ことね「元アイドル志望にVtuberは荷が重いデス……」 作:とるてぃーや
配信越しでも伝わる張り詰めた空気の中、アクタースーツを着たあたしは控室からノーパソに映る画面を凝視する。人手の問題で、出番までは配信の監視はあたしの役目だ。
接続に問題はない。待機画面はしっかり映ってるし、コメントもちゃんと流れてる。そんな中で驚きなのは、その同接数だった。
配信は完全に無料で公開しているとはいえ、ライバーが2名しかいない事務所とは思えないほどだった。それだけ、2人の人気が高いってことだ。
……そこに、あたしも飛び込む。あと30分後くらいに。
ぶるりと、体が芯から震える。緊張してるだけなのか。それともこれが武者震いってやつなのか。それだけ、あたしも楽しみってことなのかな?
……時間になった。画面が切り替わり、OPが流れ始めた。配信の操作やリアルタイムでのライブの演出はスタジオのスタッフさんたちの役目になる。よろしくお願いします、と心で唱えておいた。
画面が暗転。瞬間、シーンはバーチャルのステージに切り替わるけど、まだなにも見えない。
コメント
:キタ!
:はじまるー!
:お?
コメントが加速する。前も同じことを思ったけど、この絶妙な距離感での一体感が、堪らなく好きだ。緩やかに繋がるSNSの良いところが、前面に出ている。
この一体感をあたしにも向けてほしい。そうなってもらえるように、楽しませたい。いつの間にか、あたしはVtuberという文化に夢中になっていた。
──2人とも、ファイト。
心の中でエールを送る。あんなに嫌なやつだと思ってたのに、あたしってやっぱチョロいなぁって思いながら。
……真っ暗闇の中、一筋の光が差し込む。それは1人分のシルエットを映し出す。カールを帯びた長い髪。やや丈の短い、レース付きのスカートが印象的だ。そのシルエットはなにかを求めるように、天に手を伸ばしている。
光が弾けた。無数のビームが交差する。極光から姿を見せたお嬢様──『エリカ』は、止まっていた時が動き出したかのように舞い始めた。裾がフワリと花開く。フィギュアスケーターのような綺麗なターンを決め、優雅なリズムに難なく乗る。
──マジか。これでダンス初めてって、ほんとかよ。
同じ高校に通ってるから、クラスが違ってもアイツのことは嫌でも耳に入ってくる。3年がいるときからバスケ部の主力で、今年の県大会もいいところまで行ったらしい。
でも、それにしたってすげー成長速度だ。詩歌のときを知ってるから、余計にその差が目立つ。小学校のころからバスケに限らずなんでも上手かったけど、こりゃ相当練習したに違いない。
演出も、プロに外注しただけある。ライトの使い方、カメラワーク……CGならではの贅沢なエフェクト。どこを取っても参考になる。そして、当然のように歌も上手い。これは見入っちゃう。
配信上の熱気が増す。まだ冒頭なのに、投げ銭の勢いが止まらない。これが現実だったら、今ごろチャリンチャリンとそこら中が小銭で埋まっていたかもしれない。
歌もダンスもマジで上手い。それに初めてのライブとは思えないくらい、動きの1つ1つが自信に満ちている。腕を振れば花びらが舞い、声を震わせればコメントが湧く。シルクの銀髪が揺れる度、振り撒かれる銀粉でステージが煌めく。
