小話   作:抹茶だった

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脱税保険

 

 ぬるい安酒を口に含みながら、男はぼんやりとスマートフォンの画面をスクロールしていた。小さな液晶の向こう側では、今日も誰かが転落し、誰かが失脚し、誰かが声を張り上げて泣き叫んでいた。社会の闇と綻びが、毎晩欠かさずに舞台に上がる。まるで終わりなき喜劇のようだ。

 本当は笑ってはいけない。わかっている。だが、知らず知らずのうちに口元が緩んでいた。顔の筋肉が勝手に緩み、吐き出すように酒の匂いを含んだ息が漏れる。

 

「こんな世の中だ。笑えない者が負けなのさ」

 

 呟くように、誰にも聞こえぬ声で男は言った。

 

 昔からこの男は貧しかった。生まれた時から、ずっと。貧しさは皮膚の下にまで染み込み、常に体温を奪い続けていた。努力や根性、ましてや希望などという言葉は、すでにどこか遠く、ぼやけた過去の残骸でしかなかった。

 

 「生きている」とは言いがたかった。ただ、朽ちるのを先延ばしにしているだけ。

 昼は埃まみれの部屋に閉じこもり、夜になるとベランダに出て、名前も知らぬ激安の酒をちびちびと飲む。小さなスマホの画面を指で撫でながら、他人の転落や破滅の物語を拾い集めては、それを肴に一人夜を越える。それが、男にとっての唯一の贅沢だった。

 

 だが、そんなある夜――ふとした瞬間に、奇妙な閃きが脳裏をよぎった。

 「脱税保険」――それは、常軌を逸した妄想とも、あるいは新たな経済理論ともとれる、歪な発想だった。

 

 法人税を納める企業は星の数ほどある。しかし、税務署がその全てを正確に監視し、調査することは不可能だ。現実には、精査されているのは全体のほんの数パーセント。つまり、運さえ良ければ、脱税は「できる」のだ。しかも、ばれなければ――という条件付きで。

 

 問題は、その「ばれるかどうか」という一点にすべてがかかっていることだった。運が悪ければ罰金、会社は崩れる。信用を失い、資金は枯れ、従業員は散る。だがもし、その“運の悪さ”を補償できる仕組みがあったなら?

 一つの保険のように――。

 

 数十社がグループを組み、同時に脱税を行う。確率的に税務署に調査されるのは、ごく一部。たとえ誰か一社が摘発されても、その他の会社が得た脱税分の利益を“保険金”として差し出せば、失敗した一社の損失を補填できる。誰も損しない。むしろ、全体としては得をする。

 

「……完璧だ」

 

 自室の暗がりで、男はぽつりと呟いた。

 

 彼はネットの匿名掲示板に短い文を投稿した。

 《脱税保険、始めます》

 ――それだけだった。たったそれだけの言葉が、想像以上の重みを持って地下の経済層へと広がっていく。

 

 最初に興味を示したのは、いかにも疲れ切った表情をした中小企業の経営者だった。常に金に困っていて、目の奥には焦燥と渇きが染みついていた。

 

「……あんた、とんでもねぇものを考えたね」

 

「そうだな。自分でも驚いてるよ」

 

「で、あんたの取り分は?」

 

「必要ない。この山が大きくするのが先だ」

 

 やがて、脱税保険はじわじわと根を張っていった。小さな火種が、地下の闇を這い回り、名のある企業にすらその熱を伝えていく。

 

 無名の男が仕掛けた異端の保険制度は、誰にも止められなかった。

 

 時が流れるにつれ、保険は巨大なネットワークと化した。脱税による利益は確かに存在し、保険システムは巧妙に機能していた。企業たちは何食わぬ顔で不正を繰り返し、その実態に気づかぬ税務署は、例年通りの年末調整を繰り返していた。

 

 男はいつも通りベランダに座り、古ぼけたプラスチック椅子に体を預けながら、スマホをいじる。その画面の向こうには、勝ち誇った企業たちの影がちらつく。

 ――美味い酒を飲んでいるだろうな。

 自分が生涯手にすることのなかった“勝利の美酒”を、彼らは今、グラスに注ぎ、舌鼓を打っている。そんな光景を想像し、男は苦い笑みを浮かべた。

 

 だが、その宴は長くは続かなかった。

 

 ある朝、ニュースサイトが一斉に動いた。

 

 《数十社に及ぶ企業群の帳簿がネットに流出。大規模な脱税構造の証拠か》

 《「脱税保険」と呼ばれる共謀システムの存在が判明》

 《株価暴落、円の信用にも深刻な影響》

 《日銀、緊急会見へ》

 

 男は、声をあげて笑った。小さなベランダに響く、その笑いはどこか無垢で、あるいは空虚だった。

 

 画面の中には、企業名のリストと金額の数字が並んでいた。脱税に加担した企業、その脱税額、そして保険による補填の内訳まで、克明に暴かれていた。

 “匿名”という幻想を信じた者たちが、次々と記者会見を開き、株価は血のように真っ赤に染まった。経済界の信頼は崩れ去り、円は売られ、各国の通貨が跳ね上がった。ニュースキャスターは言った。「日本は、信用を失いました」と。まるで政府そのものが、空中分解したかのようだった。

 

 翌日、男は近所のスーパーに足を運んだ。

 牛乳一本が、いつもの倍以上の価格で売られていた。

 レジに表示された金額を見て、言葉を失っている主婦がいた。

 

 男は、何も言わずにその場を離れた。

 買い物袋すら持たず、静かに店を出た。

 

 夜、いつものベランダに戻る。コンビニで買った安い焼き鳥を、ひとつずつ机の上に並べる。

 スマホを開くと、画面のトップに新たなニュースが飛び込んできた。

 

 《この経済崩壊により、失業者は200万人を超える見通し。都市部では小規模な略奪も発生》

 

 男は酒を一口含み、静かに喉を鳴らした。

 今夜の酒は、どこか甘かった。

 胸の奥に、ぞわりと波打つような、ひどく深い満足感があった。

 

 自分を見下ろしていた社会、その欺瞞と、虚飾の繁栄。

 それらすべてを、自分という名もなき男が、たった一人で壊したのだ。

 

「……ははっ。おもしれぇ」

 

 小さく呟いて、もう一口、喉へと酒を流し込んだ。

 

 夜風がそっと頬を撫でる。

 どこか遠くで、サイレンの音が反響している。

 だが、この小さなベランダだけは、不思議なほど静寂に包まれていた。

 

 

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