夜空に浮かんでいた黒い点は、見る間に大きくなっていった。
初めは鳥にしか見えなかったものが、やがて妙に横長の形を帯びてくる。しかも一つではない。いくつもの影がまとまってこちらへ向かってきており、月明かりを横切るたび、その下に細長い棒のようなものが見えた。
デイヴは欄干のそばから立ち上がった。
「……箒?」
目を凝らす。
その通りだった。
人間が箒に跨って飛んでいる。
今さら空飛ぶ箒そのものには驚かない。ホグワーツへ入学してから半年以上も経っているし、クィディッチの試合だって見ている。だが、真夜中に学校の塔へ向かって何人もの人間がまとまって飛んでくるとなれば話は別だった。
しかもデイヴには、彼らが何者なのかまったく分からない。
背後では、相変わらず姿の見えない何かがごそごそやっている。
前からは謎の箒集団。
デイヴはしばらく両方を交互に見た。
「何なんだよ、今日」
煙草を吸うだけのつもりだった。
猫に噛まれ、フィルチを脅し、やっと塔へ辿り着いたと思えば、誰もいないのに扉が開き、何かが背後でごそごそ動き、今度は空から知らない人間が何人も飛んでくる。
面倒事の方から寄ってきているとしか思えなかった。
デイヴはウォークマンのイヤホンを首へ掛けたまま、上着のポケットに両手を突っ込んだ。
箒の影がさらに近づく。
風を切る音まで聞こえ始めた。
そして先頭の一人が塔の上空までやって来ると、円を描くように速度を落とした。それに続いて残りの者たちも次々と高度を下げてくる。
一人。
二人。
三人。
さらにもう一人。
箒に乗った若者たちが、塔の上へばらばらに降り立った。
デイヴは気づけば、彼らの真ん中にいた。
右を見る。
知らない男。
左を見る。
また知らない男。
後ろにもいる。
「……囲むなよ」
デイヴは露骨に嫌そうな顔をした。
しかし、向こうも向こうで少し困惑しているようだった。
どうやら塔に誰かがいること自体は予想していたらしい。だが、そこにいる人間がデイヴだったことについては、何となく確信が持てていない様子だった。
その中の一人が箒から降りた。
他の者より少し年上に見える青年だった。赤毛にそばかすがあり、寒い夜だというのにシャツの袖を肘までまくっている。露出した前腕には、かなり大きな古傷が走っていた。
青年はデイヴを上から下まで眺めた。
そして、目を丸くする。
「君があのハリー・ポッターくん? すごいハンサムだね」
「は?」
デイヴの眉間に皺が寄った。
「誰が?」
「君が」
「そっちじゃねえ」
デイヴは片手をポケットから出し、自分を指さした。
「俺が誰だって?」
「ハリー・ポッター」
「違うけど」
青年が瞬きをした。
周囲の仲間たちも顔を見合わせる。
一人など、デイヴの額を露骨に見ていた。髪の下に例の稲妻型の傷があるのではないかと探しているらしい。
デイヴは嫌そうに前髪を押さえた。
「ねえよ」
「え?」
「傷。俺にはねえ」
「ああ……」
青年は少し申し訳なさそうな顔をしたものの、すぐにまた人懐っこく笑った。
「ごめん。チャーリーから、一年生の男の子が来るって聞いてたからさ。暗いし、てっきり君かと思ったんだ」
「チャーリー?」
今度はデイヴが首を傾げた。
名前に聞き覚えがないわけではない。
赤毛四号の兄弟が何人もいることくらいは知っているが、誰が何号で、どこの誰なのかまではいちいち覚えていなかった。
青年はデイヴが事情を知らないことにまだ気づいていないらしく、塔の上を見回した。
「それで、ドラゴンは――」
「僕がハリー・ポッターです!」
突然、デイヴの真後ろから声がした。
「うおっ」
さすがのデイヴも肩を跳ねさせた。
すぐさま振り返る。
そこには、ハリーとハーマイオニーがいた。
「……は?」
デイヴは目を瞬いた。
本当に、さっきまで誰もいなかった場所だった。
確かに物音はしていた。
何かがいるとも思っていた。
だが、どれだけ見ても人間の姿はなかったはずである。
それなのに今、ハリーとハーマイオニーが当然のように立っている。
二人とも大きな木箱を抱えていた。
「お前ら、どっから出てきた?」
デイヴが眉を寄せる。
ハリーは答えに困ったように一瞬口を開いた。
その横で、ハーマイオニーが素早く何か大きな布のようなものをまとめて腕に抱え込む。
