その朝、グリフィンドールのテーブルは、いつになく騒然としていた。
無理もない。昨日までグリフィンドールはスリザリンやレイブンクローと抜きつ抜かれつ寮杯の首位争いを続け、つい先日のクィディッチで勝利したこともあって、とうとう一位にまで上り詰めていたのである。それが一晩明けてみれば、玄関ホールの砂時計から大量の宝石が消え失せ、見るも無惨に最下位まで転落していた。
その理由についても、朝食が始まる頃にはすでに寮中へ知れ渡っていた。
どこから伝わったのかは分からないが、昨夜、消灯後に城を抜け出していたハリー・ポッター、ハーマイオニー・グレンジャー、ネビル・ロングボトムの三人がフィルチに見つかり、マクゴナガル先生から大量の減点を受けたらしい。
そのため、ハリーとハーマイオニーは普段よりずっと端の席に並んで座り、周囲から飛んでくる視線を避けるように縮こまりながら、もそもそと朝食を口へ運んでいた。二人ともほとんど顔を上げようとしない。
ネビルに至っては、大広間にすら姿を見せていなかった。
「まだ寝室にいるよ」
シェーマスはそう言いながら、自分の皿のサラダに入っていたトマトを、何食わぬ顔でディーンの皿へ移した。
「ハリーはまだ何となく分かるよ。漏れ聞いた話だと、冬休みにも同じように夜中に抜け出してたみたいだしね」
ディーンは自分の皿へ伸びてきたシェーマスの手を見つけると、その甲へフォークの先を突き立てた。
「いてっ!」
シェーマスが慌てて手を引っ込めたが、ディーンはろくに気にも留めず、そのまま話を続ける。
「ネビルはどうせ、また合言葉を忘れたとか、何かそんなところだろ」
ディーンはちらりと長いテーブルの向こうへ目をやった。
「でも、ハーマイオニーが抜け出すなんて信じられないよな。だって、あのハーマイオニー・グレンジャーだよ?」
遠くに見えるふわふわとした栗色の髪が、ぴくりと動いたような気がした。
もっとも、ディーンは気にしなかった。
一方のシェーマスは、刺された手の甲をさすりながら恨めしそうにディーンを睨んでいたが、抗議する代わりに、さっき押しつけたトマトをまるで仇のように噛みしめた。
それを見たディーンは少し考えたあと、自分の皿に残っていた焼きトマトをもう一つ、シェーマスの皿へ追加した。
「いらないって」
「野菜食えよ」
「お前が嫌いだから寄越してるだけだろ」
「好き嫌いするなよ」
「お前が言うな」
そんなやり取りをしながら、ディーンは向かい側に座っているデイヴへ目を向けた。
今日も今日とて、デイヴの前には一年生とは思えない量の朝食が並んでいた。見えるだけでも、こんがり焼けたベーコンが何枚もあり、その隣には焼いたソーセージが五本。ベイクドビーンズは小山のように盛られ、茹でたブロッコリーには、せっかくの緑色の房がほとんど見えなくなるほどドレッシングがかかっている。
さらに別の皿には、たっぷりのレタスを敷いたサラダの上へ、黄身の表面がぷるぷると揺れる目玉焼きが三つ載っていた。
「ねえ、デイヴ」
デイヴはベーコンをナイフで細かく切りながら、視線だけをディーンへ向けた。
「んー?」
「昨日だけどさ、何があったか知ってる?」
「知るかよ。ハリーとハーマイオニーがデートでもしてたんじゃねえの?」
デイヴは口の端を吊り上げ、いかにも面白がっているらしい笑みを浮かべた。
「キスしてたところでも見つかったんじゃねえか? あるいは……」
そこでわざとらしく言葉を切ると、デイヴは細かく切ったベーコンをフォークですくい、器用にサラダの上へ散らした。さらに目玉焼きの黄身をナイフの先で崩し、流れ出した黄身をレタスやベーコンへ絡めるように混ぜてから、そのまま食べ始める。
ディーンは話の続きを待っていたが、どうやらデイヴにはもう口にするつもりがないらしい。
少し行儀が悪い食べ方だな、とディーンは思った。
とはいえ、黄身の絡んだベーコンとレタスを眺めているうちに、別の感想も湧いてくる。
ちょっと美味しそうだった。
どうやら、シェーマスも同じことを考えていたらしい。
