ことね「元アイドル志望にVtuberは荷が重いデス……」   作:とるてぃーや

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第14話 真剣になるということ

 意味が分からなかった。あたしがトレーナーになることすら拒否した平田が、なんで急にそんなことを言い出したのかが。今までの態度からして、あたしが表に出るのをものすごく嫌がりそうなのに。

 表情を確認してみても、いつもの仏頂面で相変わらず考えが読めない。

 

「ああ、ことねから聞いたのか!」

 

 混乱の最中、峰岸さんの声が聞こえて顔を上げる。そのニンマリとした顔を見た瞬間、あたしと平田が和解してるって勘違いしてると気づいた。

 

「そう、実はライブの終わりにサプライズでデビュー発表しようと思っててな。今モデルの準備中なんだよ」

 

 とうとうデビューのことまで言っちゃった。遅かれ早かれではあったけど、この形は予想外だった。

 

「ふーん、なるほどね」

 

 あたしがやたらと不仲を解消しようとした理由に気づいたらしい。納得と言わんばかりに一瞬だけ視線がこっちに向いた。あたしもあたしで眉間に力が入ってたと思うけど、向こうからはなんの反応もなかった。

 ちなみに峰岸さんは上機嫌過ぎてこの奇妙な空気に気づく様子はない。

 

「そこでライブもやるわけ?」

「そりゃそうよ! 元々それ目当てだったんだからな。言っとくけど、マジで上手いんだからな?」

「へえ。そこまで言うなら、なんか見せられるもんないの?」

「あるぞ。この前、テストでモーションキャプチャースタジオで撮ったやつが……」

 

 平田は平田でどんどん話を先に進めちゃうし。

 峰岸さんは、嬉々とした様子であのときの動画を流し始めてしまう。それを、平田はマジマジと見つめていた。

 

 ……興味あんの? あの平田が、あたしが踊っている動画を?

 

「……ことちゃん。もしかして、ちゃんと話せたの?」

 

 しょっちゅうチャットをしていて、あのテスト映像も含めてあたしの状況を全部知っている詩歌の問いに対して、あたしは否定の意を示す。

 詩歌も戸惑ってるみたいで、平田が到着したときは不機嫌な小犬みたいになってたのに、今はすっかりいつも通りだ。

 

「ぜーんぜん。あたしもなにがなんだか」

「気のせいかもだけど……前会ったときより、あんまり怖くないかも」

「んー、まぁね……」

 

 つっても、言葉が強いやつの相手は手毬で慣れてるから、元々そこまで気にはしてなかったけど。

 それはそうと、こうなった理由について考えてみる。最近あったことなんてバスケしたくらいだけど、あれってなんか関係あるのだろうか。ない気がするんだけどなぁ。……分かんねぇ~。

 

「藤田」

 

 どうやら動画を見終わったらしい。平田が戻って来た。

 

「なに?」

「アンタ、本気でデビューするつもりなの?」

 

 前置きもなにもなく、ストレートに聞いてきた。目の奥まで見えそうなくらいばっちしと目が合うけど、そこからはあたしを馬鹿にしているような感じは伝わってこない。

 むしろ、その逆で……あたしは目を逸らさずに、堂々と言い返した。

 

「そうだよ。ずっと悩んでたけど……もう、逃げたくないから」

 

 身長差があるせいか、あたしを見下ろす平田はまるで巨人のようだ。ただ、そこから怖いって雰囲気は感じない。例えるなら、有名なお寺の大きな仏像を見たときみたいな、背筋が自然と伸びちゃうあの感じ。

 ……横の詩歌が嬉しそうな顔をしてるのが分かるけど、ちょっとそれどころじゃないからそのまま静かにしててほしい。

 

「じゃあ、証明してよ」

「証明? なにを?」

 

 次から次へと話が飛ぶなと思いつつ、大人しく耳を傾ける。峰岸さんも詩歌も黙って見守ってくれているのが分かる。

 多分1秒もなかったけど、次の言葉が出てくるまでの間が異様に長く感じた。

 そして、平田はそれまでずっと見せてなかった煽り気味の笑みを浮かべるのだった。

 

「──アンタが、本気でアイドル目指してたってことを」

 

 ピリッと、部屋の中で電気が走った気がした。あんだけあたしが初星に行ってたことを馬鹿にしてたのに……いきなり、真正面から挑戦状を叩きつけられた。あたしはそれを突き返すでも受け取るでもなく……慎重に言葉を選ぶ。

