「ごちそうさまでした」
四限まで授業を受け終え、昼の時間になった。昼食を食べ終えた私は一人で本でも読もうかと図書室に行くべく、席を立つ。教室の扉に手をかけると、後ろから私の制服がつままれる。
「どこ行くんスか?」
どこかつまらなそう顔をしてこちらを見ている。炭酸の抜けたサイダーのようにどこか物足りない、そんな顔をしていた。
「図書室だよ。ちょっと早くご飯も食べ終えた事だし、何かして時間を潰したいから」
「ふーん、そんなんスね。センパイってなんか読書とは縁が無さそうな顔してるっスけど図書室とか行くんスね」
「誰が本のページをめくる回数より日替わりカレンダーをめくる回数の方が多い人や」
「お、その表現いいっスね!本を読まない、かつ怠惰であることを同時に表現できてる。私の好みっス!」
うんうん、と目を瞑り顔を縦に動かしている。
教室の前にある時計を見るとご飯を食べ終えてからもう既に二分程経っていることに気づき、私を掴んでいる霞さんの手を振り払う。
「じゃ、また五限目で!」
こちらに手を伸ばしている霞さんに少し申し訳なさを感じつつも、私は図書室に行くために足を走らせる。
慣れない道を頑張って図書室へと辿り着いた私はその雰囲気に息を呑む。図書室とは一般的に静かで気品のあるものだ、と思っていたが、こうして目にするとやはり驚きを隠せなかった。
昼食を終えたばかりの身体は微かに重く、けれども心は不思議と静まっていた。木々に囲まれた校舎の奥にあるこの小さな空間は、やはり心地よい静けさに包まれていた。
本棚の陰に、一人の生徒が座っているのが目に入る。見覚えのない顔。窓際の席でノートを開き、何かを書いているようだ。少し近づいて見ると彼の筆圧は一定で、感情の起伏を感じさせない。表情も無機質で、周囲の気配を気にする様子はない。
彼は近づいた私の気配に気づいたのか、一瞬こちらを見た。鋭いが冷淡な目。その一瞥に少し戸惑いながらも、私は軽く会釈する。しかし、彼は何も言わず、すぐに視線をノートへ戻した。
特に気にすることでもないかと、私は本棚の奥へ向かう。
この図書室の本棚は、古く、ところどころ傷ついていた。何度も手に取られたであろう背表紙の擦り切れた本が並ぶ。色褪せた背表紙に刻まれたタイトルの文字は、時代を超えて存在し続ける物語の証のようだった。指先でその背をなぞる。数年、または数十年の埃が手につく。少しざらついた感触がどこか心地よい。
ある棚の一角には、きれいに並んだ全集があった。並び方が妙に整然としている。誰かが几帳面に揃えたのだろうか。けれど、整えられすぎた本棚は、どこか人工的で、逆に手つかずのような印象を受けた。
ふと、一冊の本を手に取る。長く読まれていないのか、年月を経た紙とインクの香りが漂っている。ほんのり湿った紙の匂いが、過去の物語や誰かの手のひらを感じさせ、木の棚に積まれた本たちが、静かに語りかけてくるようだ。
その瞬間、世界が傾いだ。
本の重量が、想像以上に重く感じられる。視界が波打ち、本棚が歪んで見えた。思考が追いつく前に、膝が崩れる。まるで世界そのものが液状化し、私を呑み込もうとしているようだった。
頭が回らない。どこか遠くで椅子の軋む音がした。だが、それを確かめる余裕もなく、私はそのまま倒れ込む。
しかし、落下の衝撃は訪れなかった。
ふわりとした温もりが背中を包み込む。支えられている。息が乱れ、血の気が引いていく中で、誰かの腕がしっかりと私を抱えていることに気づいた。
「……立てるか?」
低く抑えられた声。驚いて顔を上げると、先ほど窓際にいた彼がいた。
間近で見ると、彼の目には驚きも焦りもなく、ただ状況を淡々と見つめる冷静さだけが宿っていた。まるで感情の起伏をどこかに置き忘れたかのように、表情は微動だにしない。
「顔色が悪い。貧血か?」
無機質な声。彼はゆっくりと私を床に座らせる。
まだ頭がぐらつく。彼は迷うことなく私の前髪をかき上げ、額に手を当てた。ひんやりとした感触が、火照った頭に心地よい。
「熱はない。めまいだけなら、しばらく動かないほうがいい」
淡々とした分析。まるで自分の体調ではなく、誰かの体調を確認するだけの医者のようだった。
「……大丈夫。少し、休めば……」
「そうか」
彼は特に興味もなさそうに言うと、立ち上がる。
「水、いるか?」
必要最低限の問いかけ。私は少し迷ったが、まだ体が不安定だった。無理に立とうとすれば、また倒れてしまうかもしれない。
「……申し訳ないけど、もう少しこのまま……」
自分で言って、少し恥ずかしくなる。だが、彼の支えがなくなれば、また倒れてしまいそうだった。彼は一瞬だけ目を細めたが、特に何も言わずに座り直した。そして、そっと私の背を支え直し、ただ短く言う。
「わかった」
それ以上の言葉はなかった。ただ、確かな支えだけがそこにある。
窓の外では風が揺れ、陽射しが木漏れ日となって本棚に落ちていた。めまいはまだ完全に収まらないが、彼の腕の温もりだけが、揺らぐ世界の中で確かなものとして残っていた。
昼休みの喧騒が遠くに聞こえる。ここは校舎の奥、窓の向こうには風に揺れる木々。静かな場所だった。けれど、今の私にはその静けさが、どうしようもなく落ち着かなかった。
話すことがない。
もともと彼とは初対面だった。さっき、めまいで倒れかけた私を助けてくれて、そのまま「しばらく休め」と言われ、この席に座らされた。ただそれだけの関係だ。
彼は特に何も言わず、ただノートを開き、ペンを指で回している。その仕草は機械的で、何かに没頭しているわけでもなさそうだった。
私はちらりと彼の横顔をうかがう。相変わらず、感情の起伏がない。
「あ、あのさ。名前なんて言うの?それと、助けてくれてありがとう」
思わず声が裏返ってしまい、顔を赤くしてしまう。だがそんな私を彼は笑うことなく話す。
「氷室、悠。氷に部屋とかの室。それに悠々自適の悠」
そう言って彼は再び口を閉じる。
沈黙が訪れる。
何か話したほうがいいのだろうか。いや、でも何を? 「さっきはありがとう」と礼を言うべき? けれど、それももう伝えた。それ以上、何を話せばいいのか見当もつかない。
時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
図書室の奥で、誰かがページをめくる音がした。外では鳥が鳴いている。そんな些細な音ばかりが、やたらと気になった。
会話がないということが、こんなにも居心地の悪いものだとは思わなかった。
もしかして、氷室さんもこの沈黙を気まずく感じているのだろうか。そう思い、もう一度彼の方を見た。
――まったく、何も感じていなさそうだった。
氷室さんはノートを広げたまま、ただ淡々とページを眺めている。時計の音も、図書室の静けさも、気にしている様子はない。ただそこにいるだけ。まるで、周囲のすべてが彼にとっては背景でしかないように。
私はますます落ち着かなくなる。
こんなに近くに座っているのに、まるで別の世界にいるみたいだった。
その時、不意に氷室さんが口を開いた。
「小説にしたい」
私は驚いて氷室さんを見る。彼はペンをくるりと回しながら、まるで独り言のように言った。
「……え?」
「さっきから君を観察していた。会話がなくて困っている人間の表情というのは、なかなか面白い」
淡々とした口調だった。冗談で言っているわけではない。彼の視線は私を見ていたが、そこに感情はない。ただ何かを分析するような、静かな目だった。
「いや、そんなに面白いものじゃないと思うけど……」
「そうか? 少なくとも、俺には書く価値があるように思える」
氷室さんはノートをめくる。そして、その白紙のページにペン先を置いた。
「……君は、何かを話さなければならないと思っている。でも、何を話せばいいのか分からない。だから、視線を何度も俺の方に向ける。自分が気まずさを感じていることを、相手も感じているかどうかを確認したいんだろう」
その指摘に、私はぎくりとする。まさに今の私の心理そのものだった。
「話さなければならない」と思っていた。でも、それは私だけの感覚で、氷室さんは何とも思っていなかった。
「……分析が細かいね」
「こういうのを観察するのが、わりと好きだから」
氷室さんはさらりと言う。そして、ペンをノートに走らせる。小さな文字が綴られていく。
私はふと気になって、彼のノートを覗き込んだ。
「何を書いてるの?」
「小説」
当たり前のように答える氷室さん。
「小説を書くの?」
「うん」
彼は淡々とペンを走らせる。まるで、先ほどまで沈黙していたのが嘘のように、スラスラと文字を並べていく。その横顔は、ほんの少しだけ、さっきまでよりも生気があるように見えた。
「どうして、小説を書こうと思ったの?」
「……」
何気ない私の質問に氷室さんの手が止まる。
一瞬の間。
彼はペンをくるくると回しながら、無表情のまま口を開いた。
「親が、小説家だから」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
氷室さんが続ける。
「でも、これは親には内緒」
「内緒?」
「そう。俺が小説を書いてることは、親には言っていない」
氷室さんの声は相変わらず抑揚がなかった。でも、言葉の端に、ほんのわずかな棘のようなものを感じた。
「どうして?」
氷室さんは答えなかった。代わりに、ノートのページをぱらりとめくる。そして、そのページにはすでにいくつもの文字が並んでいた。
「……『沈黙の気まずさを感じる主人公と、それを観察する無表情な人物』」
彼は私の顔をちらりと見て、静かに言った。
「……こういう話を書いてみるのも、悪くないかもしれないな」
図書室の静寂の中、氷室さんのペンがまた走り出す。その音だけが、沈黙の代わりに、この空間を埋めていった。
氷室さんはしばらくの間、ノートにペンを走らせていた。文字が並ぶたびに、まるでその言葉が彼の心の一部になっていくように思えた。私はただ静かにその様子を見守るしかできない。沈黙が続く。
しばらくして、氷室さんは突然ペンを置き、ゆっくりと視線を私に向けた。
「……親が、小説家だから」
さっきと同じ言葉が繰り返される。
「でも、内緒だよ。親には、俺が書いていることは知られていない」
彼は少しの間、黙ったままだった。その間に私は何も言えず、ただじっと彼を見つめていた。彼の口から言葉が出るまで、静寂が支配した。
やがて、氷室さんは静かに息をつくと、視線を少し外した。
「……誇りに思うよ。親はすごい小説家だから。だけど、俺は何もできない。何者にもなれない。自分が、どれだけ無力かを毎日感じてる」
その言葉に、私は胸が締め付けられるような気がした。氷室さんは普段、感情をほとんど表に出さない。そのためか、こんなふうに少しでも心の中を見せられると、その裏に隠された深い悩みが伝わってくるようだった。
「俺の親は、何十冊も本を出してる。読者がいて、評価されて、尊敬されている。でも、俺はただの……何者にもなれないただの人間だ。有名小説家の息子、なんて言葉は嘘でただのどこにでもいる何気ない日常を望んでいる人間だ」
その言葉の裏に隠された痛みが、私には痛いほど伝わった。彼が言う「何者にもなれない」という言葉には、他の誰かには理解できないような重みがあった。それはただの劣等感ではなく、自己肯定感が欠如し、自分を過度に低く評価するような苦しみだった。