さっきまでトマトを押しつけられたことに不満そうな顔をしていたくせに、今では目を妙に輝かせながら、デイヴの皿をじっと見つめていた。
そんな視線など気にも留めず、デイヴは今度は籠からこんがり焼けたトーストを何枚か取った。一枚にはベイクドビーンズをたっぷりと載せ、もう一枚にはソーセージを三本ほど並べる。まずはベイクドビーンズを載せたほうを手に取り、大きく一口齧った。
「ねえ」
シェーマスがたまらず声をかける。
「それ、僕のにもやってくれよ」
「ママにやってもらえ」
デイヴは鼻で笑うと、フォークの先でブロッコリーを一つ弾いた。
緑色の塊は見事な弧を描き、そのままシェーマスの皿の真ん中へ、狙い澄ましたように着地した。
「なんでブロッコリーなんだよ」
シェーマスが不満そうにそれを見下ろす横で、ディーンはふと、少し離れたところからこちらへ向けられている視線に気がついた。
いや、正確には自分たちではない。
見られているのは、どうやらデイヴだった。
ハリーとハーマイオニーが、長いテーブルの向こうから揃ってこちらを見ている。
ただし、その表情は二人でずいぶん違っていた。
ハリーのほうは、少し不服そう、という言葉が一番近かった。何か言いたそうではあるものの、わざわざ立ち上がって文句を言いに来るほどでもないらしく、眉を寄せながらデイヴを見ている。
一方、ハーマイオニーはもっと分かりやすかった。
気に食わない。
まさにそれだった。
恨みがましい、と言ってもいいくらいの目つきで、じっとデイヴを睨みつけている。
そこまで露骨に見られていれば、当然ディーンだって気になる。そして気になった以上、なぜあんな顔をされているのか本人へ尋ねるのも、ほとんど自明の理だった。
「ねえ、デイヴ」
ディーンが声を潜める。
「何」
「あの二人、さっきからお前のこと見てない?」
デイヴはソーセージを載せたトーストへ手を伸ばしかけたところで、ちらりとハリーとハーマイオニーのほうを見た。
二人と目が合う。
ハリーはわずかに眉を寄せ、ハーマイオニーの睨みはさらに鋭くなった。
それを見たデイヴは、何かを思い出したように口元を歪めた。
「ククッ」
喉の奥で小さく笑う。
「あいつらは俺のこの美しい顔に嫉妬してんだよ」
そう言って、デイヴは気取った仕草で黒い前髪を掻き上げた。
そのまま長いテーブルの向こうへ顔を向け、ハリーとハーマイオニーに向かって堂々とウィンクする。
そのウィンクをまともに受けた二人の反応は、それはもう分かりやすかった。
ハーマイオニーは一瞬だけ目を見開き、頬をさっと赤く染めると、すぐさまぷいと顔を背けた。いかにも「馬鹿馬鹿しい」とでも言いたげな仕草だったが、耳のあたりまで薄く色づいているせいで、いまひとつ説得力がない。
隣のハリーも同じように頬を染め、ちょうど口へ運ぼうとしていたスプーンを危うく取り落としかけた。慌てて両手で受け止めたものの、その拍子に皿の縁へかちんとぶつけ、余計に目立ってしまう。
それを見たデイヴは、いかにも愉快そうに喉の奥で意地悪く笑った。
「ポッターはゲイなのか?」
勝ち誇ったようにそれだけ言うと、何事もなかったようにトーストへ齧りつき、またむしゃむしゃと朝食を食べ始める。
ディーンはしばらく、デイヴと、そっぽを向いたままのハーマイオニー、それから妙に落ち着かない様子でスプーンを握り直しているハリーを順番に見比べていた。
果たして、本当に嫉妬なのだろうか。
どうにも違うような気がする。
だが十一歳のディーンには、ではあの反応が何なのかと問われても、ぴったり当てはまる答えまでは思いつかなかった。
そんなことを考えながら何気なく自分の皿へ視線を戻し――そこで、ディーンは異変に気づいた。
さっきまで自分の前にあったはずのサラダの皿がない。
代わりに置かれているのは、焼きトマトがこれでもかというほど山盛りになった皿だった。
ゆっくり隣を見る。
シェーマスの前には、いつの間にかディーンのサラダが置かれている。
「Oi!」
ディーンは即座に皿を取り返した。
「何してんだよ!」
「気づくの遅いよ」
「返せ!」
「もう返してるだろ」