 

「……急にどうしたわけ、マジで? それがなんの関係が……」

「なんだっていいでしょ。それともなに? やっぱ本当は遊んでました、って言うつもりなの?」

 

 そんなわけない。できることは全部やってた。そりゃ、あたしは自分のこと今でも可愛いって思ってるけど、それだけでアイドルやっていこうとしたわけじゃない。

 それに、最近はちゃんとそれ以外の自分も信じようとがんばっている。詩歌や峰岸さん、そしてネットを通して、あたしは自分の可能性を知った。

 

「そうじゃないっていうなら、見せてみろって言ってんの。アンタの本当の実力を」

「……今、映像見たんだよね? それで十分な気がするけど」

 

 詩歌が反論する。テスト映像に対する反応がなくて、不満だったのかもしれない。顔が小犬に戻っている。

 だけど、平田は「そうじゃない」とすぐに首を振る。

 

「あんな社外秘の映像、アタシたち以外の誰にも見せられないでしょ。配信みたいな誰でも見れて、誰でも評価できる場所で証明しろって言ってんの」

 

 言い返せなかったのか、詩歌は黙り込む。実際、それは紛れもない正論だった。

 

 ……そうだ。平田の言う通りだ。まだ結果を出したわけじゃない。このままじゃ、初星にいたときと変わらない。自分がダイヤの原石だってステージで証明できなかったら、可能性なんてあってもなくても同じなんだ。

 

 だから、証明する。このデビューで。Vtuberという新しいステージで。あたしは逡巡の末、平田からの挑戦状を乱暴に掴み取る。

 

「……分かった、見せてやんよ。一番星に憧れた、あたしのマジの気持ちを」

 

 腹の底から声を出して、改めて宣言する。その道の人たちにも、峰岸さんにも背中を押されたんだ。こんな臆病なあたしでも、勇気が出せるくらいに。

 

「あっそ。だったら、1つだけ提案。アタシのライブパートの演出は、他の人に頼むから」

「「え?」」

 

 峰岸さんと声が重なった。ということは、平田の独断っぽい。でも、いきなりどうした? そういうこと言われるかなって最初は思ってたけど、なんでこのタイミングで?

 

「さっき自分でギリギリだって言ってたでしょうが。自分のデビュー曲があんなら、そっちを優先しろってんの。でないと、意味ないでしょーが」

「お、おう……そゆことデスか」

 

 あたしを気遣ってたのか。なんか、こうも突然態度変えられると調子狂うな。

 

「構わないよね、社長さん?」

「そうゆうことなら構わねーけどよ、アテはあんのか?」

「MV用に探してた人がちょうどいるから、その人に頼むつもり」

 

 準備いいな。あたしよりずっと事務員向いてんじゃねーの? って、そうか。これからは事務の補充も考えた方がいいのか? 後で相談しないと。

 

「……ねえ、平田さん」

 

 経過を見守っていた詩歌が平田に声をかける。その声は、どこか申し訳なさそうだった。

 

「なに?」

「その、ごめんなさい。ちょっと、誤解してたかも」

 

 別に誤解じゃないと思うけどなぁ。嫌味ったらしかったのはマジだし。

 そして、それを聞いてなお表情を崩さない平田のふてぶてしさは逆に尊敬した方がいいのかもなぁ。

 

「ま、アンタは見るからに藤田とベッタリだったからね。いい気分じゃなかったでしょうね」

「……ことちゃんがいなかったら、今のわたしはないから。なにがあっても、ことちゃんの味方になるって決めてるの」

 

 そういうことは、本人の前で言わないでほしいんだけど。冷房が効いてる中、手で顔を扇ぐ。

 

「ふーん。言っとくけど、別にまだ認めたわけじゃないから」

「うん、分かってる。でもことちゃんなら絶対大丈夫だから。同接も、すぐに追いつくと思う」

「へえ、言うじゃん」

「~~っ、おい詩歌……!」

 

 無理やり詩歌を平田の側から引っぺがす。くそ、平田の視線が痛ぇ……詩歌は「?」を浮かべるばかりでなにも分かってねぇし。

 

「そういうわけだから、しっかりやってよね。これで言い訳とかしたら、マジで軽蔑するから」

「分かってるっての! 勝手に話進めやがって……こうなったら見てろよ~! 絶対に世界一可愛いって言わせてやるっ!」

「いや、言わないから」

 

