救命ポッドのハッチが静かに開いた。
薄い蒸気が立ち上るその中から、ふわりと現れたのは――
桃色の髪を揺らす少女だった。
その手には、ピンク色の小さなロボットが抱えられている。
「ハロ、ハロ、ラクスー。ハロハロー」
ピョン、と飛び跳ねるように動くハロの声に、周囲がぽかんと口を開けたまま見つめる。
少女――ラクス・クラインは、一歩外に出てから、まるで舞踏会のような優雅な仕草で周囲を見渡した。
「あら、あら、あら……」
その小さな唇から、音楽のように柔らかい声が漏れる。
ノーマは、思わず手を差し出していた。自分でも理由はよくわからなかった。ただ――彼女は「落ちた」人だったから。
「ありがとう」
ラクスは微笑みながら、その手を取る。
「え……うん」
一言だけ返し、ノーマはその手のぬくもりを感じていた。敵か味方かもわからない――けれど、どこか“人間”だった。
ラクスは艦内をゆっくりと見渡す。
「あら、あらあらまあ……これはザフトの船ではありませんのね?」
「ホウダナー」
ハロの間の抜けた返事が響いた。
「う……」
ナタルとアズラエルが、同時に額を押さえる。
「……やっぱり、そうきたか」
「……厄介ですね、ほんと」
まるで台詞を合わせたように、二人の息がぴったり重なる。
「はいっ?」
マリューがわけがわからないとばかりに声を上げる。
キラは黙っていた。だが、その表情には動揺の色がはっきりと浮かんでいた。
ノーマはそっと、握った手を離した。
目の前にいるこの少女が――
また、新しい“波”を連れてくることを、彼女は直感していた。
アークエンジェル艦内・応接用ブリーフィングルーム。
白い照明の下、端正に姿勢を正して座る少女がいた。
その桃色の髪は、やわらかく揺れ、彼女の所作はまるで舞台女優のように洗練されていた。
「ポッドを拾って頂き、有難う御座いました。わたくしは、ラクス・クラインですわ」
優雅な声とともに、少女が軽く頭を下げる。
「ハロー、ラクス、ハロ〜」
彼女の膝元で、小さなピンクのロボット――ハロが跳ねるように鳴いた。
「これは、友達のハリですの」
「ハロハロ、オマエモナー」
隣の席のマリューが、やや困ったような表情で目を伏せる。
「はぁ……」
その横で、アズラエルが額を押さえた。
「やれやれ……」
会話が続くなか――
ナタルとアズラエルの視線が、扉の方へと向けられた。
気配を感じた。
ドアの向こうに、誰かがいる。
耳を澄ませ、何かを伺っている。そんな気配。
ナタルが立ち上がろうとしたその時――
「――ああ、いいですよ、少尉。私が言いましょう」
アズラエルが椅子を押しのけ、扉へ向かう。
ドアを開けると、そこにはサイ、トール、カズイたちの姿があった。
「……君たちには、まだ積み込みの作業が残っていたんじゃないんですか?」
アズラエルの柔らかい口調に、少年たちは気まずそうに視線を逸らし、そそくさと去っていく。
その背中に、ラクスが小さく手を振った。
そして――ムウが静かに呟く。
「クライン、ねぇ……かのプラント評議会議長も、シーゲル・クラインって名前だったが……」
マリューとナタルが、揃って目を見開く。
「!!!」
「ええ、シーゲル・クラインは父ですわ。ご存知ですの?」
少女の答えは、あまりにあっけらかんとしていて――
部屋にいた全員が、どこか肩の力が抜けるような気配を見せた。
「はぁ……」
アズラエルが深く息を吐く。
「なんとまあ……」
「そんな方が、どうしてこんな所に?」
マリューの問いかけに、ラクスは静かに語り始めた。
「わたくし、ユニウスセブンの追悼慰霊のための、事前調査に参っておりましたの。
ところが、地球軍の船と私どもの船が遭遇してしまいまして」
「臨検すると仰ったので、わたくし共も誠意を持ってお応えしたのですけれど……
どうやら、船の目的が“お気に召さなかった”ようでして」
「些細な言い争いが、やがて船内での騒動に繋がってしまいましたの。
そして、わたくしは――周囲の者たちの判断で、救命ポッドに押し込まれ……」
「……そうだったのですね」
マリューは苦々しく顔をしかめた。
アズラエルが表情を引き締める。
「それで、あなたの船は……?」
「わかりません。あの後、地球軍の方々が“お気を静めて”くださっていれば良いのですが……」
優しく微笑む少女の言葉の裏にあるものを――
ノーマだけは、静かに感じ取っていた。
ラクス・クライン。
その名が、再び戦場に波紋を広げることになるのだと――
彼女はまだ、知る由もなかった。
――静まりかけた廊下を、ノーマ・レギオは一人、歩いていた。
赤いバイザーは下ろしたまま。
心は静かだったが、どこか胸の奥にさざ波のような感情があった。
その時、食堂から声が漏れ聞こえてくる。
――その中に、ひときわ刺すような声が混じる。
「イヤよ!」
ノーマは足を止めた。
その声は、食堂からだった。
「フレイ!」
「いやったら、イヤ!」
押し殺すような叫びが続く。
「なんでよー?」
「どうしたの?」
ミリィとキラの声。
そして、もう一人の少年――カズイの説明が耳に届く。
「……あの女の子の食事だよ。ミリィがフレイに持っていってって言ったら、フレイがイヤだって。
それでもめてるだけさ……」
「私は嫌よ、コーディネーターの子の所に行くなんて」
フレイ・アルスターの声ははっきりと聞こえた。
ノーマの瞳が静かに細くなる。
「フレイ!」
「――あ! も、もちろんキラは別よ。それは分かってるわ。
でも、あの子はザフトの子でしょ? コーディネーターなのよ?
