について行く。

 歩いている途中に辺りを見渡すと、脱ぎ捨てられた靴や食べっぱなしのコンビニ弁当のゴミ、破り捨てられた掲示板の紙などが目立っていた。

「結構荒れてるんだね。ここの学校」

「んー、そっスね。うちの学校って一学年六クラスあって半分以上のクラスが無法地帯になってるっスから」

 思わず強ばってしまった私の雰囲気を察してくれたのか更に言葉を紡ぐ。

「安心して欲しいんで言うっスけど、うちのクラスは内向的な人間が多いんで比較的平和っスよ。まぁ、何事にも例外というか、外れ値みたいのはあるっスけどね」

 目の前の背中が大きくなる。いや、足が止まって私が距離をつめる形になったからだ。

「じゃあここで待ってるっスから、行ってらっしゃいっス」

 私は頷き職員室のドアの方へと向かった。

 

 スリッパを借りる事が出来た私は霞さんの元に戻る。

「よし、じゃあ行くっスよ」

「はい...」

 私の意気消沈した態度に疑問をいだいたのか質問を投げかけてくる。

「どうしたんスか?そんなに急にやつれた感じになって。もしかして入るの緊張したっスか?分かるっスよ。急にノックされたら思わずそっちの方見ちゃいますから、自然と多くの教員の視線がこちらに集まるの怖いっスよね」

「いやまぁ、緊張は勿論したけどそれより久しぶりに登校したのに、最初から遅刻か、って言われて怒られちゃった」

「こっちには怒声全然届かなかったっスけど、そんな声小さい先生いたかな」

「いや、そんな怒鳴り声は出してないよ。ただ、陰湿にねちっこく言及してくる先生だった」

 私が特徴を伝えると、何かに思い当たったかの様に手のひらの上に握りこぶしを乗せる。

「あー、田原先生っスね。数学教師っス。教え方はめちゃくちゃ上手くて授業中は面白くてあっという間に時間が過ぎてくっスけど、いざ授業が終わったらスイッチが切れたかのように無愛想になるんスよね。授業後に質問しにいこうとすると、めちゃくちゃ嫌な顔になるんスよ。外れ引いたっスね」

 大きな笑い声が廊下に響く。

「まぁ、まだコミュニケーションをあんま取ってないから外れとは、私からは言えないけど、結構疲れたな。今授業してるのって田原先生みたいな人?」

 霞さんは眉間に皺を寄せ考える。

「うーん、覚えてないっス。そもそも私時間割とか全く覚えないので、必然的に先生も分かんないんスよ。申し訳ないっス」

「へぇ、珍しいね。じゃあ教科書とかはどうしてるの?」

「うちの学校置き勉オーケーなんで有難く置かせてもらってるんスよ」

 優しい学校なんだな、と私は一人感慨深くなる。彼女と同じように私も有難く学校に置かせて貰おう、と思った。

 急に霞さんがこちらに身体ごと振り返る。

「そういえば、これ欲しいっスか?」

 そう言った霞さんの手に握られていたのは電車の遅延証明書だった。別に今日は電車遅延していなかったはず、と口に出す前に霞さんが喋り始める。

「なんで、は無粋っス。まぁ、休日分みたいなもんって考えてくれたらいいっスよ。それにうちの学校めっちゃ緩いんでしっかり確認せず受理しちゃうんで何かあった時用に貯めといた方がいいっス」

 遅延証明書を持った手をひらひらと揺らしながらそう言う。

「もしかして、その遅延証明書くれるの?」

「っス!けどまぁ、代償無しに遅刻を無罪放免にするのはちょっといかがなものかなぁ、とも思うんスよね」

 霞さんは何の代償を払ったの、と尋ねそうになった口を閉じる。そのせいで機嫌を損ねてしまったら免罪符を取り逃してまうからだ。

「分かったよ。じゃあ何を支払えばいいんだ?生憎と手持ちはあんまりないから大したものは買ってあげられないけど」

「別にいいっスよ!それに何か勘違いしてるっスけど私が求めるのはお金じゃないっス」

「え?金じゃないなら何が欲しいの?特に凄いものとかも持ってないと思うけど」

 身につけている物を今一度見直して自分の発言が正しい事を確認する。その私の様子を見て霞さんは笑いを堪えているようだった。

 改めて向き直って尋ねる。

「で、結局何をお望みなの?」

「それはっスね、『なんでもお願い聞く券』っス!」

 頭の中を整理する。しかしいつまで経っても私の脳はそれを正常に処理することが出来なかった。

「どういうこと?なんでも、って具体的にどんなことなの?非合法的な事には絶対関わらせないでほしいんだけど」

「そんなことさせないっスよ!?私の事をなんだと思ってるんスか?」

「うーん、使えるものならなんでも使う冷酷で恐ろしい人」

 止めていた足を再び動かし始めたので、それに従うように私も足を動かす。まるで小鳥のようだった。

「センパイって絶対モテないっスよね?」

「まぁモテる機会がないからね。それに、そう言う人が出来たら姉にグチグチなんか言われそうだから相手の為にもモテない方がいいんだよ」

 身体と身体がぶつかる。前を見ると霞さんが止まっていた。

「どうしたの?遅延証明書あるとはいえ早く教室に向かった方がいいと思うんだけど。それに急がないと授業が終わって休み時間中に入ることになって空気しらけさせちゃうと思うよ」

