マダム・マルキンは、ふくよかで愛想のいい女性だった。マクゴナガルとは古い付き合いのようで、二人はしばらく言葉を交わすと、「授業の用意があるから」とどこかへ消えていった。
マダム・マルキンは、何年も子どもたちの制服を仕立ててきたせいか、誰の心にも、ひょいと入り込む術を心得ていた。
「そうなの? 坊ちゃんぐらいの年の子は、魔法使いなんて聞いたら目をキラキラさせて飛びつくのに! はい、じゃあ次は左腕あげて」
「まあ、よその子が住んでる町より、ウチの地元は現実的なんでね…」
藤色のローブを着てせかせかと動き回るマダム・マルキンを、どでかいナスのようだと思いながら、デイヴはぼんやりと左腕を上げた。
右腕から順番に、胴の長さ、右脚の長さ、右腕の長さ、右手の人差し指……といった具合に、宙に浮かぶメジャーのような道具で体の隅々を測られた。暇をもて余してデイヴが質問したはずなのに、いつの間にかデイヴが身の上を話している。
メジャーは時々くしゃみのような音を出したり、鼻をすする音を出す。どうやら体調が悪いらしく、デイヴの頭にぞっとしない考えがよぎった。
「さっきもあなたと同じくらいの子が来てたのよ? もう友達はできた?」
「まだ銀行で金を下ろしたくらいで」
「他のお店は行ってないの?」
「ええ、まあ、はい」
話しかけはしたものの、デイヴはあまり愛想がいい方ではない。こういった“社交的な会話”は長続きしたためしがない。
「そういえば、坊ちゃんの杖腕はどちらかしら?」
「杖腕? 利き腕は左だけど」
「じゃあ右の裾にポケットつけとくわね」
杖腕? ポケット?
デイヴは一瞬、頭がバグった。
魔法界じゃ利き腕じゃなくて、杖腕って言うのか? 魔法使いは何をするにも杖を使うのか?
「杖を入れるポケットを付けるってこと?」
「そうよぉ。あなた、まさかズボンのポケットに入れておくと思っていたのかしら?」
「違うんすか?」
マダム・マルキンはからかうように言った。
「マグル生まれの子はみんなそう言うわね。昔、後ろのポケットに入れていた子は、杖の誤作動で右のお尻が無くなったわ」
「……何だそれ? そんなこと起きるのか?」
「ええ、起きるわよ? それに何かに襲われたとき、すぐ杖を引き抜ける場所に入れておかないと、あっという間に死んじゃうわ。特にホグワーツは」
クスクスと笑いながら冗談めかして言うが、デイヴにとっては、これから通う学校がRPGに出てくるダンジョンのように思えた。
「……いや、その状況がまず意味わかんないけど」
マダム・マルキンは、はっはっはと笑いながらメジャーに布地を巻きつける。メジャーはふるふる震えて咳き込んだ。
「それにあなたならきっと、杖を抜く回数も多くなると思うわ。寮はグリフィンドールかしらねえ?」
「は?」
「ま、勝手な予想よ。私は先生じゃないからね」
デイヴは「なんだそりゃ」と鼻で笑いながらも、どこかその“予想”という言葉が引っかかった。
やがてローブが完成したようだ。マダム・マルキンは丁寧にお辞儀をし、包んだローブを差し出す。
「着るときは一人で悩まずに、誰かに聞くのよ。マントの裏表を間違える子、多いからね」
「あぁ、気をつけるわ」
デイヴは頭を少しだけ下げ、店のドアを開けた。
静かだった店内とは打って変わって、外は喧騒に満ちている。やる事を終えたのか、マクゴナガルがこちらへ向かってくるのが見えた。
「無事に制服は買えましたか?」
「もちろん。ほら」
デイヴは紙袋を振って、見せびらかすようにアピールした。
次に向かったのはフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店。見たことのない内容の本が所狭しと並んでいる。
『復讐の呪い――ムカつくあいつの大一番を台無しにしよう』
『悪質な呪いの反対呪文――困ったときはこれ』