「お前が勝手に交換したんだろ!」
シェーマスは悪びれる様子もなく、取り戻されたサラダを名残惜しそうに見つめながら、押し返されてきた焼きトマトの山へフォークを突き刺した。
朝食を終えると、デイヴ、ディーン、シェーマスの三人は、そのまま次の授業である呪文学の教室へ向かうことになった。デイヴは片耳にだけウォークマンのイヤホンを突っ込み、もう片方を首元へ垂らしたまま、二人より少し遅れて廊下をちんたら歩いている。
そろそろ期末試験が近づいていることもあり、どの授業も一年間の総仕上げに入っていた。新しい単元を進めつつ、その合間には以前習った内容を織り交ぜ、試験で困らないよう復習させる。呪文学も例外ではなく、その日の授業でも最初の十五分ほどが、これまでに扱った呪文の確認へ充てられていた。
「いいですか? 『レヴィオーソ』は物体を浮遊させるだけの呪文ですが、『ウィンガーディアム・レヴィオーサ』は――」
フリットウィック先生の甲高い声が教室いっぱいに響いている。
もっとも、生徒全員が揃って真面目に耳を傾けているわけではなかった。先生の説明を一言も聞き漏らすまいと熱心にノートを取っている者もいれば、友人とこそこそ話している者もいる。羊皮紙の端をちぎって短い手紙を書き、それを隣や後ろの席へ回している生徒もいれば、机の陰へ別の教科のレポートを隠して続きを書いている者、膝の上へ別の教科書を開き、試験勉強用のノートを作っている者までいた。
そんな中、我らがデイヴが何をしていたのかと言えば、もちろん真面目に復習しているはずもなく――もちろん、で済ませていい話でもないのだが――いつの間に用意したのか、羊皮紙の切れ端へ大きく『WANKER』と書き、それを前の席に座るシェーマスのローブへこっそり貼りつけ、一人で面白そうに笑っていた。
しばらくして隣の生徒から何かを囁かれたシェーマスが、自分の背中へ手を回した。紙を引き剥がして文字を確認した途端、勢いよく後ろを振り向く。ちょうどその瞬間まで笑っていたデイヴは、何食わぬ顔で視線を逸らし、さも最初から授業を聞いていたような顔で机の上を見つめたが、それで誤魔化せるはずもなかった。
シェーマスは紙を机の下で器用に折ると、やがて出来上がった小さな紙飛行機を、フリットウィック先生に見つからないよう後ろへ投げた。紙飛行機は二つの机の間をまっすぐ飛び、見事なまでにデイヴの額へ直撃する。
「いてっ」
額に当たった紙飛行機を掴み、デイヴは前の席をじろりと睨んだ。しかしシェーマスはすでに前を向き直っており、何もしていないと言わんばかりの顔でフリットウィック先生の説明を聞いている。
デイヴはしばらくその後頭部を眺めていたが、仕返しなど後からいくらでもできると思い直したらしい。紙飛行機を机の隅へ置くと、今度は自分のノートへ目を落とした。
ほとんど白紙だった。
隣を見ると、ディーンのノートには今までの説明がきちんと書かれている。
「ちょっと見せろよ」
返事を待つことさえせず、デイヴはディーンのノートを自分との間へ引き寄せた。
「自分で書けよ」
ディーンが小声で抗議する。
「今書いてるだろ」
悪びれもせずそう返して、デイヴはディーンの文字をそのまま自分のノートへ写し始めた。
授業中にそんなことを延々としていれば、当然ながら教師の目にも留まる。フリットウィック先生は説明の途中で教室を見回し、集中していない生徒があまりに多いことに気づいたらしく、少しばかり頬を膨らませた。
「そこ! 注目!」
鋭い声が飛んだ瞬間、デイヴたちだけでなく、その周囲で別のことをしていた生徒たちまで一斉に顔を上げた。
「試験当日になってから、杖の振り方を忘れましたでは困りますよ! では、ここでもう一度お手本を見せてもらいましょう。ミス・グレンジャー!」
名前を呼ばれたハーマイオニーが、すぐに顔を上げた。
「はい、先生」
この呪文をクラスで最初に完璧に成功させたのが彼女だったことを、生徒の大半は覚えていた。ハーマイオニーは机の上へ杖を構えると、以前と同じように迷いのない動きで腕を振る。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
