なお主人公の内面はクソ拗らせてる模様。
こいつは今までが不幸すぎたんや…
※ストーリー自体は自分の脚本じゃありません
僕は若き頃より、世間に於いて頭が悪いと評されていた。教師も親も、果ては近所の老人さえも、彼らの目には僕という存在が愚かしく映るらしい。
愚鈍。――僕に貼りつけられたそのレッテルは、当時の誰かにとって、どれほどの重みがあったのだろう。あるいは、ただの方便だったのかもしれない。
僕自身でさえ、その評価を否定する言葉を見つけられなかったのだから。
確かに、友と戯れる事もなく、虚栄の類に興味を抱くこともない学生ではあった。けれどもこと勉学に於いては、これ誰にも劣ることがなかったと自負している。
然るに、卒業の折には首席の栄誉を与えられることなく、その座は生徒会長を務めた顔立ちの整った同級生に譲られた。理由は明白で、教師や後輩に愛され、その手腕を以て多くの人々の心を掴んでいたからである。
もう一人の友人は、僕とは正反対の存在だった。成績は赤点の常連だったが、明るい性格で皆に愛されていた。彼は今や教職に就き、情熱的な教育者として多くの生徒たちから尊敬を集めていると聞く。
一方の僕は、勉強が唯一の逃げ場だった。勉強に没頭することで劣等感を薄め、社会の期待に応えようとした。
かようにして、劣弱意識に苛まれつつも、それを打ち消さんがために更に勉強に励み、有名大学に入学するには至った。然し、そこでも人間関係に躓き、理想と現実との乖離に身を焼く日々が続いた。
世間というものは、不思議なものである。努力を重ね、然るべき成果を挙げれば誉められるかと思えば、そうではない。こと人間というものは、努力そのものを厭うのか、或いはそれを無視するのか、如何様に捉えようとも僕には到底計り知れない。
人は他者との関わりの中で、自分という存在の輪郭を意識する。僕の場合、その輪郭は常に歪み、曖昧な影を落としてきた。
勉強という得意分野にすがり、自らを形作ろうと努めた。だが、どれほど試験の点数を積み上げても、ついには真に認められることは叶わなかった。
常々思う。
————愚鈍とはなんなんだと
僕は本を読み漁った。知識が与えてくれる安心感が、心の奥に巣食う不安を忘れさせてくれる気がした。
試験は僕にとって唯一の戦場であり、紙の上で記号と文字を埋めるたび、僕は自分が価値のある存在だと思えた。
だが、それでも得られなかったものがあった。いや、それは初めから僕の手の届かない場所にあったのだろう。
面白いことに、人間というものは数値に現れぬ部分で評価を下すことを好む。ある者は朗らかさを以て人心を掴み、またある者は強い意志と勇気を示して尊敬を得る。僕にはそのどちらも欠けていた。ただひたすら、眼鏡越しに本の頁を繰り、幾何学の問題を解き続ける日々。だが、その果てに待っていたのは、誰からも愛されることのない孤独と、成績という虚飾に満たされた空虚な感情だけであった。
大学に進学しても同じことである。試験で得た高得点も、教授の気に入る答案も、結局は「良い記憶力だ」と一笑に付されるのが関の山だ。人間の価値を定めるのは、どうやら人柄や意志であって、知識ではないらしい。では、人柄や意志を磨こうと考えたかと言えば、そういう気にもなれなかった。ただ、世間という牢獄の中で無為に時間を費やすのみ。
恥ずかしながら、ここから先の話は、ただただ迷走である。そのことを先に言っておく。
そんなこんなで開き直った僕は、より周りなんぞより高難易度の知識を積み上げようとした。けれども、それらの知識はちっとも自己を守ってはくれなかった。人の心という不確かなものに触れるたび、僕の言葉は空回りし、つまずき、軋み、そして断絶した。
気づいた時にはまた、一人だった。
そんな日々の果てに、僕はトレセン学園という道を選んだ。知識を積み重ねることで夢見た「トレーナー」という職は、言葉巧みにウマ娘を導く者にこそ適している。
最難関という言葉に踊らされ、研ぎ澄ましたペンでその門をくぐり抜けた僕はそれを知らなかった。
こういうところが、僕が愚鈍たる由縁なのだろう。
兎にも角にも、幾多の曲折を経て、僕はたのトレセン学園のトレーナーとなった。
されど、そこでもやはり、人付き合いに於いて難儀する事は変わらなかった。人並みに励む努力も、期待される成果も、一切が形を成すことなく霧散する日々が続くばかり。
勉強の成果を武器にその扉を叩き壊したはいいが、コミュニケーション能力に乏しい僕に契約を結ぶウマ娘などいるはずもなく、当然のように僕は出遅れた。
契約がない日々は、焦燥と劣等感に満ちていた。誰もが担当ウマ娘と共に走る歓びを謳う中、僕だけが場違いな存在だったのだ。
愚鈍――その言葉が今も胸のどこかに巣食い続ける。
試験や論文のような明確な評価基準が存在しない世界で、孤立し、苛立つ。誰かと会話を交わせば、言葉の端々に無意識の棘を見出し、自らの不器用さに嫌悪した。その結果、同僚は次第に僕から離れ、僕自身も彼らとの距離を取り始めた。
いつしか僕はベテラントレーナーたちのサポート役に甘んじることになった。
本当にあっという間だった。
けれども、答えの見えないこの問題に挑むことをやめたら、僕はもう、本当に「愚鈍」なままで終わってしまうのだろう。だから、それだけは嫌だと僕は諦めなかった。学び続け、知識を蓄え、いつかチャンスが訪れると信じていた。そしてその時は唐突にやってきた。
名門出身のウマ娘――サトノダイヤモンドから逆指名を受けたのだ。
その瞬間、僕はまるで溺れかけた人間が救命具を掴むかのように、彼女の申し出に飛びついた。彼女は「直感」と軽く言ったが、僕にとってそれは天からの救済だった。喜びと期待に胸を膨らませ、彼女との日々が始まった。しかし、僕たちの間に横たわる壁は予想以上に高かった。彼女の言葉にはいつも遠慮が滲み、僕の振る舞いにはぎこちなさがつきまとった。
それでもなお、僕は歩みを止めることはできなかった。僕は不器用なりに、彼女の言葉に耳を傾け、彼女の走りに目を凝らした。そして、彼女の目の奥に宿る何かを――その強さと不安の入り混じった光を、見失わないように努めたのだ。
そうして担当するウマ娘――サトノダイヤモンド――が、目の前のコースを一心不乱に駆ける姿を見遣る。その健気なる瞳、軽やかな足取りと希望に満ち溢れた生きざまには、純粋無垢なる力強さが宿っている。それを見るたびに、自分が全く違う世界に生きていることを痛感せざるを得ない。
ふと、彼女がこちらを覗き見た。目が交わる刹那、彼女は慌てて視線をそらした。そこに彼女の気遣いを感じると同時に、僕という存在が彼女にとって無価値であることを知る。或いは僕が感じる虚しさを、彼女もまた察しているのかもしれない。だが、そのいずれであっても、大した違いはない。
僕にはただ、彼女の走る姿を見遣ることしかできないのである。何かを成そうとする気力も、彼女と心を通わせようとする熱意も、しけった火薬のようにうまく火がつかない。
このままではだめだ。どうにかしないと。変わらないと。
そう思いつつも、彼女と心通わせる術を知らぬまま、徒に時間を浪費しているのだ。
トレセン学園のトレーナーまでとぼり詰め、担当を得ても、知識や言葉でなく、目の前の1人の心に手を伸ばすための方法を、僕は未だ知らない。
そしてまた、知らない自分を憎むのだ。
僕という人間の人生は、ここまで紙の上で答えを書き連ねるようなものだった。間違いのない答えを探し、それを記すことで安心していた。しかし現実の人生には、正解など存在しない。むしろ、すべては問いの連続であり、答えのないまま歩む道のりなのだ。
愚鈍――その言葉が脳裏をよぎるたび、僕はそれを否定したいと思う。だが、否定しようとするたびに、その重みが僕の心に降り積もるのを感じる。
そして、目の前で走り続ける彼女の背中を見つめながら、僕はまた問いを繰り返す。
僕にとっての「答え」とは何なのだろうか?
それを見つけられる日は来るのだろうか?