「……親の小説家としての成功が、君を苦しめているんだろうね」
思わず口から出た言葉に、氷室さんは少しだけ目を細めた。
「……そうだな。だって、親がすごいからこそ、俺が何もできないことが際立って見える。俺だって小説を描きたいけど、それが本当にできるのかも分からない。親にとっては、俺がどれだけ書こうと、それはただの落書きに過ぎない」
氷室さんは言葉を続けようとしたが、すぐにまた言葉を呑み込む。彼の口からは、これ以上言葉は出てこないような気配だった。
私はその沈黙を少しの間感じてから、そっと声をかけた。
「でも、氷室さんが書いている小説には、きっとあなた自身の何かが込められているんじゃない?」
その言葉が、氷室さんの胸にどう響いたのかはわからない。ただ、少しだけ彼の視線が揺らいだように見えた。
「……俺は、まだ何者にもなれていない。ただの影みたいな存在だ」
その言葉は、まるで自分を縛りつける鎖のように、氷室さんを拘束しているようだった。しかし、私はその言葉に反論することはできなかった。ただ、彼の目を見つめながら、心の中で答えを探していた。
「でも、誰だって最初は何者でもないところから始まるんじゃないかな」
「……」
氷室さんは黙っていた。その目を覗き込むと、やはり冷静なまま、でもどこか深いところで何かが揺れているような気がした。
「俺の親は、すごいんだ。自分が成功することが当たり前だと思ってる。だからこそ、俺が何をやっても、きっと認めてくれないと思う」
彼の口調は、少しだけ厳しさを帯びていた。
「……でも、少しだけ認めてほしいって思うんだ。けど、それが叶うことはないと思うと、余計に書く気力がなくなる」
その言葉が心に刺さった。親が成功したことで、その期待と自分の無力感に挟まれて苦しんでいる彼の姿が見えてくるようだった。
「氷室さん、親に認めてもらうことだけが、すべてじゃないよ」
その一言を、私はどうしても言いたかった。
「親の期待に応えようとするあまり、自分の可能性を押し込めてしまうのは、もったいない」
氷室さんは黙ったまま、再びノートに目を落とした。
その横顔には、まだ何か言いたげな様子があったが、結局、言葉を発することはなかった。ただ、ペンを動かしながら、彼の心の中で何かが少しずつ変わり始めているのを、私はわずかながら感じ取っていた。
親の影から抜け出せない苦しみ。けれど、その中で彼は自分の道を見つけようとする。言葉にはしないけれど、彼の中で何かが確かに動き出していた。
「……ちょっとだけ考えてみる」
氷室さんは静かに言って、再びペンを走らせた。少しだけ、彼の手が速くなったように見えた。
窓の外にグラウンドが見える。そこで無邪気にボールを蹴って遊んでいる生徒達が見える。同じ種目をしているだろうに、何故だろうか笑顔の者も居ればつまらなそうな人もいるし、苦しそうな顔をしている人だっている。
氷室さんはペンを止め、また無表情で私を見つめた。彼の目には、何とも言えない沈黙が宿っている。それは、過去の言葉がまだその中で渦巻いているようにも思えた。
私は少し間をおいて、勇気を振り絞って言った。
「私が読者になるよ」
氷室さんは目を瞬き、私を見つめた。
「読者?」
私はうなずく。
「うん。あなたの書いた小説、読ませてもらいたい。約束するよ、必ず読むから」
氷室さんの目が、さらに冷たくなるような気がした。彼は少し首をかしげ、目の前のノートに視線を落とした。
「君が読んでも、何も得られない。僕の書いたものなんて、ただ君の時間を浪費させるだけだよ」
その言葉に、私は少し胸が締めつけられた。しかし、すぐにそれを払拭するように、私は言葉を続けた。
「時間を浪費させる、それこそが小説の本来あるべき姿だよ」
氷室さんは一瞬、その言葉に反応したようだった。無表情な顔に、わずかな変化が浮かぶ。それは、私が言った言葉の意味を咀嚼しているような、何かが心に響いた瞬間のようだった。
「……本来あるべき姿?」
氷室さんは少しだけ口元をゆるめる。
「だって、すべての小説は考え方を変えると、読者の時間を奪うために存在しているんだもの。それがどんなに小さな、無駄なように見える物語でも、きっと意味がある。私にとって、時間を浪費させることこそが、物語の本当の力だと思う」
氷室さんはその言葉をじっと聞き、何も言わずに目を伏せた。
そして、少しの沈黙が流れた後、彼は静かに言った。
「……分かった。君が読むなら、読ませてあげる。約束しよう」
その時、彼の目が私と合った。その瞳の奥に、わずかに光るものを感じ取った。
「だけど、後悔しないようにね」
私も微笑みながらうなずいた。
「後悔するほど、つまらないものなんかじゃないよ」
その言葉に、氷室さんはまたしばらく黙っていたが、突然、顔を少しだけ歪ませて笑った。その笑顔は、まるで光が射した瞬間のように、彼の顔に浮かんだ。
その笑顔は、冬の朝の薄い陽光が雪に反射して輝くような、静かな優しさを持っていた。そして、その瞬間、彼の顔に浮かんだ笑みは、どこか優れた小説の一節のように、心に深く刻まれるものだった。
その笑顔は、まるで長い間閉ざされていた扉が静かに開かれ、少しずつ光が差し込むような、穏やかな輝きを放っていた。
昼休みでの一見の後、私は引っ付いてくる霞さんを離して自分の席についてこの後行われる授業について考えていた。
しかしいつまでも私の頭には氷室さんとの会話が脳裏にこびりついて離れない。それはまるで、雨の日に窓ガラスに貼りついた一匹の小さな虫のようだった。拭っても、払いのけても、なぜかそこに戻ってきて、じっとこちらを見つめている。思い出そうとしなくても、ふとした瞬間にふいに現れては、胸の奥をじくじくと疼かせる。記憶の奥底に沈めたはずのそれが、まるで意志を持っているかのように、隙間から這い出してくるのだ。
周りがいつの間にか静かになった、と私は気づいた。辺りを見回すと既に授業が始まっていたようだった。
ふと氷室さんの席を見る。午前中にいなかった彼だが、不思議と私の目に凄く馴染んだ。最初からそこに居たかのように私には酷くその光景が当たり前の物のように思える。
頬杖をついていた右手を膝の上に乗せようと私は腕を動かそうとする。しかしその挙動のせいで机の上の消しゴムを落としてしまった。落とした消しゴムを拾おうと床に手を伸ばしたが、私の手よりも先に視界の端から伸びてきた手がその消しゴムを拾った。
「はい、どうぞ」
見たことない顔だった。今日が初めてだが、それでも隣にずっといたのにその顔に既視感を覚えないのも不思議だと感じた。
「あ。ありがとうございます」
彼のそのしなやかな手が私の手に触れ、消しゴムを渡す。
目的を終えると彼はすぐさま黒板の方へと視線を戻した。
彼のその横顔は、彫刻家の手によって丁寧に削り出された大理石のようだった。滑らかな額から通った鼻筋へと続くラインは、曖昧さを許さないほどに整っていて、どこか現実味に欠けるほどだった。唇は形よく閉じられ、わずかに下を向いた瞳には、静かな思索の色が宿っている。その目元に差す光と影のコントラストが、まるで絵画の中にいるような錯覚を呼び起こす。
見る者に言葉を失わせるのは、その整い方だけではない。凛とした空気を纏うその顔は、近づくことをためらわせる静謐さを湛えていて、美しさ以上に「品」というものを感じさせた。
その横顔がこちらに向いた時、どうしてだろうか。私と同じような雰囲気を感じた。
私には決して彼のような高尚な品性など持ち合わせていない。だから彼には私に似ている部分があるはずだ、と思い考えるが、何も思い浮かばない。
授業は、黒板の文字を追うことよりも、自分の内側に広がるざわつきと格闘する時間になっていた。頭では教科書を読んでいるつもりでも、心はずっと彼の横顔に張りついたままだ。なぜだか目を逸らすことができなかった。
――気づけば放課後になっていた。
チャイムが鳴ると、私の前の席の生徒たちはすぐに立ち上がり、喧騒の波が教室に満ちていく。私は鞄を手に立ち上がろうとしたが、ふと足元を見て、がっくりと肩を落とした。
「あれ、どうしたんスか?」
隣に立っていた霞さんが、私の足元を見て言った。
「いや、愛着なんてものはまだ履いてなかったからないけど、物を盗まれる、って言うのはちょっと悲しくて」
「よし、それじゃあ行くっスよ!」
「え?」
「上履き探しの冒険っスよ。放課後はそういうのが似合うっス!」
言いながら、私がツッコミを入れるよりも早く霞さんは先に廊下に飛び出した。私は小さく息をつきながらも、その背中を追いかける。
まず向かったのは体育館だった。運動部の部活が始まるまでの短い時間で探す。誰もいないその空間に、私たちの足音だけが響く。霞さんはステージの下や器具庫の裏まで覗いていたが、何も見つからなかった。
次は校舎裏のゴミ置き場。強い風が吹いて、霞さんの髪が靡く。
「くっ、ここにもないっスか……!」
「そもそもこんなところに捨てるかな……」
次に向かったのは旧倉庫。鍵はかかっていたが、隙間から中を覗いてみた。
「ここも、ダメっぽいね」
「うーん……それじゃあ最後の希望っス。あまり使われてないトイレ、行ってみるっスよ!」
ピンと来ない私は言われるがままに昇降口へと向かう。そこには、古びた男子トイレと女子トイレ、そしてその間にひっそりとある多目的トイレが並んでいた。
丁度掃除を終えた用務員さんが出てったのを確認してから、私たちはトイレの方へと近づいていった。
「私、男子トイレ見てくるから。霞さんは女子のほう、お願い」
「ラジャーっス!」
そう言って、それぞれのドアを開ける。
男子トイレには誰もいなかった。隅々まで見たけれど、やはり見つからない。私は少し肩を落として、静かにトイレを出た。
するとほぼ同時、私よりほんの少し遅く霞さんが女子トイレから顔を出す。
「そっちもダメっスか……?」
「うん、なかった」
そのとき、私たちは同時に視線を向けた。二人の間にある多目的トイレ。無言のまま、私はドアを開けた。
そして、小さな声が漏れた。
「……あった」
ゴミ箱の中。少しくしゃくしゃになったビニール袋の上に、私の苗字が書いてある上履きが少し汚れてぽつんと置かれていた。決して自然に落ちたとは思えない、誰かが置いたとしか言いようのない位置だった。
「うわ……本当にこんなとこにあったんスね」
霞さんは驚いたように言い、私の肩越しに覗き込んできた。
「捨てられたって思ってたから……見つかって、良かった……」
私は胸をなで下ろしながら、上履きをそっと手に取った。
「よかったっスね、センパイ」
「うん。ありがとう、霞さん」
昇降口に戻って、私は念のためにもう一度自分の靴箱を開けてみた。そして、言葉を失う。
そこには、さっき見つけたのと同じ、苗字が書いてある上履きが、きちんと揃えて入っていたのだ。
「……え?」
「ん? どうしたっス?」
霞さんが背後から尋ねてくる。
「なんで...?」
私の二足目の上履きを見た霞さんは信じられないものでも見たかのようにその顔を驚愕の二文字に染め上げていた。恐らくその顔は私よりも驚いていたように思える。
その上履きを見ていた。
ゴミ箱の中にあった、そして今ここにもある。
二足。
私の、上履きが。
(じゃあ……私が拾ったやつは、誰の……?)