『異形変身呪文――家でも職場でも、嫌いな奴を化け物に。友達や家族を怖がらせましょう!』
魔法界って、性根が腐ってるカスが多いのか? とデイヴは眉をひそめつつ、陳列棚で唯一まともそうな二冊目の本をパラパラと眺めた。発音したことのない単語、詩のような熟語の羅列、さらにそれが合体したほとんど文章のような呪文。
頭が痛くなりながら読んでいた本は、背後から伸びた手によって元の棚へ戻された。「子どもが読むべきものではありません!」とマクゴナガルに叱られる。
「ジョンソン、今日渡した手紙はどこにありますか?」
ポケットをまさぐり、くしゃくしゃになった手紙を取り出す。マクゴナガルは小さくため息をついた。
「そこに今年使う教科書のリストが載っています」
彼女は手際よく教科書の棚を回り、リスト順にデイヴへ渡していく。
視界がちょうど本で隠れ、腕がぷるぷる震えだしたころ、マクゴナガルは会計を勝手に済ませてしまった。ローブの袖口から杖を取り出し、優雅にひと振り。デイヴの腕の上にあった本がふわりと浮かび、店主が用意した大きな紙袋に綺麗に収まる。
目の前の魔法に、胸がまた高鳴る。
(魔法ってすげぇなぁ……)
口を小さく開けて見上げるデイヴを、マクゴナガルと店主はそっと微笑んで見ていた。ああして魔法に心を奪われるマグル生まれの子を見るたびに、かつての自分や、今は立派な魔法使いとなった教え子たちが思い出される。
本がすべて紙袋に収まると、マクゴナガルは今度は杖を二度ほど振った。あれだけ大量の分厚い本が入っているのに、重力の影響を無視してふわふわと浮かび上がる。
「さ、行きますよ。買い物はまだまだありますからね」
そっと背中を押され、デイヴは浮かぶ紙袋に気を取られながら、同じくらいふわふわした足取りで店を後にした。
その後の買い物は、どこか現実的すぎて、さっきまでの浮遊感と釣り合わなかった。
羽ペンなどが並ぶ文房具屋。ホグワーツでは毎日、羽ペンと羊皮紙を使うと聞かされ、デイヴは一気にテンションが下がった。どう考えても鉛筆と普通の紙のほうが便利だ。インクでミスったら書き直せないし、羊皮紙は書きにくそうだし――。
もっとも、デイヴはこの十一年間でまともに机に向かったことがない。どの口が言う、である。
虹色に光るインク、クジャクの羽ペン――見た目だけなら派手で惹かれる。だが目に悪そうだし、実用性は皆無に思えた。そんなものを使うくらいなら、まだ普通のボールペンのほうがマシだ。
結局、棚の隅に置かれていた安っぽい羽ペンと、「お買い得」と書かれたインクのセットを選ぶ。
勉強道具に金をかけるほど、自分の“優等生ぶり”に期待していない。
次は、絵本の魔女が使いそうな真っ黒の大鍋を扱う店。
片手に収まりそうな小さなものから、大型犬ほどの大きさまで、サイズも素材もさまざま。
奥のガラスケースには、鏡のように磨かれた金ぴかの大鍋や、縁に複雑な文様が刻まれた白い大理石製まである。
デイヴはそれらを博物館の展示品でも見るような目で眺め――つまり、特に何も感じなかった。
薬問屋については割愛する。彼が得た唯一の学びは、マグルの描く魔女像も、あながち間違っていないということくらいだ。
「さて……最後に買うものは杖だけですね」
マクゴナガルはデイヴを一瞥した。
「魔法使いにとって杖は大事なものです。おそらくオリバンダーから説明があるでしょう。しっかり聞いておきなさい」
出来の悪い生徒に言い聞かせるような口調。環境が変わったところでデイヴの勉強嫌いは治りそうにない。デイヴも、とやかく言う気にはならない。
「杖ってみんな、先生がさっき使ってた棒切れなんすか?」
マクゴナガルの右眉がぴくりと上がる。だが、前を向いて歩くデイヴは気づかない。
「なんかもっと凄いやつだと思ってました」