夕闇に染まる空の下、答えのない問いだけが、ひたすらに胸を埋め尽くしていく。
そうやって、変わり続けるものに変わらない答えを求める――それこそが愚鈍なのかもしれない。
目の前で走るサトノダイヤモンドの背中が、どこか儚げに揺れて見える。彼女もまた変わっていくのだろう。日々の訓練で身体も心も成長し、僕の知らない彼女へと変化を遂げていく。その過程を僕は理解しようともせず、ただ「正しい関係」という理想形だけを求めて、彼女の現在地を見失っている。
その揺れる背中が僕をあざ笑う。
そう、人生において「変わらない答え」など存在しない。
人は皆、流れゆく時間の中で足掻き、揺らぎ、変化を余儀なくされる存在だ。それにもかかわらず、僕は変わらない真理を求め、唯一無二の答えに縋りつこうとしてきた。だが、それは現実を無視し、自らの無力さを覆い隠すための方便にすぎなかったのではないだろうか。
ふと視線を落とすと、夕暮れの影が長く伸びている。その影は不定形で、地面の凹凸に沿って揺らぎながら、いつの間にか僕自身の足元と重なり合っていた。まるで僕の存在そのものが、問いに包み込まれているかのようだった。
変わり続ける彼女と、変わり続ける僕。
――僕は変わらないと
ーーーーー
今日もまた…上手く話せなかった…
人付き合いに躓くたび、僕は思考の迷路に陥る。どうすれば人と「正しく」向き合えるのか。知識を蓄えることに価値があるならば、人との関係においても、それを解決するための答えがどこかにあるはずだ――そんな考えにすがりながら、僕は書店の一角にいた。
壁に当たった直後に、結局、知識を求めてしまうあたり。僕の愚鈍具合が如実に表れていると言えるだろう。
——変わってないな…僕
しかし、こうして自分から大量にある本を眺めに来るのは久しぶりのことだった。学生時代と違って忙しさや、焦りから、教本を除いて、長らく書籍関連からは足を遠ざけていた。
しかし、やはりいい。
いざ、本と向き合ってみるとここが自分の居場所であるのだという傲慢ともいえる確信が湧き上がってくる。
本のある場所というのは、幼い頃の僕にとって知識を補給するための聖域であり、唯一の避難所だった。学校での居場所のなさを忘れるために、昔は授業が終わるとまっすぐ図書館に向かい、夕暮れが書棚を橙色に染めるまで、黙々と活字を追った。辞書のページをめくる指の感触、整然と並んだ背表紙の光沢、静謐な空気――それらが、喧騒とは無縁の場所を形作る。
そこでは誰も僕を評価しないし、僕もまた、誰かの目を気にする必要がなかった。文字はただ静かにそこに在り、必要とする者の手によってのみ、ひそやかに開かれる。
だからだろうか、書店にもよく立ち寄っていた。自分への褒美として様々な本を買いあさったものである。
しかし、大人になってからの書店は、どこか騒がしかった。喧騒があるわけではない。ただ、本たちがやけに饒舌に思えるのだ。
新刊の棚には、まるで競い合うようにして同じようなタイトルの自己啓発書が並んでいる。
「成功する人は〇〇をしている」
「たった一つの習慣で人生が変わる」
「天才たちの思考法」
いずれも、成功者の口から紡がれた、あるいは成功者を観察して綴られた言葉であり、読者に向かって「お前はまだ正しく生きていない」と告げている。
そんな啓発書の右隣、ベストセラーの棚には、ひしめき合うようにまた別の種類の本が並んでいた。流行作家による大衆向け小説、話題のビジネス書、有名インフルエンサーによる政治評論、そして「人生が変わる」と謳うエッセイ本。どのタイトルも、どこか誇張じみていて、安易な救いを約束しているように思える。
軽くどこか滑稽なお題目を掲げる本たち――
――僕は目を逸らしながら、店の奥へと進んだ。
そこには、もう少し静かな空間がある。
時間の流れに左右されることのない書物たちが静かに息づいていた。流行に乗ることなく、ただ本として存在し続けるものたち―哲学、批評、政治。
いずれも、答えではなく問いを投げかける種類の本たちだ。
しかし、今日の僕が探しているのは、そうした本ではなかった。
僕はコミュニケーションに関する書籍の棚へ向かい、無造作に背表紙をなぞる。会話術、交渉術、心理学、説得の技法……。いずれも論理的で、ある種の正しさを持っている。だが、どの本も僕にはしっくりこなかった。
何度も言うが、知識として理解することと、それを使いこなすことは別問題なのだ。
その隣にはまたベストセラーの棚があった。流行作家の新作、軽妙な語り口のエッセイ、ニュースの延長のような時事評論。どの本も「今この時代を生きるあなたへ」と、こちらに手を差し出しているようだった。だが、その手を取ったところで、何かが変わるだろうか。
また移りゆ高とする批評的かつ形式的な思考を脳の片隅に追いやり、サトノダイヤモンドとの関係構築に役立ちそうな本を探す。ゆっくりと足を運びながら、気になった本を見つけたら無造作に背表紙をなぞる。
こうしておくとどの場所に度の本があったか大体は覚えていられるのだ。
どれもこれも、答えを簡単な法則に落とし込もうとする本ばかりだ。まるで人間の本質を数式のように整理し、マニュアル化しようという試み。それがまやかしであることは分かっている。成功した者の後付けの理論にすぎないし、読んだところで誰もが同じ結果を得られるわけではない。それでも、僕のような人間がこうした本を手に取り、答えを探そうとしてしまうのは、哀れな話かもしれない。
そんなとき、不意に目に留まった一冊があった。僕は普段、まえがきやあとがきには目もくれない。だが、そのときだけは、何の気なしにページを開いていた。そこに、ある写真が載っていたからだ。
それは、トレーナーなら誰もが知る伝説のウマ娘と、その傍らにいる男の姿だった――。
若き日の、伝説のウマ娘。彼女の腕に抱かれるようにして写る、ひとりの男。
僕はその写真を見つめ、そして気づく。
彼は僕と同じ道を歩きながら、まるで違う景色を見ていたのだ、と。
書店の静けさの中で、そのタイトルだけが異様に際立って見えた。
『僕がウマくいきすぎた理由』
その表題は、どこか軽薄で、それでいて僕の中の何かを強く刺激する響きを持っていた。普段ならまえがきやあとがきには目もくれない僕が、たまたま開いたのは、そこに見覚えのある写真が載っていたからだ。
ページの中央、モノクロの写真。現役時代の彼女――トレーナーを志す者なら誰もが知る、伝説のウマ娘。その若かりし日の姿が、そこにはあった。
端正な顔立ち、燃えるような眼差し、そして、その細腕に抱かれるようにして写る男。彼こそが、この本の著者であり、彼女を担当していたトレーナーなのだろう。
伝説的なウマ娘と、彼女を支えたトレーナー。その関係の中で、彼は一体何を学び、何を得たのか。彼は、どうして「ウマくいきすぎた」のか。
不意に、ページの活字がざわめきを帯びる。
この本の中には、僕の知らない「何か」があるのではないか。僕がこれまで学んできたどの理論書にもなかった、何か決定的なものが。
無意識のうちに、僕はページをめくっていた。
ーーーーーー
「おはよう、ダイヤちゃん。今日も調子がよさそうだね」
僕の挨拶に、彼女は一瞬の間を置き、それから微笑んで返してくれた。
《自分から声をかけ、打ち解けよう。毎日、毎分、話をしよう。》
書籍にあった助言を、そのまま実行に移す。
Mere Exposure Effect
単純接触効果。繰り返し顔を合わせ、会話を続けることで、相手の警戒心は薄れ、親しみが芽生えていく。しかし、それだけでは不十分だろう。
人間関係の構築には、多層的な心理メカニズムが働く。僕が彼女との関係を深めるために取り入れるべき要素は、大きく分けて三つある。
Reciprocity of Self-Disclosure
第一に、自己開示の返報性
人は、相手が自身の内面を明かすと、それに応じて心を開く傾向がある。表面的な会話を続けるだけでは、ただの馴れ合いにしかならない。だからこそ、僕は少しずつ、個人的な話題を織り交ぜることにした。トレーニングの話だけではなく、日常の何気ない出来事、僕が昔どんな失敗をしたか、あるいは彼女の幼少期の思い出を引き出すような質問をする。
もちろん、過度な自己開示は逆効果だ。人は適度な距離感を保ったまま関係を築くものだ。だからこそ、開示の程度を相手に合わせ、少しずつ積み重ねる。Pygmalion Effect
第二に、ピグマリオン効果
人は、自分に期待をかけられると、その期待に応えようとする。教師が生徒に「君はできる」と信じて接すると、実際に成績が向上することがあるように、僕が彼女に対して肯定的な期待を持ち、それを言葉や態度で示せば、彼女はその期待に応えようとするだろう。
単なる「頑張れ」ではなく、「君ならできる」と確信を込めることが重要だ。
Self-Efficacy
期待をかけることで彼女の自己効力感が高まり、それが結果としてパフォーマンスの向上につながる。
Emotional Contagion
第三に、感情の同調
感情は伝播する。笑顔で接すれば、相手も自然と穏やかになるし、前向きな姿勢を見せれば、相手も前向きになりやすい。逆に、僕が不安や苛立ちを見せれば、それはそのまま相手にも伝わる。だからこそ、彼女の前では意識的に朗らかに振る舞い、ポジティブなエネルギーを伝えるようにする。
特にその三つを意識して交流を続けた。
最初のうち、彼女は僕の変化に驚いていた。今まで無愛想だったトレーナーが急に話しかけ、親しげに接してくるのだから当然だろう。しかし、それも長くは続かなかった。
彼女の持ち前の明るさと順応性の高さが、関係の進展を早めてくれたのだろうか。あるいは、僕の取り組みが少しは功を奏したのかもしれない。
練習終わりには彼女の方から、わずかに言葉を発するようになった。走り終えたあと、息を整えながら、ふとした拍子に口を開く。
些細な変化だった。けれど、確かに変化だった
いずれにせよ、これは始まりにすぎない。
信頼関係とは、単なる「仲の良さ」ではない。それは、互いの存在が互いの成長に寄与する関係のことだ。
その境地に至るには、まだ時間が必要だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しばらくと経たない内、彼女の方から、自らの体の所感を語るようになった。走るたびに感じるわずかな違和感、前日と今日とで変わる筋肉の張り、踏み込みの感覚。それらを、僕に伝えてくれるようになった。
「今日は、少しだけ脚が重かった気がします」
「昨日よりも、呼吸のリズムが乱れなかったかもしれません」
これは思わぬ収穫だった。
淡々とした口調。だが、それは確かに僕へ向けられた言葉だった。それを嬉しく感じると同時に、本の戦略の成果を実感する。
急に言ってもわからないかもしれないが、これは極めて重要なことなのだ。
それというのも——ウマ娘の体は、繊細だ。
人間のように、あるいはそれ以上に。彼女たちは走るために生まれ、走るために生きている。その肉体は人の理と異なり、わずかな調整で特性が変わる。負荷のかけ方ひとつ、ストライドの幅ひとつが、結果を決定づける。
ウマ娘は人間とは異なる身体構造を持つ。筋肉のつき方、骨格の強度、走る際のフォーム——そのすべてが、トレーニングによって変化していく。だが、それは数値や映像で分析するだけでは捉えきれない部分がある。だからこそ、本人の実感が不可欠なのだ。
