戦場の熱は、まだ皮膚の内側に残っていた。
燃えるような視線。焼け付くような憎しみ。
誰が敵で、誰が味方かもわからないほど、ノーマの頭の中には“声”が渦巻いていた。
(また、殺した)
機体に刻まれたスコアは、数字としてしか表示されない。
けれど、その裏に何人の命があったか、彼女にはわかっていた。
指を動かしたのは自分だった。
引き金を引いたのも、自分だった。
それでも、生きて帰ってきてしまった。
「……疲れましたか?」
アズラエルの声が、思いのほか優しかった。
ノーマは、ほんのわずかに眉を動かしただけで、返事をしなかった。
「戦果としては、申し分ない。君の存在は、もう誰も無視できない」
「そう。だから?」
ノーマは淡々と返した。だが、その声には僅かに棘が混じっていた。
「“だから”……?」アズラエルはその言葉を繰り返すように呟く。「――君は、どうしたい?」
問いかけは意外だった。
命令でも、賛辞でもない。ただ一人の少女に向けた、ひどく人間的な質問。
ノーマは、しばらく黙っていた。
「……わからない」
「そうですか」
アズラエルはそれ以上は何も言わなかった。
ただ、少女の目を静かに見つめていた。
「でも、たぶん――」ノーマはゆっくりと言葉を継いだ。「“なにか”を、終わらせたい。それが何か、まだ思い出せないけど」
アズラエルはほんの少し、目を細めた。
「“なにか”か。……それが何であっても、僕は君を止めませんよ。協力します」
「どうして?」
「君が、僕を“見た”からです」
その言葉に、ノーマは初めて彼を真正面から見つめた。
彼女の瞳は、まるで鏡のようだった。痛みも、迷いも、何もかもを映し出す無色の光。
アズラエルは、笑わなかった。
ただ静かに、ゆっくりと首を振った。
「僕は……ずっと、誰にも見られていなかったんでしょうね」
その声には、彼自身も気づいていないほどの寂しさがあった。
ノーマは何も言わなかった。
けれど、その小さな肩が、少しだけアズラエルのほうへ傾いた。
──それは、寄り添いでも、赦しでもない。
ただ、“そこにいる”という確かな気配だけ。
沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は、かつてのように重いものではなかった。
ほんの少しだけ、空気が、柔らかくなっていた。
宇宙は、今日も何も語らない。
それでも彼らは、その沈黙の中に、かすかな“意味”を探していた。
繰り返し再生されるのは、ノーマ・レギオの戦闘記録。
ビームの閃光、ジンの爆発、軌道を描くガンバレルの残像。
無音の宇宙に、ただ一機で浮かぶその姿は――
見る者すべてに、“勝利”のイメージを植えつけていた。
「ホワイト・ゼロ、万歳!」
誰かが叫んだ。
整備兵が拍手を送る。
通信士が映像に拳を突き上げる。
一部では“白い悪魔”、また一部では“天使”と呼ばれ、
いつしか艦内では、彼女の存在が“象徴”になっていた。
通路を歩けば、すれ違う兵士たちが敬礼し、
食堂では、知らぬ顔の者が皿を差し出す。
ハンガーでは、少年兵が目を輝かせて駆け寄ってくる。
「サイン……ください!」
「おれ、パイロットになるのが夢なんです!」
けれど――
ノーマは、笑わなかった。
ヘルメットを脱ぎ、バイザーを外すたびに、
喉の奥が熱を帯び、こみ上げる吐き気をこらえる。
(また……“私”じゃないものが、勝手に歩いてる……)
あの戦場の記憶は、音も色もない。
あるのは、ただ“感じた”という重みだけ。
憎悪。怒声。断末魔。
無数の“声にならない声”が、ノーマの内側に残り続けていた。
称賛のまなざしが増すほどに、
彼女の足取りは硬くなり、指先は冷えていく。
誰も、それに気づかない。
誰も、気づこうとしない。
その夜、艦橋の一角で、ムルタ・アズラエルがぽつりと呟いた。
「……あの子は、英雄なんかじゃない」
静かに、しかしどこか遠くを見るような眼差しで。
「それができるだけだよ。ただ――誰より正確に、“敵”を殺してるだけだ」
モニターに映るノーマの機体。
白い塗装が、まるで冷たい月光のように艦内を照らしていた。
祝福と沈黙。
憧れと、本能的な畏れ。
それらすべてが、静かに、冷たく、
まるで宇宙の真空のように、艦の空気を締めつけていた。
C.E.70年6月2日──グリマルディ戦線。
地球連合軍第3艦隊の前衛を務めるネルソン級戦艦《ローレンス》のMAデッキから、白いメビウス・ゼロが滑るように飛び出していった。
機体の背に備えたガンバレルユニットは、標準の四基から倍の八基へと増設されている。実験的ともいえるその装備を、ノーマ・レギオは迷いなく扱っていた。
「ガンバレル、展開」
彼女の命令と同時に、白い蛇のように空間を舞う八つの機動砲塔。戦域を縦横に走り抜け、そのすべてが敵機《ジン》を正確に捕捉し、射線を重ねてゆく。