何かが、ふわっと背筋を撫でていく。汗とも鳥肌ともつかない感覚。
霞さんは、一瞬だけ目を細めた気がしたけれど、すぐにいつもの調子で言った。
「いや〜……ミステリーっスね、センパイ」
私はその言葉に、曖昧に笑うしかなかった。
「まぁ、見つからかったってよりはマシか...」
私は、どこか胸の奥に小さな針のような違和感を抱えたまま、見つけたはずの上履きを手にしたまま、学校の外へ出た。
「センパイ、夜道に気をつけた方がいいっスよ」
霞さんの沈んだ声が私の背中にかかる。
「も、もしかして謎の二足の上履きの犯人は霞さん!?」
「普通に心配してるだけっスよ!!」
心配している人の顔とは思えない怒りで説得力があまりない。
私は素直に感謝の言葉を告げ、帰路へとついた。
夕暮れの空が、やけに赤かった。燃え尽きる寸前の陽が、まるで世界の終わりを予告するように、静かに色を塗り替えていた。
門を開ける音が、ひどく大きく響く。石畳の上を歩くたび、靴音がコツコツと孤独に反響した。
玄関のドアノブに手をかけた瞬間。
――カタン。
ドアが開ききる前に、家の中で何かが動いた音がした。すぐに、近づいてくる足音。まるで待っていたかのような速さだった。
「おかえり、空ちゃん」
開けたドアの先には、笑顔を浮かべた姉が歩いていた。リビングの光が逆光となりその姉の顔は笑顔なのに不気味さを感じる。その表情で玄関まで来ている。私は思わず一歩後ずさる。
ただのあいさつなのに、ぞっとした。待ち構えていたようなその姿と、声色の温度差に、寒気がした。
「……ただいま」
そう返すと、姉は私の顔をじっと見つめ、口元だけで笑う。
「ねえ、今日は疲れたでしょ?シャワーでも浴びてさっぱりしてきたら?」
私の動揺を見透かしているような、優しすぎる声。まるでこちらの感情を先回りするようなその言い方が、気味が悪かった。
「うん……そうする」
靴を脱ぎ、そっと家に上がる。姉はずっと私の背中を見ていた。リビングへ向かう足音が聞こえたかと思うと、すぐに椅子の軋む音がした。その間、ほんの数秒。異常なまでに早い。私の行動を読んでいたとしか思えない。
音を立てずに階段を上がっていく。
そのとき、背後から姉の声が聞こえた。
「空」
――耳を疑った。
一瞬、自分の名前ではないような、別の誰かを呼ばれたような錯覚に襲われた。
振り返ることはできなかった。足を止めず、そのまま部屋へと向かう。
ドアを閉め、鍵をかける。
――カチリ。
その音がやけに大きく、乾いた部屋の空気に吸い込まれていった。
私は風呂へと向かった。姉の「風呂に入りなよ」という言葉が耳にこびりついていたのもある。何より、今のこの気持ち悪さをどうにかしたかった。
シャワーの温度を高めに設定する。熱い水が首筋に当たり、朝掴まれた跡が浮き上がる。手のひらでそこを覆いながら、無意識に何度も撫でた。
「洗い流せたらいいのに」と思った。けれど、どれだけ流しても消える気配はなかった。記憶も、感触も。
風呂から上がり、濡れた髪をタオルで巻きながら部屋へ戻る。
リビングのドアがわずかに開いていたが、視線は送らなかった。ただ、何かがこちらを見ている気配だけが、皮膚にぴたりと貼りついていた。
自室の床の隅に、二足の上履きが置かれている。
本来は学校に置いておくもの。なのに不安で、理屈ではなく、気づいたら鞄に入れて持ち帰ってきてしまっていた。
トイレの中で見つけた片方と、靴箱に戻っていたもう片方。ありえないはずのふたつの上履きが、今この部屋の隅にある。
私はそれらを近づけることができなかった。微妙な距離を空けたまま、ただ放置している。
その距離が、私と現実のズレをそのまま形にしたようで、不気味だった。
そして頭の中に、さっきの姉の声がまたこだまする。
「空」
たった一度、たった一言。けれど、その一言の重さが、今もなお喉の奥に残っていた。
重たいまぶたを押し上げるようにして、私は目を覚ました。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。枕元の時計は、いつもより十五分ほど早い時刻を示していた。
起き上がると、昨日脱いだ制服がベッドの端に畳まれて置かれていた。几帳面とは程遠い自分の性格を思い出しながら、私はそれに触れずに部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。鏡の中の自分は、少しやつれたように見えた。
昨日、霞さんと話したこと。そして姉との、妙なやりとり。
私は制服に着替えながら、ふと思い出した。
――昨日、上履きを持ち帰っていた。
普通、学校に置いておくはずのそれを、なぜか無意識にカバンに入れていたのだ。誰かに捨てられるような、そんな気がして。
不安からなのか、警戒心からなのか。いずれにしても、正気の判断ではなかった。
階段を下りると、キッチンに姉の姿があった。エプロン姿で、食パンをトースターに入れている。
「おはよう、空ちゃん」
姉は笑顔でそう言った。
その声音はいつも通りのようで、どこか演技じみていた。
「うん」
私は短く返事をして、テーブルについた。
トーストとゆで卵、インスタントのコーンスープ。いつもと変わらない朝食。
ただ、姉の視線が時折、私の制服の袖や髪に向いていることが気にかかった。
「昨日は疲れたでしょ。お風呂、ちゃんと入った?」
「……うん。シャワーだけ、だけど」
「そっか。それならいいけど……ふふ」
トーストの焦げ目を見つめながら、私はそっとため息をついた。会話はそれきり続かず、食事を終えるまで沈黙が流れた。
玄関で靴を履いていると、不意にチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
私は驚いて立ち上がり、ドアを開ける。そこには、制服姿の霞さんが立っていた。
「おはよッス、センパイ」
少し照れたように笑うその顔を見て、私はほんの少しだけ緊張を解いた。
「どうして……?」
「センパイと途中まで一緒に行こうかなって思って。昨日、ちょっと変だったスから。顔、見たくて」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「へぇ、空ちゃん、女の子と待ち合わせなんて、めずらしいのね」
声が背後から降ってきた。
私は振り返る。姉が、スリッパのまま玄関まで出てきていた。
「霞……さんだっけ? 初めまして。空の姉です」
姉は柔らかく微笑みながら、霞さんに視線を投げる。その目だけが笑っていなかった。
しかし、私が姉の前で霞さんの名前を出したことがあっただろうか。
「こんにちはっス!センパイの友達の霞っス!センパイとは良く図書室で一緒に本を読んだり勉強したりする仲なんスよ!」
私たちはそんな関係では無い。何故そんなことを言うのだろう、と思ったが恐らく会話を適当にして終わらせたいのだろう、とあたりがついた。
「ふふ、昨日が初対面なはずなのにどうしてそんなに親しげなのかしら?」
驚く私を無視して言葉を続ける。
「昨日、空の服から不思議な匂いがしたの。今まで嗅いだことのない、甘い香り。まさかと思ったけど……あなたの匂いだったのね」
霞さんが少しだけ目を見開く。
姉は続けて、くすりと笑った。
「ふふ、安心したのよ。空に変なことがあったんじゃないかって心配だったから。でもこれで分かったわ。……空の周りに、異物がいるって」
「異物……?」
霞さんが眉をひそめる。姉はまるでそれを楽しむかのように言葉を重ねた。
「あなた、空に何か吹き込んでるんじゃないかしら。図書室で話してたって言ってたけど……この子、あんな場所滅多に行かないのよ。静かな所にいると耳鳴りが酷くなっちゃうからね。あなた、嘘つくの下手ね」
霞さんが口を開きかけたとき、私は彼女の腕を取ってドアの外に引き出した。
「……もう、行こっか」
霞さんは無言で頷いた。
ドアを閉めようとしたその瞬間――姉の声が届いた。
「ねえ、空」
耳を疑った。
その呼び方は、耳が慣れていない。
私はドアを閉め、霞さんと一緒に歩き出した。
後ろで姉の気配がまだ、そこにあった。
霞さんと並んで歩く通学路。
肩と肩がかすかに触れる距離を保ちながら、私たちはゆっくりと坂を上っていた。
「……センパイ、昨日の夜……お姉さん、なんか言ってたんスか?」
霞さんがぽつりと呟いた。
私は答えを迷った。けれど、曖昧な返事は逆に霞さんを心配させそうで――
「少し、ね。あんまり気にしないで。姉ちゃんは……ちょっと変だから」
「...っス」
霞さんは苦笑いのような、微妙な表情を浮かべた。
それから、無理に話題を切り替えるように言った。
「今日の朝ごはん、トーストだったんスよ。焦げちゃってて、でもそれが逆に美味しかったっていうか……なんか、ちょっと幸せだったッス」
「……そうなんだ」
声に、どこか硬さが残った。
霞さんの話し方も、どこかいつもと違う。無理に明るくしようとしているのが、わかる。
言葉の端々が空回りしていて、だけど私の顔色をうかがうように続けるその様子が、逆に切なかった。
学校の校門が見えるころ、ぽつり、と頬に冷たいものが触れた。
空を見上げると、灰色の雲が広がっていた。
「……降ってきたね」
「やっぱり傘、持ってくればよかったッス……」
私たちは足を早めて、昇降口へと駆け込んだ。
授業は淡々と過ぎていった。
黒板の文字をノートに写しながら、私はふと、昨日と同じだと気づく。
――同じような天気、同じような授業、同じような時間の流れ。
だけど、心の中は、まるで違っていた。
霞さんのぎこちない笑顔。姉の言葉、姉の目。
そして、朝からどこか胸につかえていた違和感。
放課後のチャイムが鳴る。荷物をまとめていると、肩を叩かれた。
「おーい、キミ」
聞き慣れない呼び方に、ぎょっとして振り向く。
そこに立っていたのは、昨日数学の授業で目立っていた橘君だった。
目つきは鋭く、髪は無造作に染められている。でも、成績は学年でも上位。
教師にとっても扱いの難しい存在でありながら、どこか一目置かれている人物らしい。
「ちょっと、いい?」
返事をする間もなく、橘君は廊下を歩き出した。
なぜか逆らえず、私は後をついていく。
案内されたのは、使われていない旧校舎の一室――「ミステリー研究部」とプレートのついた、埃っぽい部屋だった。
中に入ると、古びた書棚と、壊れかけた椅子がいくつか置かれていた。
「ここ……」
「誰も来なくなった部室。今は誰も使ってない。なあんか、落ち着くんだよね」
橘君は笑いながらドアを閉め、そのまま鍵をカチリと閉めた。
「……何?」
思わず身構える。
本能的に逃げなければならない、そう思い背中に汗が滲む。しかし後ろに手を伸ばそうと伸ばせない。逃げ道はない。
しかし、間を置かずにカチャリと再び鍵の音がして、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、霞さんだった。
「センパイ、やっぱりここにいた」
その言葉には、焦りと安堵が入り混じっていた。
「霞さん、ちょっと早いよ。もうちょっと遅く登場してくれなきゃ。もう少し緊迫とした雰囲気を味わっていたかったのに」
私に向けられていた優しい視線とは打って変わって親の仇を見るような目で霞さんは橘君の方へと目を向ける。
「そんなのいらないです。あなたが関わると大抵ろくな事が起きないんです。だから巻き込まないでください。私もセンパイも」