早速、彼女が感じる違和感をデータ化し、測定を重ねた。筋肉量の変化、疲労の蓄積、瞬発力と持久力のバランス。大学で学んだ理論を下地に、より効率の良いトレーニングメニューを組み立てる。だが、それだけでは十分ではない。
彼女の主観的な感覚を、トレーニングに反映すること。
これまでの僕なら、科学的に最適な方法論を突き詰め、彼女にとっての「正解」を押しつけていただろう。けれど、トレーニングとは十人十色。最善とされるものが、必ずしも最適とは限らない。むしろ、そのウマ娘自身が何を感じ、どんな動きが心地よいのか——そこに耳を傾け、それを取り入れることのほうが、結果として理にかなう場合もある。
今でも僕はそれを、理論で測る。筋肉量の変化を計測し、フォームを分析し、酸素摂取量を数値化する。それが、最も精確というわけではなく、埋められるところは数字で埋める。だが、彼女の語る「感覚」は、どの数値にも置き換えられないもので、なおかつ決して無視できないものだった。
彼女は、何を感じ、何を考えているのか。
僕は、何を聞き、何を見落としてきたのか。
単純接触効果——それは単に好意を生むだけではない。関係を築くということは、単に近づくだけではなく、互いの歩調を合わせることでもある。僕が彼女に話しかけ、彼女がそれを受け取る。それが繰り返されるうちに、彼女の内にあった言葉が、少しずつ形を成し始める。
僕はそれを、貴重な手がかりとして拾い集めた。
対話とは、単なる情報のやりとりではない。それは、相手の内面に触れ、理解し、互いの在り方を変えていく営みだ。
ただ声をかけ、会話を続けるだけで、ここまで変化があるとは思ってもみなかった。
そうして、僕たちはようやく「パートナー」として動き始めた。
彼女が感じる微細な違和感を記録し、データと照らし合わせ、仮説を立てる。過去のレース映像を確認し、調整の余地を探る。ときに試行錯誤しながら、彼女の声に耳を澄ませる。
すると、彼女の方からも、わずかに歩み寄るようになった。
「昨日のメニュー、すごく良かったです。今日の動き、軽いです」
「でも、最後のコーナーで少し息が上がりました」
これまでただ指示を受けるだけだった彼女が、積極的に自分の体を分析し、考え、僕に伝えようとしてくれる。それは、僕が理論を押しつけるのではなく、彼女の言葉に寄り添ったからこそ生まれた変化だった。
あるいは、最適解とは、データの中ではなく、言葉の中にこそ存在するのかもしれない。
僕たちは、ようやく「パートナー」になれたのかもしれない。
そう思えた。
しかしそうするに従い、新たな問題も見えてきた。
彼女の抱える問題は、メンタルだった。
一族の悲願であるG1制覇。それは彼女にとって誇りであり、使命であり、そして足枷だった。
彼女は誰よりも努力を惜しまなかった。練習では完璧なペース配分を見せ、力強くゴールを駆け抜けた。だが、本番になるとわずかに肩がこわばる。目に見えないほどの小さな違和感が、終盤の脚に影を落とした。
焦りが呼ぶスタミナの浪費。無意識のうちに力みが生まれ、予定より早く足を使いすぎる。結果、ゴール前での伸びを欠き、練習では圧倒していた相手に勝利を譲ることもあった。
——勝ちたいという思いが、彼女を縛っていた。
迎えたデビュー戦。
試合の日の朝、僕はいつもより早く目を覚ました。窓の外では夜の帳がゆっくりと剥がれ、僅かに曇った空が灰色に染まっている。目覚まし時計を止め、静かに起き上がると、デスクの上に広げられたレースのデータが目に入った。昨夜遅くまで分析していたことを思い出し、少しばかりの倦怠感を覚える。
ーーーーーーーー
シャワーを浴び、冷えた水で顔を洗う。鏡の向こうに映る自分は、やや痩せた顔つきで、目の下に薄く影を落としていた。少しでも精悍に見せようと、ネクタイをきつく締める。今日こそは、彼女にとっても僕にとっても重要な一日なのだ。
寮を出ると、朝の空気が冷たく肌を刺す。トレセン学園の構内は、既に活気づいていた。トレーナーたちが馬娘と共に調整を重ね、試合前の最後の準備を整えている。僕は一瞬、彼らの間に交じることに躊躇しそうになったが、深く息を吸って気持ちを落ち着かせる。
サトノダイヤモンドは、厩舎の前で僕を待っていた。彼女は既に準備を終え、トレーニングウェア姿で軽くストレッチをしている。朝日が彼女の栗色の髪に淡い光を落とし、穏やかな表情を浮かべていた。
「おはようございます、トレーナーさん」
彼女の声はいつも通り落ち着いていたが、その奥に秘められた緊張を僕は感じ取った。レースの前の静けさ。期待と不安が交錯する時間。
「ああ、おはよう。調子はどう?」
「悪くはないです。……でも、緊張していないと言ったら嘘になります」
彼女は小さく微笑む。その笑顔が、かえって彼女の不安を際立たせる。
「大丈夫。君はこれまでしっかり準備をしてきた。自分を信じるんだ」
僕の言葉に、彼女は静かに頷く。それから、目を細めて小さく息を吐いた。
「行きましょう、トレーナーさん。今日は、勝ちます」
僕たちは並んで歩き出した。レース場へと続く道は長く、試練のように思えた。だが、それを乗り越えた先には、僕たちにしか見えない景色が広がっているはずだった。
レース当日の空気は、独特の匂いがする。
芝の湿り気、遠くに漂う軽やかな土埃、観客の熱気が混ざり合った、決して心地よいとは言えないが、確かに昂ぶりを生む匂いだ。
早朝のパドックにはまだ人影がまばらだった。係員たちが静かに準備を進めるなか、僕たちは厩舎を出た。サトノダイヤモンドの蹄は、乾いた地面を確かめるように、ひとつひとつの歩みに慎重さを宿していた。
「よく眠れた?」
僕の問いに、彼女は小さく息を吐いた。
「はい、でも少しだけドキドキしてます。まぁ、悪くない緊張です」
その横顔は、僕よりも落ち着いて見えた。
ゲート裏。
ゲートインの順番が来るまでの数分間が、やけに長く感じられる。馬場入りするウマ娘たちの蹄鉄が芝を踏む音、鞍上のトレーナーたちの短い指示、観客席からのざわめきが、混然一体となって鼓膜を震わせる。
彼女の視線は、まっすぐにコースを見据えていた。
「大丈夫。やるべきことは、すべてやった」
僕がそう言うと、彼女は静かに頷いた。
本番前のウマ娘にできる言葉は少ない。
今さら技術論を並べても、心を惑わせるだけだ。それくらい、いくら愚鈍と呼ばれた僕でも分かる。
今ここで、トレーナーとして僕にできることは、彼女の背中を押すこと。それだけだった。
ーーーーーーーーー
ゲートイン。
鋼鉄の枠が閉まり、静寂が訪れる。数秒の間、すべてが静止したかのように感じられる。そのわずかな沈黙が、嵐の前の静けさに似ていることを、僕は知っていた。
そして、号砲。
——開いた。
彼女の蹄が、空を裂いた。
スタート直後の加速。力強くも無駄のないストライド。彼女は一歩、また一歩と、大地に刻み込むように駆けていく。
芝の上を疾走する十数の影。各々の戦略が交錯し、ウマ娘たちは前をうかがいながら隊列を作る。彼女は中団、狙い通りの位置につけた。
最初のコーナー。
内に入りすぎないよう、わずかに外へ膨らむ。呼吸は一定、フォームに乱れはない。僕が想定した通りの動きだった。
彼女は順調に先頭集団を牽引し、完璧なペースで直線を迎えた。だが、そこからの加速が鈍い。表情は冷静を装っているが、内心の焦りが僅かに滲む
バックストレッチ。
背後から飛び出しを仕掛けた1馬が先頭を抑え、2位に転落。それ以上の追い抜きを許さないように彼女は周囲を観察し、ときに牽制をかけながら、冷静に脚をためる。スピードはまだ抑えたまま。勝負はまだ先だ。
「——行け」
最終コーナー。
彼女は一気にギアを上げた。
それは、まるで風だった。
脚の回転が一段と鋭くなり、ストライドが広がる。彼女の身体が空気を切り裂き、疾風となる。その動きに、他のウマ娘たちが反応する。
しかし、彼女の加速は止まらない。
ラスト300メートル。
前を走るウマ娘の背中が、次々と視界の端に流れ去っていく。彼女の体幹はぶれることなく、ただゴールだけを見据えていた。
ラスト200メートル。
その時、彼女は苦しげに顔を歪めながらも、まだ前を見据えていた。
観客席がどよめく。直ぐ側に飛び出しを仕掛けたウマ娘と後続が迫っていた。
「——来るぞ」
僕は呟いた。
最後の100メートル。
彼女のすぐ背後に、猛追する影。今までノーマークだった白いウマ娘が、怒涛の追い上げを見せる。
焦るな。お前は速い。
僕は叫びたかった。しかし、トレーナーとしてできることはもうない。彼女が冷静にならなければいけない場面で、トレーナーたる僕が冷静さを失ってはダメだ。
見守ることしか…!
あと50メートル。
白が並んだ。否、抜き去った。
あと——一馬差
「——行け!」
彼女は最後の一歩を振り絞った。
——そして、ゴール。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、観客の歓声が爆発した。
ほんの僅か、胸の差だった。
僕は思わず拳を握った。
——勝った
——彼女は、やり遂げたのだ。
彼女はゴールラインの向こうで数歩駆け抜け、そのまま減速した。肩で息をしながら、ゆっくりと振り返る。
ゴールした瞬間のブザーが、しばらく耳鳴りのように残る。そして観客席で冊を掴んで立ち上がったままの僕を見た。僕は、少しだけ笑って、聞こえるはずもないのに、いつの間にかこう呟やいていた。
「おめでとう」
——1着
これまでのすべての時間が報われた瞬間だった。
なのに彼女の表情は、まだ信じられないものを見るように驚きに満ちていた。そして次の瞬間、彼女は腕を突き上げた。
——勝ったのだ。
観客席が揺れる。ウマ娘たちが次々とゴールを切る中、彼女は歓喜の面持ちで僕の元へ駆けてきた。
「やった! トレーナーさん、勝ちました!」
彼女は汗を滲ませたまま、息を弾ませ、喜びを隠そうともしない。
僕は、その瞬間を目に焼き付けた。
競馬場の喧騒は、まるで遠くの出来事のように耳の奥で尾を引いていた。ゴールの瞬間、彼女が10cmほどの差で勝利をもぎ取ったことを、まだしっかりも現実として受け止めきれずにいるのかもしれない。まるで走り去る風を、指先でつかもうとするような感覚。
そのとき、不意に視界が揺らいだ。
「トレーナーさん!」
思考の隙をつくように、駆け寄ってきた彼女が、勢いよく飛びついてきたのだ。
小さな体が僕の胸にぶつかり、思った以上の力で腕が背中に回る。ゼッケンの擦れる音、荒く弾む息、肌に伝わる微かな震え。彼女の鼓動が、僕の胸元で跳ねていた。
「トレーナーさん…! トレーナー…さん!」
彼女の細い腕が僕の背中に回り、強く引き寄せられる。震える声で、何度も僕の名を呼ぶ。
何度も何度も、彼女は僕の名を呼ぶ。
今日のレースで彼女は己の殻を破り、未踏の領域へ踏み出した。その歓喜の余韻が、いま全身を貫いているのかもしれない。
しかし——。
彼女の豊かな胸が押しつけられ、シャンプーの香りがふわりと鼻腔をかすめた瞬間、僕の思考は僅かに乱れた。甘やかな匂いが、熱を帯びた空気と共にまとわりつく。こんなときに何を考えているのか、と自分を嗤いたくなる。彼女の純粋な喜びを汚してはならない。
その思いから、離れよう、逃げようとする。
肩に手をかけ、そっと距離を取ろうとしたそのとき、ふと、あの本の一節が脳裏をよぎる。
——《担当のすべてを受け入れよう。他人の目よりも、担当の好きなことをしてあげよう。》
これは、彼女が望んだものだ。僕の理性や常識がどうであれ、彼女にとってこの抱擁が何よりの勝利の証なのなら、僕はそれを否定すべきではないのではないか?
