二〇〇二年七月三十一日。日本では夏真っ盛り、真夏日が当たり前のように続く時期であるが、その日のマンチェスターは例に漏れず、うっすらと肌寒かった。空には灰色の雲が低く垂れ込め、時折吹き抜ける風には、七月の終わりとは思えないほどの冷たさが混じっている。デイヴに言わせれば、全くもってうだつの上がらない、糞みたいな天気であった。
我らがマンキュニアンの少年、デイヴィッド・ジョンソン、十二歳。この夏の間に身長が四センチほど伸び、とうとう一六四センチになっていた。もっとも、背が伸びたところで顔立ちまで急に大人びるわけではない。相変わらずどこか幼さの残る顔に、妙に長くなった手足を持て余しながら煙草を吹かしている姿は、さながら無理をして大人ぶっている童顔のチンピラといったところだろう。もっとも、本人はそんなことを気にするような殊勝な性格ではなかったが。
さて、ホグワーツから出された夏休みの宿題を早々に放り投げたデイヴは、この日もマンチェスターの街をぶらついていた。時刻は夕方。買い物袋を提げた主婦や、学校の休みを満喫する子供たちが往来する平和な昼下がりはとうに過ぎ去り、街角にはガラの悪い連中がちらほらと姿を現し始めている。まともな大人なら、そろそろ子供を家に帰そうと考える頃合いであろう。
無論、デイヴには関係のない話である。
「Oi、Snaps。今日はどうすんだ」
そうデイヴに声をかけたのは、
本名はライアン。ちなみにジョンソンではない。ジョンソンはデイヴの苗字であるし、決して後年『スター・ウォーズ』の第八作をハチャメチャにして、散々叩かれることになる男のことでもない。もっとも、人生がハチャメチャという点では、このライアン少年も大概なのであるが。
ともかく、彼は以前デイヴにぶん殴られた際、前歯をまるごと一本失っている。その上、殴られた事情が事情だったために、デイヴから半ば蔑称としてGappyなる不名誉なあだ名を頂戴した、実に哀れな野郎である。小柄な体格に丸刈り頭という、いかにもその辺の路地裏に転がっていそうな風貌をしており、普段は小銭をちょろまかすようなせこい真似をして、それを得意げに「シノギ」などと呼んでいる。かと思えば、平然と他人の家に空き巣に入ることもあるのだから始末が悪い。要するに、将来ろくでもない大人になることが、ほとんど既定路線と化しているカス野郎であった。
「どうするって、別にどうもしねえよ。テメエはどうせ、また万引きでもするんだろ」
デイヴは鼻で笑い、咥えていた煙草を指に挟むと、ライアンの隣を歩いていたもう一人の少年に目を向けた。
「おい、ゲイリー。なんか面白れぇことねえのかよ。俺がいねえ間にあったこととかさ」
ゲイリー。通称
その名の通り、デイヴよりも縦にも横にもでかい少年で、年齢に似合わぬがっしりした体格をしている。口数は少なく、滅多なことでは騒ぎ立てない。この三人組の中では比較的まともな感性の持ち主であるが、比較対象がデイヴとライアンなのだから、あまり褒め言葉にはならないだろう。そもそも彼自身、立派な不良少年なのである。
「別にねえな。ライアンがまたパクられそうになったくらいだ」
ゲイリーは抑揚の乏しい声でそう答えた。どうやら彼にとっても、わざわざ話題にするほどの出来事ではなかったらしい。
「なんだ、いつも通りじゃねえか。こいつチビでバカだからな」
「おい! 誰がバカだって!?」
「お前以外に誰がいんだよ」
デイヴは「あっはっはっは!」と遠慮なく笑い飛ばすと、吸いかけの煙草を足元に放り、靴底でぐりぐりと踏み潰した。それから、なおも何やら文句を垂れているライアンを置いて、さっさと歩き始めた。
サルフォードの夕方というのは、どうにも景気の悪い時間帯である。
空は相変わらず薄汚れた灰色で、夏だというのに吹きつける風は妙に冷たい。道端には空き缶やら煙草の吸い殻やらが転がり、赤煉瓦造りの家々は、まるで揃いも揃って人生に絶望しているかのように煤けていた。もっとも、住人の中にも実際に人生に絶望している者が少なくないのだから、これはこれで実に見事な景観の統一といえるだろう。
そんなサルフォードの住宅街を、三人の少年が歩いていた。
