許してクレメンス。
プロローグ「夢の舞台」
不安と緊張が、四肢に絡みついて一体となる。
金属に囲まれたゲートの中で、彼女はその瞬間を待っていた。
喧騒は鳴りやむことはない。照りつける日差しと、集まった大観衆が放つ熱気とで、ここ府中の空気は飽和寸前だ。
それでもゲートが開くまでのその刹那、異様な静寂に包まれたかのように感じた。
《態勢整ったスタンド前——》
レースが始まる。サイレンススズカは覚悟を決めた。
* 永正9年6月1日 東京レース場
サイレンススズカは、幼いころから走ることが好きだった。
愛情こそあれ、仕事の忙しさからかあまり顔を合わせることのない父親。母親は体が弱く、妹が産まれてからは地元の病院に入退院を繰り返した。
だから家庭環境そのものはあまり恵まれた方ではなかったかもしれない。
遠く北海道に住む親戚の家に預けられたのち、日々は妹の世話や家事の手伝いも多く、近所の同世代とも距離を置くことが多かった。
そんなスズカにとって、独りでもできる遊びが走ることだった。
そのころ住んでいた北海道の沙流は、こと走りに関しての障害はなきに等しく、どこまでも広大で悠々たる丘陵のなか寝食も忘れて走り回っていたのだった。
「お宅のスズカちゃんは雪の中でも平気で走り回ってどこかへ行っちゃうから大変ですよ」
なんて心配を保育士さんが伯母にこぼしていたことを彼女が知ったのは、随分と時がたってからのことだった。
駆けっこが好き。それは成長してからも同様だった。
小学校にあがるとすぐに地元沙流のちびっこレーススクールに通い、高学年になる頃にはそこを飛び出して一回り大きな娘たちと老舗のウマ娘養成塾、稲田ファームでトレーニングを行うまでになっていた。
北海道には、ウマ娘たちが小学校の頃から高い教育を受けるためのレース専門塾がいくつもあり、トレセン学園に所属する大半のウマ娘はそういった養成塾出身だった。
幸いにして、スズカには才能があった。駆けっこの延長で、与えられた課題はことごとくクリアできたし、地元の子たちには年上が相手でも負けたためしは殆どなかった。
だんだんと周囲の人から
自分が走ることによって周りの人が喜んでくれると知り、ますます走ることが好きになっていった。
12歳の春、めでたく中央トレセン学園の試験に合格して生徒になり、走ることが『お遊戯』から『競技』になってからも走ることに飽くことはなかったし、そのための地道なトレーニングも苦にはならなかった。
全国から優駿の集うトレセン学園においてスズカの小柄な体躯を心配する声もあったが、スズカはそのハンデをものともせず、研鑽を積み上げていった。北海道と府中で何が違うというのだろうか。スズカは純朴な気持ちで、練習に取り組んだ。
年が明けてジュニアB組へと昇級し、デビューに向けた所属チームが決まる頃になると、周囲からの評価はいよいよ様変わりした。
決定打となったのはそれからさらに1年後、メイクデビューを控えた年初めの追い切りでのこと。
本気で走っているわけでもないのに、シニアの5勝している先輩を置き去りにしてしまったのだ。さすがに大きな話題となり、トレセン界隈に一気に名が知られる羽目になった。
意図せず話題の中心となってしまい困惑もあったが、彼女は何処まで行っても周囲の期待や羨望の目線からは、なお無頓着であった。やはりそれは走ることが前提にあり、走ることそのものを自分の心の中心に添えていたからかもしれない。
今振り返るなら、メイクデビューは大きな転機だった。彼女は反芻する。
周囲との価値観のズレ、イメージの違いというものが、あのタイミングで決定的にスズカの目の前に現れたように感じた。
レース直前の返しウマ(ウォーミングアップ)で踏みしめたコースから放たれる香しい芝の匂い。阪神に吹きすさぶ冬の比叡颪は北の大地のそれよりは幾分穏やかだが、北海道の大地を思い起こさせた。走る場所こそうつろえど、以前とは変わらない『駆けっこ』がそこにあるのだと信じていた。