プロのステージにふさわしい、圧巻のパフォーマンスだ。人気の個人勢だったのも納得だ。もしかしたら、2カ月前までの自分だったら危なかったかもしれない。
──でも、今なら。
ビビりつつも、確かな自信を持って、平田のステージを最後まで見守った。曲が終わるころにはSNSで情報が拡散したのか、同接がさらに増えていた。既にこのイベントの成功を確信しつつ、続く詩歌のステージを見守った。
詩歌のステージもすごかった。以前よりさらにパワーアップした歌唱力を引っ提げて、『エリカ』のパフォーマンスに熱狂していた観客の目の色を一瞬で変えた。リスナーたちも大したもので、コメント欄のサイリウムの色が瞬時に切り替わった。
今回もバラードに近い選曲だけど、前回よりもアイドルソングに近いものを選んだ。雰囲気は『初』に似てるかも。
かつては生まれたての小鹿にも負けそうなフラフラダンスを披露していた詩歌だったけど、それは過去の話。軽快なテンポのステップからターンを決めた瞬間、心が躍った。
これまでの努力の結晶が、まばゆく輝いていた。『ことカス』の活躍に、古参も新規も湧いていた。
──そろそろ、アップしよっかな。
詩歌の曲が終わる。次にユニット曲に入って、MCを挟んだら……いよいよあたしの番。2人があれだけ配信を盛り上げたんだから、あたしも負けてられない。
そう思い、配信は流したまま立ち上がった。軽く体を動かして、振り付けとか声の調子の最終確認をする。そういうつもりだった。
──なにか喉元に込み上げるものを感じ、咄嗟に口元を押さえる。
「っ……うぇ……っ!?」
突然胃が踏み潰されたような不快感。幸いなにかを戻すことはなかったけど、吐き気が続く。朝は少なめにしたのに、なんで……?
鏡の前で手を突いて下を向く。深呼吸を繰り返す内に、次第に落ち着いてきた。
だけど、続けて異変が体のあちこちに現れる。見えない毒ガスが、知らぬ内に充満していたみたいに。
「はぁ……っ……はあ……」
心臓が痛い。それに、全身に泥がまとわりついているような重圧。おかしい……緊張だけじゃこうはならない。そんなことを考えていたあたしの脳裏に、最終審査の光景が蘇った。
──『はい、ありがとうございました』
「っ、この……」
またかよっ……! いつまで引きずってんだ、あたし……っ!
原因は分かったのに、どうしようもなかった。
審査が終わった直後の白けた空気。目の前にシャッターが落ちたあの感覚。
……またああなるんじゃないか。
あたしはその場でしゃがみこみ、両手で自分自身を強く抱き締めた。周囲には……誰もいない。
──お父さん……っ。
あのあったかくて、大きな手を思い出す。肩車をしてもらったときの高揚感は今でも覚えてる。あのときみたいに、力強く持ち上げてほしい。
……でも、お父さんはもういない。他でもない……あたしのせいで。お母さんがなんと言おうと、それだけは変わらない。あたしが……ぶち壊した。
もうすぐ、曲が終わる。その後のMCが終わったら、出番だ。
……行かないと。そう思うのに、体は鉛になったみたいに動かない。それどころか、寒気まで感じてきた。吹雪に晒されたように、鉛の体が冷えていく。
もう……無理かも。そう思ったとき、部屋の中でメロディーが反響した。
「なに……?」
聞き覚えのあるメロディー。そうだ……スマホの着信音だ。耳を澄ませると、バイブレーションが台を小刻みに叩く音も聞こえてきた。
……お母さん?