頭もいいし、運動神経もすごくいいのよ?
何かあったらどうするのよ〜、ね〜?」
ノーマは食堂の扉を見つめたまま、黙っていた。
中の空気を想像し、心の奥でキラの痛みが伝わってくる気がした。
(……フレイは、コーディネーターが“怖い”んだ)
「んん、あ! えっ……」
キラの返答は、言葉になっていなかった。
「フレイ!」
「でもあの子、いきなり君に飛びかかったりはしないと思うけど」
「そんなの分からないじゃない!
コーディネーターの能力なんて、見た目じゃ全然分からないのよ。
……すっごく強かったら、どうするの? ねえ?」
ノーマはゆっくりと目を伏せる。
その言葉が、刃のように肌を撫でていった。
(ムルタなら、こんな時――)
「……コーディネーターも殺せば死にます。私たちと、かわりませんよ」
そんなふうに、きっと“断言”する。
それが彼の“優しさ”なのだと、ノーマは知っていた。
――その時だった。
「まあ、誰が“すっごく強い”んですの?」
涼やかな声が、通路の奥から差し込んだ。
足音。香り。軽やかな影。
ピンクの髪の少女が、ノーマの隣を通り過ぎていく。
その姿はまるで、光のように空気を変えた。
「ハロハロ、ゲンキー、オマエモナー」
跳ねながらついてくるピンク色のハロ。
その声に、食堂の空気が止まったようだった。
「!!!!!」
ラクス・クラインが、にこやかに歩み寄る。
まるで何も気にする様子もなく、ただ笑顔で。
ノーマはその背を見送る。
ふわりと――けれど確かに。
空気が変わったのを、彼女は感じていた。
(……この人も、“強い”)
その“強さ”は、力の意味だけではなかった。
◇
宇宙を漂うユニウス7――
その氷と死者の眠る残骸から離脱したアークエンジェルは、静かに進路を変えていた。
ブリッジの会話は、早くも次の問題へと移っていた。
「しっかしまあ……補給の問題が解決したと思ったら、今度はピンクの髪のお姫様か」
ムウ・ラ・フラガが、片手を後頭部にやって苦笑を浮かべる。
「悩みの種が尽きませんなあ、艦長殿?」
「……むぅ」
マリュー・ラミアスが眉間に皺を寄せる。
「あの子も、このまま月の本部へ連れて行くしかないでしょうね」
「もう帰港予定はないだろ? 戦況もどうなるかわからないし」
「ええ……でも軍本部へ引き渡すなんて、いくら民間人といっても……」
そこまで聞いて、私は口を開いた。
「そりゃあ、歓迎されるでしょう」
――言葉に棘は含ませなかった。だが、笑ってもいなかった。
「なんたって、クラインの娘ですからね。利用価値ならいくらでもありますよ。
……すぐに思いつきますが、聞きたいですか?」
マリューはわずかに眉を跳ねさせ、「結構です」と短く言った。
その声には、感情がこもっていた。
「できれば……そんな目にはあわせたくないんです。
民間人の……まだあのような少女を……」
善意だろう。立派な話だ。
だが、すかさず鋭い声が割って入る。
「そう仰るなら、彼らは?」
ナタル・バジルールの声は、冷静だが厳しかった。
「こうして操艦に協力し、戦場で戦ってきた彼らも――まだ、子供の民間人ですよ」
マリューの視線が揺れる。
「バジルール少尉、それは……」
「キラ・ヤマトや、彼らを――やむを得ずとはいえ戦争に参加させておいて」
「それで、あの少女だけは巻き込みたくない……そう仰るんですか?」
マリューが言葉を失ったその瞬間、私は目を伏せた。
ナタルの言葉は正しい。
だからこそ、それが痛い。
「……彼女はクラインの娘です」
ナタルは静かに続けた。
「ということは、その時点で――ただの“民間人”ではない、ということですよ」
――その通りだ。
私がそう思っているからこそ、誰よりも早くそれを言葉にしてしまった。
利用価値。そう言ったのは、私だ。
だが――
(……だからこそ、守るべきなのだ)
目を閉じる。
あの小さな手の温もりが、まだ指先に残っている気がしていた。
そして私は思う。
(彼女は、戦争の道具になんて――させはしない)
表では皮肉を交わし、心の奥では、誰よりも静かに誓う。
それが私、ムルタ・アズラエルという人間の矛盾だった。
――矛盾のままに、生きている。