彼女がいま求めているのは、勝利をともに分かち合うこと。それを拒むのは、僕の勝手な理性の押し付けにすぎない。
「ダイヤちゃん、ハグってリラックスできる?」
問うと、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。長いまつげが揺れ、その瞳がまっすぐ僕を見つめる。そして、少し考えるようにしてから、ぽつりと答えた。
「えっと……はい」
ならば、と僕は彼女の背に手を回し、静かに抱きしめ返した。
皮膚にはC触覚線維と呼ばれる特殊な神経線維があり、こうして背中に手を添えて温かくゆっくりとした接触を受けることで、扁桃体の活動が低下し、情動の安定がもたらされるのだ。
また、
「ト、トレーナーさん!?」
耳元で彼女の声が驚きに弾ける。細い肩がこわばり、手のひらが僕の背で力を失う。
柔らかな体が密着し、彼女の体温が僕へと流れ込む。心臓の鼓動が肌越しに伝わり、彼女がまだ興奮の余韻に浸っているのが分かる。
「えっ…と…」
あまりに突然の出来事だったせいか、ダイヤちゃんは驚いたまましばらく身じろぎもしなかったが、やがて、ゆっくりとその身体を預けるように力を抜いた。
かと思えば、その両腕は静かに、けれど確かに僕を抱きしめ返してきた。
体温がじかに伝わってくる。
お互い心臓の鼓動が胸の奥で同期して響くほど近い距離。
彼女の驚きが次第に安堵へと変わっていく感じる。
ウマ娘の身体は、接触に対して極めて敏感な反応を示す。特に、オキシトシンと呼ばれるホルモンは、親密な接触や信頼関係の構築において重要な役割を果たす。これは視床下部から分泌され、下垂体後葉を経由して血中に放出される。オキシトシンの作用は多岐にわたり、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を抑制し、副交感神経を優位にすることで心拍数を安定させる。結果として、不安感や緊張が和らぎ、リラックス状態が促進されるのだ。
「これから君がリラックスするために、いっぱいこうしよう」
そう告げた僕の声は、自分でも驚くほど静かで穏やかだった。
「トレーナーさん…」
周囲のギャラリーがこちらを見つめているのを感じた。フラッシュの閃光が視界の隅で弾ける。騒めきが波のように押し寄せ、誰かが名前を呼ぶ声がした。
だが、関係ない。
彼女がリラックスできるなら、僕はこの腕をほどくつもりはない。
観客の歓声が遠のいていく。僕らの周囲だけが、時間から切り離されたように静かだった。
彼女の心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
これは、正しい選択だったのだろう。
僕はトレーナーだ。彼女の成長を導くのが役割であり、そのためには彼女の心にも寄り添わなければならない。
彼女の勝利を、彼女の歓喜を、この瞬間だけは世界のどんな雑音よりも優先すべきなのだから。
……ただひとつ問題があるとすれば——僕自身の理性が、この先どこまで耐えられるかということだった。
習慣というものは、人間の生理に深く刻み込まれる。単なる行動の繰り返しではない。繰り返すことで脳がそれを「当たり前」と認識し、それがなければ落ち着かない状態へと移行する。そうして、人は無意識のうちにその行動を求めるようになる。
僕たちの関係も、そうやって形成されていった。
練習前のハグ、休憩中のハグ、練習後のハグ、レース前のハグ。合図も前触れもいらない。ただ、彼女がそばに来て、腕を回す。それを僕が受け入れる。それだけのことが、日常の一部になった。
最初は心理学的なアプローチだった。オキシトシンによるリラックス効果、触覚刺激がもたらす安心感、それらを意図的に利用することで、彼女のプレッシャーを軽減し、パフォーマンスを安定させるのが目的だった。しかし、いつしかそれは手段ではなく目的になり、彼女の方から何もない時でさえ求めるようになった。
彼女が近づく。
僕を抱きしめる。
僕も彼女を抱きしめる。
単純接触効果は、時に思わぬ作用を及ぼす。たとえば、彼女の胸の柔らかさが重なった瞬間、意識せずとも股間に血が集まる。生理反応であり、それを制御するのは至難の業だ。それでも、それが彼女に悟られることは絶対に避けなければならない。彼女に気づかれれば、すべてが崩れてしまうだろう。
だが、彼女は無邪気に、何も疑うことなく、ただ抱きしめてくる。
そして、勝つ。
メンタルの課題を克服した彼女は、快勝を重ねた。重賞レースに名を連ね、G1制覇の道を歩み始める。その歩みの中で、彼女は疲労を自覚することがない。極限まで鍛えられたアスリートの身体は、痛みや疲労を「敵」として処理するようになり、それを意識の表層に浮かび上がらせることが少なくなるのだ。だが、肉体の疲労が精神の摩耗を引き起こすのは避けられない。だから、僕の役割は彼女を「無理をしない方向」に導くことだった。
休日、僕は彼女を映画に誘った。
G1制覇を始めた今、彼女には強制的な休息が必要だった。休まなければならないことを、彼女自身が理解していなくとも。
私服の彼女は、普段とは違う雰囲気をまとっていた。競技場の中で見るよりも、少し幼さが際立ち、ふとした仕草に普段の厳しさとは異なる柔らかさが滲む。そんな彼女が、不意に僕の手に触れた。そして、おずおずと指を絡め、ぎこちなく握ってくる。
これは、ハグの延長なのかもしれない。
僕は、彼女の手を握り返した。
その瞬間、彼女の尻尾がピンと跳ねた。
生理的な反応。あるいは、心理的な昂揚。
僕には、それがどちらなのかを、まだ断定することはできなかった。
映画館の暗闇のなか、スクリーンの光だけが僅かに僕たちの顔を照らしていた。エンドロールの音楽が流れると、場内は静かなすすり泣きに包まれる。隣を見ると、ダイヤちゃんがハンカチで顔を覆いながら、大粒の涙をこぼしていた。
嗚咽を漏らすわけではない。彼女はただ、声もなく涙を流し続ける。ウマ娘の耳が震えているのがわかる。尻尾は感情を持て余したようにピクリとも動かない。
「……そんな、ひどい……」
彼女は絞り出すように呟いた。
スクリーンでは無情にもエンドロールが進み、観客たちは静かに席を立ち始めている。だが、彼女はしばらく立ち上がる気配がなかった。僕はどうするべきか考えた。慰めるべきか、それとも黙って彼女の涙が止まるのを待つべきか。
「トレーナーさん……」
彼女はハンカチをぎゅっと握りしめ、僕を見上げた。涙で濡れた瞳は、スクリーンの光を受けてきらきらと光っていた。
「こんなに……こんなに悲しいことってありますか?」
彼女の問いに、僕はすぐには答えられなかった。映画の主人公は、愛する人を守るために嘘をついた。自分を悪者に仕立て、あえて彼女を突き放した。その選択が正しかったのか、それともただの自己犠牲だったのか、それを判断するのは簡単ではない。
「……あるよ」
僕は静かに答えた。
「時には、誰かを守るために、本心を隠さなきゃいけないことがある。真実を伝えたほうがいい場合もあるけど、そうじゃないときもある。……だから、彼の選択が間違いだったとは言えないよ」
ダイヤちゃんは唇を噛みしめ、しばらく考え込むように俯いた。ハンカチを目元に押し当てたまま、肩が小さく震えている。
「大丈夫?」
「…はい」
彼女はすました顔で言ったが、その声には少し鼻にかかった震えが残っている。
「きっと……私だったら耐えられません」
彼女の呟きに、僕はそっと隣の肘掛けに腕を置いた。
「ダイヤちゃんは、きっと立ち直るんじゃないかな」
彼女は驚いたように顔を上げた。
「嘘をつかれても、きっとその奥にある本当の気持ちを見ようとする。ダイヤちゃんは、そういう子だと思うよ」
ダイヤちゃんはしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、やがて涙を拭い、小さく笑った。
「……そんな風に思ってくれてるんですね」
スクリーンには最後のクレジットが流れ、場内の明かりが少しずつ灯り始めた。観客たちは三々五々と出口へ向かい、僕たちもゆっくりと席を立つ。
「トレーナーさん、手……握ってもいいですか?」
小さな声だった。震えながらも、どこか決意を秘めた声だった。
僕は迷わず、彼女の手を取った。
「……出ようか」
彼女の指はまだ少し冷たかったが、その握り返す力は、映画を観る前よりも少しだけ強くなっていた気がした。
映画館を出ると、夜の風がひやりと頬を撫でた。秋も深まったと見えて、舗道の木々は風に揺れながら、時折乾いた葉を落としている。僕はポケットに手を突っ込みながら、隣を歩くダイヤちゃんの様子を窺った。彼女は小さなハンカチで目元を押さえ、まだ微かに鼻をすすっている。
「愛し合う二人が結ばれないなんて、あんまりですよ」
彼女は感情を持て余すように、僕に向かって嘆息した。
「ビターエンドだったね」
僕はそれだけ答えた。
「私が王女だったら、あんな嘘言われてもついていきますけどね」
彼女の耳がピンと立っている。きっと本気で言っているのだろう。
「ダイヤちゃんが王女だったら、主人公も幸せだろうね。つきたくない嘘を、嘘だってわかってくれるんだから」
そう言うと、彼女はふふんと得意げに胸を張った。しかし、すぐに考え込むように視線を落とし、少し間をおいて言った。
「でも、王女もわかってましたよ、きっと。だから、全部自分のせいにしようとする主人公を『悪い人』って言ったんですよ」
なるほど、そういう解釈があるのか。僕は今更ながらに自分の浅はかさを思い知らされた。登場人物の心の奥にある微細な揺らぎまで掬い取ることができる彼女と違い、僕はただ表面に流れる言葉を追っていただけだった。
「……僕、ちょっと見落としてたかも」
「でしょう? トレーナーさんは、こういうの苦手そうですもんね」
彼女はいたずらっぽく笑い、僕の袖を引いた。
「そうだ、半券でクレーンゲーム一回無料だって。何かお土産取りに行きましょう!」
「お土産ねえ……」
僕は適当に相槌を打ちながら、彼女をゲームセンターへと導いた。
ゲーセンの入り口をくぐると、煌々としたネオンが目を刺し、耳をつんざくような電子音が飛び交った。映画館の余韻に浸るにはあまりに喧騒が過ぎる。だが、ダイヤちゃんはまるで気にする様子もなく、僕の袖を引きながらクレーンゲームのコーナーへと向かった。
「あっ」
賑やかな電子音と、時折歓声の混じるざわめきが耳に飛び込んでくる中で、ふと立ち止まって彼女は視線を一点に注いだ。
「どうしたの?」
「あっ、あれ…私の」
彼女がぽつりと呟いたのは、大きなぬいぐるみのことだった。透明なアクリルケースの向こうには、やたらと精巧に作られたウマ娘のぬいぐるみが並んでいた。
「普通のクレーンゲームみたいだけど?」
「クレーンゲームの景品、私の…、というか私が元のぬいぐるみです」
僕は言われるままに目を向けた。そこには確かに、彼女の特徴的な耳と尻尾を備えた小さなぬいぐるみが並んでいた。どこか幼さを感じさせるその姿は、本物の彼女よりもいくぶん無防備に見える。
「公式グッズか?」
昨今ではウマ娘の肖像権侵害が深刻な問題となっている。違法なフィギュアや、写真集が検挙される例が絶たない。
トレーナーとしては真っ先に確認したくなるくらいには不安にもなる。
「欲しい? 半券使えるみたいだけど」
そう言いつつ、僕は操作パネルの脇に貼られた「半券1枚で1プレイ無料」のシールを指さした。ダイヤちゃんがそれを見て、少し考え込む。
「うーん、自分のぬいぐるみを持つのって、ちょっと不思議な気分かも……」
そう言いながらも、彼女の瞳はそれをじっと見つめていた。
「取ってあげるよ」
「ほんとですか? でも、クレーンゲームって結構難しいですよ?」
「こういうのは、技術じゃなくて運だから」
店員に映画の半券を渡すと、クレーンゲームのクレジットが起動した。液晶画面に「1 PLAY」と表示され、僕は慎重にレバーを握る。ターゲットは、大きなぬいぐるみ。
対峙するぬいぐるみの表情は妙に生気があり、柔らかそうな耳と尻尾が特徴的だった。柔らかそうなフォルムのそれは、どこか本物よりも幼げに見える。
「頑張ってください!」
——実は、これが人生初のクレーンゲーム。しかも内心ダイヤちゃんより興奮気味というのは内緒だ。
「トレーナー…!」
——背後には期待した目をした愛バがいる。
僕は息を吐き、レバーに手をかけた。実はクレーンゲームに自信があるわけではないが、彼女の期待に応えないわけにもいかない。慎重にアームを動かし、狙いを定める。……と、その瞬間、不意に背後から温もりが伝わった。
「え?」
ダイヤちゃんがそっと僕の背中に密着していた。両腕を僕の横に伸ばし、まるで操作を補助するように手を重ねてくる。
「こ、これは……?」
「こうすると、成功率が上がるって聞きました」
「どこ情報?」
「うちのルームメイト情報です」
ありがとう、ルームメイトさん……!