「目標捕捉、撃墜」
光条が閃き、ジンが爆ぜた。視界が赤く染まる。
(……吐きそう)
喉の奥が焼けるように熱い。だが、彼女は口を噤んだ。
そのとき、通信が入る。
『こちら旗艦ノースカロライナ。全機、敵戦力を宙域中央へ引き込め。繰り返す──敵戦力を引き込め』
ノーマの眉がわずかに動いた。
(……何? なんでそんな命令を)
敵戦力はジンを中心とした部隊。すでに数機を落としたとはいえ、まだ数で優勢を保っている。
「嫌な予感がする……」
◇
その宙域を、もう一機のメビウス・ゼロが駆けていた。
「やるねぇ、あの天使ちゃん……俺も負けてられないな!」
ムウ・ラ・フラガのガンバレルも、滑らかに展開されていく。
敵編隊の間隙を縫い、二機のジンを撃破。爆炎が次々と宇宙に咲いた。
だが、次の瞬間――
「な、なんだ……この感じは……」
戦場の空気が“濁った”。
理性ではない。“本能”が、警告を発している。
――異物が、来る。
◇
ローラシア級戦艦《カルバーニ》艦橋。
戦況図のホログラムが宙に浮かぶ。青と赤の識別信号が、刻一刻と交錯し、白熱するグリマルディ宙域の全貌を映していた。
その中心で、艦長席に座るラウ・ル・クルーゼは、身じろぎもせず戦況を見つめていた。
が、突如として彼の視線が逸れた。
「…………なに?」
仮面の奥、血走った目が僅かに見開かれる。
宙域の“外側”に、明らかに反応のない“何か”を感じ取っていた。
(いるな……この“揺らぎ”――)
その瞬間、艦橋に緊張が走る。
「指令を変更する。私が出る」
クルーゼは静かに立ち上がった。
「ジン・ハイマニューバ、出撃準備を整えろ」
「し、しかし指揮官!? クルーゼ隊はまだ前線に……!」
「よい」
仮面の下に、薄ら笑いが刻まれる。
「遊撃こそ我が本分。状況を切り裂く一振りとして、私が行く。命令だ」
指揮官の冷たい声に、ブリッジクルーたちは反論できなかった。
クルーゼはマントの裾を翻し、艦橋を後にする。
格納庫に冷たい照明が落ちていた。
整備員たちが急ぎ立ち回る中、中央で不気味な存在感を放つ赤い機体が、鎖を解かれる時を待っていた。
《ZGMF-1017 ジン・ハイマニューバ》。
試験段階の高機動仕様――標準ジンに比して、出力・旋回性ともに異常なまでに強化された制御困難な機体。
その前に、静かに足を止めるひとりの男。
ラウ・ル・クルーゼ。
無言でヘルメットを被り、スーツの接続を確かめながらコクピットに収まる。
機内が加圧され、視界がデータリンクで埋まる。そのすべてを彼は“感覚”で受け取りながら、冷ややかに呟いた。
「……出てこい。――その“直感”に覚えがある」
“感応”――
かつて一瞬交錯した、あの不可解な共鳴。
その存在は“脳の奥”で鋭く焼き付いていた。
「貴様の目が、私の“存在”にどこまで耐えられるか――試してやろう」
スラスター点火。甲高い金属音とともに、赤い機体が地を離れる。
ジン・ハイマニューバ、発進。
宙へと放たれたその機体は、炎の尾を引き、音もなく虚空を裂いていった。
(貴様の目が届く場所で……私は待っているよ、“見知らぬ者”)
クルーゼの機体は、死神の使いのように戦場へ滑り込んでいく。
彼と“光の鷹”が、互いを“知らぬまま”対峙する、最初の戦いが始まろうとしていた。
◇
漆黒の宇宙に、三つの機影が鋭く交錯した。
閃光。振動。死の予感。
白いメビウス・ゼロ。赤い機動のジン・ハイマニューバ。そして、もう一機のゼロ。
静寂の中、四基のガンバレルを展開したノーマ・レギオの機体が沈黙している。支援位置を取るもう一機のゼロ、そのパイロットはムウ・ラ・フラガ。彼らの視界を裂くように、異質な存在が飛び込んでくる。
――ラウ・ル・クルーゼの駆る、ジン・ハイマニューバ。
「っ……この圧、なんなの……!?」
ノーマの皮膚が粟立つ。冷気のような殺気が、脳に直接触れたかのようだった。
「何者だ……?」
ムウの声に、応答はなかった。だが次の瞬間、聞こえたのは、開かれていないはずの通信回線からの声。
「……“白い悪魔”に“タカ派のエース”か。連合も人材を使い潰すのが好きだな?」
不敵な響き。だが、その裏に潜むのは、深く沈んだ虚無――。
「誰だ……貴様!」
「仮面の者に名前など、不要だろう?」
次の瞬間、ジン・ハイマニューバが跳ねた。蛇のような動きで、ノーマのガンバレルを掻い潜り、ムウのゼロへと迫る。
「っ、こいつ……読んでやがる!」
ムウがリニアガンを放つが、クルーゼのジンはまるで撃つ“前”から回避動作に入っていた。
ノーマも即座に反応。三方向からの一斉砲火。しかし――
「無駄だ」
クルーゼの機体は爆光の中をすり抜け、二機のゼロの間を鋭く切り裂くように通り抜けていく。
「動きが……見えない……!」
ノーマの喉が震える。
(この人、“思考”じゃなく“本能”で動いてる……!)