霞さんはいつもと違う雰囲気、むしろこっちが本来の姿なのかもしれないが、どこか慣れない感じに私はむず痒くなる。
「そんなに俺に会いたかったのかなぁ?」
「そんな訳あるはずないでしょう。センパイに声をかけた後に私に声をかける時点でおかしいんです。どうせ私がセンパイの所に行くことは分かってたでしょう。それならその時に話した方がまとめて伝えられるし、楽です。けれどあなたはそうしなかった。それは何故か。私とセンパイ、それぞれお互いがあなたに誘われていることに気づかれたくなかったから。その理由が緊迫した雰囲気を味わって欲しいから、なのは引きますけど」
「これはこれは、俺にとっては重要事項なんだからしょうがないだろ?なにせ知らない人の知らない事を知るには何を苦手とするか、何を恐怖と思うかが手っ取り早いからね。もしどん底まで悲しませてしまった時のためのアフターケア役として呼んだんだけど、あまりに早い到着のせいで意味がなくなってしまったね」
橘君のその言葉に私と霞さんは口を開けっ放しにする。
今まで相対したことがないような人間だ。
「それで、なんのためにセンパイを呼んだんスか?」
「おっ、いいね、それ。似合ってるよ、その言葉遣い」
――視線が鋭くなる。
「冗談だよ、冗談。うーん、本当なら霞さんには同席して欲しくなかったんだけどなー。傷ついちゃうかもしれないし」
「そんなのどうでもいいっスから、本題を早くしてください」
「誰が傷つくのかをハッキリと言ってないのに自分の事だと思い込んでる傲慢さ。いや、それとも空々君が傷つくのもどうでもいい事に入っているのかな?」
ニヤニヤとしながらこちらを見つめている橘君。ただ見つめているだけなのにまるで蛇に睨まれているかのような感覚。
霞さんが彼に近づくとその右手を大きく振りかざし彼の頬へとぶつけた。
ぶつけられた頬は桜のように綺麗な桃色だった。
「痛いなぁ…俺あんまり暴力とか好きじゃないんだけど。せっかく言葉なんて言う素晴らしい物があるんだから、平和的解決をしようよ」
「言葉だけで解決できない事だってあるんスよ。例えばそう、この胸のいらつきとか」
そう言って胸部に指を指している。
「んー、まぁいいか。今の報いは後々自然と出てくるだろうし、今のところは何もしないでおこう。それじゃあ本題に入ろうか」
一旦言葉を止め、深呼吸を挟んだ。
「なぜ、上履きが二足あったのか」
思いもしない話題だったのか霞さんの身体が一瞬強ばった。
「なんで、橘さんが知ってるの...?そのこと」
「うーんとね、俺って結構視野が広いから色んな情報を得れるんだよね。後俺のお友達からも情報が少し回って来たからさ、結構知ってるんだよね、その件」
緊迫とした雰囲気を帯びている部屋でただ一つ変わらない物が時計の針の音だ。こんなにも不思議なシチュエーションなのにも関わらず顔色一つ変えず、その自分に課せられた責務を全うしている。
「それで?何が言いたいんスか?こんな場所まで用意させて。ここまでしてくだらない事だったら心底失望するっスよ」
「その顔気にいらないんだよなぁ。早くその本性を暴いてやりたいよ」
霞さんと橘さんの間に火花の幻覚を見た。
「まぁ、いいか。回りくどい話は俺自身嫌いだし、結論から言おう」
表情を変えず橘さんは本題に入ろうとする。彼の中にはきっと彼しかいないのだろう。
霞さんは何も言わずにいるが、どことなく早く話を促しているようにも見える。
「まぁ、落ち着いてよ。何故本来一足しかないはずの上履きが二足あったのか」
一旦そこで言葉を区切り、呑気に深呼吸を始める。
この部屋一体に彼の呼吸の音だけが存在しているかのように思えた。
やがて腕を下に下ろし、瞬きをすると口を開く。
「君が見つけた上履き。それは霞さんのものだ」
驚き、霞さんの方へと顔を向ける。しかし彼女の表情はどこか読めないものだった。それが本当の事なのか、偽りなのか。そもそも気にしていないのか、怒っているのか、焦っているのか。羅列していく度にどれも当てはまらないように思えていく。対して橘さんは自分の推理に対して相当自信を持っているのか、表情は楽しそうなままだ。
「その心は、なんスか?」
下から窺うように、もしくは上から覗くように霞さんは尋ねる。
「自分の上履きをあたかも彼の上履きであるかのように演出した。ただそれだけさ」
その言葉に私は脳を動かす。どこか違和感が拭えない、絶妙に噛み合わないような感覚が神経に伝播していく。
「けどそれっておかしくない?霞さんは今も昨日も普通に上履き履いているし。まさか二足持ってきていたとか?けれど昨日はじめて会ってはじめて上履きが無くなっていた事を知ったんだからそんな計画を立てられはずがない」
私は頭にあった疑問を吐くだけ吐いた。楽になるかと思ったが、どうやらまだ喉のつかえが取れる訳では無いらしい。
「確かにそうだね。上履きが無くなることを知って二足持ってきていたら、それは霞さんが未来を見れる、ということになってしまう。しかしそんな結論は現実的にありえないし、創作的にも面白みに欠ける。じゃあなんで上履きの二足目を持ってきていたか。それは単純な答えだ。空くん、今の季節はなんだい?」
唐突に名前で呼ばれ、答えるまでにタイムラグがあった。
「えっと、夏?けど秋かな?少し肌寒くなってきたし」
「うん、いい表現だね。つまりは夏が終わって、秋が訪れようとしている。それじゃあ夏が終わるということはどういう事を意味するかな?ヒントは学生だ」
夏が終わるとは何か。
私は頭の中で思考する。季節的な意味合いだろうか?先程答えだ気温のように。はたまた終わり、から何かの喪失感だろうか?しかし先程のヒントからして違いそうだ。
唐突に頭の中に思い浮かぶ。なぜこれが一番に思いつかなかったのか不思議なくらいに当たり前のことだった。しかし私にとっては仕方がない、とも言えることだった。
「夏休みが終わって新学期が始まる」
「そう、正解。新学期が始まるに従って様々な道具を持ってこなければいけない。その中には上履きも含まれている。さて上履きは丁寧に洗って持ってくる人と、そもそも洗わず家に持って帰り放置する人、はたまた、心機一転上履きを変える人もいる。さて、霞さんはこの内のどれかな」
数分振りに見た霞さんの横顔はどこか憂いを帯びていた。その感情がどこから来ているのか私には分からなかった。退屈さだろうか?もしくはつまらなさだろうか。
面倒くさそうに頭を手で掻き答える。その荒々しい仕草を私ははじめて見た様な気がする。
「上履きを変える人の内の一人っスよ」
次第にその顔に呆れ顔が浮かび、やがて笑顔になりつつあった。
「そうか。ありがとう」
求めていたはずの答えを得たはずだが、橘くんの顔には少しばかりのつまらなさが浮かんでいる。その証拠に先程まで身体の前で組んでいた両手が既に解かれていた。
沈黙が流れ、次第に笑顔になっていた霞さんも元の表情に戻っていった。対照的に橘くんは楽しそうにして、こちらを見ている。
「霞さんがこう言ってくれたおかげでまぁ、多少なりとも分かったんじゃないかな?少なくとも実現はできるとことに賛成はしてくれるかな?」
「まぁ、うん。確かにその理屈だと確かに上履きが二足あってその内の一足を私の物に見せかけることは出来る。けれどなんでそんな事をするんだろう、って思うんだ。私と霞さんは昨日出会ったばかりなんだからこんなにも献身的になる道理が見つからない。一応一学期の頃から気にかけてもらった、とは聞いたけれど、それはきっと未知の人物に対する好奇心によるものだろう?だから分からないんだ。実現できると言えども実現する理由が」
私が口を閉ざすと橘くんは一度霞さんの方へと視線を向け、視線を戻すと目を閉じ、何かを考えているかのように口に手を当てる。
秒針が十二の数字を超えた頃、針の音が沈黙を破ると目を開く。
「それは俺の言うことじゃないな。まぁ時が物を言う、なんて言葉もあるしね。今じゃない、ただそれだけさ」
鼻につくような言い方だが、この退廃的な室内と、橘くんの振る舞いによって華があるように感じられる。
「とにかく実現出来る可能性を理解して貰えたらいいんだ。そうでもしないとそもそも次の段階に進めないからね」
一旦言葉を区切ると、外で大きな雷が鳴った。光と音の差からかなり距離があることに気づき安堵する。しかし未だにある心の凝りは消えてくれない。
そんな私の心境に気もくれず、橘くんは話を続ける。
「そうすると次の疑問が生まれてくる。一体、どうやって今回のような事を成し遂げたのか。いや、成し遂げた、と言うほど大層なことでも無いか」
挑発まがいの橘くんの発言に霞さんは目を細めて睨んでいる。
その視線はまるで自分の罪を自白している事に他ならないように思えた。
「それは実に簡単で、実に引っかかりやすい。いわゆる典型的な思い違い、錯覚から起きるものだ」
少しばかり抽象的なため、私は頭を悩ます。どうもこのような言葉に私は弱いようだ。
「カッコつけてないで、さっさと分かりやすく言ったらどうっスか?」
「まぁまぁ。そんなに急かさなくても、どうせ結末は変わらないんだからさ、ゆっくりしていこうよ。ね?ほら笑顔えがお」
頬に両手の人差し指を当て笑顔のような、笑顔でないような、中途半端な顔をしている。
「釣れないなぁ……ま、いっか。こんな無駄話は置いておいて、シンプルに行こう。空くん、ちょっと思い出して欲しいんだけどさ、例のトイレに入った時の順番を教えてくれるかな」
「えっと、私が男子トイレ行くから、って言って霞さんには女子トイレを頼んで、先に霞さんが入って、その後に私が男子トイレに入ったかな」
一度言葉を区切り、橘くんの方を見ると頷き、続きを促しているかのようだった。
「私が一つ一つ扉を開けて、確認していってどこにも自分の上履きが見当たらない事が分かったらトイレを出た。もう新しいのを大人しく買おう、って若干思ってたから、あんまり落胆はしなかったかな」
そう言うと橘くんは意外そうに口を開けて少し驚いていた。
「あの、何かおかしい箇所がありましたか?」
「いや?ただ、そうだな。キミはひとつの物に執着しそうだと思っていたから、新しいのを買おうと思っていたことにびっくりしただけだよ。続きをどうぞ」
変な偏見だな、と思いつつも私は言葉を繋ぐ。
「それで私がトイレを出た数秒後に霞さんも出てきてあちら側にもないことを知りました。そこで念の為多目的トイレも見とくか、ってなってほとんど希望を持っていなかったんですけど一応確認しました。そしたらそこにあった、という話です」
私はありのままの事実を話した。
今のところは霞さんの上履きである、と断定出来るような材料はないはずだ。それに加えて、そもそも霞さんの上履きであったとしてもそれが霞さんによる仕業であるとも限らない。
あらゆる可能性を考慮したとしても霞さんがそのような行動を取る、とは思えない。
論理的な思考と、感情的な思考が入り交じりになり私は何を考えていて何を口にすべきなのかが分からなくなった。
「なるほどね、大体把握したよ。それじゃあそれぞれトイレの中を探している時に足音はしたかな?それと誰かその前後で、いや、トイレを見る前に誰かが来た、というのはあるかな。個人の名前じゃなくて、どういう人なのか。おぼろげだって構わない」
話に熱がのり、橘くんの立ち振る舞いに芝居がかっているのを感じる。その動きは軽く、見ている私も思わず見とれてしまう程だった。
探している時に足音は聞こえなかった。薄そうな壁であったため、それは確かな事実だ、と橘くんに伝えた。