…じゃなかった。その子も何を教えてるんだか。
後ろから回された腕が、僕の動きにそっと添う。彼女の体温が伝わり、肩越しに見えるダイヤちゃんの表情は真剣そのものだった。まるでレース前の集中した顔だ。
「頑張ってくださいね」
「うん…」
そう言いながららも、後ろに感じる熱のせいか、掌に汗がじっとりと滲み始める。まずい、早期決着しなければ。
それにしても、やはり近すぎではないだろうか?
こうした方が成功率が上がるって…そんなあからさまにデタラメな…今時ネット記事でももう少しマシな記事になるぞ。
いや、しかし、そんな情報に騙されるほどウチの担当はチョロかっただろうか?
いや、あるいは本当に…?
思えば僕はそういう方面に関する知識はゼロに等しい。
なんだか悲しくなってきたぞ……
よし、考えるのやめよう…
「……じゃあ、いくぞ」
「はいっ」
ボタンを押すと、クレーンはゆっくりと下降し、ダイヤちゃんの分身のようなぬいぐるみに触れた。そして――奇跡的に、それは持ち上がった。
ガラスの反射越しにダイヤちゃんの表情が見える。
というかアクリルケース野中を見ようと前のめりになっているせいで、背中の感触がすごいことになっている。
「……あっ!」
「これは……いけるか……?」
緊張の一瞬。クレーンはぐらつきながらも、慎重に景品口へ向かい、そして――。
クレーンのアームが甘く調整されているのは明白で、一回や二回では取れそうにない。
「……よし」
周りのうるささなど気にならないほどに意識をこの長方形の中だけに集中させる。僕は人生で一番真面目に、そして慎重にレバーを操作した。
クレーンはゆっくりと降下し、ダイヤちゃんのぬいぐるみをそっと抱え上げる。そして、揺れながら——落ちた。
「ああ~~惜しい!」
彼女が耳をぴくぴくと動かしながら悔しがる。
「もう一回……」
「トレーナーさん、意外とハマっちゃうタイプです?」
「これは負けず嫌いって言うんだよ」
僕は感情に突き動かされたまま、勢いよくボタンを押した。アームがゆっくりと下降し、ぬいぐるみの耳に触れたかと思うと、まるで生き物のようにふわりとすり抜け、無情にも元の位置へと戻る。
3度目の挑戦で、ダイヤちゃんは隣で固唾をのんでクレーンの爪の動きを見守っている。しかし、ぬいぐるみが落下口に届く直前、アームが緩み、それはふわりと脱落した。
「そんな…!」
と思ったのだが、落下時の反動でそのまま銀の箱に当たり、それとともに落下口に入ってしまった。
……計算通りだ。
「やった!」
「すごいすごい! トレーナーさん、すごいです!流石です!」
「トレーナーさん、ありがとうございます!」
ダイヤちゃんが飛び跳ね、手を叩いて喜ぶ。
そして、ぬいぐるみを両手で大事そうに抱え込むと、ぎゅっと抱きしめた。
「……なんだか、私がもう一人いるみたい」
僕が彼女を抱きしめていたのはいつもだったが、今、彼女が抱きしめているのは自分自身だった。
「トレーナーさん、これ、私のお守りにします」
「嬉しいです! これは家に飾ります!」
「いや、ダイヤちゃん本人が持ってたらなんか変な感じってさっき言ってなかった?」
「いいんです! これは私が取ったんじゃなくて、トレーナーさんが取ってくれたやつですから!」
そう言って、ダイヤちゃんはにっこりと笑った。その笑顔は、レース後の勝利インタビューよりも無邪気で、心からの喜びに満ちていた。
……その時、僕はふと気づいた。
――これもまた「ハグ」の延長なのではないか?
ハグは彼女にとって、安心感を得るための手段だった。だが、今彼女が抱いているのは、僕が取ったぬいぐるみだ。彼女はそれを抱きしめることで、僕との繋がりを感じているのではないか。
考えすぎかもしれない。だが、少なくとも彼女は今、僕が取ったぬいぐるみを、まるで宝物のように抱きしめている。
「まだ中に何かありますよ?」
「……あぁさっき運良く一緒に落ちてきたやつだね、中身はなんだろ?」
箱を拾い上げ、蓋を開ける。中にあったのは、銀色の指輪。ただの鉄製のイミテーションリングだが、妙に重量感があった。
「王女様に献上したく存じます」
僕は映画のワンシーンをなぞるように、指輪を差し出した。
ダイヤちゃんは一瞬、目を丸くした。そして、おずおずと左手を差し出す。
指輪の意味――歴史的にも文化的にも、それは深い象徴性を持つ。
――さて、この指輪はどの指にはめるべきか。
鉄製の指輪に価値があるわけではない。ダイヤモンドの輝きもなければ、金のような重厚感もない。ただ、彼女にとっては映画の余韻と重なる特別な一品になるかもしれない。
「……どっちの手がいい?」
そう尋ねると、ダイヤちゃんは少し考えた後、左手を差し出した。
僕は少し考えた後、薬指にそっと指輪をはめた。まるで、それが最初から彼女のものであったかのように、ぴったりと収まる。
「…!」
「指輪どの指に嵌めるかで意味が変わるのは知ってる?」
「はい、でも薬指以外は具体的には知りません」
そう言うと、彼女は興味を引かれたように目を輝かせた。
「色々あるからね。知らないのが普通だよ」
僕は、歴史の知識もこういう雑学と絡めて覚えていたためこういうことも覚えていただけだ。
「そうですか?でもトレーナーさんは知ってるんですよね? たとえばどんなものが?」
「たとえば、親指につけると権力の象徴。王や貴族が印章の指輪をしていたのはそのためだね。人差し指だと野心や自己表現、中指は直感やバランスの意味がある。小指だと自己主張や魔除け。薬指は……まあ、知ってる通りだよ」
「なるほど…」
「右手と左手、どっちに指輪をはめるかだけでも意味は違うんだ」
僕はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「右手は『能動的な意志』を表す。支配、決断、行動力。だから、右手の薬指に指輪をつけると『自己愛』や『自分自身の目標を貫く』っていう意味になる」
「左手は?」
「左手は『受動的な感情』を表す。信頼、献身、そして心のつながり。だから、左手の薬指には『愛と永遠の絆』っていう意味があるんだよ」
ダイヤちゃんは少し頬を染めて、視線をそらした。
「そうなんですか……」
ダイヤは自分の左手の薬指をそっとなでた。
「それじゃあ、これは……」
彼女の声がかすかに揺れた。おそらく、聡明な彼女のことだから、僕が何も考えずにそこにはめたことに気づいているはずだ。だが、彼女はそれを否定しない。むしろ、どこか嬉しそうに見えた。
「古代の人々はね、左手の薬指の静脈は直接心臓につながっていると信じていた。ラテン語で『Vena Amoris』――『愛の静脈』って呼ばれていたんだ。だから、結婚指輪をそこにはめるようになった」
「……心臓につながってる……」
ダイヤちゃんは指を軽く押さえた。まるで、本当にその下に愛の静脈が流れているかのように。
「まあ、実際の解剖学ではそんな血管はないんだけどね」
「ふふっ、ロマンを壊さないでください」
彼女は笑った。
――でも、僕は知っている。
人の体に『愛の静脈』は存在しなくても、人はそれを信じることをやめられない。
「こんなに意味があるなんて不思議ですね」
「まあ、もともと指輪っていう文化自体、どの文明にもあるんだよ」
僕は話を続ける。
「古代エジプトでは、輪は『永遠』を象徴していた。だから死者とともに埋葬されたし、結婚の際にも使われた。ローマ帝国では、鉄製の指輪を婚約の証として交換した。中世になると貴族が豪華な宝石の指輪をはめて権力を誇示するようになったし、教皇は『漁師の指輪』を持っていて、これは代々引き継がれていった」
「どうして、どの文明にも指輪があるんでしょうか?」
ダイヤが問いかける。僕は少し考えてから答えた。
「たぶん、人は何かを円で囲みたがるんだよ。輪は途切れないものだから、永遠の象徴になる。それに、人間関係を『つなぐ』ものでもある。指輪を交わすことで、家族の証や契約の証になるし、魔除けとしても使われる。文化ごとに意味は違っても、指輪の本質は変わらない」
「……ふふっ」
彼女は微笑んだ。
「なに?」
「つまり、これはトレーナーさんが私と永遠に一緒にいるっていう証ですね?」
ダイヤちゃんは悪戯っぽく言いながら、また指輪をかざす。子供用の安っぽい指輪。けれど、それをつけた彼女はどこか誇らしげだった。
僕は苦笑しながら、それを否定しなかった。
「でも、そもそも指輪って、終わりがない形だから永遠の象徴なんですよね? 」
ふと、ダイヤちゃんは薬指にはめた鉄の指輪を光にかざしながら言った。ぬいぐるみを取った後、ふとした偶然でクレーンゲームから落ちてきた、ただの子供向けのイミテーションリング。装飾もない、無機質な銀色の輪。
「うん? そうだね」
「無限とかには、なんだか違う記号がありますよね? そういう形の指輪じゃないんですね」
僕は少し考えた。
「それはレムニスケートだね。確かに、あれのほうがなじみ深いけど、時代が違うね。指輪は『終わりのない環』として、古代から永遠のシンボルとされてきた。エジプトでは、円は始まりも終わりもない完全な形として神聖視されていたし、ギリシャやローマなんかでは、指輪は誓いの証として用いられていた。でもレムニスケートは16世紀初頭に数学者ヤコブ・ベルヌーイが発見したものからくるんだ。」
また彼女は静かに指輪を撫でる。
「そうだったんですか、結構最近のマークってことですね。なら、指輪はもっと長くて、強そうですね…そっちのほうが——」
言いかけて、照れくさそうに口をつぐんだ。
僕は目を伏せる。
「でも、それは永遠の話であって、無限とは少し違う」
ダイヤは不思議そうに僕を見た。
「どう、違うんですか?」
「永遠は時間に関する概念だ。過去から未来へ、終わりなく続くものを指す。でも、無限はもっと広い。時間だけじゃなくて、空間、数、可能性、すべてに適用される。つまり無限の中に永遠は内包される。けど逆はない。永遠は無限の下位区分だから」
「うーん、難しいです」
「たとえば、僕たちが今こうして話している間にも、世界のどこかでは無数の出来事が起こっている。数えきれない選択肢があって、それぞれに分岐した未来がある。これが無限」
ダイヤは薬指の指輪をゆっくり回しながら呟いた。
「でも、私たちが一緒にいるのは、ひとつの世界のひとつの時間だけですよね?」
「そうだね。僕たちにとっては、この瞬間だけが確実なものだ」
「じゃあ……」
彼女は顔を上げ、まっすぐ僕を見た。
「私たちは永遠にはいられないけど、今、この瞬間だけは無限にできるんじゃないですか?」
僕は息を呑んだ。
「無限に?」
「そう、だって無限って、終わりがないっていうより、限りなく広がるものでしょう? だったら、この一瞬を、どこまでも大きく感じられたら、それも無限なんじゃないかって」
彼女の瞳が揺れる。
僕は苦笑した。
「……哲学的すぎるよ」
「えへへ、トレーナーの影響です」
そう言って指輪をもう一度光にかざす。
「この指輪には宝石も装飾もないけど、永遠の形をしてる。そして、私が今これを見つめている間は、私の中でこの瞬間が無限に続くんです」
彼女がこれから成功するか、失敗するか。
どちらにせよ、僕たちはいずれ別れるだろう。
永遠ではない。
でも、彼女が言ったように、この一瞬だけを無限に感じることはできるかもしれない。
「……そっか」
僕は彼女の手を取った。
「じゃあ、僕たちはこの瞬間を無限にしようか」
ダイヤちゃんは嬉しそうに微笑み、僕の手を握り返した。
愛はある。
でも永遠の愛なんてどこにもないんだ。そのどうしようもない事実を証明するような出来事は歴史にいくらでも転がっている。一度そこらの書店に入って、歴史の本の場所を書店員に聞けばそんなことすぐに証明されるだろう。
そう、証明される。愛は失われる、有限のものなのだということが。
でも、人はそれを恐れるから、形にしようとして足掻く。愛を、永遠に繋ぎ止めるために。
指輪は金属でできている。だけど、どんな金属もいずれは摩耗し、腐食し、壊れる。どれだけ頑丈に作られても、決して永遠には残らない。いくら磨いても、いつかは手放す日が来る。
人はどれだけ約束を交わしても、どれだけ言葉を尽くしても、いずれ終わる運命にある。指輪が朽ちるよりも、早く。
でも、人はそれを『永遠の証』だって信じる。たった今、彼女がそう思ったように。
人は、信じることでしか永遠を作れないから。だから、指輪をはめる。だから記念日を作る。だから契約を交わす。
でも、そんなものは実際には何の保証にもならない。ただの儀式だ。どれだけ強く結びついたって、いつかは失われる
だから、僕は薬指を選んだんだ。
なぜかって?