果たしてメイクデビューは圧勝だった。
2着との差もそうだが、直前に行った同条件のレースと比較しても2.6秒も速かった。ライブ後の囲み取材では早くも『ダービー』の言葉が飛び出す始末。
自分はただ自分の好きに走っていただけと答えたスズカだったが、記者やファンには一様に「どうしてあんなに淡々としているのか」と首をひねられてしまった。
そこがクールで魅力であると言う者も一部にはいたが、自覚が足りないとして批判する声は確かに存在した。
スズカに周囲が求めているのは次世代を担うスターとしてのキャラクターであり、誰もが応援したくなるようなアイドルであった。
だからこそ、称賛の言葉やカメラのフラッシュは、どこか現実感が薄かった。自分が注目を集めているのは理解できるが、そこに心地よさより戸惑いを覚えてしまう。
URAの開催するトゥインクル・シリーズはこの国における一大エンターテイメントともいえる。
とりわけダービーは一生に一度しか出られない権威あるクラシックレース。生き残った優駿だけが、この世代の頂点を懸けたレースに名を連ねる。文字通りの晴れ舞台。
成功しているウマ娘というのは、得てして強烈なパーソナリティを併せ持つ。この日本最大のエンターテイメントをより一層振興するために求められるのは、勝者然とした大物感あふれるユニークな個性。
可憐な少女たちの織り成す華やかなライブと、レースで繰り広げられる苛烈な勝負。そしてそれらからくる注目度の高さは、スズカ個人の持っていた走りたい気持ちと、世間からの期待との間に、決して小さくない歪みを生じさせていった。
そしてその歪みに呼応するかのように、スズカのレースに対するモチベーションは、次第に変容していった。
* 永正9年6月1日 東京レース場
不意に歓声がスズカの耳を打った。轟く人々の発するエネルギーの奔流が、半ば上の空だったスズカを一瞬にして府中のターフの上へと引き摺り出した。
そこで初めてスズカは、レースの発走まであと数刻であることを思い出した。国家独唱が行われ、東京レース場に詰めかけた10万人を超える観客の声援と熱気がこだまする。
今日は東京優駿。日本ダービーとも称される世代の頂点を決める天王山の日だ。
既に返しウマも終えて、待機所にいた。スズカはスタッフから手渡されたドリンクを片手に、棒立ちの状態でそこにいた。
ふとグローブの内側に湿度を感じて、自分が極度に緊張していることを自覚した。緊張をほぐすのにはまず周囲を観察することからだった。トレーナーの助言に従い、周囲を見渡す。
黒山の人だかりがスタンドからあふれんばかりに押し寄せる。圧倒的な人波にスズカはたじろぐ。
初夏の陽気すら貫通して到達する人の熱気が彼女の肌を刺し貫き、視界がゆらめいた。その雰囲気と呼応して、自分が拠り立つ大地すら震えるようで、頭が揺さぶられる感覚さえあった。
きつく絞りそうになる耳を、メンコがかろうじて制する。あまりの人の多さに酔ってしまいそうで、スズカは向こう正面側に目線をやる。
——トレーナーさんの勧めで、メンコをしておいてよかった。
向こう正面から、待機所へと目を移す。ダービーの出走メンバーは、みな見知った仲だ。
スズカの入学したトレセン学園は中高一貫の教育機関だが、同時にURAに所属するアスリートを養成する組織でもある。
URAが主催するトゥインクル・シリーズのレース体系はトレセン学園の学年と概ね連動しており、中等部がジュニア期、高等部はシニア期と大別される。そのジュニア期の集大成となるのがこのクラシックだ。
乗じて、ジュニア3年目のC組は別名クラシック期と呼ばれることもある。