現実に引き戻されたおかげか、呪いが解ける。突然自由になった足で歩み寄り、手に取る。表示されていたのは知らない番号。迷惑電話の警告は出てないけど、いつもは無視してる。
……なのに、なぜだかそんな気になれなかった。手の中でスマホが震えるのを感じながら、画面を凝視する。出るべきか、出ないべきか。親指が応答のアイコンに伸びたまま、動かない。
コール音が何度も繰り返された。もう間もなく、自然と電話が切れてしまうかもしれない。
……もしここで切れたら、きっともうかかってこない。そう直感したあたしは、ついに意を決して通話に出た。
「……もしもし?」
応答がない。通話は繋がっているのに、微かなノイズだけが流れるだけでなにも聞こえない。聞こえるのは、あたしの吐息だけ。
もう一度呼びかけるけど、結果は同じだった。
──やっぱり迷惑電話かも。
……出るんじゃなかった。きっと、心が弱ってる証拠だ。でも、こうして体が動くようになっただけマシかな。そう自分に言い聞かせて、電話を切ろうとした。
だが耳を離す直前……ついにスピーカーに反応があった。聞こえたのは、男の人の声。
「……ぇ」
懐かしい声。次の瞬間には目の奥が熱くなり、スマホを握る手に力が入った。
まさかと思った。だって、この人から電話がかかってくる筈がない。しかも、こんな都合のいいタイミングで。そう思うも、聞き出さずにはいられなかった。
「──お父さん……なの?」
恐る恐る聞いてみた。すると、すぐに返事が返ってくる。ついに、確信に至った。
嘘じゃない。聞き間違いじゃない。この声……忘れるわけがない。
「お父さん……っ!」
──スマホの熱が伝わってくる。それは血肉を巡って心臓に繋がり、心に火が灯るのを感じた。
***
~side 平田明美~
ソロ曲も、ユニット曲も会心の出来だった。これなら藤田とだって張り合える。
アタシたちは役目を終えた。次は、アイツの番だ。少し前に、峰岸が控室に呼びに行った。
「さて、そろそろお別れの時間が来ちゃいました。どうだったかな? 楽しんでくれたかなー?」
ライブの熱が抜けきっていないコメント欄が別れを惜しむ。まだ続きがあるなんてこと、夢にも思ってない。
「最後に、少しだけ告知がございますわ」
言葉を引き継ぐ。同時に、藤田が視界の端に映った。
「告知の映像が流れますので、是非ご覧くださいまし」
「それではーどうぞ~!」
芽衣野の合図で配信画面が暗転したのを見て、キャプチャーの範囲を出ようとする。入れ替わりで藤田が入る流れだ。
「……っ!?」
藤田の姿を捉えた瞬間、背筋が震えた。ただ立っているだけなのに、その存在に圧倒される。
よほど集中しているのか、すれ違ってもアタシたちに見向きもしなかった。
──これが、アイツの本当の……?
その姿に、勝負に関係なくアタシは目が離せなくなっていた。
***
全てが静かだ。スタジオも、胸の内も。体の隅々まで神経が行き渡っている。集中力が、薄い刃のように研ぎ澄まされている。
……お父さんは出て行ったわけじゃなかった。あたしたちの為に、危険を冒して出稼ぎに出ていた。さっき、電話でそれを知った。
あたしが気負っているように見えたお母さんが心配して、お父さんにあたしの近況を教えて電話をすることを勧めたらしい。
あまり時間がなかったら、ほとんど話せなかった。でも、『ずっと応援してる。がんばれ』の言葉だけで十分だった。ずっとあたしを縛っていたものが、嘘みたいに焼けて灰になった。あたしも、『絶対に最後まで見てて』と闘志をみなぎらせた。
家族全員が配信を見ている。あたしの舞台を楽しみにしてくれている。それが分かっているだけで、無限にエネルギーが湧いてくる。
PVが始まった。あたしはそれをモニターから見守る。
満月の夜、深い山奥の神社の長い階段の上。鳥居を背にして、『K』が佇んでいた。
コメント
:え、これって……
:マジか!
:ケイ!?
ざわつくコメント。もう、なんの告知かは分かったことだろう。
狐の面で覆われたKの顔がアップになる。Kは片手を仮面に添える。
直後、勢いよく回転すると炎が渦を巻いた。
仮面が投げ捨てられ、画面は炎で染まる。
炎の中、『K』とは全く違うシルエットが浮かぶ。
格ゲー風に、『New Challenger!』のテロップが現れる。落ち着きかかっていたコメント欄は、一気に熱狂を取り戻した。
コメント
:やったーーーーーーっ!!!
:キターーー!!
:デビューだー!推してよかったー!