その右手に少しばかりの痛みを感じ、右をむくと霞さんが不機嫌そうな顔で私の右手をつねっていた。そのおかげで私は記憶を遡る必要があることを思い出した。
まず初めに体育館へと行き、その次に校舎裏のゴミ箱を見て、旧倉庫に向かった。しかしいずれの場所に探し求めていた物は見つからなかった。
そしてダメ元であまり使われていないトイレに向かい、私が男子トイレ、霞さんが女子トイレを探すことになった。トイレに入って探す前に誰がいたか。
私はどうにか思い出そうとして、額に拳を当て、考えているポーズをとる。
突然、私の中に流れ込んだ。その時の情景が。
「センパイ、そんな仕草をしたって、別に頭が良くなる訳じゃ」
「思い出した!」
額に当てていた拳を勢いよく離したせいでその拳が霞さんの頭部に当たる。霞さんは何が起きたのか分からないような顔でこちらをじっと見つめている。
「用務員さんがいました!掃除を終えた用務員さんが!」
私のその答えに甚く満足したのか橘くんの顔は「満悦」の二文字だった。
「ありがとう。その応えで答えは一つに定まった」
そう言い橘くんはカーテン代わりとなっているホワイトボードの前から離れ、部屋の中央にある円形のテーブルの周りを歩き出した。
「トイレを探す前には掃除を終えた用務員。トイレを探している最中には足音がない。つまりは例え多目的トイレであってもそこに上履きがあるはずがないんだ。あるとしたら空くんか君がそこに上履きを置くしかないんだ」
そう言った後、橘くんはその歩みを止めて再びホワイトボードの前に止まった。
風にさらわれた葉がひとしきり空を彷徨った後、土に還っていく様に。
「何か反論はあるかな?」
挑戦的な視線を霞さんに向けながら、そういい放つ。
対する霞さんはやったことを認めたのか、認めていないのか分からないような曖昧な表情をしていた。
しばらく待っても会話が生まれることは無かった。その事に痺れを切らしたのか橘くんが口を開く。
「なるほどね。沈黙は肯定と捉えても問題ないかな?」
霞さんは未だに口を開かない。
沈黙は肯定と捉えていいか、という問いに対して沈黙で答える。
この不可思議さに思わず頬を緩めてしまう。
「なるほど。機嫌を損ねているようだね。それならば一つアドバイスを君にあげよう。用務員は清掃するためにトイレに行った。なのにも関わらずゴミ箱に置く。この選択は悪手でしかない。用務員がいた時点でゴミ箱が空っぽにすることは君なら分かっていたはずだ。それなのに君はゴミ箱に入れるという選択をした。このことは君が自身が一連の流れにひとつ噛んでいることの証明に他ならない。もし上履きの置く場所がトイレじゃなかったらきっと俺は今回の事をここまで進める事は出来なかった。だから、何故だ。なんでそんな大々的にミスを犯したんだ?君がそんな事をするはずがない。あの君がこんな行動を取るなんて。論理的じゃない。理屈じゃない君は君なんかじゃない。だから言って欲しいんだ、今回のはただの遊びに過ぎなくて僕を試しているだけなんだって。そうでもしないと僕は、何を求めて生きていけばいいんだ……?今まで僕は君を追いかけて追い続けて必死にここまでやってこれたんだ。その行く末がこんな結末じゃつまらないよ。今までずっと高い山を登っているつもりだったのに、それがただ距離が長いだけの丘のようなものだったなんて。なんなんだよ……このぬるま湯に沈んだような心は。何一つ、胸に火を灯す火が見当たらない。なんにも楽しくない、面白くない。ほら言ってくれよ、いつもみたいにさ!」
次第に熱が帯びていくその声は私の存在などとうに忘れてしまっているかのようだった。
荒らげた声のしまう先を見つけられないのか、橘くんはその場に留まることが出来ずに物に当たる。
椅子が無造作に飛び、ホワイトボードが無抵抗にずれていく。その衝撃にあえぐように、本棚がきしみ、倒れる寸前で静止した。
ドン、と拳が机にぶつかる音がする。机から離れた拳に血液が滴っている。そんな痛みなんて感じない、なんて言うかのように橘くんは何も言わない。
右から、きしむような笑い声が溢れた。
「ひ、ひひ……あっはははは!」
笑いながら、彼女の目はどこにも焦点を合わせていない。
突然の出来事に私と橘くんは思わず動きを止めた。
「なんなんだよ、急に笑い出して。今日の君は何かおかしいぞ。なんでいつもみたいに理知的に振る舞わない?どうしてその自慢の頭脳を上手く使わない?なぜ、なぜ」
頭を抱える橘くん。頭を抱えるのは、知らなくてもよかった痛みや、見なくてもよかった景色が、知らぬ間に頭の中へ忍び込んでしまうのを、せめて腕で遮ろうとする最後の抵抗だ。
「ねぇ、センパイ。どうしてそんなに怖い顔してるんスか?」
霞さんは、いつもの調子で、しかしどこか芯を歪ませたように笑った。明るい声色の裏側で、何かが壊れている音がした。
「私……センパイのこと、大事にしてるだけっスよ?ずっと一緒にいたじゃないスか。朝も昼も、放課後も。ずーっと、隣にいたでしょ?」
霞さんの声は跳ねるような調子で、まるで遊園地のアナウンスのように楽しげだった。でも、その言葉の意味は、刃物のように鋭い。
「センパイの上履き、なくなったくらいで、なんでそんなに動揺してるんスか。センパイを助けてあげたいだけだったんスよ?まぁ、他人のイタズラで私じゃない人に気を取られると、私、拗ねちゃうっていうのも一つ理由っスけどね」
彼女はしゃがみ込み、落ちていたゴミ箱の紙くずを指でつまんで、くすくすと笑った。
「ほんとはね、靴箱に入れるつもりだったんスよ? でも、センパイが図書室で私以外の人と仲良くしてるの、見ちゃったから。……なんか、ムカついちゃって」
地面に伏せていた橘くんがわずかに身を乗り出す。
「やっぱり、君だったのか。霞、これはただの嫉妬じゃ済まない。空くんにとって、お前の愛情は」
「愛ッスよ、橘くん。ちゃんと愛っスよ。だって私、センパイのためなら何でもできるっスもん。……ねぇ、センパイ。あの夜、うちに来てくれたじゃないスか?覚えてるっスよね?私のハンバーグ、食べたでしょ?」
彼女はにじり寄ってくる。距離は一定なはずなのに、息が詰まるような圧力が空気に滲んだ。
しかし私にそのような記憶はない。私たちは出会ったばかりでそんな経験をしたことも無い。過去に実は霞さんと会っていてそれを忘れているだけか、と一度考えたが生憎と誰ともそのようなことをした記憶が無い。
「最近会ったばっかだって? ううん、違うっスよ。私はずっと前から、センパイを見てたっス。学校来なくても、ずっと、心の中にいたんスよ。やっと出会えたんス。だから、これって運命っスよね?」
彼女の目が細められ、まるで獲物を見つけた猫のように形を変える。
「橘くんが何を言おうと関係ないっス。私はセンパイが困ってる顔も、怒った顔も、ぜんぶ可愛いって思うんス。だからもっと見たい。もっと知りたい。もっと……私だけのものにしたい」
私の肩にいつの間にか近くに来ていた橘くんの手がそっと置かれた。
「空くん、もう話さなくていい。……俺が、こいつから守る」
「ヒーロー気取りっスか? でも、センパイは私を選ぶと思うんスよねぇ。だって、私といた時間のほうが、ずっと濃いでしょ?」
霞さんはそう言って、静かに笑った。勝者の顔だった。
私は、逃げた。
部室のドアを閉めたとき、背中がざわりと泡立った。
霞さんのくぐもった笑い声と、橘くんの低い声。あの部屋にいた二人は、私が知っていたはずの彼らではなかった。
いや、違う。きっと、私が勝手に作り上げていたんだ。二人の像を。
都合のいい幻想を。
私は走った。廊下の足音がやけに大きく響く。階段を踏み外しかけながら降りて、昇降口のドアを開け放つ。
霞さん。あんなに明るくて、気さくで、優しかった。変な語尾で喋って、私のことを気にかけてくれて、ずっと一緒にいてくれた。
橘くん。冷たくて、ぶっきらぼうで、でもその中にどこか誠実さがあって、信じてもいいのかもしれないと思わせてくれた。
そんなふうに思ってた。
たった二日前に出会ったばかりなのに。
でも、私にはその二日が全てだった。
閉じていた世界が少しだけ開きかけた、そんな時間だった。
なのに。
部室で見た橘くんは、違った。
冷たくて、警戒心の塊だった彼が、急に私に近づいてきた。
優しい言葉で、落ち着いた声で、まるで味方であるかのように。
「気をつけたほうがいい」とか、「騙されるな」とか、そんなことを言って——
まるで最初から、私のすべてを見透かしていたように。
それが、怖かった。
まるで自分の手で引き裂いた網を指差して、「ほらね、穴が空いてるよ」と笑われているみたいだった。
私は、橘くんのそんな“正しさ”が、恐ろしくて、そして——嫌だった。
正しい人間なんて、怖い。
冷たいままならよかったのに。敵のままでいてくれればよかったのに。
優しさなんて持ち出されると、どこまでが本物で、どこまでが演技なのかわからなくなる。
私に味方するふりをして、何を見てるの?
私を守るふりをして、何を得ようとしてるの?
私は、あの部室にいたくなかった。
霞さんの不気味な愛情も、橘くんの偽りの優しさも、全部、見ていられなかった。
だから、私は逃げ出した。
靴を履き替える余裕なんてなかった。
足元はあの、騙されていた上履きのままだった。
それが、自分の足に貼り付いていることすら、気持ち悪かった。
私は、外へ飛び出した。
土砂降りだった。まるで空が怒っているみたいに。
髪が濡れ、シャツが肌に吸い付き、ズボンの裾が重くなった。
それでも私は走り続けた。痛みなんて感じなかった。感情が全部、鈍くなっていたから。
私はあの上履きを脱いだ。
校門を出てすぐのところ、アスファルトの上でしゃがみこみ、ぐいっと引き抜いた。
布の感触が、ぬるりと足の裏から剥がれる。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
あれは私のものなのに、もう私のものじゃなかった。
霞さんが仕組んだ舞台装置で、橘くんが暴いたトリックの証拠品。
私がそれを履いていたこと自体が、ばかばかしくなってくる。
私は裸足になって、アスファルトを走った。
濡れて冷たい地面の感触が、少しだけ生々しかった。
それでも気持ちは、どこか宙ぶらりんだった。
私は何も知らなかったんだ。
人の心も、自分の気持ちも、何もかも。
霞さんの優しさは愛だった。でも狂っていた。
橘くんの冷たさは正しさだった。でも優しすぎた。
私は、そのどちらにも触れて、今ここで壊れかけている。
どれくらい走ったのか、もう分からない。
息が切れて、膝が笑って、私は道路脇に座りこんだ。
傘をさして歩く人達がこちらを奇異な視線で見ている。しかしそんなのを気にもせず私はコンクリートに身を預ける。
雨が体を叩く。冷たくて、痛くて、苦しくて、でも涙は出なかった。
私はただ、ぐしゃぐしゃの制服を抱えて、うずくまっていた。
世界なんて全部偽物だ。あんな短い幸せなんて、蜃気楼だった。
目が合って、笑って、信じたこと全部が、からっぽの幻だった。
そう思ったそのときふと、静けさに気づいた。
雨は降り続いているのに、私の頭だけが、妙に静かだった。
顔を上げると、そこにひとりの少女が立っていた。
傘をさして、私に影を落とす。
月白さん。
髪が濡れてしっとりと肩に落ち、真っ直ぐな目で私を見下ろしていた。
まるで、この場所に現れることが決まっていたかのように。
「……どうして」
私は思わず、問いかけていた。
どうしてここにいるの?
どうして私を見つけたの?
どうして——あなたは、そんなに綺麗なの?
