戦火を抜けたアークエンジェルは、第8艦隊との合流を果たしていた。
宙域には、整然と隊列を組んだ地球連合艦隊が展開している。
その中心――巨大な影のようにそびえるのは、旗艦〈メネラオス〉だった。
「艦首、180度回頭。減速さらに20%、相対速度を合わせて」
マリュー・ラミアス艦長の声がブリッジに響く。
その声音には、ようやく安全圏へ辿り着いた安堵が滲んでいた。
舵を操作するノイマンが軽く眉をひそめる。
「……しかし、いいんですかねぇ。こんな風に、メネラオスの横っ面に付けるなんて」
視線の先――アークエンジェルは、まるで随伴艦のように旗艦の至近に寄せられていた。
「それは……」
マリューは言葉を選びかけ、口を閉ざす。
代わりに、後方から響いたのは、皮肉気な低音だった。
「ハルバートン提督が、直にこの艦をご覧になりたいとのことでして」
ムルタ・アズラエルが、椅子の背に手をかけたまま淡々と告げる。
笑ってはいたが、その眼差しは底知れず冷たい。
「後ほど、ご自分でお越しになるそうです。何せ、この艦とG計画……
その両方の立ち上げにおいて、閣下は最大の功労者ですからねぇ」
マリューは小さく頷く。
「……ええ」
重い意味を含んだその返答に、ブリッジの空気がわずかに緊張を帯びた。
一方、大部屋のモニターには、徐々に迫るメネラオスの威容が映し出されていた。
「うわあ……!」
「おっきい……!」
避難していた民間人の間に、歓声と驚きが広がる。
今や彼らの命を繋ぐ象徴とも言える巨大艦――
だがその圧倒的な存在感の裏に、どれほどの「意図」が隠されているかを、まだ知る者は少なかった。
そして、その「意図」は静かに――アークエンジェルへと迫っていた。
艦橋の緊張がようやく緩み始めたその時、マリュー・ラミアス艦長は静かに椅子を立った。
その背後に続くようにして、ムルタ・アズラエルも歩を進める。
「少し、お願いね」
そう言い残してブリッジを出ようとするマリューに、鋭い声が飛ぶ。
「艦長!」
ナタル・バジルールだった。
その一歩は、明確な意志を持っていた。視線がマリューを強く射抜く。
「ストライクのこと、どうされるおつもりですか?」
マリューは歩みを止め、振り返る。
「……どう、って?」
ナタルの眉間に皺が寄る。
抑えていた感情が、言葉に混じって溢れ出る。
「あの性能――あの力があったからこそ。
彼が、キラ・ヤマトがストライクに乗っていたからこそ、私たちはここまで来られたんです」
「……」
「艦内の者は、皆その事実を理解しています。
それでも……彼を、降ろされるおつもりですか?」
その問いは、マリューに向けられたものであると同時に、どこか自分自身への問いでもあった。
マリューは口を開こうとしたが、その前に、横にいたアズラエルが軽く手を挙げた。
「ちょっといいですか?」
皮肉めいた微笑を浮かべたまま、彼はナタルに向き直る。
「貴女の言いたいことは、よくわかりますよ、少尉」
「……!」
「でもね、キラ・ヤマト君は、軍人じゃない。
我々が命じることはできません。力があろうと、志願を強制することは――条約上、認められていない」
アズラエルは言葉を切り、少しだけ肩をすくめる。
「……まあ、戦いに仕向けたのは私なんですけどね」
ナタルの口がわずかに開いたが、言葉は出てこなかった。
表情の奥に、怒りとも諦念ともつかない感情が浮かんでは消える。
「少尉、貴女が感じていることも、間違ってはいない。だが……」
アズラエルの声には、どこか冷めた調子があった。
感情の火種を弄ぶような、無機質な響き。
「現実ってやつは、理想の盾にはなってくれませんよ」
そう言い残して、彼はマリューとともにエレベーターへと歩みを進めた。
閉じていく扉の奥で、二人の背中が並んでいく――
静かに、そして確かに、次なる局面へと向かっていた。
静かな振動とともに、エレベーターの扉が閉じた。
狭い空間には、マリュー・ラミアスとムルタ・アズラエル――二人だけ。
無言の時間が、数秒ほど流れる。
マリューは、言葉を選ぶように小さく口を開いた。
「……あの、ノーマさんとは、どういったご関係で? そ、その……彼女、かなり幼く見えますから」
アズラエルはわずかに目を細め、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ええ。年齢で言うなら――十二歳から十三歳程度でしょうね」
「じゅ、十二……!?」
マリューが反射的に息を呑む。
「……幻滅しましたか? それとも、血も涙もない私を殴ってみますか?」
「い、いえ、そんなつもりでは……っ」
マリューは言葉を失ったように視線を伏せる。