デイヴィッド・ジョンソン、ライアン、ゲイリーの三人である。揃って素行不良、揃って勉強嫌い、そして揃って将来に対する展望など持ち合わせていない。少なくとも二人については、今のうちに人生設計を見直さなければ、十年後には刑務所の食堂で顔を合わせていても何ら不思議ではない面子であった。
幸いなことに、彼らはそんな十年後の心配をするほど殊勝な少年たちではない。
「腹減ったな」
そう言ったのはゲイリーだった。
彼は先ほどからほとんど口を開かず、デイヴとライアンのくだらないやり取りを聞き流していた。別に二人の会話に興味がないわけではない。ただ単に、腹が減っていたのである。
何しろ彼は、この三人組の中では抜きん出て大きい。縦にも横にもデイヴを上回る巨体の持ち主で、昼飯を食った程度では夕方まで腹が持たないという、実に燃費の悪い生き物であった。
「お前、いっつも腹減ってんな」
「育ち盛りだからな」 「
育ち盛りって言やあ、何でも許されると思ってんのかよ。お前、そのうち牛みてえになんぞ」
「お前だって育ち盛りだろ」
「俺はちゃんと縦に伸びてんだよ、バカ」
デイヴはそう言って鼻を鳴らした。実際、この夏の間に彼は四センチも背が伸びたのである。大変結構なことだ。もっとも、身長が伸びたところで頭の中身まで成長するとは限らず、そのことを証明する好例が今まさに煙草を咥えている少年なのだが。
「ビリーズでも行くか」
ゲイリーの提案に、デイヴは咥えていた煙草を指に挟んだ。
「ああ、いいぜ。俺も腹減ってたしな」
「俺も!」
すかさずライアンが声を上げた。
「テメエはさっきから何もしてねえだろ」 「腹くらい減るだろうが!」
確かにその通りである。ライアンにしては珍しく、反論の余地のない正論だった。
三人は通りの角を曲がり、古びた商店がぽつぽつと並ぶ一角へ向かった。
目当ての店は、赤煉瓦造りの二階建て住宅の一階部分に収まっていた。
白地に赤い文字で『BILLY’S FISH & CHIPS』と書かれた看板は、長年の風雨に晒されたせいで色が褪せ、店名の最後のSに至っては半分ほど剥がれ落ちている。窓には色褪せたコカ・コーラの広告が貼りつけられ、店先のゴミ箱はいつ見ても満杯だった。上の階の窓にはくたびれたカーテンが掛かっており、その隣の窓辺には枯れかけた鉢植えが放置されている。
これがビリーズである。
およそ美食家がわざわざ足を運ぶような外観ではないが、そもそもサルフォードの労働者街にそんな連中が押しかけてきたら、住人のほうが何事かと驚くだろう。ここで求められているのは、安くて、熱くて、油っこくて、腹いっぱいになる食い物である。栄養のバランスだの盛りつけの美しさだのは、暇を持て余した金持ちにでも考えさせておけばよい。
デイヴが先頭に立ってガラス戸を押し開けると、頭上のベルがチリンと鳴った。
店内には、熱した油と揚げた魚、それから鼻の奥をつんと刺激するビネガーの匂いが充満していた。
白いタイル張りの壁は長年の油煙で黄色くくすみ、天井の蛍光灯は一本だけ点滅しかけている。カウンターの向こうには巨大なフライヤーが並び、その中でタラの切り身が景気よく泡を立てながら揚がっていた。壁のメニュー表には、フィッシュ・アンド・チップス、ソーセージ、ミートパイ、マッシーピーズといった、およそ健康志向とは縁遠い品々が並んでいる。
なお、こんなものばかり食っていて英国人はよく生きていられるものだと思うかもしれないが、余計なお世話である。
「おう、クソガキども。今日は何をやらかした?」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、店主のビリーだった。
五十代半ばの禿頭の男で、丸々と肥えた腹に油染みだらけの白いエプロンを掛けている。本人は昔ボクシングをやっていたと豪語しているが、その面影は太い腕以外にほとんど残っていない。少なくとも、現在の彼がリングに上がったところで、相手が殴るより先に心臓が悲鳴を上げそうである。
「よう、ビリー。まだくたばってなかったのか」
「お前が少年院にぶち込まれるまでは生きるつもりだよ、スナップス」
「じゃあ長生きできるな。俺は捕まんねえからよ」
「昨日も警官がこの辺をうろついてたぞ」
「そりゃギャッピーだろ。こいつ、またなんか盗んだらしいし」
