「まあ、驚かせてしまったのならすいません。わたくし、喉が乾いてしまって……それに笑わないでくださいね、だいぶお腹も空いてしまいましたの」
微笑みながら、手を胸に当てる。
「こちらは食堂ですか? 何かいただけると嬉しいのですけど」
「ちょ、ちょっと待って!」
キラが焦って声を上げる。
「カギとかってしてないわけ?」とカズイ。
フレイが一歩引いて叫んだ。
「いやよ! なんでザフトの子が勝手に歩き回ってんの!?」
「勝手ではありませんわ」
ラクスはにこやかに返す。
「わたくし、ちゃんと部屋で聞きましたのよ? 出かけてもよろしいかしらって。それも、三度も」
「それに、わたくしはザフトではありません。ザフトは軍の名称で、正式には――」
「何だって一緒よ、コーディネーターなんだから!」
フレイが遮る。
「同じではありませんわ。確かにわたくしはコーディネーターですが、軍の人間ではありませんもの」
一同が、返す言葉を失う。
「あなたも、軍の方ではないのでしょう? でしたら、わたくしとあなたは同じですわね」
そして、手を差し出しかける。
ノーマは、その瞬間――
(まずい)
確かに感じた。空気が揺らいだ。これは、何かが起きる兆しだ。
「――!」
ノーマは、ラクスの手を取り、そのまま走り出した。
「きゃっ! ノーマさん?」
驚く歌姫を引き寄せ、誰よりも早く、食堂をあとにする。
振り返ると、取り残された面々の顔が、一瞬だけ、呆然と見えた。
(……守る)
ノーマはそう思った。
言葉も、手も、想いも。
すべてが交錯しすぎている――この艦の中で。
キラの心もラクスの笑顔も曇らせてはならない。
艦内、静かな空き部屋。
端の壁には、折り紙で飾られたモビールが揺れていた。
ノーマとラクスは、並んで床に座っていた。
「先ほどは……ありがとうございました」
ラクス・クラインは小さく微笑んだ。
「え……?」
「ノーマさんが、わたくしの手を取って走り出してくださらなければ――きっと、あの場は……空気がもっと、重たくなっていたと思いますの」
「……そんな、大したことじゃない」
ノーマは目を伏せた。
「でも、感じたのですね?」
ラクスが静かに言う。
「“何か”が起きるって。……空気が震えるような、あの一瞬を」
ノーマは驚いたように彼女を見た。
だが、何も言わず、小さく頷いた。
「――わたくしね、あのハロの中に、小さな記録を入れてあるんです」
「皆が無事でいる間に、もし何かがあったら、それだけは残したいと思って」
「……遺書、みたいなもの?」
「はい。誰かを恨んだり、誰かを裁いたりするものではありませんわ。ただの……願いです」
ノーマは視線を落としながら、ゆっくりと握っていた手をほどいた。
「……あなたは、戦わないの?」
「ええ。戦えませんもの。わたくしは、誰かを裁けるほど立派ではありませんから」
その言葉に、ノーマはほんの少しだけ、胸の奥が痛んだ気がした。
◇
少し離れた通路の影で、アズラエルは黙ってその会話を聞いていた。
耳を澄ますつもりはなかった。だが――足が勝手に止まっていた。
(……本当に、ただの「少女」なんだな)
警戒していた。
クラインの娘。プラント議長の血を引く者。
その微笑みが、どれほど人の心を揺らし、味方を作り、争いを変えてしまうか。
それを、彼は知っていた。
けれど、いま聞こえてくるその声には、
力も、野心もなかった。
あるのは、ただ“誰かに寄り添いたい”という、ごく小さな祈りのような言葉――
(……だからこそ、なおさら厄介なんだ)
彼女は無垢ゆえに無敵だ。
笑み一つで、誰かの心を緩ませ、常識すら変えてしまう。
それが無意識であるほど、手に負えない。
(――そして、ああいう無垢さは、ノーマを脅かす)
「……甘く見てはいけない。たとえ彼女が、天使の声を持っていたとしても」
その呟きは、自分自身への警告でもあった。
決して油断してはならない――たとえ、哀れみを感じても。
アズラエルの視線は、部屋の奥に見えるノーマの背へと向けられていた。
少女の隣に微笑むもうひとりの少女が、
やがて彼女を曇らせる存在にならないことを――
それだけを、彼は静かに見極めていた。
◇
部屋の中では、まだラクスの小さな声が続いていた。
「ノーマさんは……悲しいとき、どうするのですか?」
「……戦う」