「こっちのガンバレルが……干渉してる!?」
ムウの声に、ノーマが警告を重ねる。
「離れて! ワイヤーが絡む……っ!」
接近戦によるシステムの干渉。絡まったワイヤーが操作系に乱れを引き起こす。
そこへ――ジンの斬刀が突き出された。
ムウの死角から、冷たい光が振り下ろされる。
「っ……!」
ノーマは迷わなかった。未制御のガンバレルを強制排除、自機のブースターを切り離し、内部の圧縮燃料に火花を走らせた。
爆発。
閃光と爆煙が、空間を一瞬で満たす。
ジン・ハイマニューバはそれを回避するも、装甲表面に焼け痕を残しつつ距離を取った。
クルーゼの瞳が細められる。
「ほう……ただの子供ではないかと思ったが、面白い」
だがそのとき、クルーゼの索敵画面に、異常な熱源が映る。
「……?」
後方宙域。連合艦隊の後方に配置された廃棄コロニー“グリマルディ”区域の中心部――そこに、ありえないエネルギー反応が。
(これは……サイクロプス!?)
ムウも同時に、それに気づいた。
「……なんだ、あれは……!」
ノーマの体にも、かすかに走る“熱”の予兆。
「マイクロ波……来る!」
艦隊司令からの警告が届く。
「全機、緊急離脱! サイクロプス兵器が起動する! 繰り返す、直ちにその宙域を離脱せよ!」
「……くそっ、連合のクソ上層部……!」
ムウが呻く。
クルーゼは一瞥し、部隊への撤退指示を下す。
「全軍、即時離脱。敵味方関係なく……吹き飛ぶぞ、これは」
ノーマはかろうじて残った二基のガンバレルを回収しながら、全推力をもって離脱コースを取った。
そして数秒後。
空間が“白”に染まった。
無音の閃光。強烈な収束エネルギーが、戦域ごと飲み込んでいく。
味方も敵も、残っていた者すべてが、何も残さず“消された”。
ノーマのメビウス・ゼロは爆風の外縁で機体を大きく揺らしながら、辛うじて爆心域を脱する。
「……!」
操縦桿が震えた。
背後で、たしかに“誰か”の命が、いくつも砕けていった。
ムウもまた、それを見ていた。
言葉はなかった。ただ、歯を食いしばる音だけが聞こえた。
やがて、沈黙。
広がるのは、虚無と、燃え残りの残骸だけ。
ゼロがふたり、静かに戦域を去っていく。
だがその背には、燃え尽きた宙の炎と、冷たい怒りとが、確かに刻まれていた。
こうして、グリマルディ戦線における《サイクロプス兵器》の初使用は幕を閉じる。
けれど、それがもたらしたものは、戦術的な勝利などではなかった。
医務室の灯りは白く、静かだった。
機器のわずかな作動音と、低く規則的な電子音が、時折ノーマの耳に触れる。
彼女は横になったまま、天井を見上げていた。
閉じても、目を開いても、あの閃光がよみがえる。
──サイクロプスの発動。
あの瞬間、空間が裂け、命が叫びながら崩れていくのを“感じた”。
それは、声ではなかった。
熱でも、痛みでもない。
ただ……心に直接、焼きついた。
思い出すたび、喉の奥が痙攣する。
「……」
吐き気をこらえていた、そのときだった。
扉の開く音もなく、足音が近づく。
「……見舞いの言葉は似合わないでしょうが。一応、“ご苦労様”とだけ」
ムルタ・アズラエルだった。
スーツの男は、ためらうことなくベッド脇の椅子に腰を下ろす。
顔に浮かぶのは、いつもの薄笑いではない。
「やっぱり……やめませんか」
そう言った声は、どこか壊れかけたように静かだった。
ノーマは答えない。
代わりに、目だけがアズラエルを見た。
「……無理です。今回も……あなたを、殺しかけてしまった」
「……」
アズラエルは口を開こうとしたが、言葉を選びきれずに押し黙った。
「以前の僕なら、そうしてたと思う。冷たく、効率的に。でも今は、違う」