デイヴが親指で隣のライアンを示すと、ビリーは大して驚いた様子もなく頷いた。
「なんだ、いつものことか」
「おい! まだ何も盗んでねえよ!」
ライアンは憤慨したが、残念ながら「まだ」という一語が余計だった。もっとも、彼がそのことに気づくほど賢明な少年であったなら、そもそもギャッピーなどという不名誉なあだ名をつけられるような人生は送っていないだろう。
「で、何にする?」
「俺はチップバーム。ビネガーでぶしゃぶしゃにしてくれよ、頼む」
「またそれか。お前、よく飽きねえな」
「美味えからな。塩もたっぷり頼むぜ」
ビリーは鼻を鳴らし、カウンターの下から丸いバームケーキを取り出した。
チップバームというのは、簡単に言えば、丸いパンにフライドポテトをぎゅうぎゅうに詰め込んだ食べ物である。もっとも、フライドポテトといっても、アメリカのファストフード店で売られているような細長くて気取った代物ではない。太くて不揃いで、外側にはところどころ茶色い揚げ色がついている、いかにも芋を切って揚げましたといった風情のチップスだ。
パンに芋を挟む。
それだけである。
栄養学者に見せたら眉間に皺を寄せそうな炭水化物の塊だが、労働者階級の食卓というのは、必ずしも栄養学の教科書に従って設計されているわけではない。腹が膨れて、美味くて、安ければ、それで大体のことは許されるのである。
ビリーがバームケーキに切れ込みを入れ、トングでチップスを山盛りに詰め込んでいると、デイヴの脇腹をライアンが小突いた。
「なあ、スナップス」
「あんだよ」
「俺の分も買ってくれねえ?」
「は?」
デイヴは心底不思議そうな顔をした。
その表情は、まるで道端の石ころから突然話しかけられたかのようであった。
「俺、今日金ねえんだよ。今度返すからさ」
「今度?」
「ああ」
「いつだよ」
「そのうち」
デイヴはしばらくライアンの顔を眺めていたが、やがてにっこりと笑った。
大変珍しいことである。彼が他人に対してこれほど愛想のよい笑顔を見せることなど、年に数回あるかどうかだ。
そして、当然ながら、ろくなことにはならなかった。
「いででででででで!!」
デイヴはライアンの右耳を掴むと、思い切り引っ張り上げた。
「テメエ、先月貸した一ポンド五十ペンス、まだ返してねえだろうが!」
「いでえ!! 耳!! 耳が取れる!!」
「取れたら記念に持って帰れよ! 返す返すって、いつ返すんだコラ!」
「金ができたらだって!!」
「じゃあ一生返さねえってことかよ、このShort arse!」
ライアンは爪先立ちになって必死に抵抗したが、デイヴの左手は容赦なく耳を引っ張り続けた。身長差があるため、彼の頭はすっかり斜めに傾いている。
実に情けない光景である。
もっとも、十二歳にして友人から金を借り、その返済を踏み倒した挙げ句に追加融資を申し込むという行為そのものが、そもそも情けないのだから仕方がない。
「おい、店ん中で喧嘩すんな!」
ビリーが怒鳴った。
「喧嘩じゃねえよ。借金の取り立てだ」
「十二のガキが金融屋の真似してんじゃねえ!」
そう言いながらも、ビリーは手を止めなかった。おそらく、この程度の騒ぎは彼にとって日常茶飯事なのである。サルフォードで長年商売を続けるということは、ある程度の騒音や暴力に対して寛容になることを意味していた。
少なくとも、耳を引っ張られている程度で警察を呼んでいたら、この街では電話代がいくらあっても足りないだろう。
「俺、フィッシュ・アンド・チップス三つ」
そんな騒ぎをよそに、ゲイリーが注文した。
ビリーが顔を上げた。
「三つ?」
「ああ」
「持ち帰りか?」
「ここで食う」
「三人分か?」
「いや、俺のだ」
ビリーは無言になった。
そしてゲイリーの体を上から下まで眺めると、妙に納得したように頷いた。
「……まあ、お前なら食うか」
この一言に、ビリーという男の人間観察の鋭さが表れている。もっとも、牛のような巨体をした少年が三人前の飯を注文しているのだから、観察眼などなくても大体の事情は察せられるだろうが。
「おい、ビガン。テメエ、三つも食うのかよ」
ようやくライアンの耳を放したデイヴが、呆れたように言った。
「腹減ってんだよ」
「お前、昼飯何食った?」
「サンドイッチ四つとポテト」
「牛じゃねえか」
「牛はサンドイッチ食わねえだろ」