その大舞台に歩を進めるには年が明ける前のジュニアB組時代に実績を積んでしまうか、トライアルレースを勝利してくるかしか道はない。強いウマ娘だけがその先へと進める。
いくら才能があろうとも、この時期に間に合わなければ意味がない。負けた娘や、怪我をした娘はフェードアウトしていく。
そうやって幾重にもふるいにかけられるから、顔をそろえるメンバーはほぼ固定される。
偶然横にいた娘を横目で見やる。彼女は首元から滴り落ちる汗をぬぐいもせずにまんじりと足元を見つめていた。
化粧が崩れかけていることすら意識できないほど、あきらかに緊張していた。
「サニーを見てよ。あの殺気、邪魔するんなら潰すって感じ」
スズカに声をかけてきた娘がいた。フジヤマビザンだ。
皐月賞で3位に入着した実力者で、ダービーへの優先出走権を得たのちも続けざまに青葉賞に参加、2着になっている。
ローテーションの違いから、スズカとはまだ同じレースを走ったことはなかった。そんな初顔合わせの彼女が突然声をかけてくる。
「アタシも前に行きたいのにさ。サニーがあんなことぬかすもんだからこっちはいい迷惑だよ」
やり玉に挙がったのはサニーブライアンだ。彼女はというと、待機所の隅の方で座禅を組み、静かに瞑想をして集中力を高めていた。
彼女はダービーウマ娘として名高い、あのウイニングチケットの妹を抑えてメイクデビューを勝利したウマ娘だ。2ヶ月前の皐月賞では、粘り強い末脚で後続を抑え切ってクラシックの一冠目を手にしていた。
だがトライアルレースでの惨敗もあり、皐月賞の勝利ですら展開の綾による棚ぼたの勝利だと評された。
そのため人気は芳しくない。長らくクラシック競争と縁がなかったチームの所属ということも、それに拍車をかけている。
サニーブライアンもフジヤマビザンも、そしてスズカも。急な加速が得意な、いわゆるキレる脚を持っているわけではない。
だからこそ前目につけて、長く良い脚を繰り出して逃げ切りを図る、典型的な逃げウマ達だ。
そして逃げウマ娘は、同じ逃げウマ娘が苦手だ。同じ脚質同士での消耗戦は、できるだけ避けたい。
一方のメジロブライト、シルクジャスティス、ランニングゲイル。
先にあげた今年のクラシックにおいて人気上位の娘たちは、みんな終盤での追い込みを得意としている。恐らく彼女たちは、最終直線に入るまで後方待機する。
それを見越してのことだろう。サニーブライアンはダービー前の取材で、ことあるごとに『逃げ』を喧伝していた。
明らかにスズカを意識したものだった。
体調面のリスクを考慮してうやむやになったと聞いたが、スズカも出走したプリンシパルステークスにあえて参加して優先出走権の枠を潰そうとしていたという、あの噂は本当だったのかもしれない。
またフジヤマビザンの立場からしてみれば、スズカへの牽制ともとれるこの宣言は、完全に流れ弾に近い。
サニーブライアンの発言に対してスズカがどう答えるのか、探りを入れてきているのだ。
とはいえスズカも、それに対する答えはひとつしか持ち合わせていない。
「私は私の走りをするだけだから……」
それはフジヤマビザンへの返事というよりも、独り言に近かった。それを聞いたフジヤマビザンは面白くないといった様子で鼻を鳴らし、話題を変えた。
「ブライトやゲイルもさすがね、きっちり仕上げてきた。しっかりと足が残れば、上がり35秒を切ってくるわよ」
スパートで前を塞がれなければの話だけどね。最後にそう付け足すとフジヤマビザンはスズカに興味を失ったのか一足先にゲート裏に歩を向けた。
「ま、お互いいいレースをしましょ」
去っていくフジヤマビザンの背中を見ながら、スズカはひとり思案する。
フジヤマビザンにも言った通り、自分の走りをすれば大丈夫だ。スズカは心の中でトレーナーとのミーティングを再確認する。
とにかく逃げたいのはフジヤマビザンとサニーブライアンだ。もう一人の逃げ・先行勢、ゴッドスピードもできれば前目につけたい。
