ラニンの突きが迫る。
剣筋に無駄はなく、まるで生まれたときから“殺すための剣”を握っていたかのような洗練された一撃――
(避けられないッ)
瞬間、ミリアは剣を振るのではなく、地を滑った。
剣を引き寄せ、斬撃の間合いから外れるように身を倒す。
肩にかすった冷気。ラニンの剣が髪を数本散らした。
「ほう……まだ避けるだけの勘は残っていたとは」
まるで楽しげに、ラニンが呟く。
しかし、ミリアの額には冷や汗が伝っていた。
ただの一撃。それだけで、喉まで届きそうな恐怖に肺が震える。
背筋を冷たい手でなぞられるような――明確な“死”の予感があった。
(この人……本当に、殺す気だ)
剣を構え直そうとする。が、体は言うことを聞かない。
足元がふらつき、視界が歪む。
(魔力が……本当に、出ない……!)
「呪いというのは、本当に素敵なものですね。
わざわざ殺さずとも、ゆっくり壊れていく。
いや、“壊れる様”を観察できるという点で言えば、むしろ芸術的だ」
ラニンは滑るように歩み寄る。その足音は雪を踏む音すらないほど静かだった。
まるで影が迫るように――気配を消した殺意だけが、ミリアを包む。
「……うぅ……!」
膝をつく。手が、震える。
その刹那、脳裏に浮かんだのは――あの人の声だった。
『食え。休め。そして、喰らえ。力が乗らなければ、どんな技も無意味だ』
オッタルの言葉。
彼はすべてを見抜いていた。ミリアの身体、魔力の乱れ、そしてその“限界”までも。
(わたしは……まだ、あの人の言葉すら守れていない……)
不甲斐ない。情けない。悔しい。
だけど――それでも。
「なら、“ここで終わるわけにはいかない”!!」
ミリアは叫びと共に、剣を振るった。
力は入っていない。魔力の流れも止まったまま。
けれど、その剣には明確な“意志”があった。
――父を侮辱された怒り。
――自分自身が、前に進むための覚悟。
「おお……」
ラニンが目を見開いた。
その刹那、ミリアの剣が、ラニンの頬を掠めた。
一筋、赤。
「……これは、想定外でした」
ラニンが目を細め、舌を打つ。
瞬間、空気が震えた。
「“これ以上は、手加減不要”ということですね?」
その声に含まれる熱が変わる。
さきほどまでの余裕、観察者としての態度が霧散し――本物の“戦士”の気配が現れる。
だが、ミリアの足は、もう止まっていた。
次の一撃を迎え撃つ力も、気力も、残っていなかった。
(……ああ、ダメだ……体が……)
視界が、傾ぐ。
もう、何もできない。何も守れない。
――その瞬間だった。
風が、吹き抜けた。
「倒れることは許さん」
その声は、地を這うように低く、けれど確かにミリアの魂を呼び戻す力を持っていた。
「あなたは?」
ラニンの声にわずかな警戒がにじむ。
その視線の先に――巨躯があった。
岩のように硬く、老木のように揺るがず、そして刃を寄せつけぬ威圧。
「オッタルさん!!」
ミリアが叫ぶ。
声に涙が混じっていたことに、彼女自身も気づかなかった。
オッタルはミリアを一瞥しただけで、ゆっくりと前へ歩み出る。
一歩ごとに、大地が小さく鳴いた。
その動きに無駄はない。速さもない。けれど、獣のような静けさがあった。
「……あなたが、ミリア・オルバの師ですか」
ラニンが、距離を取りながら問いかける。
その目は笑っていた。だが、その手は剣の柄を強く握っている。
「想像以上ですね。まるで“怪物”のようだ」
「………」
「おや……おしゃべりは嫌いな方ですか?」
(それにしても妙だ……ここには邪魔が入らないよう、部下に見張らせていた筈ですが)
ラニンの思考が揺れる。
彼の背後――山道の入り口には、教団の影が二重三重に配置されていたはずだ。
誰かがここまで踏み込めたとして、それを掻い潜れるなど“ありえない”。
「……下の連中は全て切り伏せた」
ラニンの口元から笑みが消える。
その言葉は、まるで事実を確認するように、ただ静かに告げられた。
けれど――ラニンの脳裏には、ぞわりと戦慄が走った。
(“すべて”……だと? この短時間に、気配も見せず、王都の近衛に匹敵する兵もいる戦闘部隊を壊滅……?)