PVはここで終わり。ここからはリアルタイムのあたしだ。構えを取る。
かつては自信を完全に失った。
臆病にもなってしまった。
それになんかあると、今でもすぐに落ち込んじゃう。
それでも……あたしはここに立っている。立ち上がることができた。なら、今までの全てはきっと、無駄じゃなかった。
子供のころに思い描いた景色とは少し違うけど……根っこは同じだ。
だから……楽しむんだ。楽しませるんだ……!
合図と同時……憧れの場所へと、思いっきり踏み出す。
正面のモニターに自分の新しい姿がはっきりと映る。
小麦色に輝く短髪に、とがった獣の耳。和服をベースにしながらも動きやすさを追求した衣装から生える、筆先のような尻尾。
狐の面の奥に隠れていたのは、神社に隠れ住む狐の少女だった。
「『スタッフK』改め、『伏深まい』! これからよろしくーッ!」
指をさし、元気に声を出す。これが密かに待ち望まれていたKの真の姿だ。新しいサイリウムの色がアップされ、次第に波のように他の2色を呑み込んでいく。もしかしたら、たった今公開されたあたしのチャンネルに気づいた人もいるかもしれない。
火の粉が散り、能楽堂を思わせるステージが露わになる。紅葉が舞い、近くの滝から流れる水が一面に広がっている。夕焼けを模したライトが、水面を照らした。
「では早速聞いてください! 『Ashlight』!」
和洋入り混じった音楽が流れ始める。横笛の高音が響き渡ったかと思うと、ドラムが暴れ出す。間を取り持つようにキーボードの和音が重ねられ、しっかりとロックとして成立させる。
同時に、あたしも動き出す。
跳ねるように左右への大きなステップ。ウサギのように軽やかに。
バトンのように両手を振り回し、クルクルと手を花へと羽へと自在に変化させる。
これら一連の動きが一体となって、アクション映画さながらの躍動感を生んでいく。
コメント
:え、うま
:なにこれw
:めっちゃキレいい!
:ガチでうめええ!!
元初星の意地を曲の滑り出しから見せつけていく。これが、マジで本気なあたしの本当の実力なんだと。……コメントの空気が変わったのが分かった。
アップテンポに合わせ、風を切るようにステップを踏む。女らしい、綺麗なS字のシルエットのポーズを描く。動くときはゆったり大きく、でも止まるときはピタッと。この静と動の緩急を生む為に、地獄の練習を繰り返した。
「Hey Hey Ashlight 全てが 燃える 命も 燃える──」
ラップ気味の歌詞を一息で紡いでいく。リスナーは知らないだろうけど、歌唱力をカバーする為の選曲でもある。詩歌の特訓を経て、これくらいであれば上手に歌えるようになっていた。
ホップステップホップステップスイングジャンプキックターンと、ダンスが激しくなる。
足に伝わる振動、視界の光の軌跡、頬に当たる風に集中する。それらが、理想の動きができているかを教えてくれる。
流麗な残像をイメージしながら、炎の煌めきを表現する。例えキャプチャーが捉えきれないとしても、指先の動きも手を抜かない。なにかしら、伝わるものはあると信じて。
「命運尽きる 燃え尽きる 後に 残るは 灰&Ash──」
全てを焼き尽くすように炎柱が噴き出す。CG上での出来事だけど、肌が焼けるような熱波を左右から感じていた。
炎が収まった後、あたしは灰になったように床に落ち崩れ落ちる。次第に曲のトーンが変化し、ゆっくりになる。周囲が暗くなり、スポットライトだけが少女を照らす。
「暗く 冷たい もう 終わりなの?」
自分を抱きしめる。それが表すは燃え尽きた不死鳥。死と再生の象徴。死は既に訪れた。ならば、次に訪れるのは……?