「そういう問題じゃねえよ、バカ!」
デイヴはげらげら笑った。
ゲイリーは意に介さず財布を取り出し、カウンターに紙幣を置いた。三人の中では比較的まともな金銭感覚の持ち主である彼だが、食費に関してはどうやら例外らしい。
これだけの食欲を維持していれば、そのうち財布のほうが先に痩せ細ることだろう。
「ほら、スナップス。これでいいか?」
ビリーがデイヴのチップバームを持ち上げた。
パンからはみ出すほど詰め込まれたチップスには、すでに塩がたっぷり振られている。その上からビリーが大きなプラスチック製のボトルを傾けると、琥珀色のビネガーが勢いよく流れ落ちた。
「もっとだ、もっと」
「お前、これ以上かけたらパンまでびしょびしょになるぞ」
「だからぶしゃぶしゃにしてくれっつってんだろ」
「物好きな野郎だな」
ビリーは呆れながら、さらにボトルを傾けた。
チップスはたちまち酸っぱい液体を吸い込み、てらてらと光り始めた。パンの内側にまでビネガーが染み渡り、端からぽたぽたと滴り落ちている。
もはや食品というより、水害に遭った建築物のような有様であった。
「よし、最高だ」
「ほらよ。酢漬けの芋パンだ」
「ありがとよ」
デイヴは小銭をカウンターに置き、食品用の紙に包まれたチップバームを受け取った。
ゲイリーのフィッシュ・アンド・チップス三人前が揚がるまで、彼はカウンターに肘をつき、さっそくパンにかぶりついた。
ふかふかしたバームケーキの内側には、熱々のチップスがぎっしりと詰まっている。噛み締めると酢の酸味が舌に広がり、その後を追うように油の旨味と塩気、そして柔らかな芋の甘みがやってきた。
「ん、うめえ」
デイヴは満足げに呟いた。
実際、彼はこの食べ物が大好きだった。母親のエルサが作る夕食とは別種の、安っぽく、油っこく、そしてどうしようもなく美味い代物である。何より、ポケットの小銭で買えるというのが素晴らしい。
一方、何も買えなかったライアンは、隣で実に恨めしそうな顔をしていた。
「一口くれよ」
「嫌だ」
「ケチ!」
「テメエにやるくらいなら鳩にやるわ」
デイヴはそう言って、わざと大きくパンを齧った。
ライアンは何やら口汚く罵っていたが、デイヴにとっては実に心地よい食事の伴奏であった。
やがて、ゲイリーの注文した三人前のフィッシュ・アンド・チップスが出来上がった。黄金色の衣を纏った大きな魚の切り身が、それぞれ山盛りのチップスの上に載せられ、紙に包まれていく。
ビリーがそれを大きな袋にまとめると、ゲイリーは当然のような顔で受け取った。
「じゃあな、ビリー」
「おう。悪さすんなよ、お前ら」
「善処するぜ」
デイヴは適当な返事を残し、店を出た。
なお、彼の言う「善処する」が何を意味するのかは不明である。おそらく本人にも分かっていない。何しろ、この少年にとっては、警官に追いかけられずに一日を終えるだけでも十分に善処した部類に入るのだから。
店の外では、相変わらず灰色の空が広がっていた。
三人は店先の壁にもたれ、しばらく食事を続けた。デイヴは残りのチップバームを頬張り、ゲイリーは一人前目のフィッシュ・アンド・チップスを豪快に平らげている。
ライアンは何も食べていなかった。
実に気の毒なことである。
もっとも、彼に同情する必要はない。金がないのは本人の責任であるし、さらに言えば、先ほどデイヴから借金を踏み倒していることが発覚したばかりなのだから、むしろ腹を空かせている程度で済んでいることに感謝すべきであろう。
「クソ、金さえありゃなあ」
ライアンがぼやいた。
「働けよ」
「何すんだよ」
「新聞配達でもやれ」
「かったるいだろ、そんなの」
「じゃあ飢え死ねよ」
デイヴは実に親切な助言をした。
「ちくしょー、カツアゲでもするか?いっそのこと」
ライアンは唐突にそう言った。
おお、なんという立派な向上心であろう。労働によって収入を得るという健全な選択肢をたった数秒で放棄し、他人の財布を自分の財布にするという、極めて合理的かつ反社会的な解決策へ到達したのである。英国の未来を担う若者の発想とは、かくも頼もしいものなのだろうか。しかしながらライアンはチビでガリガリのクソガキであるからにして、どうせ当てにしてるのは隣にいるデカいガキのどちらかであるのは、自明の理と言っても過言ではないだろう。
