部屋は、白かった。
無機質な空間。医療施設の一室と思われたが、設備は必要最低限にとどまっていた。
壁には何もなく、天井には明かりが灯るだけ。
部屋の中央、簡素な机と椅子が一対。
そのひとつに、ノーマ・レギオが座っていた。
赤いバイザーは外され、顔が露わになっている。
だが、その表情には、感情というものがまるで存在していなかった。
「名前は?」
対面に座る中年の医師が、簡潔に問いを発する。
その隣には、連合の士官。階級章から見て、それなりの地位にあるようだ。
「ノーマ・レギオ」
少女の声は、小さく、だがはっきりと響いた。
「所属は?」
「……わからない」
「なぜメビウスに?」
「わからない」
「操縦訓練は?」
「わからない」
「両親は?」
「……わからない」
「出生地は?」
「わからない」
「記憶は……?」
「わからない」
全ての問いに対して、返されるのは一様な答えだった。
だが、ただの無表情ではない。
その声には、かすかな震えがあった。
(……なぜ、私はここにいる? 誰が、私をここに連れてきた?)
言葉にならない思念が、少女の内側で渦を巻いていた。
やがて、重い扉が静かに開いた。
「──もう結構でしょう?」
部屋の空気が、微かに揺れる。
柔らかな、しかし異質な声色。
「エースに対して“尋問”とはねぇ……これはザフトの捕虜扱いですか?」
ムルタ・アズラエルが、笑みを浮かべながら入室してきた。
その仕草に余裕はあったが、場違いなほどに軽やかだった。
「……アズラエル議長。これは上からの命令です」
士官が静かに進み出る。
だが、アズラエルは手をひらひらと振って制した。
「はいはい、命令。いつも便利ですね、それ」
「でもね、命令だけで人が動くなら、こんな戦争、とうに終わってるんですよ?」
その口調に怒気も威圧もない。
それだけに、逆に圧があった。
「この子に必要なのは“取り調べ”じゃない。“理解”です。……退室を」
医師と士官は目を見合わせた末、何も言わず、部屋をあとにした。
扉が閉まると、空間は音を失った。
ノーマは視線を上げない。
ただ、膝の上に手を置いたまま動かなかった。
アズラエルは机の端に腰をかけると、少女に向けて穏やかに言った。
「君の名はノーマ・レギオ。そうだったね」
彼の声音に、冷たさはなかった。
しかし、ノーマの背筋には、微かな緊張が走った。
「今日の戦闘データは、すでに確認させてもらったよ。見事だった」
賞賛の言葉に、ノーマは何も返さない。
アズラエルは視線を細め、言葉を続けた。
「君が何者であれ、あの戦果は、真実だ。……それは否定できない」
沈黙。
「……君の記憶が戻るかどうかは、問題じゃない。重要なのは“今”、君がどんな存在か、ということだ」
その言葉に、ノーマの指がわずかに動いた。
アズラエルは、それを見逃さなかった。
「……君と話すのを、楽しみにしていたんだよ」
そう言って、彼はさらに微笑を深めた。
その笑みは、優しさに見えて――どこまでも冷ややかだった。
地球連合軍 第十医療隔離区画/観察室
会話は、ただの雑談だった。
アズラエルは笑みを絶やさず、飄々とした調子で話し続けていた。
話題は宇宙食の味、ヘリオポリスの構造形式、些細な雑学――いずれも、戦争とは程遠い。
ノーマ・レギオはほとんど口を開かなかった。
それでも、アズラエルは焦る様子もなく、淡々と語り続けた。
(……こういう子は、まず“安心”を覚えないと何も語らない)
彼の脳裏には、その種の「扱い方」に対する心得があった。
けれど、それ以上に感じていたのは“妙な違和感”だった。
ノーマは、床を見ていた。視線は動かず、気配も変わらない。
まるで、生きているのに、ここに存在していないようだった。
やがてアズラエルは静かに立ち上がる。
「……ふふ、そう簡単にはいきませんか」
そう言って、彼は机を回り込み、ノーマの背に立った。
その肩にそっと手を置いた瞬間だった。
──視界が、裏返った。
砕けた構造体。漂う破片。焼けただれた金属。
閃光。閃光。音のない断末魔。
ユニウスセブン。崩れ落ちる農業プラント。赤く染まる空。