だがこの娘はスタートが苦手で、初手で躓いてしまう可能性が高い。出遅れてしまえば、内枠を引いてしまっている以上は、よほどのことがない限り立て直しは困難だ。無視してしまっても構わないだろう。
そう言った意味で、同じく出足の良くないサニーブライアンは大外枠、絶好の枠を引いた。逃げるのは間違いなくサニーブライアンだ。多少の二の足を使ってでも一コーナー前までで先頭を取ろうとしてくるだろう。
君はそれに付き合わなくてもいい。むしろ風よけにしてしまおう。後方組のことは気にしなくて良い。気持ちよく走ろうじゃあないか。
枠入りが始まる。いつもなら淡々とした動作で済ませるはずのゲート前チェックも、この日は特別な儀礼を行っているかのようだ。
係員の手つきは念入りで、眼差しは真剣そのもの。前を歩いていた娘は、ややイレ込み気味に耳を伏せている。それでもその不安を振り払うように「大丈夫」とつぶやき、頬を叩いて喝を入れていた。
スズカも続いてゲートの中に向かう。
年季の入ったゲートの、サビの匂いが鼻腔をくすぐった途端、過去の記憶がフラッシュバックしかける。スズカは努めて意識しないよう心掛ける。
メンコをしたから大丈夫。自分にそう言い聞かせて狭いゲートの中に納まった。最後に大外のサニーブライアンが、ゲートの中に納まる。
ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえそうなほど、ゲート内は張りつめた空気に包まれていた。スズカは軽く息を吐き、首元を緩めるように肩を落とす。
隣のゲートからは小さく鼻を鳴らす音が聞こえる。緊張のあまり、涙ぐんでいる。さっきイレ気味だった娘か。あるいはその他か。
冷たい汗が首筋を伝い、グローブの奥で指先が急に熱を孕む。ここまで来た以上、もう逃げ道はない。
スズカは両手で顔を覆い、トレーナーの言葉を思い返す。
気持ちよく走ろうじゃあないか。そうだ。サニーブライアンがどう立ち回ろうとも、フジヤマビザンがカマをかけてこようとも、スズカのやるべきことは変わらない。
走るだけ。ただそれだけだ。
スタンドからはまだ歓声の波動が響き続けているのに、スズカの鼓膜にはもう何も届かないような感覚がした。
すべてが密やかに沈殿するなかで、彼女は自分を静かに鼓舞する。あの弥生賞の失態を再び繰り返すつもりは毛頭ない。
轟きの中でさえここにあるのは、まるで呼吸の音すら聞こえない深海のような静けさ。
係員の動きが急にせわしなくなる。脳が熱を帯びるように思考が加速し、同時に体は冷えた金属のように研ぎ澄まされていく。
——行くしかない。
そう心に決めた瞬間、ゲートのランプが点灯した。
甲高い金属音と共に一瞬、ストロボのフラッシュの様に強烈な照り返しがゲートの中に差し込み、スズカの目を強く焼き付ける。
怒号にも似た人々の歓声が浴びせられ、圧倒的な声量で体が押し戻されるかのような気さえしたが、脚は自然と前に出ていた。
スタートは上々だ。
《スタートしました!奇麗に揃いました。中からサイレンススズカ、そして外からサニーブライアンがスーッと出てまいります。他の娘はサニーブライアンの動きを見ています》
内枠の娘たちの行き脚がつかない。内側によればいいポジションがとれそうだ。
一つ外のビッグサンデーに後れを取らないよう前に出ようとしたスズカだったが、さらにその外側から急激に内ラチ沿いに切れ込んできた存在に面食らう。
やはりサニーブライアンだ。事前の宣言通り、サニーブライアンがハナを主張してきた。
そこをどけ、私が先頭だ。
タックルを仕掛けんばかりのサニーブライアンの怒気をはらんだ走りにたじろぐ。
張り詰めた緊張がスズカの視野を狭くする。内ラチとサニーブライアンに挟まれるような錯覚を覚える。焦ったスズカは、無意識に顎をあげた。