机の上に置かれていた物体がふわりと持ち上がり、そのまま揺らぐこともなく空中へ浮かんでいった。
「素晴らしい! 実に見事です、ミス・グレンジャー! グリフィンドールに五点!」
フリットウィック先生が嬉しそうに褒めると、ハーマイオニーの顔にも一瞬だけ誇らしげな色が浮かんだ。
しかし、その表情は長く続かなかった。
教室のあちこちから向けられた視線に気づいた途端、彼女の顔から喜びがすっと引いていく。誰も何も言ってはいない。それでも、先日の百五十点減点を知っているグリフィンドール生たちの目が何を考えているのかは、嫌でも分かった。
たった五点。
五十点の減点が帳消しになるわけでもない。
そんな言葉にならない空気を感じ取ったハーマイオニーは、浮かせていた物体を静かに机へ戻すと、先ほどまでより少し小さくなったように椅子へ座り直し、すぐにノートへ目を落とした。
もっとも、デイヴはそんな彼女の様子に気づいてすらいなかった。フリットウィック先生が再び黒板へ向き直ったのをいいことに、ディーンのノートへ顔を寄せ、先ほど写し損ねていたところを猛烈な勢いで書き写していたからである。
やがてフリットウィック先生が宿題の範囲を黒板へ書き終え、次の授業までに教科書の該当箇所を読み直しておくよう言い渡したところで、ようやく鐘が鳴った。
その途端、それまで曲がりなりにも授業らしい静けさを保っていた教室は、一気に椅子を引く音と話し声で満たされた。生徒たちは羽根ペンや羊皮紙を鞄へ押し込み、次の授業へ急ぐ者、友人を待つ者、黒板の宿題を慌てて書き写す者に分かれながら、次々と教室を出ていく。
デイヴはというと、授業中の半分近くをディーンのノートから写していたくせに、最後の宿題だけは律儀に自分で書き留め、それから机の上へ散らばった羊皮紙を適当にまとめて鞄へ突っ込んだ。先ほど額へ直撃した紙飛行機も、そのまま一緒に押し込もうとしたところで、前の席から伸びてきたシェーマスの手に奪い取られる。
「それ僕のだから」
デイヴは眉を上げた。
「俺に投げた時点で俺のだろ」
「なんでそうなるんだよ」
「落とし物は拾った奴のもんだ」
「落としてないよ。投げたんだよ」
「じゃあ投げ物は当たった奴のもんだ」
「そんな法律ないだろ」
隣で鞄を閉じていたディーンが、呆れたように二人を見た。
「紙一枚でいつまで揉めてるんだよ」
その言葉にシェーマスが一瞬だけ気を取られた隙に、デイヴは紙飛行機をひょいと奪い返すと、素早く自分のポケットへ押し込んだ。
「はい俺の」
シェーマスが口を開きかけたが、すでにデイヴは聞く気をなくしており、片方のイヤホンを耳へ押し込みながら立ち上がっていた。
三人が教室を出る頃には、廊下も次の教室へ向かう生徒たちで混み始めていた。石造りの壁にいくつもの話し声が反響し、向こうから来る上級生の集団を避けるたび、三人は横一列になったり縦になったりしながら歩いていく。
その途中、ディーンが何気なく後ろを振り返った。
ハリーとハーマイオニーも教室から出てきたところだったが、朝食の時と同じように二人の周りだけ、妙な空間ができている。誰かが露骨に道を塞いでいるわけでもなければ、罵声を浴びせているわけでもない。ただ、話しかける者がほとんどおらず、近くにいたグリフィンドール生も二人を見ると目を逸らし、別の友人のところへ行ってしまう。
ハリーはそんな周囲を見ないようにして歩き、ハーマイオニーも教科書を胸に抱えたまま、どこか居心地悪そうにその隣を進んでいた。
ディーンは少しだけ眉を寄せた。
「まだ怒ってるんだな、みんな」
シェーマスも後ろをちらりと見た。
「百五十点だもんな」
「でも、ずっとあんな感じなのも嫌じゃない?」
ディーンが言うと、シェーマスはすぐには答えず、少し困ったように口を曲げた。自分だってグリフィンドールが最下位へ落ちたことに腹が立っていないわけではない。けれど、朝から晩までそのことで誰かを睨み続けるほど執着しているわけでもなかった。
