アルテミスを離脱したアークエンジェルは、宇宙の静寂の中を滑るように進んでいた。だが、その船内には新たな緊張が漂っていた。
「……以上が、アルテミスから受け取った補給物資の一覧です」
ナタル・バジルール副長が、補給主任からの報告書をモニターに映し出した。艦橋に集められた士官たちが、それを見て一様に渋い表情を浮かべる。
「弾薬、プロペラント、どちらも最低限。これで次の交戦に耐えられる保証はありません」
整備兵が苦しげに言う。
「これが……限界です。あの基地から引き出せる補給は」
「ふざけるな……!」
ムウ・ラ・フラガが声を荒げる。
「こっちは命がけであの要塞から脱出してきたってのに、これかよ!」
「……食料、医薬品も足りません」
ナタルが、沈痛な声で続けた。
「最低限、民間人の避難船という建前で受け取った分だけ。だが――艦の規模を考えれば、到底持たない」
「……“中立の実験艦”だから、ってことですね」
マリューが眉をひそめる。
「戦艦としては扱われず、保護対象としても扱われず。どっちつかずの存在に、軍の補給は薄い」
沈黙が落ちた。
その中で――
「まあ、ないよりはマシでしょう」
ムルタ・アズラエルが肩をすくめた。
「不満はよくわかりますが……文句を言っても、物資が湧いてくるわけでもない。現実を受け入れるしかありませんよ、ねえ、艦長?」
マリューは無言でアズラエルを見つめるが、その言葉に否定はしなかった。
「補給デッキには、一応、アルテミスから残されたエンジニアも数名います」
トノムラが割って入る。
「ただし、あちらも命令なしでは動けません。……ホワイトゼロとストライクを見て、“興味深い”とは言ってましたが、それだけです」
「興味深い、ね……」
ムウが苦笑する。
「この艦が、興味本位で回ると思ってるなら、大間違いだって教えてやりたいな」
「教える相手が残っていれば、ですがね」
アズラエルの皮肉は相変わらずだった。
ノーマはそのやり取りを、静かに聞いていた。
手にはまだ、小さな折り紙が残っている。
(……守れたけど)
その先を、どう“維持する”のか――。
それが、今問われている。
そして、誰もが薄々理解していた。
――これが、まだ序章にすぎないことを。
◇
無機質な壁に囲まれた会議室。
その中央に設置されたホロモニターが、ゆっくりと像を浮かび上がらせる。
そこに映し出されたのは――
氷結したプラントの残骸。
砕けた骨組み。歪んだ鉄屑。
漂う死と、沈黙と、そして……
その奥に、陽光のように微かに煌く“水の塊”。
アズラエルは、無言でそれを見つめていた。
「……デブリベルト?」
キラ・ヤマトが眉をひそめ、問い返す。
「そこに向かうんですか? 本気で?」
ナタル・バジルールが静かに頷いた。
「――あそこには、一億トン近くの水が凍りついている。
天然の氷層です。回収できれば、この艦の水問題は解決できる」
「でも……でも、あそこは――!」
キラの声がわずかに震える。
「見たんですよね? ナタルさんも……
あのプラントは、何十万人もの人が……そこで死んだんですよ……それを、僕たちは……」
ナタルは言葉を飲み込んだ。
その代わりにマリューが、静かに前へ出る。
「水は……そこしか見つかっていないの」
キラは言葉を失った。
その沈黙の中で、ムルタ・アズラエルが静かに口を開く。
「……誰も、喜んでなんかいませんよ」
その目はキラを向いてはいなかった。
遠い過去を映すかのように、モニターの向こうを見つめていた。
「水が見つかったってだけで、大喜びできるほど、私たちは――甘くないでしょう?」
「アズラエルさん……」
キラの声が揺れた。
アズラエルは、ひとつ深く息を吐いた。
「……正直に言えば、私も反対です。あんな場所に行くのは、ね」
「……え?」
「でも――我々は、生き残らなければならない」
その声は穏やかだったが、静かな決意がにじんでいた。
「生きるためなら、なんだってやる。
たとえ、“あの場所”であっても――」
その瞬間、アズラエルの脳裏に――
**
静かな農業プラント。
日差しに揺れる麦穂。風に笑う子どもたちの声。