 そんなこんなで、話はまとまった。それからは今後のスケジュールや段取りに関する共有を行ってから、解散となった。

 と言っても、すぐに帰ったのは平田だけで、あたしたちは事務所に残ったままだった。そんな中、あたしは峰岸さんから謝罪されてしまう。

 

「早とちりで話進めちまって、悪かったな」

「まあ、結果オーライですよ。ずっとチャンスがなくて困ってましたし」

 

 そんなことかと思いながら、軽く流す。もしかしたら、平田を事務所に引き入れたときと同じ失敗だったのを気にしてたのかもしれない。

 

「よかった。これで一緒にちゃんとしたコラボができるね」

「いやぁ、あはは……お手柔らかにね。あたし、パソコンのゲームはさっぱりだし」

「大丈夫だよ。ちゃんと一から教えるから……!」

 

 両手で握り拳を作り、気合十分だとアピールする詩歌。ったく、気が早いっての。

 

「再確認するけど、本当に3曲担当で大丈夫か? もし大変なら、ユニットの分も外注でも……」

「いえ、大丈夫です……! もう色々とアイデア出てきてるんで、どーんと任せてくださいよ!」

 

 目下の悩みが解決したからか、頭が冴えに冴えまくっている。この調子なら、すぐにでもまとまる気がする。

 

「あ、それとあたしの曲なんですけど、実はこういうこと考えてて……」

 

 さっき思いついたばかりの演出を相談する。それを聞いた峰岸さんは、なるほどと手を叩く。

 

「いいんじゃねーか? コツを掴むまで、ちょっと練習いると思うが」

「それくらいへーきですよ! じゃあ、それの準備もお願いしますね! それと、あたしのモデルも楽しみにしてます!」

 

 既に2Dのモデルは見せてもらった。ちょっと予想外なデザインの部分もあったけど、それもVtuberらしいなって感じで、名前も含めてかなり気に入っている。

 早くその日が来ないかなと、らしくもなくワクワクするくらいには。

 これが藤田ことねにとって、積み上がっている筈のものを証明できる最後のチャンスなのは間違いない。再びステージに挑むことに対して、失敗しちゃったときのイメージが何回も思い浮かぶくらいには、怖くもある。

 けど、やっぱりこういうことがあたしのやりたいことなんだと思った。挑戦してみるのって、こんなに楽しいことだったことを思い出した。

 初星での最後の1年は確かにマジでしんどかった。でも、過労でもレッスンを詰め込めちゃうくらい、充実もしていたんだと思う。最近、現代文の時間に読んだ小説に志の高い苦学生が出てきたけど、気分的にはそれが近かった。いや、苦学生だったのはほんとだけど。

 

「詩歌も歌の練習、よろしくね。あたしも、ぜったいに前よりもすごい演出考えるから!」

「うん、ありがとう。わたしもがんばるね」

 

 半年前と違って、詩歌は難しい振り付けじゃなかったら相応に動けるようになってきた。つまり、表現の幅が広がったってことだから、MVのときに諦めたたくさんのことを詰め込める。

 そっちもそっちで、楽しみだ。

 

 やる気は十分。よーっし、やってやるぞー!

 

***

 

 それからの日々は目まぐるしく過ぎ去っていった。演出を完成させて、それの検証が終わってからはレッスンに次ぐレッスン。

 ボーカルレッスンでは同じようなミスを何回も指摘されながらも、詩歌はダンスでめげなかったからと自分を励まして、少しずつ修正していった。

 ダンスにはかなりの時間を割り当てた。昔の自分が万全だったとしても敵わなくなるくらいになってやると、学校での昼休みですらコソコソ隠れて練習した。いつぞやの体育倉庫裏が、こんなに便利だとは思わなかった。

 モーションキャプチャーの癖みたいのも研究した。MVと違ってリアルタイムで動くから、後々の調整が難しい。リアルタイム風の映像を用意するパターンもあるらしいけど、今回はガチのリアルタイムで挑むらしい。だから、現実での動きとモデルへの反映のされ方の違いは、しつこく確かめた。カメラ目線のつもりでも、モデルがそうじゃなかったら困るから。

 