月白さんは、淡く微笑んだ。
「雨が止んだように見えるのはね。傘の下に、あなたがいるから、なんだよ」
それだけの言葉だった。
当たり前のことだ。傘があれば雨に濡れることは無い。
でも、それだけで、私の胸は少しだけ、呼吸を取り戻した。
それはきっと、傘があれば濡れることは無い、なんて言葉は詭弁であると知ったからだろう。
言葉の雨に打たれ、思考という名の果てしなく広い空は曇っていった。
しかし、それでも一条の光が差すように傘が眼前にある。
ついさっき痛い思いをしたばかりだと言うのに私はその手に縋ってしまいたくなる。
いいのだろうか、この手を取ってしまっても。
いいのだろうか、あの手を離してしまっても。
私はわからない。何が正しくて何が悪いもので、どれを選べば正解だといわれるような道に進めるのかが、わからない。
しかしただ一つだけわかることがある。
それは今目の前にある月白さんの手に縋ってしまいたい、ということ。
今までの偽りに満ちた一時の幸福から目を覚ますべきなのではないか。
そう心の中の私が私に問いかける。
しかし私もまた、嘘でもいいからあの眩しい光をこの身に照らして過ごしてもいいのでは、と私に問いかける。
そんな思考を十秒、一分、十分。明確な時間が曖昧になるくらいしていたとしても眼前にいる月白さんは私に差し出している傘を持つ手を引くことはしない。
霞さんならばどうしているのだろう。元気よく「もー、そんなに濡れたら風邪引くっスよ」なんてどうしようもない私に向けて笑ってくれるんだろうか。
橘くんならばどんな言葉を言ってくれるのだろうか。「こっちも濡れるからできるだけ近づかないでほしいな」なんて毒を吐くのだろうか。
そんな妄想をしたってしょうがない。もうすでにあの二人の姿に嫌気がさして、逃げてしまったのだ。なんて自分勝手な人間なのだろう。
しかし自分勝手なのは人間であることの証明ではないだろうか。自分を蔑ろにして他人を救う。そんな自己犠牲精神は大層なことだと思う。だがそれはフィクションの中だけだ。現実で起こったとしてもそれはただの演技だとしか思えない。
それは私がおかしいだけなのだろうか。私が醜いだけなのだろうか。
そうだとしたら、私に良くしてくれた霞さんの対応も、棘があるが優しさが垣間見える橘くんの心もすべてに納得がいく。
おかしな人にはおかしな目線が向けられる。そんなの当然のことだ。理由はわからないがそうなることを私は生きていて知っている。数少ない経験による結果だ。
じゃあ目の前の視線はどうだ。
私は月白さんの目を見る。すぐに目をそらしてしまいたくなる私とは違い、こちらをしっかりとみている。
この人はうそをついていないだろうか。
そんな猜疑心を抱いてしまい、私は顔を手にうずめる。手が雨でふやけてしまっている。昔しわしわのことをしゅわしゅわ、と勘違いをしてどうして炭酸のことを言っているんだろう、と疑問を持ったことを思い出した。それに従い顔が崩れていく。
そしてすぐさま私は自分の犯した失態に気が付いた。突然笑いだしてしまったらきっと月白さんも私のことをおかしな目線で見てしまう。そんなことを考えて、私は月白さんのほうを怖くて見れなくなってしまった。
ぽつぽつ、と傘に雨が当たる音をようやく私は認識した。つられて私は月白さんのほうを思わず見てしまった。
その顔に苦しそうな表情が浮かんでいた。
「....どうして」
私はのどに引っかかっていた言葉をようやく吐き出した。
「だって、だってさ。そんなにつらそうなのにどうして笑えるの?」
それは単に昔のことを思い出して笑ってしまっただけだ、と伝える。だがそんな回答で満足してるはずがない、と彼女の表情を見て悟った。
「あんたの過去について私は知っている」
それはまるで逃亡している大罪人にむけて言うセリフのように感じられた。
しかし私はそのような記憶もないし、犯罪をするような度胸もない。
「あんたには笑えるような幸せな過去なんてない」
思わず私は声を荒げる。
「月白さんに何がわかるんですか...!?私のこの気持ちを理解できるんですか?たったの二日ですよ。たったの二日話して、行動を共にしただけなのに、ここまで締め付けられる胸の痛みを分かりますか?」
私の激情に対して苛立ちなんて言う感情を見せず月白さんは私の思いを受け止める。
もういっその事消えてしまいたい、そんな風に思っていた。
だからどうか月白さんに私を見放して欲しかった。
けれど彼女の足は私に近づいてくる。その歩く速度は一定で時間の経過を如実に表していた。
「わからないよ。私にあなたのことがわかるはずがない」
第一私たちは他人なんだし、と付け加えてどこか浮ついた表情で髪を指でいじくっていた。
「私にあなたのことはわからない。けれど辛そうにしているのだけはわかるよ」
指の動きを止めてこちらのほうに向きなおる。その表情は先ほどと打って変わって、真剣な顔つきだった。相談に乗る担任の先生のようだ。
「時間というものは絶対的なものではないんだよ。誰かにとっての一週間が誰かにとっての一年間だっていうこともあるんだから」
言葉を話すために開いていた口が一度閉じて、再び開いた。その時間はどれくらいだったんだろう。一秒か、それとも一分だったのか。
「だからさ、そんなたったの二日、なんて言わないで。私はあなたのこの二日間に何が起きたのか詳しくは知らない。それに知りたいと思わない。けれどその何気ない日常、人によって退屈でしかない生活だったとしてもあなたが楽しい、と少しでも思っていたのだとしたら、たったの、なんて言葉を使わないでほしい」
そして月白さんはさしていた傘を閉じた。私はなぜ、と聞こうとしたがその言葉が紡がれることはなかった。
私は月白さんの顔を見た。
気まずさからきちんと顔を見ていなかったためその顔が赤くはれていることに気が付いた。
「雨って冷たいね」
この会話にピリオドを打つかのように何気ない言葉を口にした。
あまりの中身のなさに私は思わず顔を綻ばせてしまう。
そんな私に対し、月白さんはただ顔に笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
月白さんが立ち上がり、私のほうへと手を伸ばす。
私はその手をしっかりと握った。
迷いなく、しっかりと私自身の思いを持って。
「お邪魔します......」
「いいよ、そんなに堅くならなくても」
月白さんの手を握った私は、ただひかれるままに彼女の手にひかれるままついていった。途中でコンビニに寄ってアイスを買ってコンビニの屋根の下で食べたり、もうじき夏が終わるから次第に聞こえなくなってしまうセミたちの鳴き声に思いを馳せていたりなどしていた。
そうしているうちに月白さんの家にまで着いていた。家はどこか懐かしさを覚えるような昔ながらのよくある二階建ての賃貸マンションであった。壁にくっついている蔦も月白さんが前にいると様になって、魅力が溢れていた。
「ごめんね。さっきは外でアイス食べることになって。うち冷凍庫ないからあそこでそのまま食べるしかなかったんだ」
そういって月白さんはすこし恥ずかしそうにしながら頬を掻いた。
その表情をみて私もなぜか恥ずかしさを覚えて思わず視線を外す。そうしてようやく部屋全体を俯瞰してみることができた。
シンプルな机と椅子。リビングからでも見える一口しかないコンロ。長年使われていないのかほこりがかぶってしまっているテレビ。それもとても古いドラマとかでしか見たことがない機種だった。
それに一際目立つのが本棚であった。かなり背が高く収納量も多いものだとすぐ分かるような大きさだが、肝心の中身がほぼ抜けており、寂しい様相をしていた。
私の部屋を物色するような視線に気が付いたのか、月白さんは慌てて弁明するように言う。
「別に家庭環境が複雑とかじゃないからね?ただ単にこの家にいる時間とかが少ないから、自然にモノが減っていっただけだから......」
私は別にそんなことは気にしていない、と言えればよかったのだがただうなずくことしかできなかった。
「私、あなたとちゃんと話をしてみたいと思っていたの」
予想だにしなかった言葉に私は面食らってしまう。
「けれどこの前カフェでいろいろとお話ししたのでは?」
「う。まあそれはそうなんだけど。間違いではないんだけど。そういう問題じゃないっていうか」
あまり関わりがないため当然の意見かもしないがこんな感じで慌てふためく彼女は珍しいと感じた。これが月白さんの本当の姿なんだろうか。
居心地を悪くしていた月白さんは自分の家なのにも関わらず辺りを不自然に見渡したのち、こちらに向き直る。
「あ、そういえば雨に濡れてたから服もびしょびしょだね。良かったらお風呂入ってきてもいいよ?」
「いや、大丈夫だよ。それに風呂に入ったとしても着替えがないからどうしようとないよ。月白さんと私じゃサイズが違うし。それになんだかとてつもない抵抗感があるんだ」
「確かにそうだけど、一応私にも兄弟いるから一応服はあるっちゃあるよ」
その情報は初耳だったため、幾分私は驚いた。この部屋の様子から見て、恐らく月白さんは一人暮らしであろう事が分かる。しかし何故兄弟の服もあるのだろうか。ただ単に仲が深い、ということだろうか。最近はどうもなんでかんでも理解しようとしてしまう為、疲れてしまう。これが理解する必要のないことなんだろうか。
ふと頭をあげると、月白さんがどこか苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「兄と姉が一応いる感じなんだけどね、あんまり会うことはもう出来ないんだ」
「......」
私は何を口にすればいいのか分からずに黙っていた。けれど身体は何かを伝えようとしているのか口だけは開いていた。ただし開けられているだけであって言葉は何も発していない。傍からみたらそれは大層間抜けな顔をしていたことだろう。
「別に何か不幸な事が起きたとかそういう訳じゃないんだ。むしろ逆に幸せになっていると私は見ていて思うんだけど、どうしても苦しいんだよね。私の心から消え去っていくようで怖いんだ。幸せになってそのまま私のことを忘れてしまうんじゃないか、っていう不安が毎夜襲いかかって来るんだ」
私は静かに話を聞いていた。
あの雨の中、私に手を差し伸べてくれた月白さん。その月白さんが今度は挫けそうになっている。いや、もう心が折れているのかもしれない。大切なものの喪失は私は経験したことがある。だからこそ月白さんの感じる痛みが何たるものか、私にも理解できる。
このままでいいんだろうか?
ただ月白さんに助けて貰って、そのまま話を聞いてそれで別れる。それでいいのだろうか。些か非情である、と私の心が叫びたがっている。
「幸せになることが何よりも私が望んでいる事のはずなのに、それが現実になりつつあると、疑わざるを得なくなるんだ。本当に私の望みは幸せになって欲しい事なのか、って。本当は私は別のことを望んでいるんじゃないかって。その考えに少しでも触れると嫌になるんだ。自分は醜い人間で、それを覆い隠す為に皆が言う正しくあるべき姿になろうとしているだけなんだって気づくから」
ぽつり、と畳に水滴の落ちる音がした。
「あ、ごめんね。うち少しだけ古いから雨漏れしちゃうんだよね」
月白さんが喋り、その度に顔の皮膚が動く。それに従い水滴も滴っていく。 その透明な雫は、ぽつり、またぽつりと畳の上に小さな染みを作っていく。その染みが広がる様は、まるで彼女の心の内に押し込めていた哀しみが、堰を切ったように滲み出しているかのようだった。
「月白さん……」
私は何か言葉をかけようとして、けれど適切な言葉が見つからずに口ごもる。彼女が今、どれほどの重荷を背負い、どれほどの痛みを抱えているのか。その一端に触れただけで、私の胸まで締め付けられるようだ。かつて母を失った時の喪失感、あのどうしようもない無力感と悲しみが、心の奥底から蘇ってくる。あの時、私はただ泣くことしかできなかった。誰かに慰められたとしても、その言葉は上滑りしていくだけで、心の傷に届くことはなかった。
今の月白さんも、きっと同じなのだろう。どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かないかもしれない。それでも、私は彼女から目を逸らすことができなかった。彼女が抱える闇の深さに怯えながらも、その闇ごと彼女を受け止めたいと、そう思ってしまったのだ。
「……醜い、人間……」
月白さんは虚ろな目で畳の染みを見つめながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あの人が幸せになることを願ってる。それは本当……。でも、心のどこかで、あの人が手の届かないところへ行ってしまうのが怖い。私を置いて、どこかへ行ってしまうんじゃないかって……。そんなの、ただの私の我儘なのに」
彼女の声は震え、まるで懺悔の言葉を口にするかのように苦しげだった。
「あの人が私を一番に考えてくれなくなった時、私はきっと、あの人を許せない。そんな自分が……何よりも醜くて、嫌いなの」
畳に落ちる雫の音だけが、静かな部屋に響く。私はゆっくりと息を吸い込み、そして、静かに吐き出した。
「……醜いなんてこと、ないですよ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
月白さんがハッとしたように顔を上げる。その瞳は涙で濡れ、僅かに見開かれていた。
「誰だって、大切な人が自分から離れていくのは怖いと思います。私だって……もし、月白さんが私の前からいなくなったら、きっとすごく寂しい」