「お、いいねえ」
そして、当然のように賛同する馬鹿がもう一人いた。
デイヴである。
「けどお前、またヘマすんじゃねえの? この前もお巡りに追っかけられてたろ」
「あれは運が悪かったんだよ!」
「そうか? 俺にはテメエがバカだからとしか思えねえけどな」
「うるせえよ! だったらお前も来いよ、スナップス」 「なんで俺がテメエの飯代のために働かなきゃなんねえんだよ」
なかなか筋の通った意見だった。無論、ここでいう「働く」が他人から金を脅し取ることを指している点を除けば、だが。
ゲイリーは二人の会話を聞きながら、二人前目の包みを開いた。
「お前ら、またやんのか?」
「またってなんだよ」
「この前、駅の近くでやってただろ」
「あれは違えよ。あのクソ野郎が先に喧嘩売ってきたんだ」
デイヴは鼻を鳴らした。
「財布まで取ったって聞いたぞ」
「慰謝料だよ、慰謝料。俺の拳が痛くなったんだからよ」
なんという理屈であろう。
仮に英国の裁判所がこのような主張を認めるのであれば、国内の暴漢たちは今頃こぞって被害者を訴え、国中の法廷が大変なことになっているに違いない。
しかし、残念ながらデイヴは法律家を志しているわけではないし、そもそも法律を守ることに対して、これっぽっちの興味も持ち合わせていなかった。
「まあ、金持ってそうなバカでもいたら考えるか」
デイヴはチップバームの最後の一口を口に放り込み、満足げに咀嚼した。
「この辺に金持ちなんかいねえだろ」
「そりゃそうだな」
ライアンの指摘には、珍しく説得力があった。
ここはサルフォードである。もちろん裕福な住人が皆無というわけではないが、少なくとも彼らがうろついているような住宅街で、財布に何百ポンドも詰め込んだ金持ちが呑気に散歩をしている可能性は低い。
そんな人物がいたとすれば、それは金持ちというより、よほど危機管理能力の欠如した間抜けであろう。
「じゃあマンチェスターの中心まで行くか?」
「かったりいな。バス代かかんだろ」
「歩けばいいじゃねえか」
「テメエが歩けよ、チビ」
デイヴは言い捨てると、くしゃくしゃになった包み紙を丸め、店先のゴミ箱に向かって放り投げた。
紙玉は縁に当たり、跳ね返って歩道に転がった。
「クソ、外した」
拾う気配はない。
ちなみに彼はホグワーツではなかなか優秀な魔法使いなのだが、どうやら紙屑をゴミ箱に投げ入れるという、ごく初歩的な技術については習得が不十分らしい。
「おい、ビガン。一口寄越せよ」
ライアンが再び食料の調達を試みた。もっとも、先ほどまでと異なり、今度の相手はデイヴではなくゲイリーである。
「嫌だ」
「三つもあんだからいいだろ!」
「俺が食うんだよ」
「ケチくせえな!」
ライアンはそう言いながら、ゲイリーの包みに手を伸ばした。
次の瞬間、ぴしゃりと手の甲を叩かれた。
「いってえ! なんだよお前ら!!」
実に哀れな少年である。
しかし、借金は返さず、仕事もせず、そのくせ他人の食い物に手を出そうとするのだから、同情の余地はほとんどない。どうやら彼は、社会の厳しさというものを、十二歳にして友人二人から教わっているらしかった。
デイヴはそんなライアンを指さし、腹を抱えて笑った。
「あっはっはっは! テメエ、ほんっとにバカだな!」 「うるせえよ!!」
さて、そんなこんなで三人は再び歩き始めた。
ゲイリーはフィッシュ・アンド・チップスの袋を片手に、ライアンは空腹を抱え、そしてデイヴはポケットから新しい煙草を取り出していた。
安物のライターを鳴らして火をつけると、デイヴは大きく煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
煙は冷たい風に乗って、前を歩くライアンの坊主頭に流れていった。
「おい! こっちに煙吐くなよ!」
「うるせえな。煙くらいで死にゃしねえよ」
「お前、さっきから俺にばっか嫌がらせしてんだろ!」 「そりゃお前が面白えからな」
デイヴは意地悪く笑い、今度はわざわざライアンの顔に向けて煙を吹きつけた。
ライアンが怒鳴り、ゲイリーが呆れたように鼻を鳴らす。そんな二人の反応がまた面白くなったらしく、デイヴはますます愉快そうに笑った。