 その多忙さはお母さんに心配されるほどだったけど、去年までと違ってちゃんと休んでるし、食事もがんばってバランスよく取るようにしてる。だから、大丈夫だと思う。

 ……授業中の居眠りが偶にあるのはご愛嬌ってことで。これでも一応、成績はよくなってるし。

 

 時間は流れる。電車の外を流れる柱のように、あるいはパラパラと雑誌のページをめくるように。気づいたら、ライブの日まで1週間を切ろうとしていた。

 

 どんな隙間時間でも準備に使いたい。それは、家にいるときでも同じだった。

 夕食後、片づけはいいからとお母さんに台所から追い出されたあたしは、トレーニングウェアに着替えてから台所に戻ってお母さんに声をかける。

 ちびたちは今お風呂なのか、そっちの方からは楽しそうな声が聞こえてくる。

 

「じゃあ、今日も行ってくるね」

 

 お風呂に入るまでの少しの間だけど、あたしは帰宅してからも外で練習するようにしている。最初は危ないからと心配されてたけど、これでもちゃんと安全な場所を選んでいる。次第に「気を付けて」としか言われなくなった。

 

「分かった。気を付けてね」

 

 ほらね?

 

「分かってるって。お母さんこそ、配信の日覚えてる?」

「もう、分かってるわよ。14日の4時でしょ?」

 

 当たり前だけど、お母さんはあたしがVtuberとして活動しようとしていることは知っている。そこらへんは契約の話とかもあるから、早めに峰岸さんも入れて話してある。Vtuberという概念を理解してもらうのに、ちょっと苦労したケド。

 説明自体は大変だったけど、挑戦に関してはすんなり受け入れてくれた。少なからず負担はかかる筈なのに、お母さんは相変わらず優しい。初星のときも、こんな感じだった。

 まあ、あのときと違って、今回は学費みたいな追加の費用がかかるわけじゃないし、そもそもバイトも続いてるから家計に負担はかからない。そういう意味では、まだ気楽な方だ。

 

「練習はどう? 順調?」

「えーっと、感触は悪くないかな。ギリギリまで詰めたい部分はあるけど」

 

 答えながら、冷蔵庫からスポドリを1本取り出す。かなり涼しくなってはきたけど、一応ね?

 

「初星に行ってたときも、こんな感じだったの?」

「えー? 初星んときは、バイトがあったから。だから休憩中とか、シフト終わりに土手とかで練習してたよ」

 

 今思い返せば、無茶苦茶だったなぁって思う。せっかく高等部になってレッスン室が使いやすくなったのに、それが使える時間に練習してなかったわけだし。

 

「……ねえ、ことね」

「んー、なーにー?」

 

 あ、やべ。イヤホン忘れた。取りに戻らないと。

 そう思い、自室に引き返そうとしたときだった。

 

「今、ことねは楽しい?」

「……え? まあ、ぼちぼち……だけど……」

 

 見えない糸に背中を引っ張られたみたいに、その場で立ち止まる。ただの雑談かと思ったのに、声のトーンがやけに弱々しかったのが気になった。振り返ると、シンクの近くに立っていたお母さんは、ライトの角度のせいで思っている以上に暗い顔をしていた。

 ぎょっとしたあたしは、慌てて近寄る。

 

「ど、どうしたの急に……ほんとに楽しいよ?」

 

 無理しているように見えたかな? 昔はそうだったけど、今はほんとに違う。ちゃんと休めてるって伝えてみるけど、顔色が変わらない。

 なにがそんなに心配なんだろうと考え込んでいると、お母さんは唇を震わせながら呟いた。

 

「お母さんたちね……ずっと、ことねに謝りたかったの」

「は? ぇ、いや……どうして? それはあたしが……」

 

 なにを謝るって言うんだろう。家族にひどいことをしたのはあたしで、お母さんたちはずっとあたしを支えてくれただけだ。そのせいで、借金に加えてお父さんまでいなくなったのに。謝るのはあたしの方だし、実際逃げ帰ってきたときは何回も謝り倒した。

 

「ううん、そうじゃないの。本当はそんなこと、ことねが気にすることじゃないの」

 

 なのに、お母さんは違うって言ってくる。優しい声なのに、有無を言わせぬ力がこもってて、あたしはそれ以上の反論ができなかった。

 

「子供の夢を支えるのが親の仕事なのに……お母さんたち、全然だった」

 

