アークエンジェル内、夜間モードの照明が落とされた静かな区画。
ノーマは、薄暗い自室のベッドに横たわっていた。
天井を見つめる瞳に、何も映らない。
戦闘は終わった。だが、胸の奥に残るのは、硝煙でも、振動でもない。
――誰かの“叫び”。
――消えていった“気配”。
それらが耳の奥で鳴り続けていた。
「……慣れてるはず、なのに」
ぽつりと漏らした言葉が、誰に届くわけでもなく空気に溶ける。
そのとき――
ドアが開いた。
「失礼しますよ。あ、鍵……かかってませんでしたね」
軽い調子の声。だが、そこに含まれる気遣いに、ノーマは気づいていた。
「……ノックぐらい、してほしい」
背を向けたまま、静かに言う。
「やましいことでもしてたんですか?」
アズラエルが微笑交じりにそう返すと、ノーマはプイと寝返りを打った。
「……ない。でも、してないから……」
「なるほど。では次からも遠慮なく」
気軽な言葉と共に、彼はベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「キラ君とストライク、戻ってきましたよ。大したものです、あの年齢で。
しかも今回は――避難ポッドまで拾ってくれたとか。まったく、トラブルメーカーがまたひとり増えましたね」
ノーマは返事をしなかった。
しばしの沈黙。アズラエルが立ち上がりかけたその時――
袖口を、柔らかい手が掴んでいた。
「……」
振り返った彼の瞳に映ったのは、言葉にできぬ感情を滲ませた少女の横顔。
泣いていたわけではない。
だが、確かに何かが“あふれて”いた。
アズラエルはそっと腰を下ろし直し、黙ってノーマの髪を撫でた。
「……大丈夫。君がそうしてくれるなら、僕は――いつだって、君の味方ですよ」
ノーマは何も言わない。
だが、その小さな手は、しばらく彼の袖を離さなかった。
◇
ストライクの格納区画――
会話の波が崩れる音と共に、少年が踵を返して走り出した。
「僕は……くっ!」
言葉を吐き捨てるように、キラ・ヤマトは通路へと駆け出していく。
「おいっ、キラッ!」
トールの叫びが響くが、それは届かなかった。
「……おや?」
ムルタ・アズラエルはその場に立ち、少し首を傾げながら、キラを追いかけるように走り出した小さな影――ノーマ・レギオの姿を目で追った。
足取りは軽く、だがどこか切実さを帯びていた。
(彼女が動くのは、感情か、それとも本能か)
皮肉にも似た、けれど興味深げな思考が脳裏をよぎる。
背後では、ざわめきが再び立ち上がっていた。
「え? なに? 今の、どういうこと? あのキラって子……あの……」
フレイ・アルスターが混乱を隠さず口にする。
「君の乗ったポッド、MSに運ばれてきたって言ってたろ? あれ、操縦してたのがキラなんだ……」
サイの声音は淡々としていた。
「え~~!? あの子? でも、なんでMSなんて……?」
「キラは、コーディネーターだからね」
その一言で、場の空気が微かに冷えた。
「カズィ……!」
トールが目を鋭くし、ミリアリアがそれを止めるように睨みつける。
「……うん、キラはコーディネーターだ。でもザフトじゃない」
「うん。私たちの仲間、大事な友達よ」
ミリアリアのその言葉に、フレイが何かを飲み込むように視線を伏せる。
そんな中、アズラエルは一歩だけ前に出た。声は低く、そしてどこか優しかった。
「不安ですか? 彼が怖いですか?」
振り向いた彼女たちの表情は、驚きに揺れていた。
「コーディネーターも、ひとりの人間です。心があり、血を流せば、死ぬ」
「キラ君は、キラ君です。我々と……何も変わりませんよ」
その言葉に、誰もが一瞬、目を見張った。
――それは、あの「ブルーコスモス」に連なる人間が言うとは思えない内容だった。
だが、アズラエルの眼差しは冗談でも挑発でもなかった。
ただ、静かに、事実を伝えるように見えた。
(どんな理想や思想より先に、今ここにいる子供たちの現実がある)
そう言っているような、そんな声だった。
一同が言葉を失ったまま、アズラエルは軽く会釈すると、踵を返した。
「……さて、私は“悪魔”らしく、もう少し彼の様子を見てくるとしましょうか」
軽口に似たその一言だけが、彼の“本心”を曖昧に隠していた。
キラ・ヤマトは、艦内の薄暗い通路にひとり腰を下ろしていた。
背中を壁に預け、膝を抱えるその姿は、少年というにはあまりに疲れ切っていた。
「……MSに乗れたって、戦争ができるわけじゃない……」
小さく漏らしたその声は、誰にも届くことはないはずだった。
だが――
「コン、コン」
控えめなノックが響いた。
顔を上げると、赤いバイザーを付けた少女が静かに立っていた。
「隣、いい?」
そう言って、返事も待たずにキラの隣に腰を下ろす。
「……君は……?」
キラが戸惑いながら口を開くと、少女はすぐに答えた。
「ノーマ・レギオ。よろしく」
「え?」
「『君は……』って言ったから。違った? 私」
「い、いや、そうじゃなくて……あっ、キラ・ヤマト……よろしく」
ぎこちなく差し出されたキラの手を、ノーマは迷わず握った。
指先は細く、小さな手だったが、どこか温かかった。
少しだけ、沈黙。