泣き叫ぶ子ども。母親の声。消える言葉。
すべてが、焼き付いた。
「う、うわああああああああっ!!」
密室に響く悲鳴。
アズラエルは膝をつき、額を押さえた。目は虚空を捉えて離さない。
「なんてことを……してしまったんだ……っ」
呻きに似た声が、彼の喉から漏れた。
──それが、“誰”の記憶だったのかは、わからない。
だが、それが“現実”であることだけは、彼にも理解できた。
ノーマは、無言だった。
ただ、静かに椅子に座り、アズラエルを見下ろしていた。
その瞳は、冷たかった。
けれど、その奥に、かすかな“痛み”が揺れていた。
扉が開く音が、空気を割った。
士官たちが数名、駆け込んでくる。
膝をついたアズラエルと、無言のノーマ。その光景に、言葉を失う。
「議長……! いったい何が――」
アズラエルはゆっくりと立ち上がった。
汗を拭い、整えた表情で微笑を浮かべる。
「……問題ありません。少し、眩暈がしただけです」
視線をノーマに向け、肩にそっと手を添える。
その手つきは、どこまでも慎重だった。
「この子は、私が引き取ります」
「し、しかし検査が――」
士官が言いかけた言葉は、アズラエルの一言で遮られた。
「構いません」
語調は柔らかだった。
だが、その声に、反論の余地はなかった。
士官たちは無言で道を空けた。
アズラエルはノーマを連れて部屋を出る。
彼女は振り返らなかった。
素顔のまま、廊下の奥へと無表情に歩いていく。
──その足取りはかすかに震えていた。
だが、アズラエルの指先もまた、気づかれぬほどわずかに震えていた。
静かに、ドアが閉まる。
残された空間には、誰にも理解できなかった“何か”の余韻だけが漂っていた。
こうして、ヘリオポリス宙域での「世界樹」攻防戦は幕を下ろした。
だが、戦場の果てに残された火種は――
ノーマ・レギオという名の少女とともに、静かに、だが確実に、地球連合の中枢へと運び込まれていった。
──その炎が、何を燃やすかは、まだ誰も知らない。
鍵が閉まる音が、小さく響いた。
個室の中。
ムルタ・アズラエルはドアに背を向け、無言のままノーマと向き合っていた。
「……それで、説明はしてもらえるんですか」
静かだったが、その声音には確かな圧があった。
ノーマは目を逸らさず、ただ短く答える。
「何を?」
その一言に、アズラエルの眉がわずかに動いた。
手がわなないだまま、彼は一歩、前に出る。
「……とぼけるなぁ……!」
語尾が荒れる。
声と同時に、彼の手がノーマの肩へと伸びかけ――
──止まった。
光景が、脳裏を焼く。
核の光。プラントの崩壊。焼ける声、砕ける命。
手は、触れる前に宙で震えた。
ノーマは一歩だけ近づいた。
小さく、言う。
「わからない。でも……ただ、感じただけだと思う」
そのまま、彼の胸に手を添えた。
迷いはなかった。彼女は記憶を持たない。だが、それが「できる」ことは知っていた。
一瞬、空気が震えた。
静かに、何かが流れ込んでいく。
──閉鎖された訓練施設。
──コーディネーターとの技術差。才能。数値。勝てないという事実。
──焦燥。嫉妬。怒り。
──どれだけ努力しても、追いつけなかった。
──誰も責められず、それでも何かを憎まずにはいられなかった。
「……あ……ああ……」
アズラエルが、足元を崩すようにしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆い、声を押し殺す。
「ボクは……僕たちは……どうしたら、許されるんだ……」
その問いに、ノーマはすぐには答えなかった。
やがて、静かに、はっきりと告げる。
「許されることは、ない」
言葉は冷たくも、拒絶ではなかった。
「でも――あなたの気持ちは、わかる」
ノーマはそっと、アズラエルの頭に手を置いた。
その仕草は、誰にも見せたことのないものだった。
優しく、確かに。
「……悔しかったね」
小さな声だった。
けれど、深く届いた。
アズラエルは何も言わず、うつむいたまま、その言葉を噛みしめていた。
部屋には、音がなかった。
ただ、二人の間に沈黙があった。
争いの影と、理解の兆しが、静かに揺れていた。