信じられない。いや、信じたくない。
だが、オッタルの背中から漂う“濃度”が、その嘘を許さなかった。
「……なるほど。“怪物”という表現は正しかったわけだ」
ラニンは口元を歪め、そして、ひとつ深く息を吸い込む。
「だが残念だったな!!
私にはこれがあるッ!!」
ラニンが取り出したのは小瓶。そしてその中に入っていた丸薬を勢いよく飲み込んだ。
――瞬間、ラニンの全身に奔る、異様な“気”の奔流。
血管が浮かび、筋肉が膨れ上がり、瞳孔が針のように細まる。
呼吸は荒く、口角からうっすらと泡が滲んだ。
その様相は、もはや“人間”という枠組みから逸脱しかけていた。
「どうだ!! これが、“教団”の力だ!!」
笑うラニンの声が震えていた。それは興奮か、それとも快楽か。
体内で何かが暴れ狂い、細胞の一つ一つが焼け付くような衝動に支配されている。
「ふふ……これで私も“あなた”に届く……いや、既に超えている……!!」
ドッ、と空気が爆ぜた。
ラニンの身体が、まるで弾かれたように前へ。
一歩で十メルド以上を踏み込み、重く、鋭く、速度と殺意を兼ね備えた斬撃を――
――オッタルは、動かなかった。
ただ、視線で受け止めた。
ラニンの斬撃は、オッタルの肩先で止まっていた。
否、止められていた。
右腕一本。それだけで。
刃が“硬さ”に屈し、わずかに軋む。
「なッ――」
「温い」
ラニンが瞠目する。その顔を、見下ろすように。
「――仮物の力で、越えられるほど、俺は低くない」
オッタルが放った拳が、腹を叩いた。
次の瞬間、ラニンの身体が地を離れ、十メルドほど吹き飛ぶ。
巨岩を穿ち、木々をなぎ倒し、雪を巻き上げながら――そのまま地面にめり込んだ。
大地が、呻いた。
「がっ……ぁ……」
咳き込みながら立ち上がろうとするラニンの顔に、恐怖が浮かぶ。
どれほどの力を得ても、どれだけ手を尽くしても、
――届かない。
“絶対”の壁が、目の前にあった。
「ミリア」
名を呼ばれ、ミリアが顔を上げる。
オッタルの声は変わらず静かだったが、そこには確かな命令の響きがあった。
「立て。そしてお前があれを打倒しろ」
オッタルは背負っていた二振りの大剣――その一振を私へ投げた。
「……え?」
無意識に、手が伸びた。
そして、掴んだ瞬間、指先から“重み”が伝わってきた。
ずしりとした感触。呼吸を奪う質量。
これは――わたしの“今”には過ぎた代物だ。
ミリアは目を見開く。
その手はまだ震えていた。
足は、重い。
魔力は荒れ、体の芯まで冷えている。
「で、でも……無理です……オッタルさんでもなきゃ、あんな……っ!」
「そうだ。今のお前では、勝てん」
――ならどうして。
ミリアの目に、疑問と絶望が浮かぶ。
オッタルは、ゆっくりとミリアの方へ振り返った。
その視線は――強く、優しく、そして厳しかった。
「だが――冒険しないものに、己の殻を破ることも出来ない」
オッタルの言葉は、まるで斧のようだった――迷いと怯えを容赦なく砕くための。
ミリアは思わず息を呑む。
「その剣は、お前にはまだ早い。だが――」
オッタルは一歩、ミリアの傍へと踏み出した。
その足取りは、まるで背を押すように優しく、確かだった。
「それでも握れ。倒す力がないのなら、抗う意思を示せ。弱者の咆哮をあげてみせろ」
「………」
「それすら出来んなら、お前はそこまでだ」
ミリアの手は、まだ震えていた。
だけどその震えを、ミリアはもう「恐怖」とは呼ばなかった。
(怖いよ。でも……)
指が、少しだけ強く柄を握る。
肩が、ほんの少しだけ起き上がる。
体はまだ重い。魔力も流れない。
それでも――
(わたしは、わたしをあきらめない!)