口に出してから、少し照れ臭くなる。でも、これは私の本心だった。出会ってまだ数日しか経っていない。けれど、彼女の存在は、いつの間にか私の中で大きなものになっていた。
「それに……誰かを大切に思う気持ちと、その人を独り占めしたいっていう気持ちは、たぶん、すごく近いところにあるんじゃないかな。だから、月白さんがそう思うのは、自然なことだと思います。醜くなんて、ないですよ」
姉のことを思い出す。私に対する異常なまでの執着。あれも、歪んではいるけれど、元は私を大切に思う気持ちだったのかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
月白さんは、私の言葉をじっと聞いていた。その表情は変わらないけれど、瞳の奥の揺らぎが、少しだけ和らいだように見えた。
「……あんたは、優しいね」
ぽつり、と彼女が呟いた。
「優しくなんかないですよ。私はただ……月白さんに、そんな風に自分を責めてほしくないだけです」
「ふふっ」
月白さんが、小さく笑った。
「ありがとう。少し……楽になった気がする」
彼女は袖でそっと目元を拭った。まだ涙の跡は残っているけれど、その表情は先ほどよりもずっと穏やかだ。雨漏りの音も、いつの間にか遠のいているように感じられた。いや、雨自体が小降りになってきているのかもしれない。
「あの……もし、よかったらなんですけど」
私は意を決して口を開く。
「私でよければ、いつでも話、聞きますから。月白さんの兄さんのこととか、月白さんが抱えてることとか……何でも」
「……いいの?」
「はい。私も……昔、大切な人を失って、どうしようもなく苦しかった時があったから。誰かに話を聞いてもらうだけで、少し救われたんです。だから……まあ、私なんかに話しても、気休めにしかならないかもしれないですけど」
「ううん」
月白さんは静かに首を横に振った。
「ありがとう。その言葉だけで、すごく嬉しい」
彼女はふわりと微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの空にかかる虹のように、儚くて、でもどこまでも美しかった。私はその笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
このまま、この時間が続けばいいのに。そう思った。けれど、時間は無情にも過ぎていく。 お互いがお互いを見つめあって、人間の営みの素晴らしさを知った。
目を覚ますと、、窓の外が少しずつ明るくなってきていた。雨はもうほとんど止んでいるようだ。
「そろそろ、帰らないと……」
私が言うと、月白さんは少し寂しそうな顔をした。
「……うん。そうだね」
私たちはどちらからともなく立ち上がった。月白さんの部屋を出て、玄関へと向かう。人生に比べ短い時間だったけれど、この家で過ごした時間は、私にとって忘れられないものになるだろう。
「送っていくよ」
月白さんが言った。
「いえ、大丈夫です。もう雨も止んでますし」
「でも……」
「それに、またすぐ会えますから」
私が言いかけると、月白さんは「え?」という顔をした。そうだ、私たちは違う学校に通っている。簡単に「学校で」とは言えない。
「あ……えっと、その、また、連絡しますから」
慌てて言い直す。
月白さんは少し驚いたような顔をしていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「うん。そうだね、待ってる」
私たちは玄関で向かい合った。言葉にしなくても、お互いの間に確かな繋がりが生まれたのを感じる。それは、脆くて、まだ形のないものかもしれないけれど、確かにそこにある温かい何かだった。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
月白さんの家を出て、私はゆっくりと歩き出した。空はまだ薄暗かったけれど、東の空が白み始めている。新しい一日が、始まろうとしていた。
自分の家に向かう道すがら、昨日の出来事が次々と思い起こされる。霞さんの狂気、橘くんの鋭い指摘、そして姉の不気味な微笑み。どれもこれも、まるで悪夢のようだ。けれど、最後に思い浮かぶのは、月白さんの涙と、そしてあの雨上がりの虹のような笑顔だった。
守りたい。
ふと、そんなことを思った。月白さんのことを、そして、彼女のあの笑顔を。今の私に何ができるかはわからないけれど、それでも、そう強く思った。
家の前に着くと、早朝にもかかわらず、玄関の明かりが灯っていた。胸騒ぎを覚えながら、そっとドアを開ける。
「おかえり、空ちゃん」
リビングの入り口に、姉が立っていた。いつものように微笑んでいる。けれど、その笑顔は貼り付けたように不自然で、瞳の奥は笑っていなかった。
「……ただいま」
「随分と遅かったのね。どこへ行っていたのかしら? お姉ちゃん、心配したのよ。空ちゃんの帰りが遅いと、何かあったんじゃないかって……悪い虫でもついたんじゃないかって」
姉の声は静かだが、ねっとりとした何かが絡みついてくるようだ。私は正直に答えるべきか迷った。けれど、嘘をついてもすぐに見抜かれるだろう。
「……友達の家に、少し」
「あら、そうなの。空にも、お姉ちゃんの知らないお友達ができたのね。どんな子かしら? 今度、お姉ちゃんにも紹介してちょうだいね。空ちゃんの選んだお友達なら、きっと素敵な子なんでしょうけれど……でも、人を見る目は養わないといけないわ。世の中にはね、優しい顔をして近づいてきて、大切なものを奪っていく人もいるのよ」
姉はゆっくりと私に近づいてくる。その足取りは猫のように静かで、それがかえって不気味だった。私のすぐ目の前で止まると、姉は私の髪にそっと手を伸ばし、その匂いを確かめるように小さく息を吸い込んだ。
「……いつもと違う匂いがするわね。知らないシャンプーの香り……。ふふ、空ちゃんも隅に置けないわね。お姉ちゃん、少し寂しいけれど、空ちゃんが大人になっていくのは嬉しいことだわ。でもね、空」
姉の指先が、私の髪を一筋、弄ぶように梳く。その感触に、私は思わず身を強張らせた。
「どんなに素敵な香りを纏っても、どんなに遠くへ行こうとしても……あなたは、お姉ちゃんから離れられないのよ。だって、私たちは……ねぇ?」
最後の言葉は囁きに近く、甘く蕩けるようなのに、蛇が肌を這うような冷たさを感じた。姉の瞳の奥に宿る、暗く淀んだ光。それは、私をじわじわと絡め取ろうとする、底なしの沼のようだった。
私は姉の手を振り払うこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。姉は満足そうに微笑むと、私の頬をそっと撫で、「さあ、朝ごはんにしましょうか。空の好きなもの、たくさん作っておいたわ。ああ、そういえば空ちゃんの部屋のカーテン、新しいのに替えておいたの。前の、少し古くなっていたでしょう? 気に入ってくれると嬉しいわ」と言ってリビングへと戻っていった。私の部屋に入った事が少しだけ恐ろしく感じた。
食卓には、私の好物ばかりが並んでいた。けれど、喉を通る気がしない。姉の視線を感じながら、私は黙々と食事を口に運んだ。味なんて、全くしなかった。
学校へ行く準備を終え、玄関へ向かうと、そこには霞さんが立っていた。昨日、あんなことがあったのに、彼女はいつもと変わらない笑顔で私に手を振る。
「おはよッス、センパイ!」
「……霞さん」
「迎えに来ちゃったッス! 今日も一日、センパイと一緒にいられるなんて、最高ッスね!」
彼女の笑顔は屈託がなく、昨日の狂気じみた姿が嘘のようだ。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ暗い影がよぎったのを、私は見逃さなかった。この笑顔もまた、仮面なのかもしれない。
「姉さん……霞さんが迎えに来てくれたから、行ってくる」
リビングに向かって声をかけると、すぐに姉がひょっこりと顔を出した。
「あら、霞ちゃん。わざわざありがとうね。空のこと、よろしくお願いするわ。……あの子、少しおっちょこちょいなところがあるから、霞ちゃんがしっかり見ていてあげてね。何かあったら、すぐに私に教えてちょうだい」
姉はにこやかに言うが、その目は霞さんを値踏みするように細められている。霞さんもまた、笑顔を浮かべながらも、どこか警戒しているような雰囲気があった。目に見えない火花が散っているような気がした。
「それじゃあ、行ってきます」
霞さんに促されるようにして、私は家を出た。後ろ手でドアを閉める瞬間、姉の冷たい視線が背中に突き刺さるのを感じた。
学校までの道すがら、霞さんは昨日のことには一切触れず、いつものように明るく他愛のない話を続けた。けれど、私はどこか上の空だった。姉のことも、霞さんのことも、そして月白さんのことも、頭の中でぐるぐると巡っている。
教室に入ると、橘くんがすでに席に着いていた。私に気づくと、彼は一瞬だけ視線をこちらに向けたが、すぐに興味なさそうに窓の外へ目をやった。昨日のミステリー研究部での出来事が嘘のように、彼は普段通りの冷めた態度だった。
そして、私の席の隣。そこには、氷室くんが静かに座っていた。彼も私に気づくと、無表情のまま小さく頷いた。彼との間に交わした約束を思い出す。私が、彼の小説の最初の読者になるという約束を。
これから、どうなるんだろう
期待と不安が入り混じった、新しい一日がまた始まろうとしていた 。
距離感が解せない姉と友人、私に救いを求めた少女、そして私の周囲で起こる不可解な出来事。この混沌とした日常の中で、私は一体何を見つけ、何を選び取っていくのだろうか。
まずは、上履きの謎だ。あれは一体誰の仕業だったのか。霞さんなのか、それとも……。そして、橘くんはなぜあのタイミングで私を呼び出したのか。彼の目的もまだ見えない。
授業が始まり、教師の声が教室に響く。けれど、私の意識は目の前の教科書ではなく、もっと別の、複雑に絡み合った人間関係と、そこに潜む闇へと向かっていた。
ふと、隣の席の氷室くんが、ノートの隅に何か小さな文字を書き込んでいるのが見えた。小説のアイデアだろうか。彼の世界にもまた、私には計り知れない深淵が広がっているのかもしれない。
そうこうしているうちに、あっという間に昼休みになった。私は無意識のうちに、あのカフェの前に立っていた。そこまで学校との距離がある訳では無い事を知り、思わず来てしまった。月白さんに会えるかもしれない、という淡い期待と、あの非日常的な空間への妙な懐かしさが、私をここまで導いたのかもしれない。
店の扉にはお昼頃なのにも関わらず「準備中」の札がかかっていたが、ドアが少しだけ開いている。意を決してそっと中を覗くと、カウンター席で一人、静かにコーヒーカップを傾けている月白さんの姿があった。彼女はこちらの気配に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「……あんた」
その声には、驚きと、ほんの少しの戸惑いが混じっているように聞こえた。
「月白さん……どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだよ」
彼女は小さく息をつくと、隣の席を顎で示した。
「あんたこそ、どうしたの? 学校のお昼休みじゃないのか」
「ええ、まあ……。月白さんも、学校は?」
「私は今日、午前だけだから。……なんとなく、またここに来れば、あんたに会えるかなって」
彼女は少し俯き加減にそう言った。その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じる。
私は彼女の隣の席に腰を下ろした。店員さんは奥にいるのか、私たちの他には誰もいない。静かで、どこか現実離れした空気が漂っていた。
「あの……兄さんのことなんだけど」
月白さんが少し改まった口調で切り出した。
「あんたに、一度会ってみてほしいんだ」
「え……? 月白さんの、お兄さんに?」
予想外の申し出に、私は少し戸惑った。彼女の兄は、彼女にとって複雑な感情を抱かせる存在のはずだ。その人に、なぜ私を会わせたいのだろうか。
「うん。兄さんもね、きっとあんたなら……何か、変わるきっかけをくれるかもしれないって、そう思うんだ」
月白さんの瞳は真剣だった。彼女がそこまで言うのなら、断る理由はない。
「わかりました。私でよければ」
「ありがとう、あんた。今度の週末なんて、どうかな?」
週末、私は月白さんのお兄さんに会うことになった。それが何を意味するのか、まだ私にはわからない。けれど、これもまた、何かの始まりなのかもしれない。そう思うと、少しだけ心が騒めいた。
彼女との会話に夢中になっていて、背後の気配に気づかなかった。
「センパーイ、こんなところにいらっしゃったんスねー」
甲高い声が、カフェの静寂を破った。振り返ると、入り口に霞さんが立っていた。いつもの笑顔を浮かべているが、その目は全く笑っていなかった。口元は弧を描いているのに、瞳の奥には冷たい光が宿っている。月白さんと親しげに話す私を見て、何を思っているのだろうか。
目が合うと、霞さんはゆっくりと私たちの方へ歩いてきた。その足音は、やけに大きく店内に響いた。
「月白さんと、随分と仲良しなんスねー。センパイ、お昼は私と一緒に食べようって約束してたじゃないスかー。忘れちゃったんスか?」
そう言ってから一瞬その余裕そうな表情を崩したが、すぐさま元の顔に戻る。
霞さんが言うような約束をした覚えは全くない。彼女の言葉に、私は冷や汗が流れるのを感じた。目は私をじっと捉えて離さない。その瞳の奥に宿る暗い光が、じりじりと私の心を焼くようだ。カウンターの向こうから、いつの間にか現れた店長が、心配そうにこちらを見ている。