「いや、そんなことはどうにでもなるっスよ。てかそんなことよりセンパイって兄弟いたんスね、初めて知ったッス」

 こちら側に振り向いて私の目を覗くように見つめる。その視線が少しばかり恥ずかしさを伴って痛い。

「それは言ってないからね。家族のことってあんまり話さなくない?小学生の頃とかは授業参観とかで目にする機会は結構あったかもしれないけど、高校生にもなったらそういう機会とかないし。後私は兄じゃなくて姉だから『兄弟』って形容するのは少し違和感あるかも」

 私がそう伝えると霞さんは頭を首を傾げ、私の言葉を訂正する。

「兄弟って言うのは必ずしも男性同士の事を指す訳じゃないんスよ。意味として同じ親から生まれた間柄の者、ってあるんで女性同士でも異性同士でも兄弟って言うっスよ。俳優と言う言葉に男性的な意味を感じ取ってしまうのと同じ感じだと思うっス」

「あー...ご指摘どうも」

 私は気持ちを落として冷静に言葉を返す。指摘には私の知らなかった事が多分に含まれており、改めて霞さんの教養にありふれたその姿を見直す。ちょっと崩して着ている制服も霞さんが来てしまえばそれはもう粗末さが消えてしまっている。夜明け前の空が、最初の光を受けて青みを帯びるように、彼女の存在が布に新たな価値を与え、ただの布切れは、まるで王侯貴族の衣のように見える。あるいは、薔薇がどの花瓶に生けられようとも、その気高さを失わぬように、霞さんが身にまとうものは、彼女自身の輝きによって染め上げられる。

 考えに耽る私を他所に着実に教室の前へと足を向けている霞さんを見つける。私はその姿を追いかけようと足を動かすが、まるで夢の中を生きている様に私の歩みは全く進んでいないかのように感じられた。

 夢という物はなんだろうか。眠っている間に見る幻想や物語だろうか。しかしそんな事を議論するのはいつだってうつつだ。例えを出すならばプラスチック問題について議論をする際にペットボトルをそれぞれの机に置いてあるようなもの。そんな歪さが私を笑いに誘う。

 夢はいつか覚めるものだ。それがどれほど美しく、どれほど永遠に続くように思えても、目覚めの時は必ず訪れる。どんなに心地よくても、あるいはどんなに恐ろしくても、それは現実の外にある幻に過ぎない。だからこそ、夢は儚く、そして美しい。手を伸ばせば消えてしまう朝靄のように、触れた途端に壊れる硝子細工のように、その不確かさが夢を夢たらしめるのだ。

 そんな事を私に示すかのように霞さんの手が私の手を引く。同時に夢の中にいたような私の足が動き出す。

「遅刻しそうだから急ごう、って言ったのセンパイっスよ?何ボーッとしてるんスか。ほら」

 少しズレたり、音が重なったりする。

 足取りは軽く、まるでブレーメンの音楽隊のように調和を奏でるかのようだ。底なし沼に絡みついてたような足を引きずることなく、どこからともなく力が湧いてくる。ロバが歌い、犬が共鳴し、猫が巧みに響かせるように、私の足音もリズムを刻み、自然と心の奥底から音楽が生まれる。ひとつひとつの足の動きが、異なるリズムで織りなされるハーモニーのように、無駄なく前へ進んでいく。どんな困難にも立ち向かえる力を秘めた仲間たちが、無意識のうちに背中を押してくれるような感覚。それはただの歩みではなく、心がひとつになり、軽やかな音楽となって風に乗り、未来へと羽ばたいていくような、そんな自由な進み方だ。

 

 

 

「であるからして、二つの素数の積、いわゆる半素数は最大でも三つしか連続しない事が成り立ちます」

 教室に静かに入っていった私たちは見咎められることなく、遅延証明書を渡し、それぞれの席に着いた。私は自分の座席の位置については何も知らなかったが、霞さんが先に座ったことにより私の座席がどこにあるのかが分かった。

 不幸にも私の苦手な数学の時間であって、更には問題演習だった事に肩を落とす。ここに至るまでの会話を一切聞いていなかった為何もかもが分からない。しかし例え聞いていたとしてもそれが分かる理由に繋がるとは限らないという悲しい現実。