「辛い?」と、ノーマ。
キラはゆっくりと首を横に振る。だが、その声には迷いが滲んでいた。
「……ムウさんが、できることをやれって。そう言ってくれたんです」
「それで、いいよ」
ノーマの声は、静かだったが、まっすぐだった。
「できないなら、やらなくてもいい。やりたくないなら、やらなくても」
「でも……!」
キラが顔を上げた。その目は濡れていた。
「――私が守るよ」
ノーマは、ためらいもなく言った。
「キラも、キラの友達も、全部。全部、守る」
キラは、言葉を失った。何かを返そうとして、唇を噛む。
だが、次の瞬間にはもう、ノーマは立ち上がっていた。
「またね」
それだけを言い残して、彼女は歩き去っていく。
キラはその背を、黙って見つめていた。
そして、その通路の影に、もう一人の姿があった。
ムルタ・アズラエル。
艶やかなスーツの裾を揺らしながら、無言でふたりのやりとりを見届けていた。
やがて、彼はそっと目を細め、つぶやく。
「……僕の出る幕は、なさそうですね」
皮肉めいたようでいて、どこかほっとしたような声音だった。
ただそのまま、彼もまた、誰にも気づかれることなく通路を後にした。
アークエンジェルの格納庫――
戦闘の熱気がまだ船内に残る中、その一角で《ホワイト・ゼロ》が冷却ガスを噴きながら静かに鎮座していた。
「……すげぇ……」
カズイが思わず息を呑むように言った。
艦のスタッフですら距離を取って作業している、その白い機体の姿に、彼らは圧倒されていた。
「こいつが、連合の切り札ってやつか……?」
「いや、それより……乗ってたの、あのノーマって子だよな?」
トールが驚いたように呟いた。
「えっ? あの子が……?」
フレイも思わず前のめりになる。
「信じらんないよな、あんなちっちゃい子があんなの操ってさ……」
カズイが首を振りながら言った。
「……俺、あとでサインもらってこようかな」
軽口まじりに笑うカズイ。
だが――
「……やめときなよ、それは」
ミリアリアの声が、その場をぴたりと静かにした。
「えっ?」
「さっき、整備士の人たちが話してた」
ミリアリアはホワイト・ゼロを見つめたまま、ぽつりと続ける。
「コックピットから出てきたノーマさん……誰とも目を合わせなかったって」
「ずっと前を見てて、静かで……でも、近寄りがたくて」
「……笑ってなかったって」
沈黙が落ちる。
誰も冗談を返せなかった。
「……あの子、戦ってたんだよ。私たちが想像もつかない場所で、一人で」
ミリアリアの声には、かすかな震えがあった。
それは、同じ“年齢”を生きる者の、痛みを知ってしまった者の声だった。
ホワイト・ゼロの白い装甲が、無言のまま彼女の戦いを物語っていた。
――それは、ただの英雄機ではない。
その上には、確かに“誰かの現実”が乗っていたのだ。
そして、その誰かは――
彼らと同じ、ただの少女だった。
静まり返った艦内の廊下。
わずかに響く靴音の主――ムルタ・アズラエルは、ゆるやかな足取りで歩いていた。
思考に沈むその表情は、いつもの笑みを張り付けたものではない。
ほんの少し、陰のある目。
そんな彼の前に、ふと人影が現れた。
まるで、待っていたかのように。
「……私は、ちゃんとノックするよ?」
声をかけたのは、ノーマ・レギオだった。
いつものように無表情の中に、ほんの僅かに揺れる感情。
アズラエルは足を止め、微かに口元を緩める。
「根に持ってるんですか?」
ノーマは、少しだけ目を伏せて――小さく唇を尖らせるように言った。
「む……ムルタには、ノックしないから」
「構いませんよ?」
平然と返されたその言葉に、ノーマはそっぽを向いた。
「ふん……」
その小さなやりとりに、ほんの一瞬だけ、廊下の空気が柔らぐ。
だがすぐに、艦内放送がそれを断ち切った。
《キラ・ヤマトはブリッジへ。繰り返します、キラ・ヤマトはブリッジへ》
無機質なアナウンス。
それは、戦いがまだ終わっていないことを告げていた。
アズラエルが、ぽつりと呟く。
「彼……どうすると思いますか?」
ノーマは答えるまでに少し間を置いて――それでも、はっきりと言った。
「戦うと思う。でも……」
「でも?」
「……誰かがいてくれないと、壊れると思う。きっと」
その目は真っ直ぐで、どこか痛々しいほどに澄んでいた。
「ムルタ……支えてあげて。私にしたように」
その言葉に、アズラエルは一瞬だけ目を伏せた。
静かに、深く呼吸をひとつ。
「…………えぇ。任せてください。あなたで鍛えられましたから」
それは、冗談とも本気ともつかない言い回しだった。
だが、嘘ではない――心からの返答。
ふたりの間に、沈黙が落ちる。
だが、それは冷たいものではなかった。
戦場を知る者同士にしか流れない、静かで濃密な沈黙だった。
アズラエルが、何気ない調子で口を開く。
「……予感はしますか?」
ノーマは迷いなく、すぐに答えた。
「うん。敵、来るよ」
その声には、確信があった。
理屈でも理論でもない。彼女の“感覚”が、そう告げている。
アズラエルはわずかに眉を動かし、前を向いた。
――この戦いは、まだ序章にすぎない。
その予感が、胸の奥で冷たく膨らんでいくのを、彼は確かに感じていた。