「ふ、立つのか……?」
地面から這い上がるラニンが、嗤うように呟いた。
だがその声音には、かすかな苛立ちと焦りが滲んでいた。
「ラニン子爵……貴方、わたしの今の症状を呪いと言いましたね」
ミリアの声はかすれていた。けれど、その目には確かに“光”が宿っていた。
「ええ、そうですとも」
ラニンが歯をむくように笑う。
「悪魔憑きという存在は、短期間で過剰に増幅した自身の魔力が体内の魔力操作を乱す。徐々に動けなくなり、力も尽き、醜い肉塊となり、やがて死ぬ。美しいと思いませんか? 何もせずとも、勝手に“壊れていく”のです」
まるで芸術作品を語るような口ぶりだった。
だが、その言葉はミリアの胸に――火を点けた。
「……なら、見ていなさい」
「……は?」
「呪いで壊れても、動けなくなっても、何度も何度も倒されても……」
ミリアは剣を地面について、立ち上がった。
歯を食いしばりながら、足に力を込めて。
「それでも、“わたしは進む”!!」
その言葉とともに、大地が震えたような錯覚があった。
否――それは、彼女の内側から吹き上がった魔力だった。
「……!? 魔力が……」
ラニンの目が見開かれる。
オッタルが静かに頷く。
「それは“呪い”ではない。
お前の“力”だ。……制してみせろ」
◇
(ぐッ…… 意識が……)
……膨大な魔力に、意識が押し流されそうになる。
全神経を魔力操作に集中するが暴れ馬のように、体内を駆け巡る力。
その奔流に呑まれれば、二度と自分に戻れないという確信があった。
けれど――
(これは、わたしの……)
恐れる必要はない。
怯えるのではなく、抱きしめるのだ。
苦しむのではなく、受け入れるのだ。
(――わたしの、“力”!)
その瞬間、ミリアの魔力が一つに収束した。
まるで嵐が凪いでいくように、荒れていた魔力の波が整う。
奔流が、ただの暴力ではなく、“意思”を持った流れへと変化していく。
大地を伝う冷気が舞い上がり、ミリアの身体の周囲を薄く光る魔力が包む。
まるで彼女自身が“覚醒”という儀式の中心にあるように。
「な……!? 魔力操作が……回復しているだと!?」
ラニンが動揺を隠せず、よろけながら後ずさる。
その姿は、ほんの数分前まで“絶対的優位”に立っていた男とは思えない。
代わりにそこにいたのは――自らが仕掛けた呪いに、逆に怯える“凡人”の姿だった。
「ありがとうございました、ラニン子爵……あなたのおかげで、わたし、わかったの」
ミリアの瞳は、以前よりもずっと澄んでいた。
そこにはもう恐怖も、迷いもなかった。
ただ、自らの“存在”を信じる意志だけがあった。
「この力は、わたしを壊す呪いじゃない……」
剣を握り直す。
その姿勢は、まだ不安定だ。だが、意志の光はどこまでも強い。
「わたしの中に“眠る”力。その本質は、ずっと――」
「黙れええええッ!!」
ラニンが絶叫と共に突進する。
先ほどとは違う、純粋な殺意。
自分が信じていた理論と理想が、いま真正面から否定されようとしている。
その焦りと怒りが混じった暴走だった。
「黙って壊れろォォオオオオ!!」
「――遅い」
ミリアの声は静かだった。
だが、その刹那。
ミリアの剣が、振るわれた。
重さはそのままに、力強く、しかし無駄なく。
魔力が“正しく流れた”それは、今までのどんな一撃とも異なる、魂を込めた斬撃だった。
斬光が、ラニンの動きを断ち切る。
「が……!?」
気づけばラニンは、空中にいた。
胴を裂かれ、地に叩きつけられた。
雪が弾け、沈黙が満ちる。
「――終わり、です」
ミリアがそう告げた瞬間、ラニンの口から嗚咽のような呻きが漏れた。
敗北の痛みではない。“理解”の悲鳴だった。
「なん……だと……力が……制御を……」
ラニンの体が痙攣する。飲み込んだ薬の“副作用”が、制御を失った肉体を焼き始めていた。
「……教団の力か。己の力を磨くことをやめたお前の末路など既に決まっている」
オッタルの声が、背後から静かに降り注ぐ。
ラニンは返す言葉を失い、ついに意識を手放した。
そして。
雪の中に一人、ミリアが立っていた。
未熟なままの少女。
けれど、確かに“自分の力”で、試練を超えた者。
「よくやった」
オッタルが近づき、その巨手をミリアの肩に置く。
その手はいつも通りの重さ、だが――どこか温かく感じた。
「……はい」
その返事には、涙が混じっていた。
だがもう、涙は“敗北”のものではない。
これは、“勝利”の涙だった。
ミリア覚醒しすぎや…