「わかってる」
ノーマが言った。即答だった。
「……え?」
「感じるから。あなたの心の揺れ。……迷ってるんでしょう?」
静かだった。
だがその声には、何か鋭く、まっすぐなものが込められていた。
アズラエルの顔がわずかに引きつる。
「やめたいんだよね? これ以上、私を……傷つけたくないんでしょう?」
その一言に、男の表情が崩れた。
いつもの冷笑も、威圧も、仮面も、すべて意味を失った。
「だったら……だったら、どうして……っ」
苦しげに吐き出した言葉。
それは、問いではなく、自分自身への叫びだった。
「このままじゃ……戦争は終わらない」
ノーマは、目を伏せずに言った。
「この宇宙に、痛みと悲しみが、ただ広がっていくだけ。
私が、あなたが、それを止めなければ」
ふたりの間に、音のない時間が流れる。
静かだった。あまりにも。
鼓動の音さえ遠く感じられるほど、医務室の空気は張り詰めていた。
やがてアズラエルは、重力に負けたように、椅子から滑り落ちるように座り込んだ。
肩が震え、手で顔を覆う。
「……わかりましたよ、ノーマ」
それは降参でも、納得でもなかった。
ただ、投げ出すでもなく、抗うでもなく……受け入れる、ということだけ。
彼の声に、もはや感情の名はなかった。
あるいは、そのすべてが混じり合い、名前を失ったのかもしれない。
ノーマは、ただ静かに目を閉じた。
灯りの下、誰も泣かないまま、ふたりの沈黙だけが続いていた。
グリマルディ戦線の戦況報告が、戦略本部の巨大なスクリーンに投影されていた。
ザフト軍の電撃的な包囲殲滅。壊滅した地球連合第3艦隊。
そして、数分にも及ぶ――“一機の白いメビウス・ゼロ”による、孤独な戦闘記録。
それは、まるで映像作品のようだった。
閃光。破壊されるジン。突き抜けるガンバレルの弾道。
――少女ひとりによる、あまりにも非現実的な“戦果”。
会議室に沈黙が流れる中、椅子の背にもたれたムルタ・アズラエルが、ふっと鼻で笑った。
「まったく……我が軍の命令は“敵を引き込め”、でしたっけ?」
声は静かだった。
静かだからこそ、会議室の誰よりも冷たく響いた。
「結果は……ご覧のとおり。見事に釣られて、そのまま喰われたと」
彼は椅子を回し、ゆっくりと議長席に座る老将の方へ顔を向ける。
微笑の形を保ったまま、青白い顔色がわずかに揺れていた。
「さて。責任の所在はどこに置きましょうか?」
「“命令”を下した指揮官か、それとも……一部の“例外的戦果”に免じて、有耶無耶に?」
沈黙。誰も口を開かない。
目を合わせようとする者すら、いなかった。
アズラエルの笑みが、さらに深くなる。
「ご安心を。戦果は……利用させていただきます」
「“ホワイト・ゼロ”は、連合の新たな英雄として、祭り上げるとしましょう。
あれだけの殺戮、あれだけの映像。大衆は血と偶像が大好きですから」
スッと立ち上がると、アズラエルは手袋を嵌め直しながら言い放つ。
「……ですが。その代償は、然るべき部署で清算していただきます。“政治的に”ね」
その目は笑っていた。
だが――その指先は、わずかに震えていた。
部屋を出た瞬間、彼は壁に片手をついて俯いた。
喉の奥から込み上げる吐き気。
(……僕は、何をしてる……)
吐きそうだった。
だが吐けなかった。
それすら、“許されていない”ことを、アズラエル自身が一番よく知っていた。
彼は、静かに顔を上げる。
そして、誰もいない廊下に向かって、平然とした足取りで歩き出した。
その背中に、“正義”も“救い”もなかった。
ただ、冷たい硝煙のにおいと、幾重にも積み重なった“業”だけが、彼を包んでいた。