いつの間にか目的地。「紀元前三八二年創業」「高級杖メーカー」などと古ぼけた看板に誇らしげに記されている。扉の前で、マクゴナガルは思い出したように言った。
「私は銀行に戻ります」
硬貨の入った袋をデイヴに持たせると、彼女は足早に去ってしまった。ひとり残されたデイヴは、もう一度看板を見上げ、どこか胡散臭いと思いながら扉を押した。
店内は薄暗く、ロウソクの炎がちろちろと照らす。舞い上がる埃が光にあぶり出され、ここが長年ろくに掃除されていないことを暴く。棚には細長い箱がぎっしり。くたびれたもの、新しいもの、角ばったもの――。
ダイアゴン横丁に入った瞬間の胸の高鳴りを、デイヴはまた感じていた。なんて不思議な場所だ。
声を出そうとした瞬間、暗がりの奥から老人が音もなく現れた。碧い目と灰色の目が交差し、デイヴはごくりと喉を鳴らす。
「……こんにちは。アンタがオリバンダー……さん? 俺、ジョンソンです。デイヴィッド・ジョンソン」
らしくない挨拶。目の前の人物が放つ雰囲気に、飲まれかけているのが自分でもわかる。
「こんにちは、そしていらっしゃいませ、ジョンソンさん。いかにも、私がオリバンダーです」
声はどこか楽しげだった。
「今日はなんとも多くのお客さんがいらっしゃる。先ほども訪れてね、きっと君と仲良くなれるだろう」
オリバンダーは、それはそれは嬉しそうに言った。
「なんと、あのハリー・ポッターだったのですよ! ご存じですかな?」
デイヴが「知らない」と言いかけるより早く、オリバンダーは引き出しから道具を取り出しながら饒舌に続ける。
「知らないわけがないでしょうな。魔法界では誰しもが知っているお方です。なにせ“名前を呼んではいけないあの人”を打倒した英雄なのだから! そして、何よりあなたも――」
いたたまれなくなって、デイヴは口をはさんだ。
「俺、そのハリー……ポッター? って人のことは知らないっす」
オリバンダーはわざわざ振り返り、大層驚いた顔をした。
「俺、えーっと、あの、なんだったったっけ……」
「マグル生まれ、ですかな?」
言葉を補われ、デイヴは食い気味に頷く。
「そう! それ! この間、自分が魔法使いだって知ったばっかで、まだよくわからないんすよね」
オリバンダーの瞳に、一瞬だけかすかな悲しみが宿る。デイヴはそれを見逃さなかったが、深くは詮索しなかった。魔法使いがマグルに対して思うところがあるのだろう――と、勝手に納得する。
「もしや……あなた、自分のお父上のことは、何も知らないというわけですな?」
デイヴは頷き、問い返した。
「あんたは俺の父親のこと、なんか知ってんのか?」
口から出た言葉の冷たさに、デイヴ自身が少しぎょっとした。親と呼べるのはエルサだけだ。地元では誰であろうと父親の話題を出されるのが我慢ならなかった。片親だと笑われたときには、その相手が二度と口も聞けなくなるくらい叩きのめしたこともある。
「ええ、もちろん知っていますとも。しかし、私があなたに伝えるには、少々年を取りすぎた」
一拍置いて、オリバンダーは調子を戻す。
「それよりも、あなたは杖をお求めに来たのでしょう? 杖腕はどちらですかな?」
「左っす。左」
短く答える。胸の内にざらりとした感情が残った。質問をうやむやにされた苛立ち。父親なんてどうでもいいはずだったのに、“知る”という選択肢が目の前に現れた途端、思った以上に揺さぶられている。
「ではジョンソンさん。腕を伸ばしていただいてよろしいかな?」
デイヴは黙って腕を伸ばす。オリバンダーは、先ほど洋服屋で行われたのと同じように、特に左腕を中心に細かく測っていった。
その間、店にある杖の解説が進む。一角獣のたてがみ、ドラゴンの心臓の琴線、不死鳥の尾羽――芯材の違い。人が杖を選ぶのではなく、杖が人を選ぶのだということ、などなど。
「杖が人を選ぶ」。その言葉が頭に引っかかる。もしかしたら、自分に合う杖が見つからず、入学取り消し……?