だって、これらゲームの景品なんだ。
本物の愛の証として最もふさわしい指を、あえて、安物の指輪に与えたのだ。
永遠なんて、どこにもないのだから。
本物の愛なんかじゃない。ただの偶然で取れた、安っぽい鉄の指輪。でも、この僕の愛馬はこれを大切にするだろう? 何の価値もないものに、自分で意味を見出して
それが、人間の愛の本質だよ
だからこそ、それを信じない
――でも、もしも。
もしも、この指輪が君の指にずっと残り続けるなら。
もしも、僕が間違っていたのなら。
僕は、その時、何を思うのだろう?
「トレーナーさん、次はどこに行きます?」
「そうだな……どこでもいいけど」
「じゃあ、夜景を見に行きませんか? 今日の記念に」
「記念」と言うのが、ぬいぐるみのことなのか、映画のことなのか、それとも――僕には分からなかった。
だが、彼女の提案を断る理由もない。
「じゃあ、行こうか」
僕たちはゲーセンを後にし、街へと歩き出した。
彼女は満足げに笑い、ぬいぐるみを大事そうに抱えながら歩き出した。外に出ると、噴水前の広場には夜風が吹いていた。僕たちは並んで歩きながら、時折どちらからともなく手を触れた。言葉は少なかったが、そこには確かに心地よい静寂があった。
その日の寮に彼女が帰るまで、。ゲームセンターで偶然手に入れた、子供のおままごと用の玩具。質素な作りのそれを、ダイヤちゃんは暇さえあれば、まるで宝石でも嵌め込まれているのかという風に指輪を月にかざし、眺めた。
銀色のリングが月光を反射し、彼女の瞳に淡く輝くのを、何度も確かめるように。
映画はビターエンドだったが、この帰り道は、思いのほか甘やかだった。
ーーーーーーーーー
翌朝に朝靄の残る校門をぐぐると、朝の光を浴びながらウマ娘たちが活気に満ちた声を交わしていた。長く引き伸ばされた門柱の内側へと走る白い靴が小気味よく石畳を叩き、遠くからはトレーニング場のホイッスルが鳴る音が聞こえる。今日もトレセン学園の一日は始まった。
「おはようございます」
守衛に軽く挨拶した後、僕が職員棟へ向かおうと歩を進めると、向こうでウマ娘たちが群がっているのが目に入った。中心にいるのはダイヤちゃんだった。彼女の周りには数人の友人たちが取り囲み、頬を紅潮させながら何かを囁き合っている。
「その指輪…!」
「それってまさかまさか…!」
少女たちのざわめきが微かに風に溶けていく。白いシャツの襟元を整えながら、僕は遠巻きにその光景を眺めていた。彼女の指には、昨日渡した銀色の指輪が光っている。玩具同然の品であるにもかかわらず、ダイヤちゃんはそれを外そうともしない。むしろ、指先でそっと撫でるようにして、そこにあることを確かめているようだった。
「どこまで進んだの!?」
「まだ、一緒にお出かけしたり……手をつないだり」
はにかむ彼女の頬は朝日に照らされ、淡く紅を差している。友人たちはそれを見て「キャー!」と一斉に嬌声を上げた。
「ねえねえ、本当にこの指輪、トレーナーからもらったの?」
「ええ、そうですよ。でも、おままごと用の指輪ですし……」
「なにそれ、めちゃくちゃロマンチックじゃない!」
「絶対特別な意味あるって! だって薬指だよ!? ねえ、右手と左手、どっち?」
「左手……」
その言葉に、一瞬、周囲が凍りついたようだった。
「ひ、左手の薬指……って……つまり……!」
「ダイヤちゃん、それってつまり……!」
わかりやすくパニックに陥る友人たちをよそに、ダイヤちゃんは恥ずかしそうに指輪をいじっている。確かに、僕はその指に指輪をはめた。でも、そのときは特に深い意味を考えたわけではなかった。……いや、正確には、考えないようにしていたのかもしれない。
黄色い声が辺りに響く中。僕はその場にとどまるべきか否か逡巡していたが、ダイヤちゃんは僕を見つけると、友人たちに軽く謝り、一目散に駆け寄ってくる。
「ダイヤちゃん、おはよう」
「おはようございます、トレーナーさん」
彼女は僕の視線に気づいたのか、そっと左手を胸の前に隠すようにする。だが、指輪はほんのわずかに覗いていた。
「指輪、まだつけてくれてるんだね」
その問いに、ダイヤちゃんは俯いた。けれど、指輪を外そうとはしない。ただ、指先でそっと撫でるようにして、そこにあることを確かめているようだった。
「はい……一生、大切にしますから……」
一生——
僕は彼女の言葉に思わず言葉を失った。一生——ただの鉄製の指輪に、それほどの意味を持たせることができるのか。けれど、彼女は何の疑いもなく、ただ静かに笑っている。
「そ、そっか」
「宝物です…」
「そんなに大事にされるなん、僕もなんだか嬉しいな」
僕は動揺して、少し心臓が痛かった。ついでに胃も痛かった。
「私は…もっと嬉しい…です」
いつの間にか遠くの窓から、彼女の友人たちががこちらの様子をうかがっている。
「こんなに暖かく感じるなんて」
ただのクレーンゲームの景品の指輪が、そんな肌に感じるほど暖かくなるだとかは本来ありえない。それなのに、彼女の目は冗談のひとつも許さないほど真剣だった。
「それはよかった」
「はい…!」
わぁ素敵な笑顔だ。
嬉しそうだなぁ…胃袋が痛いなぁ…
………一生なんて そんな大袈裟なことではない!
ただのゲームの景品なんだ!