どう切り抜ければいいのだろうか。私の選択が、今後の関係を大きく左右する。そんな予感が、私の背筋を凍らせた。
月白さんは黙って私と霞さんのやり取りを見ている。彼女の表情からは何を考えているのか読み取れない。ただ、その静かな瞳が、私と霞さんの間を微かに揺れ動いているのがわかった。
「センパイ? どうかしたんスか? 私との大事な約束、忘れちゃったなんて言わないっスよね?」
霞さんが一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その笑顔は完璧なのに、目が笑っていない。まるで獲物を追い詰める肉食獣のようだ。私の背中には冷たい汗が伝う。
カウンターの向こうでは、店長が固唾を飲んでこちらの様子を窺っている。助けを求めたいところだが、彼を巻き込むわけにもいかない。
「いや、あの、霞さん、それは……」
言葉が詰まる。どう言い繕っても、この状況を穏便に収めるのは難しいだろう。霞さんの執着心は、私が思っている以上に根深いのかもしれない。
その時だった。
「……約束、なら仕方ないわね」
静かに、しかし凛とした声で月白さんが口を開いた。彼女はゆっくりと立ち上がり、私と霞さんの間に割って入るように一歩前に出る。その小柄な背中が、なぜか今はとても大きく見えた。
「邪魔してごめんなさい。私はこれで失礼するわ。…また連絡して」
月白さんは私にだけ聞こえるような声でそう囁き机の下から私の膝に紙を置いた。霞さんには一瞥もくれず、毅然とした態度でカフェの出口へと向かった。その足取りに迷いはなく、まるで嵐の中を歩く一輪の花のように、どこか気高ささえ感じさせた。
霞さんは一瞬、呆気に取られたように月白さんの後ろ姿を見送っていたが、すぐに私へと視線を戻す。その瞳には、先ほどよりもさらに暗く、そして冷たい光が宿っていた。
取り繕うように霞さんは言う。
「……センパイ。今の女、誰なんスか?」
「え……いや、あの、月白さんは……」私が言い淀むと、霞さんはふっと息を吐き、まるで何かを納得したかのように頷いた。
「ああ……月白さん、ね。なるほど、あれが例の。噂はかねがね聞いてるッスよ。センパイ、あんな風に澄ましだ女がタイプだったんスか? 私、てっきりセンパイは、もっとこう……活発で、一緒にいて元気が出るような子が好きだと思ってたッスよ。センパイって、どちらかというと物静かな雰囲気だから、正反対のタイプに惹かれるのかなって」
霞さんの言葉に、私はドクリと心臓が跳ねるのを感じた。噂とはなんだろう。そして、なぜそれを今、私に言う必要があるのだろうか。霞さんの言葉も、表向きはごく自然な疑問に聞こえる。しかし、その裏に隠された月白さんへの敵意と、私に対する探るような視線は明らかだった。
「……別に、そういう訳じゃ……」
「ま、いいっスけど」
霞さんは私の返事を待たずに話を続ける。
「それよりセンパイ、さっきの、センパイのこと『あんた』って呼んでましたよね? 随分と馴れ馴れしいじゃないスか。センパイも、彼女のこと、名前で呼んでたし……。私、ちょっと妬けちゃうっスなぁ」
月白というのは、苗字で名前では無い、と言おうとすると霞さんは私の腕に自分の腕を絡ませてくる。その力は意外なほど強く、振りほどけそうにない。柔らかな感触と甘い香りが鼻をくすぐるが、それとは裏腹に、背筋には言いようのない悪寒が走る。
「さ、センパイ。私たちも行きましょう? せっかくのお昼休みなんスから、二人っきりで、ね?」
霞さんは私の顔を覗き込むようにして微笑む。その笑顔は、私が最初に見た時の、あの太陽のような明るさとはかけ離れた、何か別のものに変わり果てていた。
店長に小さく会釈だけして、私は霞さんに引きずられるようにしてカフェを後にした。
その後、霞さんと二人きりで過ごした昼休みは、生きた心地がしなかった。彼女は終始上機嫌で、私の好きな食べ物や趣味について矢継ぎ早に質問してきたが、私は当たり障りのない返事を繰り返すのが精一杯だった。彼女の言葉の端々には、私への強い独占欲が滲み出ていて、息が詰まりそうだった。
放課後、疲れ果てて家に帰った。鍵を開けて中に入ると、家の中はしんと静まり返っている。姉は今日は帰りが遅いのだろうか。好都合だと思った。今の私は、誰とも顔を合わせたくなかった。
自分の部屋に入り、鞄を放り投げるようにしてベッドに倒れ込む。ずっしりと重い疲労感が全身を包み込み、瞼が自然と落ちてくる。霞さんのあの笑顔、月白さんの憂いを帯びた横顔。今日一日の出来事が、頭の中でごちゃ混ぜになって渦巻いていた。
(……母さん……)
不意に、心の奥底からその言葉が湧き上がってきた。天井の木目を見つめていると、遠い昔の記憶が、淡い陽炎のように揺らめきだす。
母さんは、いつも優しかった。私がどんなに拙い言葉で話しても、どんなに奇妙な質問をしても、決して馬鹿にすることなく、真摯に耳を傾けてくれた。あの頃の私は、もっと素直で、もっと多くの言葉を持っていたような気がする。母さんの前では、私はただの「私」でいられた。活発に外を駆け回るのが好きな私を、母さんはいつも「元気があっていいわね」と目を細めていた。大人しく部屋で黙々と絵本を読んでいる私を、邪魔することなくそっと温かい目で見守ってくれていた。「空は空のままでいいのよ」と、そう言ってくれた温かい声が、今も耳の奥に残っている。あの頃の自分が、今の自分よりもずっと「自分らしかった」ような気がして、胸が締め付けられる。
紙飛行機を一緒に作った日のことを思い出す。「魔法なんてものはなくて、そう思っていたものはすべて知識だったり技術なの」。そう教えてくれた母さん。でも、あの時の私にとって、母さんの言葉そのものが、まるで魔法のようにキラキラと輝いて見えたのだ。母さんがいれば、どんなことでもできるような気がした。母さんの手は温かくて、その手に引かれて歩く道は、どこまでも明るく照らされているように感じた。
でも、あの事故で全てが変わってしまった。母さんを失った喪失感は、私の心にぽっかりと大きな穴を開けた。そして、その穴を埋めるように、曖昧な霧が私の記憶を覆い始めたのだ。大切なはずの記憶が、まるで古びた写真のように色褪せていく。今の自分が、本当に母さんの知っている「私」の延長線上にいるのか、時々わからなくなる。何か大切なものを見失ったまま、ただ時間だけが過ぎていくような焦燥感。それが、今の私を苛んでいた。
(母さんがいたら……今の私を見て、なんて言うだろうな)
きっと、またあの優しい笑顔で、「空は空のままでいいのよ」と言ってくれるのだろうか。それとも、今の私のこの頼りない生き方を、少しだけ心配するのだろうか。
答えは、もう聞けない。
ただ、母さんが残してくれた温かい記憶だけが、この冷え切った部屋の中で、私を微かに慰めてくれる。それはまるで、凍える夜に灯る小さな蝋燭の炎のようだ。いつか消えてしまうかもしれない、儚い光。それでも、私はその光を未だに手放すことができないでいた。きっともう消えてしまう頃なのに、酸素という名のエゴをかき集めて、無理やり灯し続けている。
その夜、私は自分の部屋で、月白さんから「大切なきょうだいに会ってほしい」と言われたことを思い出していた。彼女は「兄だったか、姉だったか、それすらも曖昧で、思い出そうとすると霧がかかったように記憶がぼやけてしまう」と言っていた。「でも、確かに自分にはそういう存在がいて、その温もりを今でも探しているのだ」と。
私自身も、自分の過去の記憶は曖昧だ。特に、母親が亡くなった事故の頃のことは、靄がかかったように思い出せない。ただ、漠然とした喪失感と、家族の温もりを求める気持ちだけが、心の奥底に燻っている。姉は事故の時も一番すぐ側にいてくれた、私にとって唯一の家族のはずなのに、時々、本当にそれだけだったのか、と説明のつかない感覚に襲われることがあった。
月白さんの言う「きょうだい」とは、一体誰なのだろうか。そして、彼女が私に会わせたい理由は何なのか。彼女もまた、私と同じように、記憶の断片を求めて彷徨っているのだろうか。彼女が時折見せる記憶の揺らぎは、私自身の心の曖昧さとどこか通じているような気がしてならなかった。
週末、約束通り月白さんと会うことになった。彼女に指定されたのは、少し離れた公園の入り口だった。
待ち合わせ場所に着くと、月白さんはすでにベンチに座って私を待っていた。今日の彼女は、白いワンピースを着ていて、その姿は儚げで、息を吐けば、その風で飛んでいってしまうようだった。
「ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たとこ」
月白さんは立ち上がり、私に向き直る。
「……その、今日はありがとう。兄……ううん、やっぱり姉だったかもしれない……。よく覚えていないんだけど、でも、きっと大切な人だったはずなの。その人に、あんたを会わせたくて」
彼女は少し寂しそうに、でもどこか期待を込めた目で私を見た。その表情を見ていると、私の中の何かが微かに疼く。それは懐かしさにも似た、けれど思い出せないもどかしさを伴う感覚だった。
「大丈夫だよ。気にしないで」
私たちは公園の中へと歩き始めた。木漏れ日が優しく降り注ぎ、鳥のさえずりが聞こえる。穏やかな時間だった。けれど、私の心の中には、これから会う月白さんの「きょうだい」への緊張と、そして自分自身の曖昧な記憶への不安が渦巻いていた。
公園の奥、大きな木の下。そこが待ち合わせ場所らしかった。しかし、そこには誰もいなかった。ただ、木漏れ日が地面に揺れているだけだ。
「……あれ?」
月白さんが不安そうに呟く。
「おかしいな……ちゃんとここでって言われたんだけど……」
彼女は何度も周囲を見回すが、それらしき人物の姿は見当たらない。時間だけが静かに過ぎていく。
太陽という筆が、空というキャンバスに最後の一筆を走らせている。鮮やかな朱が西の雲を焼き、世界はひととき、火のようにまどろんだ。 「もしかしたら、何か急用ができたのかもね」
私がそう言うと、月白さんは俯いてしまった。その肩が小さく震えているように見える。その姿は、まるで迷子になった子供のようで、私の胸を締め付けた。
「ごめんね、あんた。わざわざ来てもらったのに……」
声が震えている。
「ううん、気にしないで。こういう日もあるよ」
私は努めて明るく言ったが、月白さんの落胆は明らかだった。彼女にとって、その「きょうだい」という存在は、それほどまでに大きなものなのだろう。その消え入りそうな背中を見ていると、私自身の胸にも、言いようのない喪失感が込み上げてくる。私もまた、何か大切なものを失い、それを探し続けているのかもしれない。
「……なんだか、懐かしい気配がしたような気がしたんだけど……気のせい、かな」
月白さんは、何もない空間の一点を見つめ、ぽつりと呟いた。その瞳には、深い悲しみと、そして諦めにも似た色が浮かんでいる。彼女は幻を見たわけではない。ただ、心の奥底にある、失われた記憶の残滓が、この場所で微かに揺らめいたのかもしれない。そして、その揺らめきが強ければ強いほど、現実との間に横たわる「不在」という事実が、彼女を打ちのめしているように見えた。
私は、そっと月白さんの隣に立ち、同じように木漏れ日が揺れる地面を見つめた。確信があったわけではない。けれど、彼女の言葉の端々や、今日のこの結末、そして何より私自身の胸に去来するこの感情が、一つの可能性を示唆しているように思えた。
「月白さん」
私は静かに呼びかけた。
「その……月白さんが会いたかった人、もしかしたら、もう、ここには来ないのかもしれないね」
月白さんの肩が、びくりと震えた。彼女は顔を上げず、ただ俯いたまま、小さく頷いたように見えた。
「うん……そんな気は、してた。ずっと前から……心のどこかで」
絞り出すような声だった。その声には、長年抱え込んできたであろう悲しみと、それでも捨てきれなかった僅かな希望が、複雑に絡み合っていた。
「でもね」私は続けた。
「たとえもう会えなくても、その人を大切に思う気持ちは、ずっとここにあるんじゃないかな。月白さんが覚えている限り、その人は、月白さんの中で生き続けるんだと思う」
それは、私自身が母に対して抱いている思いでもあった。姿は見えなくても、声が聞こえなくても、記憶の中で母は生きている。そして、その記憶が、今の私を支えてくれている。
月白さんはゆっくりと顔を上げた。その瞳は涙で潤んでいたけれど、先ほどまでの絶望の色は少し薄らいでいるように見えた。
「……私の中で、生き続ける……」
「うん。だから、無理に忘れようとしなくてもいいんじゃないかな。悲しい時は悲しんでいいし、会いたい時は、その人のことをたくさん思い出してあげればいいんだと思う」
私は不器用な言葉しか紡げなかったけれど、月白さんは黙って私の言葉を聞いていた。やがて、彼女の唇から、ふっと小さな息が漏れた。
「……ありがとう。なんだか……少しだけ、救われた気がする」
そう言って、彼女は微かに微笑んだ。その笑顔はまだ弱々しかったけれど、そこには確かな光が宿っていた。
私たちは歩き出し、一度、誰もいない待ち合わせ場所を見つめた。茜のひかりが、辺りをやわらかく染めていく。
世界はまるで、誰かの思い出のなかに沈んでゆくようだった。
カラスの声が穏やかに響いている。とうに醜さを失って、美しく夕焼けを描写している。
失われたものは戻らないのかもしれない。けれど、残された想いは、こうして誰かと分かち合うことで、少しずつ形を変えていくのかもしれない。そんなことを、私はぼんやりと考えていた。