採寸が終わり、道具をしまったオリバンダーは背後の棚から箱を抜き、慎重に蓋を開けた。
「白樺に不死鳥の尾羽。二十七センチ。しなやかで華麗」
手渡された杖を握る。オリバンダーが笑って助言する。「振ってみるんですよ。魔法を使うには腕の振りが大切です」。
控えめに振っただけで、ロウソクの炎が一斉に天井まで伸び上がった。
「こりゃいかん」
オリバンダーが手をひらりとすると、炎は元に戻る。
「葡萄の木に一角獣のたてがみ。二十四センチ。程よくしなって、自由」
振ると、隣の姿見が木っ端みじんに。デイヴが固まっている間に、オリバンダーは素早く杖を引っ込み、別を探した。
「――黒檀にドラゴンの心臓の琴線。三十二センチ。しなやかというより剛直。気性は強いが、よく応える」
腕を振った瞬間、それは起きた。左手から全身に電流が走るような感覚。青白い玉がいくつも現れ、ふよふよ漂い、やがて消える。最後のひとつが胸の内へすっと吸い込まれた。
「ブラボー!!!」
オリバンダーは、とても嬉しそうに叫んだ。
「いやぁ、今日は本当にいいものが見られました。この杖はあまりに頑固で、さっぱり売れなかった一本。良い持ち主が現れると信じていたが、まさかあなたとは」
デイヴはその言葉を聞き、杖を二、三度回してみせる。杖は嬉しそうに、ぱちぱちと色とりどりの火花を散らし、すぐにおとなしくなった。オリバンダーは「やはり不思議なものじゃ。だからこそ面白い」と満足げに頷いた。
代金として七ガリオンを支払い、外へ出る。そこへ急ぎ足で戻ってきたマクゴナガルと再会した。
「あら、もう選び終わってしまったのですか?」
残念そうな声。どうやら、杖がデイヴを選ぶ瞬間を見たかったらしい。
「では、最後にペットを買いに行きましょう。先ほどもう一度銀行へ行って、お金を取ってきましたから」
デイヴは少し驚く。くしゃくしゃの手紙を取り出し、ダイアゴン横丁で揃えるリストをもう一度読む。確かに、ペットの持ち込みは許可されている。だが寄宿学校でペット? しかも、猫・フクロウ・カエル?
フクロウの羽は羽ペンになるのかもしれない。カエルは魔法薬に使うのだろう。薬問屋で見た極彩色のカエルの卵を思い出し、今すぐ忘れたくなる。
「猫はともかく、フクロウとカエルはなんなんすか? どっちも“魔法使いっぽい”わけじゃないし、カエルなんてダサすぎないすか?」
思ったことはとりあえず口に出す。それがデイヴの癖だ。昔、お向かいの女の子に「それって隈? 寝てないのか?」と聞いてぶん殴られたことがある。どうやら“スモーキーアイ”というメイクだったらしい。
「フクロウは持っていると便利なんです。手紙を運びますし、時には貴重な魔法薬の材料も取ってきてくれます」
「カエルはどうなんです? 非常食とか?」
「カエルは……昔に大ブームになったのです。いつの間にか廃れてしまいましたが」
マクゴナガルは昔を思い出すように、少しだけ顔を上げて話す。その表情はどこか優しく、少し寂しそうだった。年を重ねれば、自分もあんな顔ができるのだろうか――空腹を訴え始めた腹を押さえながら、デイヴは考える。
「ペットショップはもうすぐそこですよ。どんな動物を選ぶのか、楽しみにしています」
「いや、そもそも買うんすか? 多分、育てられないっすよ?」
「買います」
「……ですよね」
半ば強制的に連れ込まれたのは、古びた「イーロップのふくろう百貨店」。ショーケースにも、外にも鳥籠のフクロウが並ぶ。
ドアをくぐると、まるでフクロウ専門の動物園。しん……とした薄暗い店内。棚や床、天井から吊るされた鳥籠から、白、茶、黒――さまざまな顔がこちらを見ている。
「どうです? もし嫌なら、ほかのペットショップもありますよ」
「いやってわけじゃないんすけどね……」
自分に飼えるのか、確信が持てない。動物を飼ったこともなければ、飼おうと思ったこともない。もし自分のせいで死なせてしまったら――それこそフクロウがかわいそうだ。
そのとき、一羽がデイヴの目の前、鳥籠の上に舞い降りた。籠の中のフクロウが抗議の声を上げるが、そいつはデイヴを見つめたまま動かない。黒を基調に、白や茶がところどころ混ざる羽。黄色い目。
「なんだお前。文句でもあんのか?」
他人にガンを飛ばされたら反射で殴る――それがデイヴのやり方だ。鳥に対してそれをしなかったのは、彼なりの最大の譲歩だった。
しばらく見つめ合った一人と一羽。