《サイレンススズカちょっと落ち着かない様子》
「どいて!」
焦燥感が滲み出て、スズカにしては珍しい強い口調で威嚇する。
冷静だったはずのスズカの奥底が瞬時に沸騰する。そっちがその気なら、とことん付き合ってやろう。そう腹をくくろうとしたスズカの脳裏に、トレーナーの顔が浮かぶ。
そうだ、風よけだ。
数刻前の自分を思い出したスズカは、はやる気持ちを理性で抑えてサニーブライアンにハナを譲り、番手で伺う形をとる。フジヤマビザンもすこし遅れて上がってきた。枠の関係で、スズカの外につけてきた。
《マチカネフクキタルが五番手の位置——》
《メジロブライトは後方から三番手、その後に——》
ランニングゲイルだけが中団やや後方までポジションをあげたが、やはり上位人気勢は後方待機を選択した。
スズカの位置からは全員の詳細な位置取りまでは伺えなかったが、メジロブライトもシルクジャスティスも、ほぼ最後方に近い位置だろう。
《先手を取りましたサニーブライアン、リードは二バ身あります。そしてフジヤマビザンが単独二番手にあがりました》
《内をついてまたサイレンススズカ、徐々に接近していきます。直後——》
二コーナー付近、隊列が徐々にまとまるタイミングでサニーブライアンはふいにペースを落とす。それにつられて2番手のフジヤマビザンも行き足が鈍り、スズカと接近する。
整えられた府中の芝は内外にかけてさほど荒れていない。内側に押し込まれてしまう前に外に切り返して、フジヤマビザンに並ぶプランが一瞬スズカの頭によぎった。だがそれでは最内の省エネコースを自ら捨てることになる。
目標はあくまで先頭のサニーブライアンだ。ここで足を使うのはまずい。
スズカもたまらずブレーキを踏み、玉突きのように中団もそれに続く。
これではサニーブライアンのペースだ。サニーブライアンを意識するあまりお互いにけん制しあい、彼女に有利な展開になりつつある。
そう考えたのはスズカだけではなかった。スズカの後方から怒鳴り声が聞こえる。
「このままじゃサニーが逃げ切っちゃうよ!」
「じゃあアンタが行って潰せばいいでしょ!」
中団のウマ娘たちが一斉に警鐘を鳴らす。このままではサニーブライアンの思うつぼだ。誰もがハイペースになることを期待していた。
だがそのためには番手の先行勢が主導権を握ってペースを上げなければならない。それを許さないのは、メジロブライトをはじめとする有力なウマ娘が後方に控えているからだ。
トゥインクル・シリーズのレースは人間のトラック競技と違い、各ウマ娘専用のレーンが存在しない。だから自分に有利になるようにポジションを争い、同時に他の娘たちに好きに走らせないというある種妨害の余地が残る。
そうして必然的にペースや展開といった独特の奥深さが生まれるのだ。
だからスズカが単独で競り合いを挑んだところで、内ラチ沿いをつくサニーブライアンの方が単純に有利だし、意固地になって共倒れになればそれこそ勝ち筋をなくす。
百害あって一利無しだ。
それならフジヤマビザンと結託してサニーブライアンを潰しにかかるプランもある。だがフジヤマビザンがスズカに協力するだろうか。
レース前の態度を鑑みるなら期待を裏切られるかもしれない。
せめてあともう一人有力な先行勢がいれば!スズカは内心で嘆くがかなわぬ願いだった。
流れたペースで余力を残したまま、ウマ娘たちは向こう正面を進む。
後ろを一瞥したスズカの視界の端で、メジロブライトが徐々にポジションを上げていくのが見える。その動きに呼応するように、シルクジャスティスも外から迫ってくる。後方組の動きが徐々に活発になってきた。
《今一四〇〇の標識をきりました。ややスローになりました。それから——》
サニーブライアン有利の状況を打破するには、スズカ単独では不可能だった。こうなってしまえば偶然の成り行き、つまりスローペースに引っ掛かって飛び出してしまうような娘が1人か2人出てきてペースが上がることを期待するしかない。