…なんて、言えたらどれだけ良かっただろうか、生憎と僕の心臓は鋼鉄ではない。ただの欠陥品である。
僕は、借り物で築き上げだ知識の塔から俯瞰を気取り、物事を実感として理解できていなかった。
つまるところ、僕は忘れていたのだ。
"人間"という本当の意味を
そして彼女が人と馬の両方の属性をもつ者であることも眼前に微笑む女神を目に入れた僕は、なんと返せばいいかわからず、曖昧に微笑んだだけだった。
彼女の手元に視線を落とすと、取り返しがつかないことを主張するように銀色の鉄の指輪が陽の光を浴びて鈍く輝いている。
「よく…似合ってるね」
ダイヤちゃんは少しだけ頬を染め、ぎこちなく微笑んだ。
「ありがとうございます…」
その時始業のチャイムが鳴った。彼女の耳がピンと立ちのぼり、驚きを顕にする。
気がつけば、周りに人はおらず、僕たちだけが外に立っていた。
「早く行かないと、怒られちゃうよ」
「そ、そう…ですね」
「また…後で」
「はい……また、後で……」
慌てて小さく頭を下げた彼女は安全な許された速度で廊下を走り去っていく。
僕は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。ダイヤちゃんは静かに微笑むと、指輪をひとさし指で弄ぶようにして、また校舎の方へ駆けていった。
ーーーーーーー
「はぁ…」
昼休み、僕はトレーナー棟の休憩スペースでコーヒーを淹れていた。すると、同僚のトレーナーたちがニヤニヤしながら僕の肩を叩いてくる。
「お前、理事長のお目溢しに甘えすぎだろ。公然の秘密ってやつか?」
「何の話?」
としらばっくれる僕に、隣の男が肩をすくめる。
「そう言うなよ、うちのダイヤちゃんが今朝から指輪つけて自慢げにしてるって話だよ。どう見てもお前の仕業だろ?」
「いや、たまたまクレーンゲームで取れたやつを渡しただけだよ」
事実ではないが、位置から事情を説明するのも面倒なので簡潔に説明する。するとその説明の何が面白いのか、いや僕をからかいたいというだけだろうが薄皮一枚貼り付けたような笑みで言問い詰めてくる。
「それを薬指にはめるのがたまたまか? 大した運命の悪戯だな」
僕は苦笑しながらコーヒーを啜る。確かにあの指輪は偶然落ちてきたものだったが、僕自身、それを彼女の薬指にはめることに何のためらいもなかったのも事実だった。
「まあ、別に否定はしないけど、ダイヤちゃんが絶好調なのは確かだろ? モチベーションって大事だよ」
「まったく、恋の力ってのはすごいな」
「恋かどうかは知らないけどね」
僕がぼそっと言うと、山田…周囲にいたトレーナーたちも含め一斉に吹き出した。
「お前、それ本気で言ってる? いいか、俺たちの仕事はウマ娘の才能を最大限引き出すことだが、モチベーションの管理も重要な業務だぞ。お前はそれを理屈で説明できるかもしれんが、ダイヤちゃんはそうじゃないんだよ」
「……わかってるよ」
「ならいいけどさ。ただ、おおっぴらにするなよ。理事長は寛大だけど、限度ってものがあるからな」
僕は曖昧に頷いた。確かに、ウマ娘とトレーナーの関係には一定の線引きが求められる。それを超えた時、どんな結果が待っているのか、僕にはまだわからなかった。
それでも——ダイヤちゃんが走る限り、僕は彼女のそばにいる。
ーーーーーーーーーーーーーー
トレーニング場は、いつもと違った雰囲気に包まれていた。いやそう感じるのは僕の気の持ちようのせいかもしれない。
ダイヤちゃんは明らかに絶好調だった。
スキップするようにウォームアップをこなし、ストレッチの動きも流れるように滑らか。ラントレに入ると、スタートから一気に加速し、他のウマ娘たちをぐんぐん引き離していく。
「すごい……今日のダイヤ、キレが違う!」
「本当に! 何か良いことでもあったの?」
彼女は笑っている。風を切るように、美しく、そして碧落の下の野に咲く牧草のように力強く。
しかし、僕の心情は心晴れやかではなかった。
というのも、脳裏に一寸の不安を抱えていたからだ。
精神的なものによるブーストは、故障や普段と違う筋肉の使い方による怪我が気になるところで。
それ以外に、その後の反動も心配だ。
「はぁ…」
一人でに流れるため息を抑えるように、さっき通路片隅にある赤い自販機で買った缶コーヒーを口につけ、その甘さに顔を顰めた。
人の心ほど不確かなものはない。
いや、心そのものは常にそこにあるのだが、それを正確に捉えようとする時、途端に霧のように輪郭を失うのである。自らを包む殻を取り払い、ありのままに心を曝け出す者などまずいない。皆、意識するしないに関わらず、言葉を選び、表情を作り、身振り手振りを制御し、己が真意を守ろうとする。
その隙間を縫って観察をするのが心理学、僕もトレーナー資格勉強のために多少齧ってはいたが
メンタルケアも当然トレーナーの仕事の一つだが、専門性では精神科医に劣る。
たとえば彼女は、今日も快調にトラックを駆けている。しかし、スタート直前に足が震えているとしよう。
それを見た僕は、そこに何かしらの兆しがあることを察するだろう。恐らく精神的な迷い、あるいは身体的な不調があるのだろうと。では、それが果たしてどちらのものか、それとも単なる偶然なのか——第三者である僕には、それを確実にその場で確かめる術はない。
それは精神科医であっても同じだが。僕が言いたいのは治療の前提条件と、トレーナーと精神科医の違いだ。
ここが病院で僕が医者、精神科医ならば、この場合どうするか。
きっと彼女にこう問いかけるだろう。「何か不安はあるか」と。「体のどこかに痛みはないか」と。質問を重ね、言葉の端々を拾い、表情の変化を観察しながら、幾つもの症例を思い浮かべ、それらを突き合わせながら、最後には「診断」を下す。
病院で精神科医が見ることができるのは「内面」。彼らは言葉や態度を分析し、患者自身が意識できていない心の問題を浮かび上がらせる。
トレーナとして練習場所で僕が見れるのはあくまで「表面」。
彼女の身体の些細な変化から、彼女自身が気づいていない異変を察知し、最適な対応を考えるという仕事。
もちろん、内面も観察しようと思えば観察はできないこともない。
といってもケアはできても治療は無理なので。もし本当に治療が必要な段階になれば、定期的な診察と、それに合わせての経過観察。
結局、普段は僕が精神科医に相談しつつ対応していく方向になるだろう。
そんなことをすれば、周りに彼女のメンタルに不調があると思われてしまう。
だから今慎重になっている。
僕の仕事は、彼女の心を探ることではなく、彼女を勝たせることにある。もし「不安はあるか」と尋ねることで、その不安が自覚され、より大きな影を落とすようなら、それは逆効果だ。だからこそ僕は問いかけないし、彼女が自ら口を開くまで、あるいは行動がそれを語るまで、僕はただ静かに観察し、最適な選択肢を用意する。
トレーナー業務における観察というのは主に対話ではなく行動の中で成立するもので。彼女の走り、食事の仕方、練習前のストレッチの癖、視線の動き。これらを統合して「おそらくこうだろう」と推測することはできても、最後の一歩が踏み込めない。なぜなら、僕の観察には相手の無意識からの「証言」がない。精神科医が患者から直接言葉を引き出すのに長けているのに対し、僕は彼女が自ら言わない限り、それを聞く手段を持たない。
それを聞き出すためには当然、信頼関係が必要だ。それは通常の人間関係上といういみでもそうだし、治療と機密保持の観点の信頼も含まれている。
しかし、ここには落とし穴があって、本人の無意識の違和感や、あまりにも小さすぎる違和感である場合、こちらから聞いても正確な答えが返ってこないことがままある。
もちろん注意深く、どんな違和感でもいいとして聞いてはみるが、意図的に忘れていることなどに対して無意識に干渉して引き出す技術は持ち合わせていない。
メンタルケアについて高度な知識は要求されても、実践なんて数えるほどだし、ついこの間まで担当と上手く喋れなかった僕には土台無理な話である。
たとえば、彼女がトレーニング前に一瞬、靴紐を結ぶ手を止めたとする。その意味を考える。
A: プレッシャーを感じているのかもしれない。
B: 単に紐が少し緩んでいるだけかもしれない。
C: 昨日の練習で足に違和感があったのを思い出したのかもしれない。
可能性は無数にある。しかし彼女が「実は足が変な感覚だ」と言わない限り、僕は推論を確定できない。もし、痛みを隠しているのに「大丈夫だろう」と誤った推測をすれば、彼女を故障させてしまうかもしれない。
それを防ぐために彼女の指の動き、呼吸の速さ、視線の揺らぎ。確定できないからこそ、何度でも確認し、何度でも試し、彼女にとって最善の選択肢を選び続ける必要がある。
だが今の精神状態だと、何か自分でも気づかない不調を気の所為だと受け流すとか、あるいは興奮から感じ取れないとかそういった無自覚故障に繋がることを僕は今恐れている。
今のところやっている対策としては、次の練習メニューを少し変えたり。走る前にウォームアップを増やす。ストレッチの時間を長く取る。些細な違和感があるのであれば、十分な時間を与えさえすれば彼女は自然とそれを訴えるはずだと期待して。
といっても残念ながら、本人にも一切合切自覚のない故障というのは存在する。
それにメンタルケア担当が常に近くにいるのは必ずしもいい効果しか生まないわけではない。時に今回みたいな場合は、少しばかり複雑だろう。
だが、今の彼女の好調状態は現在はプラスでも、今後どういう影響を及ぼすか不確定要素が多すぎるのに加え、
僕の一つのミスでメンタルに急激なダメージを与えかねない。
そう。結局のところ不安はそこに尽きる。
なぜおもちゃの指輪に喜ぶんだ…?
「調子が良さそうで何よりだよ」
「もちろんです。今日は絶好調ですから!」
その言葉の裏に何が込められているのか、僕にはわかってしまった。いや、正確には、わかってしまう気がした。だが、それを言葉にすることはできなかった。
ひょっとしたら
——彼女は指輪コレクターなのではないか?
「トレーナーさん」
彼女がこちらに歩み寄り、そっと僕の袖を引く。僕は何も言わずに、ただ彼女を見つめる。彼女はおもむろに腕を伸ばし、僕を抱きしめた。試合前の習慣のようになったハグ。リラックスのための手段、オキシトシンの分泌、単純接触効果、そういった理論がすぐに頭をよぎる。だが、実際にやることは単純だ。
「大丈夫?」などとは問わない。代わりに、そっと彼女の肩を抱く。問いかけはせず、言葉を求めることもな、ただ彼女の選択を受け入れる。本にもそう書いていた。
そう——―指輪コレクターと言う隠された趣味もね
それからというもの、彼女の走りは見違えるほど力強くなっていた。ハグも、トレーニングの姿勢も、全てが今まで以上に真っ直ぐだった。僕は同僚のトレーナーたちから「理事長がお目溢ししてくれてるだけだぞ。あまりおおっぴらにするなよ」と冗談めかしながら肘で小突かれたりもしたが、彼女が結果を出している以上、誰も何も言えない。
こうして僕たちはパートナーとして順調にG1を獲り続けた。しかし、その先には一つの大きな選択が待っていた。
G1を制覇し続けるのか、それともURAを獲りにいくのか。
この選択は、単なるレースの話ではない。G1を走り続けることは、限りある時間の中で一戦一戦を重ね、積み上げる道。URAを目指すことは、その全てを超越し、唯一無二の存在になる道。
前者は積み上げた努力の延長にあるもの。
後者は歴史を塗り替えるための挑戦。
永遠を求めるのか、無限に挑むのか。
僕は彼女に選ばせようと思っていた。
そして、その選択をする日が、刻一刻と近づいていた。
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精神科医の治療は、患者の「回復」を目的とする。しかし、僕の仕事は「最適化」だ。回復では足りない。彼女は、レースで勝たねばならない。心を健全に保つだけではなく、レースに最も適した精神状態を作り出さなければならない。それが僕の役割であり、彼女が僕に期待することにした仕事だ。
でも、それで彼女は幸せになれるのか…?
——やっぱり僕は、愚鈍だ。
ーーーーーーーーー
「それで、トレーナーさん……これはどういうことなんでしょうか?」
たづなさんの声は穏やかだった。しかし、その目は笑っていない。
僕は背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、必死に冷静を装おうとした。
「えっと……どういうこと、とは?」
視線を逸らさないように努めながら、できる限り無害な表情を作る。だが、テーブルの上に置かれた書類が僕の言い訳を全て否定していた。
それはトレーニングスケジュールの変更履歴、施設の利用申請書、さらには……サトノダイヤモンドと僕のプライベートな時間に関する報告書まであった。
「最近、サトノダイヤモンドさんとの関係が変化しているようですね」
「変化、というと?」
「夜遅くまでトレーニングルームに二人きり。頻繁に個別指導。そして、先日のURA優勝祝賀会の後、彼女が他の皆さんと帰らずにトレーナーさんのお宅に戻った……」
その瞬間、僕の背筋が凍った。
たづなさんの言葉は、決して感情を乱したものではなかった。しかし、それがかえって強い圧力を生んでいた。
「もちろん、トレーナーとウマ娘の間に信頼関係があるのは素晴らしいことです。ただ……」
たづなさんは少し言葉を切る。そして、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
「度を越した関係になると、周囲に誤解を招きかねませんよ?」
その言葉が、胸に重くのしかかる。
僕は息を呑み、口を開こうとするが、うまく言葉が出てこない。たづなさんの優しいが鋭い視線の前では、どんな言い訳も無意味に思えた。
ダイヤちゃんと僕の関係――それは、もう単なる「トレーナーとウマ娘」の枠を超えてしまっているのかもしれない。
ーーーーーー
「はぁ……」
最早習慣となりつつあるため息を窓越しの夕暮れ日を落とした肩に浴びながら放課後のトレーニングに向けてトレーナへと向かう。
――タタタタ…!