突然フクロウはふわりと宙を舞い、迷いなくデイヴの肩へ降り立つ。意表を突かれ、デイヴはその場で固まった。二、三度パタパタと羽ばたいてから羽を畳み、彼の耳をそっと甘く噛む。さらに飛び上がり、今度はデイヴの頭の上にとまった。
何が何だかわからず、ゆっくりとマクゴナガルを見る。フクロウは勝手に跳ねた髪をついばみ、気に入らないと言わんばかりに整え、周囲のフクロウたちへ冷たい視線を飛ばした――“この人間は俺のものだ”。
マクゴナガルは肩に乗ったあたりから笑いをこらえていたが、頭に乗った姿があまりにも滑稽で、とうとう吹き出してしまった。
結局デイヴは、そのフクロウに「ジャック」と名付けて買い取った。マクゴナガルは口元を押さえて笑いながら、デイヴの頭をそっと撫で、くっついていた黒い羽根を取ってやった。
笑われるのは少し恥ずかしく、腹も立ったが、不思議と怒りはすぐ消えた。撫でられたせいかもしれない。胸の奥に、ふっと温かいものが灯る。頭を撫でられるなんて、いつぶりだろう。変な感じだった。
ずいぶん時間が経ったようで、二人の影はダイアゴン横丁に入った時よりも大分長くなっていた。朝食以降、何も食べていないことに気づいた途端、腹が鳴る。駅前の全国チェーンで一番安いサンドイッチを買った。
マクゴナガルはデイヴに大量の荷物を持たせ、自分はジャックの鳥籠だけを持つ。そしてデイヴの腕を掴んだ瞬間、足元の石畳も、夕陽に染まる横丁も、すべてが渦を巻くように引き剥がされる。次の瞬間、二人の姿は消えた。通りの人々は誰ひとり気にも留めず、買い物や談笑を続けている。
着いた先は、マンチェスターのデイヴの家。
魔法を身で体感した高揚感よりも、こみ上げる吐き気を抑えるのに必死だ。マクゴナガルに背中を撫でられ、しばらく青い顔でいたが、やがて落ち着いて深呼吸をした。
ついさっきまで石畳の横丁。いま足元は見慣れたアスファルト。空気の匂いすら違う。胃が少し浮いている。
デイヴは無言で玄関の鍵を開け、買ったばかりの荷物をリビングに放り込む。マクゴナガルは玄関先から中へは入らず、その場で静かに待っていた。
「さて――」
彼女は外套の内ポケットから一枚の切符を取り出した。深紅の紙に金文字で印刷されている。
《ホグワーツ特急 片道 九月一日発 午前十一時》
「これが、あなたの学校行きの列車の切符です。ロンドン、キングズ・クロス駅の九と四分の三番線から発車します」
デイヴは眉をひそめる。
「……九と四分の三? 急にSFチックっすね。次元の裂け目でもあるんすか?」
「次元の裂け目、とは言い得て妙ですね。まあ、そう捉えてもらって構いません」
マクゴナガルはわずかに口元を緩め、言葉を継いだ。
「九番線と十番線の間にある煉瓦の柱に向かって、ためらわず歩いてください。そうすれば、あなたは九と四分の三番線に到着します」
数秒黙って見つめ、デイヴは肩をすくめた。
「……もし頭ぶつけたら、責任取ってくださいよ?」
マクゴナガルは返事の代わりに、一瞬だけ笑みを浮かべた。チケットを渡すと、いつの間にか鳥籠から抜け出し、再びデイヴの頭にとまっていたジャックを一撫でし、背筋を正す。
「それでは、ホグワーツで会いましょう」
踵を返しかけた彼女に、デイヴは曖昧に手を上げた。
老魔女が通りを曲がるところまで目で追い、姿が見えなくなると、左のバックポケットからタバコとライターを取り出す。
箱を二度軽く振り、一番飛び出した一本を咥える。まだ火はつけない。
玄関に置きっぱなしの荷物から、さっき買ったままのサンドイッチを引っ張り出し、そのまま外へ。
段差に腰を下ろし、ようやく火をつける。
煙を吸い込むと、頭の後ろにじわりと痺れが走り、視界が少しクリアになった。
もう一口煙を吸い、サンドイッチの包みを左手の薬指と親指で器用に剥き、大きくかぶりつく。
赤と青が混ざる空。
湿った夏の風が頬を撫で、吐き出した煙を溶かしていく。
遠くで、誰かが犬を呼ぶ声がした。
噛みしめるパンの食感に意識を置きながら、デイヴはダイアゴン横丁の匂いと喧騒を思い返す。あの異世界の光景が、一時間も経たずに現実の裏側へ引っ込んでしまうのが、少し信じられなかった。
飲み込んでから、もう一度、深呼吸みたいに煙を吸う。
長く息を吐き、もうひと口、サンドイッチを食べた。
指先に残った黒い羽の手触りだけが、まだ魔法の続きを主張していた。
1週間は無理でした!!今後もこれくらいのペースで更新していくと思います!!