再びテンポが加速する。和洋の弦楽器が掻き鳴らされる。どんどん加速する。
──山になった灰が赤熱する。中心から外へと広がっていく。
「違う これは 始まり 新しい始まり──」
足を組み変え、膝立ちになる。引き絞るように目を細め、吐息混じりに声を漏らす。あたしではない、『伏深まい』の姿だからこその艶やかな表現。
広がった熱が凝縮する。灰がドロドロに溶け合い、山が崩れる。それが最高潮に達したとき、再誕の光が舞台を塗りつぶした。
──過去が燃え尽き、新しいあたしが生まれた瞬間だ。
「──This is Ashlight! ──何度でも蘇るAshlight! ──それが諦めない心!」
腕を大きく振り上げて大ジャンプ。空中で2回転しながらも、華麗に着地を決めて上体をブンブンと振り回しながら舞い狂う。もう周りの景色はロクに見えない。自分の感覚だけを信じて突き進む。
そんな中、一瞬だけ画面のあたしの狐の尻尾が可愛らしく揺れるのが見えた。あたしは小さく、ほくそ笑む。
体温が上がるのを感じながら、踊り続ける。
あたしを見てと祈りながら。
もっともっと、あたしに恋焦がれて欲しいと願いながら。
もっともっと、一緒に楽しもうよと全身で誘いながら。
次第に、あたしと『伏深まい』が1つになる。
聞こえないコールが聞こえてくる。コールで、ステージが揺れている。
見えない客席が見えてくる。星の数ほどの橙色の光が弧を描いている。
夢が……目の前に広がっている。ついに、入口に手が届いた……!
「羽ばたこう どこまでも……」
曲の終わり際……あたしはカメラに近づいて満面の笑みを浮かべながら手を振る。まるで、特別な1人にだけ向けるように。リスナーの脳を、芯まで灼くように。
「これからよろしく! えへへ、またね~!」
別れを惜しむように、何度も振り返っては手を振りながら退場する。あざとさを、最後の一滴まで振り撒いていく。
ライブ後……コメント欄は配信が切れるその最後の瞬間まで、色とりどりの投げ銭で埋め尽くされていたのだった。
*
画面が暗転したのを確認してから、膝に両手をつく。まだ呼吸が荒い。部屋はかなり冷えてるのに、髪が汗でべたついている。たった1曲だったのに、疲労がすごい。
「はい、配信切りました。お疲れ様でしたー!」
「お疲れ! みんな、本当によくやった! ライブは大成功だ!」
スタジオスタッフの伊藤さんと、峰岸さんの声が響く。パチパチと、互いを労わる拍手が周囲から聞こえる。
……ちゃんと、できてたよね? 世界一、可愛く踊れてたかな……?
全てを出し切った。手ごたえもある。コメントも最後は投げ銭一色だった。結果だけで言うなら、間違いなく大成功だ。
「ことね……やったぞ! ほらこれ見ろ! 登録者がもうこんなに……!」
こういうとき、真っ先に欲しい言葉をくれるのが社長の峰岸さんだ。あたしに駆け寄り、手元のタブレットを見せてくれる。
その数字を見た途端、疲れが吹っ飛んだ。
「ええ!? これ、ほんとに……?」
タブレットを受け取り、マジマジと確認する。何度見ても間違いない。それどころか、今も増え続けている。ほんとにもう間もなく、2人に追いつきそうだ。
もちろん、これほどの勢いが出たのは2人のおかげだ。2人がいなかったら、そもそもこの配信にこれだけの人数が集まってない。
でも、その人たちに登録ボタンを押させたのは、あたし自身の力だ。まるで自分の赤ん坊のように、登録者数の部分を指でなぞる。それこそが、やり遂げたのだという何よりの証拠だった。
……気づいたら、視界がグチャグチャに滲んでいた。
「あ、おい……お前」
「峰岸さぁん゛……っ……ありがとぉ……諦めないでくれて……!」
「……気にすんなって。俺も、ずっとこれを待ってたんだから」
指で大粒の雫を拭うけど、止まらない。壊れた蛇口のようにこぼれ、床に落ちる。
人前でこんなボロボロと泣くのは、初めてだった。