だが、アズラエルの口調は意外にも淡々としていた。
「構いませんよ、どう思っていただいても。
ですが、“どのように”という質問には……少々、答えづらい」
「機密事項、ということですか」
「そうなります」
アズラエルは視線を正面に向けたまま、少しだけ首を傾けた。
「――簡単に言えば、降ってきたんですよ。あの少女が」
「……“降ってきた”?」
「文字どおり、です。空から――ね」
エレベーターが静かに停止し、扉が開いた。
廊下の向こうには、まだ戦いの余熱が残るアークエンジェルの空気。
「私は、ノーマの様子を少し見てから合流します」
それだけを告げて、アズラエルは背を向ける。
その姿は、足音も軽く廊下の奥へと消えていった。
マリューは、しばらくその背中を見送っていた。
あの男の真意は――まだ、霧の中だった。
ランチの着艦に、アークエンジェルの前部格納庫がわずかに震えた。艦内放送のアナウンスが止むとともに、格納庫の扉が開き、一人の軍人が姿を現す。
濃紺の制服に、白髪混じりの短髪。穏やかな笑みを浮かべながらも、その双眸には鋭さが宿っていた。
「おおお……いや、ヘリオポリス崩壊の報せを聞いたときは、もう駄目かと思ったぞ」
朗らかな声が格納庫に響く。
「それがここで、君たちの顔が見られるとはな――嬉しい誤算だよ」
「ありがとうございます。お久しぶりです、閣下」
マリューが姿勢を正して敬礼すると、続いてナタル、ムウらも挨拶を交わす。
「この艦は、よくここまで持ちこたえてくれた。君たちの尽力に、心から感謝する」
ハルバートンの目が次に向かったのは、艦の後方に控えていた一群の若者たちだった。
「……ああ、そして彼らは?」
「はい。艦の運用を手伝ってくれた、ヘリオポリスの学生たちです」
マリューの言葉に頷きながら、ハルバートンは学生たちの方へと歩を進める。だがその途中、ナタルとすれ違いざまに肩がぶつかった。
「うわっ……失礼しました、閣下!」
よろけそうになったナタルの腕を、背後から伸びた手が支える。
「お怪我は……?」
静かな声。ムルタ・アズラエルだった。
ナタルが身を起こすと、ハルバートンの表情がふと変わった。その視線が、アズラエルに注がれる。
「……君が、あのアズラエルか」
「ええ、初めまして。名高い“ラボラトリー派”の生き残りにお会いできるとは、光栄の至りです」
「評判どおり……切れる男のようだな」
皮肉にも聞こえるその応答を、アズラエルは微笑みで返す。
だが、互いの視線は静かに火花を散らしていた。
ハルバートンの目がふと、傍らの小柄な少女に向いた。
白い制服に赤いバイザー。軍人とは思えぬその姿に、提督の眉がわずかに動く。
「……君の部下らしいな。“ホワイトゼロ”の少女。あんな年端もいかぬ子供まで戦わせて、誇りにはなるまい」
その言葉に、アズラエルの微笑がほんのわずかだけ揺らぐ。
「誇り、ですか。いえ――“責任”ですよ。育てたのは私でも軍でもない。“戦争”ですから」
その声音には、乾いた皮肉と共に、自嘲の色が滲んでいた。
ハルバートンは、その一言を無言で受け止めたあと、なおも言葉を紡いだ。
「それでも――救える命はある。私は、そう信じている」
その目は、まっすぐにノーマを見据えていた。
「……あの子は、自分の意志で戦っているのか?」
その問いに、アズラエルは短い間を置いた。
その間は、まるで自問のように響いた。
「……“意志”とは、いつ生まれるものなのでしょうね、提督。あなたは……教えてくださいますか?」
その言葉を受けて、ハルバートンは深く息を吐いた。
そして――その中に、まだ壊れきっていない、迷いと理性を宿す“人間”の心を見た。
「……私は、君の道を認めるわけにはいかん」
静かに、しかし確固たる声音で。
「それは困りました。私はあなたのような理想主義者に、昔から手を焼く質でしてね」
一歩、アズラエルが下がり、笑みを残す。
「ですが――嫌いではありませんよ。特に、今の私は」
その時、背後から控えていたホフマンが口を開いた。
「閣下、お時間があまりありません」
「ああ……そうだったな」
ハルバートンは視線をアズラエルから外し、再び民間人たちの方へ歩を進める。
だがその背を振り返りながら、一言だけ残した。
「アズラエル君。今度、ゆっくりと話をしたいものだな」
「光栄ですよ、提督。今度は――お互い、剣ではなく言葉で済むといいですね」
静かに歩き出す背中。その言葉の奥に、誰もが気づけるわけではない、確かな痛みが滲んでいた。
ガンマ線防護フィルムに包まれたストライクの足元に、キラ・ヤマトは立っていた。
顔には疲労がにじみ、制服の襟元はまだ汗で湿っている。