デイヴには、それが何なのか分からなかった。
ただ、どうやら二人が何かしら妙な魔法を使って姿を隠していたらしい、という程度のことは察した。
「……まあいいや」
興味がないわけではないが、今問い詰める気もなかった。
何より、ハーマイオニーがものすごい顔でこちらを睨んでいる。
目が合った。
ハーマイオニーの口が動く。
『どうしてこんなところにいるの!?』
声は出ていない。
だが、はっきり分かった。
デイヴは口の端を少しだけ歪めた。
こちらからすれば、それはそっくりそのまま返したい言葉だった。
けれど言わなかった。
ハーマイオニーの視線が、次にデイヴの上着のポケットへ落ちる。
デイヴはさりげなくそこから手を離した。
さっき消した吸いかけの煙草が入っている。
ハーマイオニーの目がさらに細くなった。
デイヴは知らん顔をした。
一方、赤毛の青年はようやく本物のハリーを見つけたらしく、ぱっと表情を明るくした。
「ああ! じゃあ君が――」
「僕がハリーです」
ハリーが箱を抱え直しながら答える。
その横でハーマイオニーも重そうに木箱を支えている。
青年の視線が、二人の持っている箱へ移った。
そこでようやくデイヴも箱を見る。
さっきから聞こえていた、ごそごそという音。
その正体はどうやらこれらしい。
しかも青年は、つい先ほど「ドラゴン」と口にした。
箱の中で、何かが動いた。
がたっ。
デイヴは木箱を見た。
ハリーを見る。
ハーマイオニーを見る。
もう一度箱を見る。
「……ドラゴン?」
ハーマイオニーが、ものすごい勢いで首を横に振った。
デイヴは無表情で彼女を見た。
箱の中から、ごそごそ。
さらに、かすかに爪が木を引っかくような音まで聞こえてくる。
ハーマイオニーはまだ首を横に振っていた。
「いや、無理あるだろ」
小声で言った。
ハーマイオニーが今度は、お願いだから黙って、と言わんばかりの顔になる。
デイヴは小さく息を吐いた。
それから赤毛の青年へ向き直る。
「そういうこと」
「え?」
デイヴは両手を上げた。
何も関わりません、と示すように手のひらを見せる。
「俺は無関係の生徒だ。このことは黙っておいてやる」
一歩後ろへ下がった。
「こいつらが何してるのかも知らねえし、その箱の中身も見てねえ」
木箱の中から、また、ごと、と音がした。
デイヴはそちらを見ないことにした。
「俺はいなかったことにしろ。俺もお前らを見てねえ」
赤毛の青年は何とも言えない顔でデイヴを見た後、少し面白そうに笑った。
「話が早いね」
「だろ」
そう言ったものの、デイヴは塔から下りることまではしなかった。
端まで下がると欄干へ背を預け、腕を組んだまま成り行きを眺める。
自分は無関係だと言った。
手伝う気もない。
だが、こんな真夜中に空から箒に乗った連中がやってきて、木箱に押し込まれたドラゴンを受け取って帰るという光景を、見ないで立ち去るほど殊勝でもなかった。
赤毛の青年たちは、ハリーとハーマイオニーから木箱を受け取ると、慣れた手つきで縄を取りつけていった。
箱の中ではノーバートがまだごそごそと落ち着きなく動いている。
ときおり木板を内側から引っかく音がし、そのたびにハーマイオニーは少し心配そうに箱を見つめた。
最後に木箱が箒の間へしっかりと固定される。
「本当にドラゴンだったんだな」
デイヴがぽつりと呟いた。
ハーマイオニーがぎろりと振り返る。
「聞かなかったことにするって言ったでしょう」
「言っただけだろ。忘れるとは言ってねえ」
ハーマイオニーの頬が引きつった。
ハリーが慌てて二人の間へ視線を走らせる。
そんな三人を残して、赤毛の青年たちは再び箒へ跨った。
「じゃあ、こっちは任せて」
青年は明るく笑ってから、デイヴにも軽く手を振った。
「ハリーじゃなかった君も、おやすみ」
「俺には名前がある」
「聞いてないからね」
「じゃあ聞けよ」
青年は愉快そうに笑っただけだった。
やがて箒が浮かび上がる。
木箱も一緒に地面を離れた。
夜風の中、何人もの影が塔から飛び去り、しばらくすると空に浮かぶ小さな点へと戻っていった。
デイヴはそれを見届けると、あっさり欄干から背を離した。
「じゃ」
「え?」