デイヴだけは二人の会話を聞きながらも、しばらく何も言わなかった。
昨夜、塔の上で何が起きていたのかを知っているのは、この三人の中では彼だけだった。ハリーとハーマイオニーが何のために夜中の城を歩き回っていたのかも知っているし、あの木箱に何が入っていたのかも見ている。
だからといって、それを説明して回るつもりなど毛頭なかった。
「そのうち飽きんだろ」
やがてデイヴは、イヤホンを外しながらそれだけ言った。
「でも百五十点だよ」
ディーンが言う。
「知ってるよ」
「結構すごいぞ」
「だから?」
「いや……だからって言われても」
デイヴは肩をすくめた。
「寮杯取ったら金でも貰えんのか?」
ディーンとシェーマスが顔を見合わせた。
「貰えないけど」
「じゃあ別によくね?」
二人とも何とも言えない顔になった。
デイヴにとっては、本当にその程度のことらしい。
もちろん、自分の寮が勝つのが嫌なわけではない。クィディッチでグリフィンドールが勝てば普通に喜ぶし、スリザリンが負ければ面白がる。ただ、だからといって砂時計に入っている宝石の数を毎朝確認し、それが人生を左右するほど重要なことだとはまったく思っていなかった。
「それ、上級生の前で言うなよ」
シェーマスが忠告する。
「なんで?」
「怒られるから」
「じゃあ言うわ」
「なんでそうなるんだよ」
デイヴが楽しそうに笑う。
そんな話をしながら角を曲がったところで、前方から数人のグリフィンドール生が歩いてきた。彼らはデイヴたちの横を通り過ぎ、その後ろにいたハリーとハーマイオニーを見ると、つい先ほどまで交わしていた会話をぴたりと止めた。
そしてすれ違った後、聞こえるか聞こえないかという声で、何かを囁き合いながら去っていく。
ハリーの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
ハーマイオニーも聞こえていたらしく、教科書を抱える腕に力が入っている。
デイヴは一度だけそちらへ目をやったが、何も言わなかった。ただ、さっきまで耳へ入れていたイヤホンを今度は首へ掛け、そのままディーンとシェーマスの間を歩いていく。
「次なんだっけ?」
デイヴが尋ねると、ディーンが呆れたように横目を向けた。
「お前、時間割くらい覚えろよ」
「覚えてたら聞かねえよ」
「それ自慢することじゃないだろ」
「魔法史だったら行きたくねえな」
「違うよ」
「じゃあ何」
「変身術」
デイヴの顔が露骨に嫌そうなものになった。
「どっちにしろダルいな」
シェーマスが笑いながらデイヴの肩を小突き、そのまま三人は人混みの向こうへ消えていった。
それから数日が過ぎると、ホグワーツの空気は目に見えて期末試験へと傾いていった。廊下ですれ違う生徒たちの腕にはいつもより多くの教科書が抱えられ、食事中にまでノートを開いている者が増え、談話室では夜遅くまで羽根ペンの走る音が途切れなくなった。
グリフィンドールの談話室も例外ではない。
暖炉の前に置かれた長机の上には、教科書、羊皮紙、インク壺、食べかけの菓子が所狭しと並び、一年生たちもそれぞれ自分なりのやり方で一年分の知識を頭へ押し込もうとしていた。
もっとも、全員が同じ熱意を持っているわけではなかった。
ハーマイオニーは相変わらず凄まじかった。自分で作ったらしい復習予定表を傍らへ置き、呪文学、変身術、薬草学と順番に教科書を積み上げては、どこが試験に出ても答えられるよう細かなところまでノートへまとめている。少し離れた場所ではハリーも教科書へ顔を寄せていたが、時折ぼんやりと文字の上で視線を止めることがあり、そのたびにロンから小声で何か言われて我に返っていた。
減点騒ぎの熱はまだ完全には冷めていなかったものの、それでも試験という現実が近づくにつれて、寮全体がいつまでも三人だけを睨み続けている余裕もなくなりつつあった。
一方、暖炉から少し離れた卓では、デイヴ、ディーン、シェーマスの三人が並んで勉強していた。
正確に言えば、ディーンが勉強し、シェーマスがなんとかそれについていき、デイヴが二人の成果を横から利用していた。