夢の入口に立てた高揚感とか、お金の問題が解決するかもしれない安心感とか、色んな感情がごちゃまぜになってジェットコースターみたいになっている。感情の洪水に、もうなにがなんだか分からなかった。
「ことちゃん……」
背中をさする感触。いつぞやを思い出す。横を見ると優しい笑みの詩歌が、傍にいた。
「詩歌も……ありがとう……っ……詩歌が背中を押してくれなかったら、あたし……」
「そんなことないよ。ずっとことちゃんのダンス見たかったから、すごく嬉しい」
最初はとんでもない変人だと思ってた詩歌が、教え子になって、ファンになってくれて、最後には再起のきっかけをくれて。
諦めなければ、人生ってなにかが起きるんだなって実感した。
昂っていていた感情が次第に落ち着いてきたところを見計らって、キャプチャーエリアから離れる。撤収の準備もあるから、そろそろ着替えないといけない。
「あ……」
そんなあたしの前に、平田が立っていた。もう1つの勝負の、決着のときだった。
ただ、あたしには平田がこれからなんて言うか迷っている風に見えた。
「……お疲れ」
「……おう」
とりあえず絞り出した言葉だったみたいで、すぐに沈黙が訪れる。けど、そんなに長くは続かなかった。
やがて溜息をつくと、そっぽを向いてこう言った。
「まあ、良かったんじゃない? ……次は負けないから」
会話はこれで終わりだった。それだけ言うと、平田はさっさと控室に向かってしまった。
「……なにあれ」
「あはは。別にいいんじゃね? いきなりベタベタされても困るし」
素直じゃないなとは思う。でも、これ以上ない誉め言葉だっていうのはこれまでの付き合いで分かった。自分から敗北を認めるなんてこと、最初のころだったらありえない。
わだかまりが完全に消えた。これからもほどよい距離感を保つことになると思うけど、これで本当の仲間になったのは間違いない。少し……いや、かなりスッキリした。
……なんだか、ぱーっとやりたくなってきた。そう、こういうときは……打ち上げだ。
「ねえ、しゃーちょうっ!」
「ん? どうした急に? 気色悪ぃぞ」
「はあ!? せっかく可愛いあたしが社長って呼んであげてるのになんですかそれぇ……!?」
「あーはいはい。それで?」
適当に聞き流される。こうやって変になびかないから信用できるんだけどさ。もうちょっとノッてくれてもいいんじゃない? ……まあ、今はいっか。気分いいし。
「打ち上げってぇ、もちろん行きますよねぇ~?」
「そりゃあ、するだろ。まだどこも予約してねーけど」
「じゃあ……またあそこの焼肉に行きませんかぁ?」
この上なく、そんな気分だった。単純に肉が食べたいってのもあるけど、それだけじゃない。全てが始まったあのお店に、今だから行きたくなったのだ。
その意図を汲んだのかどうか分からないけど、峰岸さんは迷わず頷いてくれた。
「俺は構わねーけど、詩歌はどうだ?」
「いいけど……またってなんのこと? 翔くん、わたしの知らないとこでことちゃんとご飯食べたの?」
「あのなー、スカウトんときに接待しただけだっての。大体、お前は呼んだって外出ねーだろ」
「最近は外出てるしっ。焼肉だったら絶対行くもん」
「あー、はいはい。詩歌も賛成ってことね」
ファーストフードが好きな癖に意外と食い意地が張っている詩歌を宥める。
「ってわけで、平田にも聞いてきますね」
「そうだな。平田もいいって言ったら、そこにするか」
つっても、焼肉が嫌いな運動部なんてそんなにいないっしょ。つーか、今回ばかりは絶対に頷かせてやる。詩歌も味方だし、楽勝だ。
今日は乙女であることを忘れて、食いまくるぞ~! そう思いながら、詩歌と一緒に控室に向かった。
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少し先の話になるけど、このライブをきっかけに事務所は更なる急成長を迎え、イベントにも呼ばれることもあるほどの人気の箱になっていくのであった。