そんな彼の前に、ウィリアム・ハルバートン提督が厳しい眼差しを向けていた。
「……だが、君が居れば勝てるものでもない。戦場はな、少年。うぬぼれるな」
老練な軍人の言葉に、キラの表情が一瞬たじろぐ。
「で、でも……! できるだけの力があるなら……僕は、できることを……!」
言葉は熱を持っていたが、その瞳はどこか怯えていた。
背負ってきたものの重さと、それを振り払うほどの確信を、まだ持てずにいる。
側近の兵士が声をかける。
「閣下、そろそろ――」
「黙っていろ!」
鋭く制して、ハルバートンは一歩、キラに近づいた。
「その意志があるなら、だ!」
「意志のない者に、何をやり抜けるというのか。力など関係ない。意志だ。
……君は、それを持っているのか?」
キラははっと息を呑んだ。
言葉にできない感情が、胸の奥で波打つ。
「……僕は……」
その様子を、少し離れた場所からじっと見つめていた者がいた。
ノーマ・レギオ。
白い制服に身を包んだ少女。小さな身体が壁際に寄り添って、両手を胸の前で握っている。
(……キラ……)
彼女の視線は、キラの横顔を追っていた。
自分と同じ“選べなかった”存在だと思っていた少年が、今、誰かに問われていた。
意志があるかと。
(私は……)
その瞬間、ハルバートンがゆっくりと振り返った。
ノーマの存在に気づいたのだ。
「……ム。まだ少し、時間はあるな?」
そう呟いて兵士を制すると、彼はゆっくりとノーマのそばへ歩いてきた。
「さっきの戦闘、君の操縦を遠目から見ていた。素晴らしい集中力だった」
「……ありがとうございます」
ノーマは軽く頭を下げながらも、どこか戸惑ったような表情を浮かべる。
その胸中に去来しているのは、自分への評価ではなく――キラへの問いの余韻だった。
ハルバートンは、その様子にふっと笑みを浮かべた。
「君も……彼のように、何かを“守りたい”と思っているのか?」
ノーマは静かに頷いた。
「……でも、私には、キラみたいに“選ぶ”自由はなかった。
ただ、気づいたら誰かを守るために戦ってた……それだけです」
「その“気づいたら”というのが、君の意志なのかもしれんな」
ハルバートンの声は優しかった。
年若い少女の肩に手を置き、言葉を続ける。
「意志は、何かを選ぶことで生まれるものではない。選ばされたと思っても、
それでも前に進むなら、それはもう立派な意志だ」
ノーマは少しだけ目を伏せた。
けれどその唇は、ほのかに揺れている。
(キラも……私も……)
「……君たちは、未来を作る者だ。どうか、自分を壊すなよ」
言い終えると、ハルバートンは背を向け、再び兵士たちの方へと歩いていった。
背中越しに、その一言が響いた。
「私は、君たちを信じるよ」
その言葉に、キラもノーマも、それぞれの場所で小さく頷いた。
戦いの最中に生まれた問いかけが、静かに、心の奥へと沈んでいく。
それは、やがて彼らを動かす確かな灯となるだろう――
ノーマとキラは無言のまま並んで歩いていた。疲労と、戦いの余熱が残る身体を引きずるように。
――だが、ふと立ち止まったキラが、周囲を見回す。
その時だった。
「お姉ちゃーん! お兄ちゃんー!」
澄んだ声が響いた。
幼い足音が近づき、小さな影が二人に飛びついてくる。
「……あっ」
ノーマの口から驚きと安堵が混じった声がこぼれた。
エル。
あのとき、ノーマが「守る」と言った少女が、今、笑顔で目の前にいる。
「こらっ、エルちゃん!」
後方から、慌てた母親が声をかけてくる。だがエルは気にせず、両腕をノーマとキラにぎゅっと回した。
「にひっ……!」
無邪気な笑みに、思わずキラが小さく息を呑んだ。
エルの細い腕が、確かに温かさを届けてくる。
「……ノーマお姉ちゃん、ありがと!」
そう言って、エルは懐から小さな折り紙を取り出した。
「これ、ずっと作ってたの! ありがとうの気持ち!」
色とりどりの鶴や風船、紙の花。
拙い指で折られたそれは、まるで宝石のようだった。
「……えっ、僕にも?」
目を丸くするキラに、エルは得意げに頷く。
「お兄ちゃんにも! いっぱい守ってくれたから!」
戸惑いながらも、キラは受け取った。
手の中に収まる、小さな命の感謝。
「……ありがとう」
ぽつりとつぶやいたその言葉に、心の奥が温かく満たされていく。
ノーマも、そっと折り紙を受け取った。
その指先がわずかに震えていた。
「うん……ありがとう。……ありがとう、エルちゃん……」
その声は、小さな少女の肩にしがみつくように優しく――けれど、確かな涙を含んでいた。
(私は……)
守れた。
たったひとつでも、確かに。
ノーマの手のひらに乗る、ひとひらの折り紙は、静かに彼女の胸の奥に沈んでいった。