 淡々と小太りの教師が板書をしていく中で一つの手が上がった。運良く一番後ろの席であった為、こうして俯瞰して見れるのが利点だ。しかしいつもの映像授業のような視点の為、初めての光景のはずがもう飽きてしまっている。いい事だけでも無いことが分かった。

 黙々と板書を続け、教師が振り返らない事に苛立ったのかその男子生徒は思い切り手のひらを机に叩きつける。バン!、と音が私たち生徒、そして先生の耳につんざいた。周りの生徒達も驚いた様子で件の生徒の方へと視線を向け、見つめている。

 ようやく教師は振り返る。その表情には遠くからでも見てわかるほど汗が滲んでいた。

「せんせー。今の話ちょっと難しいんだけど」

「え、そうでしょうか?しかしこうする方が身の為になるとおもいます」

 淡々と自分を信じて止まないような言葉にイラついたのか、その生徒は声を荒らげて教師に楯突く

「はぁ?俺らのため?どう考えたって今の俺たちが納得出来てない時点で俺らのためになってねぇだろうが。せんせ、そういうのなんて言うか知ってる?」

 教師も反抗的にその口を閉じている。本当は知っているのに敢えて口を閉じているのか、それとも本当に知らなくて口を閉じているのか私には分からなかった。

「そういうのをエゴって言うんだよ。そんな汚い物しまえよ」

 その生徒がそう言うと、教師はまるで沸騰した鍋のように怒りという名の蒸気をあげていた。

「そんな事言うんだったら橘君が授業したらどうですか!」

 教師が怒りをぶつかるとその言葉を待っていたかのように橘と呼ばれた生徒は口を開く。腕を頭の腕に回し、おちゃらけた態度だった。

「いやぁ、俺教免持ってないから授業出来ないんだよなー。ねぇせんせー。別に難しい事を要求してる訳じゃないんだー。ただnとか文字に置いて説明されるのが頭に入りにくいの。俺らは直感的に分かれば後はどうとでもなるからさ」

 彼は自分の机へと戻って行った。抗議している最中に私が教室に入っていいなくて良かった、と心の底から思った。どちらの空席が自分の物か分からず間違えてキレていた生徒の席に座っていたら、と考えるだけで鳥肌が止まらない。

「言い換えると、4つ以上成り立つ事を示そうとして、それが成り立たないという矛盾を生じさせる。つまりは背理法を使おうって話だろ?というかそもそもnとかの文字で置かなくたって四つの場合はどれか一つが4の倍数になる訳だからその時点で2と2の積が出てくる訳だから半素数になり得る訳ないじゃん。だから四つの場合成り立たないし5以上でも一般性失わないからマックス三連続って言えばいいじゃん」

 その彼の説明を聞いて教師は思う所があったのか頭の中で考えを巡らし、次第に口を開く。

「確かに言いたい事は分かります。しかし」

「少し論理が飛躍しすぎている、とか言うんだろ?勘違いしないで欲しいんだけど全てを事細かに説明すればするほどその教師は優秀である、とはならないからな。むしろそんな教師は最悪の教師だと俺は思うよ。だってその教師は生徒達の思考する機会を奪っているわけじゃん。ただただ受動的に授業を受けて、50分という少なくない時間で考えずに教師の言うことをなぞる。それで何が得られるんだ?確かに先生の生徒を大事にしようとしている事はこっちにだって痛いくらいに伝わってくる。けどその行為は一方方向すぎるんだよ。もうちょっと手を抜いてくれよ」

 教師が俯かせていた顔を上げる。長い間自らを締め付けていた悩みについて言及されている、そんな事を想起させた。頑張って授業を準備していた光景が頭に浮かぶ。

「手を抜く事は生徒を突き放すことじゃないんだよ。手を抜く事で生徒の自主性を育むことが出来るんだよ。まぁ、そうもいかないクラスだってあるけれど、先生は運が良いよ。だって俺たちは突き放されそうになっても必死にしがみついていくだけの器があるからね。だからちょっとは俺たちを信じてくれないかな?」

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。間髪入れずに日直係が号令をかける。

 私は周りを見渡す。机から次の授業の教科書を取る人、携帯を取り出してゲームやsnsをし始める人。または他の科目を勉強し始める人。

 彼は席を立たずに声をかける。

「せんせー、明日の放課後時間ある?」

 ドアの方へと足を向けていたその教師は言葉を何を言わずにただ振り向いてその首を縦に揺らすだけだった。

「じゃあ六限終わった後職員室にいてよ。さっき言った自主性の成果って奴を持ってくからさ。そん時は厳密性とかどんどん言及して欲しいな」

 そう言われた教師は恥ずかしいのか頬をかいて、教室を出ていった。

 

 

 

 

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