ハリーが振り返った時には、デイヴはすでに塔の扉へ向かって歩いていた。
ウォークマンをポケットへ押し込み、階段へ続く扉を開ける。ここから先、ドラゴンがどこへ運ばれるのかにも、赤毛の青年たちが何者なのかにも、それほど興味はないらしい。
そのまま長い螺旋階段を下り始めた。
「待って!」
背後からハリーの声が飛んできた。
続いて、二人分の足音がする。
デイヴは振り返らなかった。
のそのそと階段を下りていく。その後ろをハリーとハーマイオニーが慌てて追ってきた。
「ねえ、デイヴ」
「何」
ハリーが隣へ追いつく。
「どうしてこんな夜中に抜け出して、あんなところにいたの?」
デイヴは一度だけハリーを見た。
「なにが?」
その返事に、ハーマイオニーの顔がみるみる険しくなった。
「何がって!」
声を出してはいけないことを理解しているため、怒鳴っているのに声量だけは低いという、なかなか器用な真似になった。
「普通は夜中に寝室を抜け出したりしないでしょう! 見つかったら減点されるかもしれないのよ!?」
デイヴは歩きながら彼女を見た。
「自分のことは棚に上げてよく言えるな」
「これは事情が――」
「ん? ドラゴン密輸なんて」
「「しーっ!!」」
二人の声が見事に重なった。
デイヴは一瞬きょとんとして、それからとうとう吹き出した。
「っはは……」
肩が揺れる。
ハーマイオニーがさらに睨む。
「笑い事じゃないのよ!」
「ドラゴン密輸してる奴が減点の心配してんの面白すぎるだろ」
今度は堪えようともせず笑った。
それは、二人にとって少し意外な笑顔だった。
普段のデイヴと言えば、授業中には教師の目も気にせず平気で眠る。ディーンとはしょっちゅうくだらないことで言い争い、気づけば取っ組み合いになっている。シェーマスが呪文を失敗して何かを爆発させようものなら、心配するより先に机へ突っ伏して、下品なくらい大笑いする。
ハーマイオニーは、そういうところがずっと気に入らなかった。
授業は真面目に受けるものだし、廊下を走ってはいけないし、喧嘩など論外である。しかも注意すればするほどデイヴは面白がり、余計なことを始めるのだから始末が悪い。
ハリーもまた、デイヴをどこか苦手に感じていた。
理由を説明するのは難しい。
乱暴で、口が悪く、腕力にものを言わせることを躊躇しない。そういうところに、プリベット通りで長年見てきたダドリーを思わせる何かが、ごく僅かにあったからだった。
もちろん、デイヴとダドリーはまるで違う。
それでもハリーは時々、彼の態度の端々にある荒っぽさへ、無意識に身構えてしまうことがあった。
だが、今目の前で笑っている少年は、そんな印象とはずいぶん違って見えた。
螺旋階段に穿たれた細い窓から、青白い月明かりが差し込んでいる。
黒く波打つ髪の輪郭が白銀に縁取られ、普段は不機嫌そうに伏せられている碧い目が、笑うたびに柔らかく細くなる。まだ十一歳らしい幼さを残した頬や口元の中に、鼻筋や顎の線だけが奇妙なほど端正に整っていて、いつもの険しい表情が崩れたことで、かえってその顔立ちの美しさが際立っていた。
普段のデイヴにまとわりついている、近寄りがたい荒々しさが消えていた。
純粋に面白くて仕方がない。
ただそれだけで笑っている。
悪戯っぽく細められた碧い瞳も、わずかに覗いた歯も、頬へ落ちた黒髪も、夜の冷たい月明かりの中では妙に鮮明だった。美しいという言葉を十一歳の同級生に向けて考えること自体、二人にはどこか奇妙だったが、他に当てはまる言葉がすぐには見つからなかった。
ハリーもハーマイオニーも、思わず見ていた。
ほんの数秒だった。
デイヴの笑いが収まる。
「……何見てんだよ」
二人が同時に目を逸らした。
「別に」
ハーマイオニーが早口で言った。
「何でもないよ」
ハリーも続ける。
デイヴは怪訝そうに二人を眺めたが、すぐにどうでもよくなったらしい。
「じゃあな」
片手を上げ、そのまま階段を下りていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
またハリーが追いかけた。
「何だよ」
「だからさ」
ハリーは息を整えながら、もう一度尋ねた。
「どうしてこんな夜更けに抜け出してたのさ」
今度こそ、デイヴの足が少しだけ遅くなった。