人工空間に満ちていた“平和”の気配。
だが、空が――砕けた。
発射されたミサイル。
爆発。
破壊。
崩れ落ちる構造体。
宇宙に吸い出されていく無数の命。
『うわあああああああああっ!!』
それは、彼が命じた報復の、帰結だった。
**
「アズラエル議長……?」
ナタルの声に、現実へ引き戻される。
そのとき――
温もりが、手に触れた。
ノーマ・レギオが、その手を、そっと握っていた。
アズラエルは驚いたように目を向ける。
ノーマは、ただ静かに頷いた。
――それだけで、彼の手の震えは静まった。
誰も、何も言わなかった。
キラも、ナタルも、ムウも、マリューも。
沈黙こそが、答えだった。
アークエンジェルは進む。
生きるために――氷と死者の眠る“墓標”へと。
暗がりの部屋に、ほのかな灯が揺れていた。
壁際には小さな折り紙の鶴が、一羽だけ静かに吊るされている。
それは、子どもの手によるものか、どこか歪で、それゆえに温かかった。
ベッドの端に腰掛けるムルタ・アズラエルは、手を膝の上に組んだまま、宙を見つめていた。
その傍らにはノーマ・レギオが横たわり、赤いバイザーを外した瞳で、黙って彼の横顔を見ていた。
「……まいりましたね」
アズラエルが、ふっと笑みともため息ともつかぬ吐息を漏らす。
「あなたに……影響されてしまったのでしょうか」
「……大丈夫?」
ノーマが小さく囁く。
「ええ、……いえ、違いますね」
アズラエルはかぶりを振ると、目を閉じた。
「大丈夫なんかじゃありませんよ。許されるはずもないのに……私は、どこかで、許しを求めてしまっている」
その声には、どこか罪を自嘲するような苦みが滲んでいた。
しばらく沈黙が落ちる。
ノーマは視線を天井に移し、静かに呟いた。
「……もう、撃たせてはいけない。悲しみの光を」
その一言に、アズラエルの胸が静かに軋んだ。
少女の声は柔らかく、それでいて、重かった。
その時、艦内にアナウンスが流れる。
《ストライク、帰還――》
アズラエルが目を開け、ゆっくりと立ち上がった。
「……お出迎えくらい、行きますか」
「今回の私たちは、役立たずもいいところでしたしね」
「うん」
ノーマもまた、身体を起こす。
ふたりは言葉少なに部屋を後にする。
折り紙の鶴が、微かな風に揺れた。
――戦火のなかにあっても、
まだ、人としての光を失わぬ者たちの、静かな背中だった。
格納庫には、静かに収容されたストライクと、その横に繋がれた一基の救命ポッドがあった。白煙が立ち昇る中、整備兵たちが慎重に作業を進めている。
ノーマ・レギオは、アズラエルと共に到着したその場で足を止めた。重たげな視線をストライクに向ける。コックピットから降りてきたキラの表情は、どこか言葉にしづらいものを宿していた。
「つくづく、君は“落し物”を拾うのが好きなようだな」
ナタルの皮肉めいた一言が、場に投げかけられる。キラは何も言わずにうつむいた。
「開けますぜ」
マードックが操作パネルに手をかける。
直後――
銃を構えるアークエンジェルのクルーたち。緊張が走る。
救命ポッドのハッチがゆっくりと開く。白い蒸気が吹き出し、内部の姿が徐々に現れる。
「ハロ、ハロ」
不意に響いたのは、小さな電子音。
「……え?」
「ハロ、ラクス、ハロ」
ピンク色の小型ロボットが跳ねるように飛び出す。その後ろから――ふわりと現れたのは、桃色の長髪を揺らす少女だった。
「ありがとう、ごくろうさまです」
まるで舞台の幕が開くように、彼女は優雅に微笑んだ。
静まり返るデッキ。
一同の視線が、誰にともなく彼女へ注がれる。
ノーマは、言葉を失っていた。
――何かが、変わる。
そう感じさせるほどに、その少女は“異質”だった。
「……あ……」
キラが小さく呟く。
その視線の先には、少女――ラクス・クライン。
艦内の空気が変わったことに気づき、ノーマが隣を見やる。
アズラエルは、深々と頭を抱えていた。
「……また、面倒なものが来ましたね」
彼の呟きに、ノーマもただ黙って頷くしかなかった。
――それが、この戦いに“歌姫”が加わった瞬間だった。