 それは、まるでドラマで見た懺悔のようだった。声が激しく震えていて、最後の方の言葉は形になってなかった。ちびたちが騒いでいるせいで、余計にその悲愴さが際立った。

 突然のことに、あたしはその場から動けない。ただ、呼吸がやけに息苦しい。体が強張っていた。声の震えに共鳴するように、魂が揺れた気がした。

 

「ごめんね……最後まで支えてあげられなくて、ごめんね……」

「ぁ……」

 

 あたしもよっぽど動揺していたらしい。人肌に包まれるまで、お母さんの接近に気づかなかった。背中に回されている両腕に、ギュっと力が入った。あたしはなすがまま、両手をブランとさせながら抱きしめられていた。

 トクン、トクンと……お母さんの心臓の音がよく聞こえる。

 

 この歳でこれは流石に恥ずかしいとか、ちびたちが上がって来たらどうしようとか、そんな考えはすぐにどっかに行ってしまった。

 懐かしすぎるこの感覚に、あたしは浸りきっていた。どんどん体から力が抜ける。

 ……心の栓も、緩んでいく。ずっと閉じ込めていたなにかが、滲んでくる。振った炭酸のボトルを少し開けたみたいに、隙間から遠慮なく溢れ出す。

 

「違うの……っ! あたしが、もっと早く結果出してればよかっただけなのに……!」

 

 それができるだけの力はあった筈だった。最近、これでもかというくらい実感した。

 ここ2カ月の取り組みで、やっと分かったことがある。あのとき咲季があたしに「バイトしてる場合じゃない」と言っていたことの本当の意味を理解した。

 

 あのときのあたしは、まだ真剣になりきれてなかった。持てる時間の全てを費やすということが、できてなかった。人生を懸けてアイドルを目指せてなかった。そういう意味では、平田が言っていたことも間違ってない。

 ほんとにバイトなんかしてる場合じゃなかった。咲季がやってたみたいにみっちり練習して、バランスのいい食事を摂って、しっかり休むべきだった。

 それくらい、ここ2カ月の伸び方には自分でも驚いている。今なら、『初』くらいなら絶対突破できる自信がある。

 

 ──バカなんだ、あたしは……! 目先のことばっか考えて、大事なことをすぐに見逃す……!

 

「ごめんなさい……! あたしがバカで、ごめんなさい……っ!」

 

 目の前のエプロンに顔を押し付ける。真っ暗な視界の中、熱いものがジワリと染みこんでいく。もう止まらない。洪水が溢れ出す。両手でエプロンを握る。保育園に戻ったみたいに、肩を揺らして泣きじゃくる。それでも、嗚咽だけは必死に堪える。ちびたちがお風呂でほんとによかった。こんなお姉ちゃんの姿、絶対に見せられない。

 

 背中をさすられる。あったかい……安心する匂い。さすられる度に、心が軽くなる。底なし沼みたいに奥底でドロドロしていた黒いものが、涙と一緒に洗い流されていく。

 

「でも、今度は絶対に大丈夫だから。練習は大変だけど毎日楽しいし……マジの本気だから。だから配信……ちゃんと見てね」

 

 決意を新たに。1回ギュっと固めたそれを、もう1回強く押し固める。ダイヤモンドができちゃうくらい、思いっきり。

 

 溜まってた涙が全部流れ出るまでずっとそうしてもらいたかったけど、ちびたちが出てくる前にあたしの方から離れた。

 それから予定通りに練習に行ったけど、動きがいつも以上に軽やかだった。気持ち1つでこんなに変わるんだと、夜の空が真昼間に見えるくらい心は明るかった。

 

***

 

 とうとうこの日が来た。車の助手席から出た途端、すっかりと冷え込むようになった朝の空気に触れて身が引き締まる。

 数カ月ぶりのスタジオだ。あのときは好奇心的なワクワクが強かったけど、今は違う。今のあたしにとって、この場所は初星の講堂と同じだ。Vtuberとしての今後のあたしを決める、決戦場。

 後部座席のドアが開く。一緒に移動していた詩歌と……平田が出てきた。その平田と、視線が合う。話すことはなにもない。今日の結果で、全部示す。それが伝わったのか分からないけど、平田は楽しそうな笑みを浮かべる。あたしも、同じように返す。

 

 見せてやる……この2カ月で、あたしがどれだけ成長したかを。この4年と半年で、なにを積み上げてきたかを。

 アスファルトの地面を強く踏みしめ、スタジオの中へ歩いて行くのであった。

 

 

 

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