彼は肩越しにハリーを見た。
「俺が夜中抜け出してたら、なんかお前らに不都合でもあんのか?」
「いや、そういう意味じゃ――」
デイヴが身体ごと少し振り返った。
階段の窓から差し込む月明かりが、その顔を斜めに照らす。
先ほど笑っていた時とはまるで違っていた。
碧い瞳が淡い光を反射し、暗がりの中で奇妙なほど鮮やかに浮かび上がっている。
きれいな色だった。
けれどハリーには、一瞬ひどく不気味に見えた。
暗闇の奥から、何か人ではないものに見据えられているような錯覚が胸をよぎり、思わずさっと視線を逸らす。
「ハリーをいじめないで」
すぐさまハーマイオニーが間へ入った。
デイヴをきっと睨み上げる。
デイヴは一瞬だけ彼女を見る。
そして面白そうに片方の眉を上げただけだった。
何も言い返さない。
からかうことさえせず、再び前へ向き直って歩き出した。
それが逆にハーマイオニーには気に入らなかったらしく、しばらくその背中を睨んでいた。
三人はそのまま階段を下っていった。
やがて長かった螺旋階段も終わり、下の廊下へ続くところまで辿り着く。
デイヴが先に足を踏み出した。
ハーマイオニーも続く。
その時だった。
後ろを歩いていたハリーが突然立ち止まった。
「……あ」
声が震えている。
デイヴとハーマイオニーが振り返った。
ハリーの顔から、みるみる血の気が失われていく。
「どうしたの?」
ハーマイオニーが尋ねる。
ハリーは自分の肩や腕を触り、それから周囲を慌てて見回した。
「透明マントがない!」
ハーマイオニーも凍りついた。
「え?」
「塔だ! 置いてきた!」
「そんな――!」
デイヴだけが首を傾げていた。
「透明マント?」
二人が振り返る。
デイヴは本当に知らない顔をしている。
ハーマイオニーは何か説明しかけたが、そんなことをしている場合ではないと気づき、すぐに口を閉じた。
「戻らなきゃ」
ハリーが階段へ足を戻そうとする。
その瞬間だった。
ぎい。
目の前の扉が開いた。
三人の動きが止まる。
薄暗い廊下から、黄色いランタンの光が差し込んできた。
そして光の向こうに、痩せた男の顔が現れる。
アーガス・フィルチだった。
その足元には、ミセス・ノリスもいる。
フィルチはハリーを見る。
ハーマイオニーを見る。
それからデイヴを見る。
口の端が、ゆっくりと吊り上がった。
「さて、さて、さて」
囁くような声だった。
「これは困ったことになりましたねえ」
ハリーの顔がさらに青くなる。
ハーマイオニーも息を呑んだ。
ところが、フィルチは二人を見た後でデイヴへ視線を移すと、先ほどまでの満足そうな表情を一瞬で消した。
代わりに、猛烈に忌々しそうな顔になる。
デイヴは平然としていた。
「よ」
「……お前は」
フィルチの頬が引きつる。
「何」
「早く行け!」
ハリーとハーマイオニーが揃ってフィルチを見た。
「え?」
「何で?」
デイヴだけは当然のような顔をしている。
「だってよ」
フィルチが奥歯を噛みしめた。
「早く行けと言っている! 気が変わらんうちにな!」
デイヴは肩をすくめた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
悠々と二人の横を通り過ぎる。
途中、ミセス・ノリスの前で一度だけ立ち止まった。
「よう」
しゃがみ込み、頭へ手を伸ばす。
ミセス・ノリスは最初こそ大きな目で彼を見上げていたが、耳の後ろを軽く掻かれると、すぐに目を細めた。
ごろごろ。
フィルチの顔が引きつる。
「……ミセス・ノリス」
デイヴは猫の頭を一撫ですると立ち上がった。
それからハリーとハーマイオニーを見る。
片手を軽く上げた。
「あばよ」
「ちょっと!」
ハーマイオニーが小声で叫ぶ。
しかしデイヴは振り返らない。
ポケットへ両手を突っ込み、そのまま何事もなかったように廊下の向こうへ歩いていく。
「どうしてデイヴだけ!」
ハリーも思わず抗議した。
フィルチは答えない。
ただ、遠ざかっていくデイヴの背中を、この世で最も忌々しいものでも見るように睨んでいた。
その横でミセス・ノリスだけが、去っていく少年を見送りながら、まだ小さく喉を鳴らしていた。
感想どしどし書いてください!!!励みになるので……。