そのとき、廊下から軽やかな足音が聞こえた。振り向くと、ダイヤちゃんがいた。
「トレーナーさん!」
いつものように、まっすぐな瞳だった。
「次のレースの件ですが、何か言われたんですか?」
僕は彼女の目を見据えながら、ゆっくりと頷いた。
「いや別件だよ。それにそうだとしても…そうだね。選ぶのは、ダイヤちゃん自身だよ」
彼女は少しの間考え込み、やがてその言葉に、彼女は静かに頷いた。
その指には、今も小さな銀色の指輪が光っていた。
「本当にあれでよかったんでしょうか?」
不安そうに彼女が言う。
廊下から見える秋の空は澄んでいて。窓から入り込む風が肌を撫でるたびに、季節が巡り、時間が迫ってきていることを催促されているような気分で。
「よかったさ」
僕は彼女の頭を撫でながら、はっきりとそう言葉を紡いだ。
——どちらも出場する。
それが僕たち二人が出した結論だった。
というより僕の方から提案したのだ。
あの日、結局ダイヤちゃんは答えを出せなかった。ならばと、僕はこう言った。
「どっちもやってしまおう」と…
ーーーーーー
ダイヤちゃんはトレーニングを終えたばかりで、肩で息をしながらベンチに座り込んでいた。その横顔には、一点の迷いがあった。
そのせいであまりその日の練習は集中できていなかった。
これでは本末転倒になってしまう。
彼女の体はG1制覇に向けて仕上がりつつある。コンディションのピークをG1に合わせるのが最善であることは、誰が見ても明らかだった。だから、URAのことを考慮する余地はない。それが現実だ。
——しかし。
彼女の目標はただ勝つことではない。キタサンブラックと走ること、それが彼女の夢だった。
小さな頃から共に走り、共に励まし合い、共に高め合ってきた友。それが同じ舞台に立つのだから、ダイヤがその瞬間を逃したくないと思うのは当然だった。
僕にはわかる。
だからこそ、彼女の悩みは日に日に深くなり、ハグの時間が長くなっていた。
彼女のために、僕にできることは何か。
——答えはひとつだった。
「なあ、ダイヤちゃん」
僕は彼女の隣に腰掛け、静かに言葉を紡いだ。
「どっちもやってみないか?」
ダイヤちゃんは驚いたように僕を見た。
「そんなのって、いいんですか?」
「大丈夫、メニューやリスケは全部僕がやる。ダイヤちゃんは、ダイヤちゃんのやりたいことを全力でやるんだ。僕はいつでもそれを支持するよ」
そう言うと、ダイヤちゃんは大きく息を吸い、そして——目を潤ませた。
「トレーナーさん……」
声が震えている。まるで、ずっと求めていた言葉をやっと手に入れたかのように。
「ありがとう、ございます……!」
次の瞬間、彼女の両腕が僕を強く抱きしめた。
「一生…支えてくれますか?」
笑顔だった。まっすぐ、何の迷いもなく僕を見つめていた。
僕は彼女の目を見て、答えを返した。
ーーー
と言う訳だったのだが…
そんなことを言っても、周囲の反対は必然だった。
G1とURA、二つの目標を同時に追うことは、トレーナーの常識からすれば無謀としか言いようがない。どちらか一方に専念するのがセオリーであり、それすらも成功する保証はないのだ。
しかし、僕は違った。
理論は破綻していない。
ダイヤちゃんの実力と素質、そして何より、彼女が持つ「全力を出し切ることを恐れない」強いメンタルがあれば、これは決して夢物語ではないと確信していた。
僕が彼女に触れるのは、単に数値を測るためではない。トレーニングの成果を手で確かめ、筋肉のバランスを調整し、鍛えるべき箇所を選別する。不要な負荷を避け、必要な強化を見極める。その繰り返しが、彼女の体をG1とURAの両方に適応した理想的な状態へと作り変えていくのだ。
だが、それに伴うストレスは計り知れない。
トレーニングが進むにつれ、ダイヤちゃんはますます僕に寄り添うようになった。練習後のハグの時間が長くなり、ふとした時に手をつないでくることも増えた。時には「少しでも一緒にいたい」と、プライベートの時間まで求められるようになった。
僕はそれを拒まなかった。いや、拒めなかった。
彼女にとって必要なものは、ただの肉体の強化ではない。心の支えだ。
僕はトレーナーであり、学んできた理論を実践する者だ。それだけではなく、彼女のすべてを預かる存在なのだと理解した。
そのためなら、彼女の両親に頭を下げることも厭わなかった。彼らがどれほど驚き、警戒し、時には呆れた表情を浮かべたとしても、僕は一つずつ説明し、誠意をもって説得した。
この挑戦に、価値があるのだと。
そうして——僕たちは、共に走り続ける覚悟を決めた。
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祝賀会は静かに幕を閉じた。
ダイヤちゃんの希望で、派手な会場ではなく僕の家でささやかな宴が開かれた。URA優勝の栄光を噛みしめるには、こうした控えめな祝い方がふさわしかったのかもしれない。
ウマ娘たちはにんじんジュースで乾杯し、同僚のトレーナーたちや理事長はシャンパンを開けた。グラスが触れ合う軽やかな音、笑い声、そして彼女の眩しい笑顔。
「無茶なスケジュールをこなして、しかもG1まで制覇して——本当にすごいよ。君は最高のウマ娘だ」
僕の言葉に、ダイヤちゃんはそっと目を伏せた。まるで、それを噛みしめるかのように。
彼女の目標はすべて達成された。
キタサンブラックとURAで走り、G1も勝ち取った。普通ならここで物語は終わる。だが、その先にあるものが、僕にはまだ見えていなかった。
理事長がこっそりと僕に小さな箱を手渡す。
「贈与!もしもの時は開けるように!」
もしもの時?
なんだか玉手箱みたいだな。開けたら白い煙が立ち昇り、気がつけば老人になっている——そんな寓話のような結末を迎えないことを祈りながら、僕は箱をポケットにしまい込んだ。
ゲストたちを見送り、散らかった部屋を見渡す。
室内にはまだ祝宴の名残があった。賑やかな声はすでに遠のいたはずなのに、空になったグラスがテーブルに並んでいるのを見るとまだ耳の奥に笑い声が響くようだ。窓の外では夜風がそよぎ、カーテンをわずかに揺らしている。ひとり静かに掃除をしていると、まるで夢から現実に戻ってきたような気分になった。熱狂と祝福の時間は過ぎ去り、僕はただのトレーナーとしての日常に戻る。
寝室へ向かい、デスクに置かれた一冊の本を手に取る。
すべてはこの本のおかげでうまくいった。
感謝してもしきれない。何気なくページをめくる。最後の章を終え、あとがきを読もうとした、その時——
背後に気配がした。
振り返ると、ダイヤちゃんが静かに立っていた。
祝賀会の余韻に浸るでもなく、彼女はただ、じっと僕を見つめていた。いつものように無邪気に話しかけるでもなく、かといって躊躇う素振りもない。
部屋の灯りが彼女の瞳に映り込む。そこに映る感情を、僕はすぐには読み取れなかった。
——彼女は、何を言おうとしているのだろうか
「みんなに後押しされて、戻ってきちゃいました」
ダイヤちゃんはそう言いながら、扉の前に立ち、少しのためらいを見せたあと、ゆっくりと鍵をかけた。普段の彼女ならば見せない仕草だった。振り返ると、柔らかな微笑みがそこにある。だが、その眼差しには、普段の天真爛漫さとは異なる、何か確かなものが潜んでいた。
彼女は歩み寄ると、何も言わず僕の胸に顔をうずめた。抱きしめると、細い肩がふっと揺れ、長い髪からシャンプーの香りが立ちのぼる。懐かしさを覚えるほどに、馴染んだ匂いだった。
「トレーナーさんが急にこっちに歩み寄ってくるから、それに、やりたいことを全力でやっていいって言うから……」
彼女の声は静かだったが、その言葉には熱がこもっていた。僕は軽く頭を撫でた。
「ダイヤちゃん、今日は遅いし……」
言いかけた言葉は、彼女の指先によって遮られた。ひんやりとした指が、そっと僕の唇に触れる。
「……それでも、私はもう我慢しません」
彼女の声は穏やかだったが、どこか違和感を覚えた。次の瞬間彼女の膝がベッドに沈み込み、僕を逃さぬようにそっと上に覆いかぶさられる。力強いわけではないが、迷いのない動きだった。肩を抑えられている。体重もあって動けない。戸惑う間もなく、彼女の細い指が僕のシャツの襟元をなぞる。
「ダイヤちゃん……?」
名前を呼ぶと、彼女はわずかに目を伏せた。頬にはほのかな熱が灯り、かすかに唇を噛む。
「……ずっと、こうしたかったんです」
彼女の囁きが、肌に触れるほどの距離で響く。僕の胸に押し当てられた彼女の指先は微かに震えていた。それでも、彼女は逃げなかった。
「ダイヤちゃん?」
呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「僕はそんなつもりは…」
指が、僕のシャツの裾をそっと摘む。迷いがちに、それでも確かに布をたぐり寄せる。
「わかってます」
彼女は微笑んだ。だが、その目は笑っていなかった。
大きな瞳に揺れるのは、見たこともない感情で。
「…!」
ゆっくりと端正な顔を近づけてきた。
そうして、瞳の奥までよく見える距離で、薄い唇が開かれる。
「あなたは私の『悪い人』ですから」
それは、彼女が以前観た映画の台詞だった。しかし、その言葉が彼女の唇から紡がれたとき、まったく異なる響きを持っていた。
彼女は僕の手をそっと取り、自分の胸へと導く。
彼女も同様にまるで僕の存在を確かめるように指を滑らせる。そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたの全部が、ほしいのです」
言葉は、誓いのようだった。僕の頬に手を添え、再び唇を重ねた。今度は迷いのない深い口づけだった。
夜は深い。時間の感覚は遠のき、静寂の中で言葉もゆっくりと溶けていく。やがて、窓の外の風がまたカーテンを揺らした。僕は目を閉じ、彼女の温もりをそっと受け止めた。
結構前から書いていて自分なりにまぁこれくらいなら投稿してもいいかなというラインまで来たので投稿しました。
まぁ盗作な気もするけど、思いついちゃったんだからしょうがないよね。
2年も費やしたし許して…オリジナルのやつ掲示板だから誰が書いたか分からないんや…