その答えに、ラクスはほんの少しだけ、微笑んだ。
「――では、わたくしは、歌いますわ」
「……どちらも、きっと誰かのためにすることですものね」
ノーマは、黙ったままラクスの横顔を見ていた。
その微笑の奥にある“深さ”が、今はまだ――よく、わからなかった。
「そういえば、お腹がすいたんでしたわ……」
ラクスがぽつりと呟く。
「あと……またあの部屋に戻らないとダメなんでしょうか? あまりに静かで、つまらなくて……
本当は、向こうで皆さんとお話ししたいのですけど……」
「…………ちょっと待って」
ノーマがぽつりと口を開いた。
「いきなり、いっぱい話さないで……」
ラクスが瞬きをして、少しだけ戸惑う。
けれどノーマは、わずかに息を吸い込みながら言った。
「……食べ物、何か持ってくる」
「部屋には……戻らなきゃいけない。地球軍の船だから、それは……しかたない」
「でも――私でよければ、話くらいなら……できるから」
言葉を選ぶように、順番に、ひとつずつ応える。
それは不器用な気遣いだったが、確かな誠意があった。
しばしの沈黙のあと――
「……ノーマさんっ!」
ラクスが急に顔を輝かせると、そのまま勢いよくノーマに抱きついた。
「きゃ――!」
ノーマの身体がわずかに揺れる。
けれど、拒むことはしなかった。
その腕の中で、ラクスは柔らかな声で言った。
「ありがとう……わたくし、ひとりきりだと思ってましたの。
だから、ノーマさんがいてくれて――とっても、嬉しいですわ」
ノーマはそっと目を伏せる。
ラクスのぬくもりが、胸元に小さく灯っていた。
まだよく知らない相手。
けれど――敵では、ないのかもしれない。
彼女の背に手を添えながら、ノーマは小さく息を吐いた。
◇
静まり返った通路。
キラ・ヤマトは、足を止めて耳を澄ませた。
小さく、微かな話し声。
女の子たちの――それも、聞き慣れたふたりの声だった。
(ここだ……)
そう確信して歩み寄ろうとした、そのとき。
「――静かに」
低く、けれど柔らかな声が響いた。
顔を上げると、部屋の前にムルタ・アズラエルが立っていた。
口の前に指を添え、悪戯めいた笑みを浮かべる。
「彼女たちは、ただいま取り込み中です」
「……ここはひとつ、男同士の話でも、どうですか? キラ君」
キラは面食らったように瞬きをしたが、やがて小さく頷いた。
*
廊下を、ふたりは並んで歩く。
少し歩いたところで、アズラエルが声をかける。
それは以前ノーマに言ったように。
「……疲れましたか?」
「え、ええ……まあ」
キラは苦笑したあと、思わず眉を寄せた。
「っていうか……そもそも、アナタが“戦え”って言ったからじゃないですか!」
アズラエルは、首を傾げるように微笑む。
「言いましたっけ? 私はただ、“戦わなければどうなるか”、それを教えてあげただけですけど」
キラは、言葉を詰まらせた。
「……やっぱり、アナタは卑怯だ」
「ええ、そうですとも」
アズラエルはあっさりと認めた。
「大人なんて、みんな卑怯なんですよ。
自分では手を汚さず、正しさだけを語りたがる。
それが、我々“上に立つ人間”の、業というやつです」
しばし、ふたりのあいだに沈黙が落ちた。
――その静けさを破ったのは、アズラエルだった。
「……お願いします」
その声は小さかった。
そして、キラが驚くほどに――深く、真摯だった。
ふと振り向くと、アズラエルは頭を下げていた。
「……ノーマの、力になってあげてください」
キラは、言葉を失った。
「私は……彼女の傍にはいられても、彼女と一緒に戦ってあげることはできない」
「それが、どれほど残酷か……わかっているつもりです」
「アズラエルさん……」
キラは思わず近づき、肩に手を添えた。
「頭を、上げてください」
キラの声が、少しだけ優しくなる。
「約束はできません……でも――」
「……僕は、僕にできることをやるつもりです」
それは約束ではなかった。
けれど――確かに、覚悟の言葉だった。
アズラエルは、顔を上げた。
そこには――ほんのわずかに、安堵の色が浮かんでいた。
「……ありがとうございます」
ふたりの間に、もう言葉はいらなかった。
それぞれが、それぞれの道を、歩く覚悟を持っていたから。
そしてアークエンジェルは、
静かに、次なる戦場へと向かっていく――。