もっとも、掛かってしまう危険が最も高かったのは、ハナを取れなかったスズカ自身だった。
スズカは全身が火照りだし、一度は抑え込んだはずのフラストレーションが腹の奥底から膨張していくのが自分でもはっきり分かった。
走りたい。ただ走りたい。その純粋な欲求が、理性の枷を解き放とうとしていた。
——もういいだろう。トレーナーの作戦も、レースなんかも忘れて気持ちよく走れ。
囃し立てる本能を、冷静になれと理性で必死に抑え込む。
こんな状況、速く終わってほしい。
もはや天に祈るしかなかった。そうするうちに、向こう正面中盤の下り坂がやってくる。次第にペースが上がる。
《メジロブライトが後方から六番手まで上がってまいりました》
《坂を下って三コーナーカーブに入っております。先手を取ったサニーブライアン、リードは二バ身半。二番手の位置にはフジヤマビザンがついてまわります。そのあと二バ身差、三番手の位置に八番のサイレンススズカで八〇〇を通過。それから——》
体格の都合で下り坂をうまく駆け降りることのできなかったフジヤマビザンの足が鈍ってきた。
これ以上サニーブライアンを待てないとプレッシャーをかけようとする中団組が押し寄せ、バ群が詰まる。
その窮屈さが頂点に達そうかというタイミングで、ワァという大歓声がスズカの体を打ち付けた。
スズカは思わず声のする方向を見やる。今まで自分の左へ左へと曲がっていく内ラチ沿いに目線をやっていたから、目の前の視界が途端に開けたように感じた。
府中の長いホームストレッチだ。
《第四コーナーカーブから直線を向きました!さあサニーブライアンが十六人を引き連れて先頭であります!》
圧巻だった。延々と続く青芝と右手のスタンドには割れんばかりに詰めかけた黒山の人だかり。
あと20秒ちょっとの勝負だとわかっているから、むしろその事実がスズカの意識を体から引き離した。
坂の高さこそ2メートルと特筆するものではないが、500メートルを優に超える直線と最大41メートルもの幅員も相まって、スズカにはコース全体が海岸に押し寄せる大波のように見えた。
サニーブライアンは最終直線の坂でさらに加速する。サニーブライアンが吠える。すぐ脇につけていたスズカは、その鬼気迫る迫力に再び気押された。
《四〇〇の標識をきりました。サイレンススズカが間をついている!》
実況の言とは裏腹に、スズカは失速していた。府中に聳える坂が、スズカのなけなしの体力を完全に奪い尽くす。
《大外を回ってシルクジャスティス!連れてメジロブライトも上がってくる!》
坂を上がり切ったころには、スズカは消耗し切っていた。
脚は鉛のように重く、喉は空気が張り付いてカラカラなのに、汗は滝のように流れ落ちた。肺は燃えるように熱く、体に限界だと警笛を鳴らし続ける。
だが坂の終わりからゴールまではまだ300メートルもあるのだ。
前を行くサニーブライアンの尻尾が疾風に揺れ、スズカから遠ざかっていく。脚が重い。耳の奥で10万人の歓声が残響し、低い唸りだけが残る。
《サニーブライアン強い!サニーブライアン強い‼一〇〇を切ったところで二バ身のリードだ‼》
追い込み勢が堰を切ったかの如くコースの外を必死に追い込んでいくが、ついにサニーブライアンを差し切れない。足がいっぱいになったスズカは、その様を呆然と眺めるほかなかった。
サニーブライアンが先頭でゴールする。
スズカは、自分の敗北を突きつけられた。あまりにもあっけなく、そして無情だった。
彼女がゴール板を駆け抜けた刹那、足元の府中の芝はおもむろに姿を消し、観客の喧騒も霧散する。スズカの目の前に虹色に煌めく光芒が幾重にも重なり、爆発する。
苦しいトレーニング、周囲からの期待と羨望、北の大地の地平線。走マ燈のようなそれは、スズカの眼前にふと現れ、次々に後方へと流れ去っていく。