「なあ」
ディーンが羽根ペンを止めずに言った。
「それ、僕のノートだよな」
「そうだけど」
「返せよ」
「まだ写してる」
「だったら授業中に自分で書けよ」
「その時は忙しかったんだよ」
「何してたんだよ」
「シェーマスで遊んでた」
「おい」
向かい側にいたシェーマスが顔を上げたが、デイヴは気にも留めず、ディーンのノートと自分の羊皮紙を交互に見ながら羽根ペンを動かし続けた。
呪文学や変身術に関しては、デイヴもそれほど苦労していなかった。実際に杖を振らせれば覚えは早く、授業中にまともに話を聞いていなかった割には、何度か試せば呪文も形になった。
問題なのは、実技を伴わない教科だった。
特に魔法史は酷かった。
デイヴの前には『魔法史』の教科書が開かれていたものの、そこに並ぶ反乱、条約、魔法使いの名前、年号の数々は、彼の頭へ入った端から綺麗に消えていくようだった。
「ゴブリン反乱って何年?」
デイヴが尋ねる。
ディーンは顔を上げた。
「どれ?」
「知らねえ。いっぱいある」
「じゃあどれ聞いてるんだよ」
「試験に出そうなやつ」
「全部出るかもしれないだろ」
「最悪じゃん」
デイヴは心底嫌そうな顔をすると、教科書へ目を戻した。
数秒後には、もう眉間へ深い皺が寄っていた。
「なんでこいつらこんな何回も反乱してんだよ。一回で決めろよ」
「そんなこと僕たちに言われても」
シェーマスが笑いながら答えた。
「しかも名前似すぎだろ。誰だよアーグ何とかって」
「アーグ?」
「知らねえよ。教科書にいたんだよ」
「それ覚えてないなら、試験かなり危ないんじゃない?」
その言葉を聞いて、デイヴは少し考えたあと、静かに教科書を閉じた。
「捨てるか」
「何を?」
「魔法史」
「教科を捨てるなよ」
ディーンが即座に言った。
デイヴは不満そうに椅子の背へ身体を預けたものの、結局また教科書を開き直した。さすがに落第するのは面倒だと思っているらしい。
それでも五分も経たないうちに、今度はシェーマスのノートへ手が伸びていた。
「お前のも見せろ」
「嫌だよ」
「ディーンのより字がでかくて読みやすい」
「褒めても貸さないからな」
「じゃあ菓子やる」
「何」
「これ」
デイヴがポケットから取り出したのは、少し潰れたチョコレートだった。
シェーマスはそれとノートをしばらく見比べた。
「半分じゃなくて全部?」
「全部」
「いいよ」
あっさり取引が成立した。
「お前ら最低だな」
ディーンが呆れたように言う。
「合理的って言えよ」
デイヴは満足そうにシェーマスのノートを引き寄せた。
暖炉では薪が静かに爆ぜ、窓の外では初夏の夜が少しずつ深まっていた。部屋のあちこちから、ページをめくる音や、小声で呪文を確認する声が聞こえてくる。
デイヴも時折文句を言いながら、それでも珍しく机を離れようとはしなかった。
目の前にはまだ覚えなければならないことが山ほどある。魔法史の年号も、天文学の星の名前も、薬草学の性質も、試験となれば知っておかなければならない。
デイヴは羽根ペンを止め、遠くに座っているハーマイオニーをちらりと見た。
彼女は相変わらず猛烈な勢いでノートを書いている。
その横ではハリーとロンが何やら小声で話していたが、こちらまでは聞こえてこない。
デイヴはすぐに興味を失い、自分の羊皮紙へ目を戻した。
「これさ」
シェーマスのノートを指で叩く。
「字、間違ってねえ?」
「どこ?」
「ここ」
「それ僕の字じゃない」
「じゃあ誰のだよ」
「ディーンの写した」
「お前も写してんじゃねえか」
「うるさいよ」
ディーンが吹き出し、デイヴも喉の奥で笑った。
試験が近づいている。
一年生として過ごした最初の一年も、もう終わりが見え始めていた。
それでも今のデイヴにとって、迫りつつあるものは賢者の石でも、スネイプでも、城のどこかに潜む大きな秘密でもなかった。
目の前にあるのは、どうしても覚えられない魔法史の年号と、借り物のノートと、あと数週間で始まる期末試験だけだった。
感想くれよな!!!!!!励みになるからよ!!!!!