まったく、何とも将来有望な少年たちである。
片や借金を踏み倒す小悪党、片や三人前の食事を平然と平らげる大食漢、そして残る一人は、魔法学校に通っているにもかかわらず、夏休みの宿題を放り出して煙草を吸い、友人の耳を引っ張り、カツアゲの相談に花を咲かせる十二歳の不良少年ときた。
英国の未来は、実に明るい。
少なくとも、この三人を見ている限りでは、皮肉としか言いようのない意味において。
三人がビリーズを出てから、十分ほど経った頃である。
デイヴは相変わらず煙草を吹かし、ライアンは相変わらず金がないとぼやき、ゲイリーは相変わらずフィッシュ・アンド・チップスを食っていた。実に変わり映えのしない光景だが、サルフォードの路上において、十二歳の少年三人が夕方から有意義な時間を過ごしているなどということのほうが、よほど珍しいのである。
そんな三人の前に、見るからにガラの悪い男たちが現れた。
人数は三人。いずれも十七、八歳ほどであろうか。年齢にしてデイヴたちより六つほど上だが、体格についてはそれほど圧倒的というわけでもない。何しろデイヴは既に一六四センチあり、ゲイリーに至ってはそのデイヴよりも縦横ともにでかい。もっとも、ライアンについては別である。彼の場合は相手が何歳であろうと、大抵見上げる羽目になるのだから。
しかし、デイヴがまず目を留めたのは、連中の服装だった。
一人は妙に真新しいナイキのエアマックスを履き、首には金色のチェーンまでぶら下げていた。上着もなかなか小綺麗で、この辺りの街角でたむろしている連中にしては、随分と金回りがよさそうである。
もっとも、そういう格好をしたがる連中に限って、実際にはろくな金を持っていなかったりするのだが。
「Oi, lads!」
真ん中の男が声をかけてきた。
デイヴは煙草を咥えたまま、面倒臭そうに目を向けた。
「あんだよ」
「お前ら、ちょっとこっち来いよ」
男は薄笑いを浮かべながら近づいてきた。後ろの二人も、わざわざ三人の進路を塞ぐように広がっている。
なるほど、どうやら用件は大体決まっているらしい。
「金出せよ。持ってんだろ?」
実に簡潔な要求であった。挨拶も自己紹介もなく、いきなり金銭を要求するあたり、商売人としては少々礼儀が足りない。しかし、彼らが従事しているのは接客業ではないのだから、その辺りの作法に文句をつけても仕方がないだろう。
デイヴは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの気怠そうな顔に戻った。
「ああ、ちょい待てよ」
そう言って、二人の肩を掴んでくるりと後ろを向かせた。
「おい、どうすんだよ」
ライアンが小声で尋ねた。既にズボンのポケットをまさぐり、なけなしの小銭を取り出そうとしている。
デイヴはそれを見て、心底軽蔑したような顔をした。
「情けねえ。ゲイ野郎が」
「だってよ、あいつらでけえじゃねえか!」
「テメエよりでけえ奴なんざ、この街に腐るほどいるだろうが」
その隣では、ゲイリーが残っていたフィッシュ・アンド・チップスの袋を丁寧に折り畳んでいた。食べ物を粗末にしないのは大変結構な心掛けである。もっとも、次に彼がポケットから取り出したものを見れば、その殊勝な態度も台無しであった。
鈍い銀色に光るメリケンサックである。
「三人だな」
ゲイリーはぽつりと言い、右手にそれを嵌めた。
「おう。ちょうどいいじゃねえか」
デイヴはにやりと笑った。先ほどまでの退屈そうな表情は、いつの間にかすっかり消えている。
「おい! お前ら何こそこそ話してんだ!」
背後から苛立った声が飛んできた。
デイヴはライアンの肩をぽんと叩くと、咥えていた煙草を足元に落とした。
「さっき金がねえって言ってたよな、ギャッピー」 「あ、ああ……」
「よかったな。ちょうどいいところに財布が三つ歩いてきたぜ」
ライアンがぎょっとする一方、ゲイリーは黙って頷いた。
デイヴは首を軽く鳴らし、愉快そうに口の端を吊り上げた。
「あいつらが今日の獲物だな」
そう言って、三人は揃って振り返った。
デイヴの視線は、真正面の男の顔ではなく、その首元で揺れている金のチェーンへと向けられていた。
続きは明後日くらいに出るよ!なぜなら続きも書き終わりそうだからね。
感想よこせ!!!