だがそれはふいに輝きを消し、スズカを現実へと引き戻した。
敗北を認識すると、自分の中の何かがぷつりと切れた。メイクデビューから自己の内に生じたズレを、必死に抑え込んでいた緊張の糸らしかった。
スズカは、途端に全身の力が抜けるのを感じた。ひどい倦怠感だった。その場で倒れ込んで府中の芝生に埋もれてしまいたいとまで思えた。
——だが、ゴールしなければいけない。
ダービーは、出たいと願った誰もが出場できるものではない。優勝劣敗のレースの世界において、伝統と歴史と格式を持つクラシック競争は特別な意味を持つ。
出走した17人の背後には、出走できなかった数千のウマ娘がいる。
レースで勝ち切れなかった娘がいる、運悪く除外されてしまった娘がいる、ケガに泣かされた娘がいる、家庭の事情で諦めた娘がいる、それ以前に入学したくてもできなかった娘もいるのだ。
事実スズカのクラスメートの半分は、未勝利クラスでもがき続けている。
夢見た舞台についに出場できなかった同期の分まで、その枠を勝ち取ったウマ娘の矜持として、最後まで走り切らなければならない。
府中の2,400メートルを全力で走り切ろうとする体は全身が灼熱感に侵されていた。
一方で頭の裏側、背筋の奥底だけが氷のように冷酷で機械的にスズカの足を前に運ばせる。ピアノ線に操られるマリオネットのようにスズカは走り切った。
サニーブライアンの入線から、スズカがゴールするのに要した差は1秒ほどだ。たった1秒ほどなのに、恐ろしいほど永く思えた。
* 永正9年6月1日 東京レース場
《二冠達成サニーブライアン‼二度三度ガッツポーズのサニーブライアン!》
遠くでサニーブライアンが右手を振り回して咆哮する。
汗と涙でくしゃくしゃになった顔をゆがめながら、一コーナー沿いを走っていく。皐月のレースを勝ってなお、実力を疑問視された苦労人が、喜びと意地を爆発させていた。
そこから少し離れた位置でもって、まるでレースに興味がない、たまたま府中にいただけの無関係な一般人のような冷めた思考で見つめている自分がいた。
本来なら同じ舞台を走った仲間として称え合う瞬間。
サニーブライアンの周りを、数人のウマ娘が囲む。口々におめでとう、とか無駄に目立ちやがって、とかやっかみと称賛が飛び交う。
一方であっけらかんとして地下バ道に向かって撤収を始める娘もいる。スズカは両者の狭間で、何とも言えぬ中途半端な位置で呆然と立ち尽くすしかなかった。
負けたこと以上に自分が情けなくて、悔しくてたまらない。もしサニーブライアンと競り合いを挑んでいたら、どうなっただろうか。
では、トレーナーさんとの約束は?サニーブライアンはどこまでも自分に正直に走った。彼女に対する嫉妬心めいた感情が頭をもたげるが、すべてはもう遅い。
サニーブライアンのもとに近づいて「おめでとう」と、そう言ってあげたかった。
それができるのは今を共にダービーを走った、この瞬間にしかできない。喉の奥に滞った賞賛の言葉を言えない自分が嫌いになりそうだ。
スタンド側から一際大きな歓声が上がる。着順が確定したのだ。
まだ終わっていない。
これから支度を整えて、ウイニングライブの準備をしなければいけない。
勝利したサニーブライアンは東京レース場へ詰めかけた観客へ感謝の言葉を伝えようと、ウイニングランへと向かった。
彼女を直視できなくて、スズカは俯く。初夏の陽気をうけて逞しく生育しているはずの足元の芝生が、彼女の眼には茶色くこけて、色あせて見えた。
——トレーナーさんに、合わせる顔がない。
——もう、『駆けっこ』なんてできない。
スズカは失意の底に叩き込まれた。
サイレンススズカの日本ダービーが終わった。
スペちゃんどこ?ここ?
スペちゃんが登場するのは第1話です。少々お待ちを。